第二十五章 天保に燃ゆ (含む参考資料等)
第二十五章 天保に燃ゆ
大坂は天満組百九町、北組二百五十町、南組二百六十一町と三郷に仕分けされている。天満組の大川沿い近くにある洗心洞並びに与力朝岡助之丞の屋敷より燃え広がり、混乱に紛れて焼失は天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、総計百十二町、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸に及んだ。大坂天満宮も類焼を免れなかった。北組には北浜、今橋、船場等に豪商の大店が集中しており、ひときわ被害が激しかった。
大塩事件の中核勢力は洗心洞門下を主とした総勢三十名強、付和雷同的に事件に加わった暴徒も含め、最大数は三百名、対する警護隊は、周辺国からの支援も得て五千名を優に超えて数で圧倒した。さしたる衝突もないままに昼過ぎには事件は沈静化に向かった。夕刻には、平八郎達は八軒屋の船着き場より大川に逃れた。一方、混乱の中で対応が遅れ、鎮火したのは翌日となった。そのため、町数では大坂の二割近い街並みが被害に遭ったことになり、事件後『大塩焼け』として人人に語り継がれた。
事件当日、並びにその後数日で、洗心洞一派はほぼ壊滅した。首領の大塩平八郎と倅、格之助だけはひと月以上も行方が掴めなかった。両名は大坂の北組油懸町の商人美吉屋五郎兵衛宅の離れ座敷に潜んでいた。が、遂に密告があった。三月二十七日、大坂城代家老鷹見十郎左衛門泉石の指揮による捕り方に包囲され、自ら火を放って自決した。消火後遺体を改めるも、損傷が激しすぎた。東組与力栗林隼人は面体改めを務めたが、特に褒賞は与えられなかった。その後、お上の追求は縁者親戚にも及び過酷を極めた。召し取られた平八郎の妾ゆうは、事件後一月も経たず、牢死した。
事件の翌年、天保九年八月二十一日に下された裁決は次の通りだった。
磔刑は大塩平八郎以下首謀者の二十人。
獄門は十一人。
以上三十一人が重罪者だが、既に大半は死亡しており、刑執行時に生存していたのは五人だった。
死罪は三人。
追放は三人。
磔、獄門の刑が執行されたのは同年九月十八日で、事件発生後ちょうど一年半経った時である。既に死亡していたものは塩詰めの遺体を晒しものにして刑を執行した。磔刑や獄門には見せしめ的な狙いがある。遺体に恥辱が加えられるので単なる死罪より重罪と見做されている。
ここに大塩事件は名実ともに終結した。
なお、大坂城代として大塩平八郎の乱の鎮圧を指揮した土井大炊頭利位は、その功績により、時を移さず京都所司代に抜擢された。更に天保十年には老中に任命され、その後、老中首座にまでのぼりつめた。
事件により大坂の中心部を焼失し、罹災者の生活は難渋を究めた。だが、大塩焼けが庶民の恨みを買ったという記録は残っていない。
かかる大規模な騒動は、徳川幕府が二百六十有余年の幕を閉じるまで、二度と発生しなかった。しかし、翻って考えてみるに、たかだか二十数名が中核となった決起である。どうして幕府直轄地での『大塩焼け』を防ぎ切れなかったのか。更に元与力が主導し、現役の与力や同心も参画した背景と相まって、為政者にとって衝撃的な事件でもあった。以来、徳川幕府の威信は地に落ちた。大坂が燃えただけではない。もっと激しく焼失したのは武家社会、いや侍の存在意義そのものだったかも知れない。
幕府が徹底的な焼却焚書を試みた檄文や平八郎が著わした洗心洞箚記は、秘かに全国に行き渡った。薩摩の西郷隆盛や長州の吉田松陰も座右に置いたという。また、本事件の衝撃は全国に伝搬し、小規模ながら類似した蜂起が各所で起こった。それはそれで、いずれも一編の記述となりうるが、首謀者が絶え、同調者も殉じ、舞台の大坂も重要部を焼失したので、『大坂燃ゆ』の顛末はここに筆を擱く。
―完―
参考資料等
1、事件当日の概略は、森鴎外著『大塩平八郎』の記述を踏襲した。
2、大坂城代土井大炊頭利位並びに鷹見十郎左衛門泉石の記述に於いては、古河歴史博物館のホームページ(2015年3月現在)並びに茨城県古河市公式ホームページ(2015年3月現在)を参照した。
3、大塩平八郎の檄文は要約したものを口語体にかえて記した。
4、新修大坂市史、第4巻「大塩の乱」愛蘇一弘著
5、その時歴史が動いた 役人の不正許すまじ~大塩平八郎 決起の時 NHK(ゲスト 愛蘇一弘)
6、田辺聖子著「大坂弁おもしろ草子」
7、Wikipedia(2017年8月版を中心として)
8、大阪市立住まいのミュージアム編「住いのかたち暮らしのならい」
9、伊能図とは、19世紀初めに天文学者高橋至時の支援のもと伊能忠敬が測量、忠敬没後作成された日本地図(正式名は大日本沿海輿地全図)の別称。両人の墓は上野源空寺にある。
10、朝日新聞「追跡 大塩平八郎」大峯伸之記(2017年11月)
11、英雄たちの選択「大坂が燃える!大塩平八郎の乱~世直しの衝撃~」NHK




