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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第二十章 檄文

第二十章 檄文


 天保八年一月

 「五右衛門さん、こっちの腕前はいかがでしょうか?」

大塩格之助はにこやかに微笑みながら五右衛門の右腕を軽く叩いた。

「こっちとは剣道のことでございますか?」

「はい、大事の際、役立つのは書物よりも武術です」

まさか格之助がこのように言うとは想像外だった。格之助は平八郎のもとに養子として迎えられ、家督を継いだ。平八郎の代わりに洗心洞で講義することもある。平八郎の上申書を奉行に届け、意見具申したのも格之助だった。五右衛門たちは格之助を『若先生』と敬称していた。

「洗心洞にお世話になる前に、摂津で一刀流を学びました。小野派一刀流の流れをくむ小田誠二郎先生の道場に一年間通いました。が、お恥ずかしながら竹刀しか握ったことがございません。真剣は傍で見たのが生まれてこの方、一回か二回でございます」

「立派な体格だし、筋が良かったでしょうね」

「とんでもございません。鋤鍬の場合は、寸分の狂いもなく振り下ろすことが出来ますが、竹刀になった途端、肩や腕に力が入り過ぎます。思うようには動いてくれませぬ」

ましてや真剣を手にすれば体が固まってしまうのではないかと思った。

「それは惜しい話です。砲術や柔術の方は如何でしょうか?」

「村には道場すらございませんでした」

「今更稽古とも行きませんか?分かりました。洗心洞もそろそろ武士の嗜み全般を学ぶ頃合いになりましたので」

「いざという時には、武芸者だけでなく、例えば大砲を引っ張る人手もいるかと思います。御大将を飛び道具からお守りする盾も必要かと思います」

「有難いお気持ちですが、五右衛門さんに盾になってもらうわけにも参りません。年も明けました。書物から学ぶのはもちろん大切ですが、武術の時間も考えましょう。何かの際に五右衛門さんが大根のように切り刻まれるだけでは不本意です」

「申し訳ございません。どうか一から手ほどきのほど、お願いします」

「それは無理です。わたしが手ほどきなど、おこがましい限りです。かくいうわたしも、実は、全くの武辺不案内です」

そう言われてみれば格之助には面擦れ一つない。第一、格之助が真剣や竹刀を素振りするのも見たことがない。侍として片端だが、本人は別段恥とも思っていないようだった。

「だからこの機会に一緒に学びたいのです。これは中斎先生のご命で、師範は腕の立つ塾生にお願いする積りです」

「若先生はお侍でいらっしゃるから、上達も早いでしょう。しかし、手前は無理です。元を正せば根っからの百姓ですから」

「武術以外にも大切なものがあります。五右衛門さんは立派な魂をお持ちです」

五右衛門は格之助には特別の親しみを覚えた。侍と言っても格式張ることはなかった。五右衛門にも丁寧に受け答えしてくれた。それが塾頭の平八郎中斎となればそうは行かない。威厳の塊というべきか、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。中斎には講義の後で質問するのもはばかられた。実際質問するのは、侍の中でも学識がある一部の塾生だけだった。五右衛門など後ろの方で静聴するだけだった。中斎は相手が侍の場合、書面も漢文で認めた。五右衛門なら字面を追うのが精一杯だろう。廊下で中斎とすれ違っても臆して身が固まるのを覚えた。無学を恥じてか、出身が遠慮を誘うのか、自分自身にも分からなかった。

「そう仰って下さるのは若先生だけでございます。根っからの百姓根性が治らず、恥じ入るばかりでございます」

この若先生こそ本当のお侍さんではないか、と五右衛門は思うのだった。

 そのようなやり取りのあとだった。五右衛門は伝八に会うと真剣な眼差しで尋ねた。

「伝八、お前、剣術の腕の方はどうや?」

「剣術?道場に通ったことも竹刀を手にしたこともおまへん。喧嘩は嫌いだす」

伝八は五右衛門の趣意が分からないので呑気に答えた。

「喧嘩と剣術は違うだろう。まあ、いい、お前はあきんどだからな」

「実は商いも嫌いだす。そら儲かった、そら損したと、どれだけの意味がおますか?が、習い性で帳簿付けは出来ま。暗算は相変わらず苦手だす。で、間違わんように必ず算盤使いま。こんな便利な算盤、一体誰が作ったのでおますやろか?」

「だが算盤で刀と手合せとも行かないからな。やれやれ、下には下があるものや」

五右衛門は自分のことを棚に置いてため息をついた。

「わしのような百姓やお前のような町人は、いざ鎌倉という時に役立たずということや。いや、ご一党の足手纏いとなるかも知れんな」

ようよう五右衛門の気持ちを察し、伝八は首を振った。

「しかし、五右衛門はん、たとえ今からわてどもが剣術を学んだとしても、まさに付け焼刃。それで勝敗が動くとは考えられまへん。多勢に無勢、しかも相手方はお武家様でおます」

「そりゃ、分かっている。伝八、お前に見習ってわしも離縁して嫁を里に帰した。勝算があるならそこまでやらんでもええ。だが、離縁して済むものやあらへん。余程工夫せんと世間に我らの意が通じへん。下手すると」

「さようでおま、犬死にだすか?もともと百姓や町人のわてらに何が出来るのか、それが考えどころだす」

「なるほど、で、お前の考えはどうや?」

「お上は中斎先生の上訴にすら耳を貸しまへん。豪商も考えるのは手前の儲けばかり。さすれば、今のご政道が間違っていることを天下に広く訴えたい。それこそ中斎先生の真意でございましょう?眼前の捕り方相手に戦上手なだけで、逆賊扱いとなれば論外でおま」

「何か、具体的な方策があるんか?」

「はい、まず資金の問題がおま。資金は幾らあっても十分とは言えまへん。その金子をどう工面するかを考えねばなりまへん。また、決起すれば、刷り上げた檄文を多くの人人に手渡さねばなりまへん。さすれば、どこで版木を組み上げ、大量に印刷し、保管するかも考えねばなりまへん。また諸国の農民や町民のもとに一挙に届けねばなりまへん。防具を何人分新たに誂える必要があるのか、火器弓矢の類もどこでどのように手当てするのか。拙速も駄目、稚拙も駄目、遅すぎれば役に立ちまへん。しかも全てを極秘裏に。特に、大坂周辺の天領地への檄文の配布等、お武家様以上にわてらがお役に立てる役目も多いかと存じま」

「伝八、よう言うてくれた。目から鱗が落ちるとはこのことや。そのような問題を箇条書きに纏めて先生に報告しよう。伝八手伝うてくれ」

「五右衛門はん、それは駄目だす」

「どうして駄目なのや?全てが大事なことやないか?」

「大事だからこそ駄目でおま。『壁に耳あり、障子に目あり』と申しま。ここのところ御用の筋らしき動きが思い当たりま。必要であれば、まず全てをわてらの心に刻み込み、考えたままをしっかりと、口頭にてご報告申し上げるべきでおま」

「ふむ、探索の手はそこまで来ているのか」

「決起する前に証拠を論われ、御用と踏み込まれてしまえば最悪でおま。着眼大局、着手小局といわれておりま。大望を成し遂げるためには、細心の注意を怠ってはなりまへん」

「伝八、お前は一回りも二回りも大きゅうなったな。聞いていて感服の至りや。もう一つ大切なことがある」

「何でおま?」

「先ほどお前は『壁に耳あり、障子に目あり』と言うたな。お前は当然のように言うたが、わしにはその気配が読み取れへんかった。わしだけやない、先生方もお気付きなさっていないかも知れん。どうしてお前はそう感じたんや?一体誰が洗心洞を警戒しているというのや?」

「出入りの業者たちが耳打ちしてくれたんやけど、洗心洞を内偵するように天満の目明しの大親分から命ぜられたそうでおま」

「目明し?とすると我らは既に見張られ、付け狙われているんか?」

「そう考えて間違いないと思われま。ここは塾やけど、もともとお侍のお屋敷でおま。目明しが己の一存で見張っているとは思われず、裏で奉行所が糸を引いているのやおまへんか」

「だが、塾生には与力や同心が大勢いるやないか」

「はい、それが去年の秋より退塾者が増えておりま。その大半がお役人でおま」

「それが奉行所による内偵の動きと関係があるというんか?」

「そう考えると近頃の動静にも頷けま」

「これは今まで手抜かりだったかもしれん!あけっぴろげに奉行所を批判するのは控えるべきやな」

「ご政道や奉行所の批判も、決起の準備も、檄文も、ましてや連判状も安易に仕組んではあきまへん。『仮名手本忠臣蔵』でも、決起の間際まで慎重が上にも慎重に事を運んでおりま。口さがなく決起、決起と叫んでも、ことは運びまへん」

「それに同志を見極める必要があるな。皆が皆、決起に参加するとも思われへん」

「赤穂の藩士は三百家衆、最終的に決起したのは四十八士。全体の二割に満たない数でおま。この数が大凡の目安になると思われま」

「先生は既に何度もご奉行の跡部良弼殿に献策しておられる。だが尋常の手段では意見は通らへん」

「そこに廻米の御触れも出ました」

「先生の腹は既に固まっているのではないやろうか?」

「五右衛門はん、先生のご決断をお待ちしましょう。われらの場合、何も決起と限ったことでもありまへん」

「実は今日、若先生から剣術を弁えているかと聞かれた」

「五右衛門はん、わては今更剣術など教わりまへん。それに、奉行所に疑われないように訓練を受けるのは難しゅうおま」

「そうやな。今更少しくらい武術を身に付けても意味がないか」

「それに奉行所に対する警戒以上に大切なことがありそうだす」

「何や?」

「はい、仲間内への用心でおま。例えば、平山様です。五右衛門はん、今振り返っては駄目ですよ、うしろを」

伝八は笑みを浮かべたままで言葉を続けた。

「先程からわてらの様子を見張るかのように、何回も廊下を行き来なさる節がおま」

「平山様とは、塾生で同心の?」

「はい、東町奉行所の平山助次郎様でおま。疑えばきりがおまへんが、年が明けてからチョクチョク勘定部屋でお見かけするようになりました」

「そういえば、以前には平山様はご意見を披露されたが、近ごろは自ら進んで発言されることはなく、聞き手に回っておられるようや。これは若先生に報告せねば」

「平山様に限ったことではおまへん。今まではお会いしたことが無かったのに、わてに話し掛けられるお武家様も何人かおられま」

「何人もいるというのか!」

「はい、年明けてからだけでも、渡辺様、吉見様、河合様と三名おられま」

「どのような話になるのや?」

「最近の新入塾生は誰かとか、中斎先生の書状の宛先はとか、江戸表への飛脚便はあるかというお問い合わせです。それから奥の蔵に武具刀剣類を保管しているのかとお聞きなさいま」

「なるほど、おかしな詮索やな。伝八、これはわしらが想像する以上に内偵が進んでいる可能性がある。油断するな」

「中斎先生も決起なされるなら、同志を募られる筈でおま。たとえ意が通らないとしても、相応の準備をしないと、それこそお笑い草になるだけでおま。天下に先生のお気持ちも通りかねま」

「準備も大切ということか」

「はい、誰が、いつ、どこで、何を、どのように実行するかということに集約されま」

「それらが決起に当っての切り口か?」

「はい、商いにおいても同じような切り口が大切となりま」

「百姓が、梅雨時に、田んぼで、苗を、縦横六寸ごとに、豊作を祈念して植える、というような塩梅か?」

「例えばそういうことになるでしょうか」

「よっしゃ、早速若先生に報告しよう」

「五右衛門はん、脳味噌に刻んで口から出す。大事の前の小事で毛躓いてはお笑い種でおま。五右衛門はんの伯父上も、仲間の密訴でお縄にかかったのでしょう」

伝八にしては珍しく、五右衛門に諭すように続けた。

「用心に越したことはおまへん。中斎先生がどうお考えでおられるのか、静かに待つのも大事でおま」

「伝八、お前は既に腹を括ったな」

五右衛門は温かみのある目を伝八に送った。

「わしもそうや」

 伝八が、大塩平八郎の倅、格之助より呼ばれたのは同日の昼過ぎだった。五右衛門が言付かった。

「伝八、若先生がお呼びや。書庫の方でお待ちや。わしも一緒に行く」

「はい、直ぐにお伺いいたしま」

周りに目を配りながら五右衛門は言った。

「先ほどの話やけどな、わしはまだ何も報告していない。頭に刻むのに時間がかかるのでな」

「今日、明日を急ぐと言うことでもないと思いますが」

「中斎先生ほどの方や、何かお決めなさっているのやろう。何となくそんな気がする。こりゃ、元百姓より元あきんどの方が、出番がありそうや」

「そういう問題ではおまへん。わてらは一丸です」

「そうやな、伝八、必要なら何でも言いつかってくれ、喜んで手伝うぞ」

大塩格之助は書庫の襖を開け広げて待っていた。二人を認めると出っ歯気味の口から真白い歯をのぞかせた。

「やあ、伝八さん、呼びだてしてすみません。何か困ったことがあった時には伝八さんに相談するのが一番です」

横の五右衛門が、それ見ろ、若先生も同じように考えておられるという顔付きをした。

「はい、何なりと仰せつかい下さいますよう」

「実はここの書籍です。先生は門弟に粗相があると、罰としてこれらの買い求めを命じなさいました。溜りに溜まって、何冊の蔵書になっているか、正確なところは誰にも分かりません」

「おそらく六、七万冊はあるように思われます」

横から五右衛門が口を挟んだ。

「そうでしょうね。ここに置いておくのもよいが、殆どの書籍は一か月に一回、いや、この一年、全く紐解いていないものもあります。先生はそれではもったいない、読書人がいてこそ書物は生きる、読まぬは宝の持ち腐れ、許されるものではないと仰せになりました」

確かに廊下や書庫には書籍が山積みになっていた。奥には塵を纏ったのもある。

「そこで、この際どうでしょうか、一旦全てを処分し、必要なものは改めて買い求めれば如何でしょうか?」

「若先生、全てでございますか!」

「そうです。手元になくなれば書籍の大切さも分かろうと言うもの。我我凡人には、そうしないと有難味が分かりません」

「せめて一部だけでも手元に置いておくわけに参りませんでしょうか?」

またもや横から五右衛門が口を挟んだ。

「それも考えましたが、いや、一旦処分するが宜しかろうと先生は仰いました。今年は天保の大凶作が始まって既に四年目、今日明日の食べ物に窮している民百姓も多いのです。そのようなご時世に貴重な書籍を書棚の肥やしにしておくのは、もったいなさすぎます」

「それで、わたしにこれらの書籍の売却をせよとの思し召しでございましょうか?」

背景を察して伝八は確かめた。

「さようです。出来るだけ早く、また、高値で売却し、義捐金として配分したいと思います。待ち望んでいる民百姓は多ございますので」

「委細承知申し上げました。で、いつまでに売却代金がお手元にあれば宜しゅうございましょうか?」

「出来ることなら、立春を迎えるまでにお願いしたいが如何でしょうか?」

「はい、心当たりを尋ねてみることにいたします」

「五右衛門さん、こういう談合は伝八さんにお任せするのが一番ですね、侍は不案内です」

「若先生、元百姓のわしにも出来かねます。伝八は口では商いベタと申しておりますが、なんのなんの、やはりあきんどの倅でございます。血は争えません」

「若先生、お聞きして宜しゅうございましょうか」

「伝八さん、なんなりと」

「中斎先生は昨年大坂の豪商に義捐金の拠出を求められたと聞きましたが、その結果は如何でございましたでしょうか」

「はい、結局よい返事はもらえませんでした。しかも町奉行跡部良弼様より、その必要を見ること能わず、と横槍が入ったと聞いております」

「では、われらとして出来ることは?」

「私財を義捐金として供出することと」

「義捐金と」

「あとは何が出来るでしょうか?我我で考えねばなりません」

「さようでございますか」

「はい、われらが財はどの一つを取り上げても扶持米あったればこそのもの。さすれば百姓より預かった財も同然でございましょう。これは与えるのではなく、お返しするような具合です」

「つまり、当然であると?」

「はい、わたしは学びました」

「伝八、若先生の仰せの通りや。このような事態を傍観はできぬ。とすれば、我我に出来ることはお上にご正道を歩んで頂くか、道を過った場合、お諫め申し上げる必要がある」

「はっはっ、五右衛門さん、そうは簡単に結論を出せません。我我も熟慮の最中です。だが、書籍の処分くらいは直ぐにでも出来るであろう、と先生はお考えなさいました」

速やかに大事を実行する時はかしらがいる。まさか合議で決めると言うことではなかろう。洗心洞にとって一番大切なのは書籍である。それを全て処分するということは、将来についても塾長の腹は固まったと思われた。その証に、二月になると檄文の版下も準備された。


 『貧しき農民にこの檄文を贈る


 天下の民が困窮するようでは国も滅びるだろう。政治に当る器でない小人に国を治めさせると、災害が並び起るだろう。

 ここ二百四、五十年の間太平が続き、上流の者は次第に驕奢を極めるようになり、役人も公然賄賂を授受して、個人の生活を豊かにする方法のみに智を巡らし、知行所の民百姓には過分の賦課金を言い渡す。庶民にはその怨みを訴え出る方法がない。

 大坂の奉行並びに役人は仁を忘れ、私利私欲の為に得手勝手の政治を致し、江戸へ廻米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく、僅かな米を大坂に買いにくる者すらこれを召捕るという、ひどい事を致している。

この度、有志のものと申し合せて、庶民を苦しめる役人を先ず誅伐し、続いて驕りに耽っている大坂市中の金持を誅戮に及ぶことにした。そして彼等が貯め置いた金銀銭や俸米等はそれぞれ分散配当致したい。

この書付を村村にいちいち知らせたいので、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、早速村村へ相触れ申されたい。

この度の一挙は、誠以外のなにものでもない。もしそれを疑わしく思うなら我等の所業の終始を、汝ら眼を開いて看視せよ。 

茲に天命を奉じ天誅を致すものである。


 天保八年 月 日

  摂河泉播村村

   庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ』


 「これは檄文でございますね」

版下を大塩格之助より受け取って、伝八は手の震えを押さえることが出来なかった。とうとうその日を迎えるのだ。普段から控えめな格之助は、今日も穏やかな目で頷いた。

「はい、檄文は真横に四枚の版下に分割しました。一枚の版下では文脈が支離滅裂となる工夫です。版下四枚を繋ぐと檄文になります。伝八さん、明後日までに刷り上げて頂けましょうか?」

「はい、ご指示通り洗心洞内で千枚刷り上げる手筈が整ってございます。三百枚は摂津、河内を中心に農民に直接配布いたします。残り七百枚は当日使用の段取りでございます」

但し、一旦農村への配布が始まれば、もはや決起の日を延期出来ない。

「決起は、檄文が仕上がってからとなるのは言うまでもありません。二月十九日に予定されている新任の西町奉行堀伊賀守利堅殿による初入式の巡見は、東町奉行の跡部山城守良弼殿が案内するのが習いです。巡見の最後に両名は迎方与力朝岡助之丞殿の屋敷で休息を取ります。朝岡殿の屋敷は、ここから目と鼻の先です。で、そこを急襲し、先ず奉行二人に天誅を加えたのち、そのまま決起に移る計画でございます」

「決起までに中五日ございますね。十分準備できると思います」

明日の夕刻には刷り上っているだろう。

「村への事前配布も抜かりはございません」

横から五右衛門が請け合った。

「檄文が刷り上がった後は、何人たりと雖も、無断外出は禁止致します。庄司義左衛門殿、西村利三郎殿、橋本忠兵衛殿、摂津の五右衛門殿、亀井屋の伝八さんの五名は手分けして檄文を領民に配布し、遅くとも十八日昼時までには戻って来て下さい」

つまり、十七日、夜陰に紛れて村村に檄文を運ぶことになった。

 種種雑多な指示は塾頭に代わり格之助が伝えることが多かったが、実務面では伝八が八面六臂の活躍だった。細かな役割分担や手順を決めておかないと現実には円滑に物事は進まない。塾には既に十日も前から女手はなかった。殺風景になった家屋に塾生と少数の職人しかいない。飯はまだかに始まって、あれがない、これがないというのは、自然と伝八が中心となって対応した。版木作りまでは専門の職人に任せたが、印刷は伝八と五右衛門の二人で密かに進めた。

「これが檄文か?」

気付くと後ろに同心平山助次郎が立っていた。物珍しげに檄文を眺めている。

「連判にも名を連ねたが、檄文はその場で読んだだけだからな。一枚貰おうか」

「助次郎様、檄文はじめ文書類の管理は手前に任されておりま。特に刷り上げた檄文は、どなたにもお渡しせず、その日まで手前が保管せよと命ぜられておりま。先程も吉見九郎右衛門様からのご依頼をお断りしたところでございま」

「版木はどうしたのだ?」

「はい、すでに焼却いたしました。事前に機密が漏えいするようでは論外でございますので」

「さようか、伝八殿のようにきちんと管理しておれば問題なかろう」

助次郎は頷きながら心残りそうに立ち去った。墨の付いた顔を助次郎の方に向けながら五右衛門が尋ねた。

「伝八、一両日経てば決起するのやから、塾生に檄文を渡してもええのやなかろうか?生死を共にしようと連判した仲や。わしにしても摂津に運んだ時にもう一度読んでみる積りやった。わしが当日配るのに、当人がきちんと読んでいないでは話にならへんからな」

「わてもそう思うたんですが、吉見様と平山様は、今回に限らず、塾の内部を探るかのようなお問い合わせが多ございました」

「そう言われてみれば、わしも聞かれたなあ」

「どのようなお問い合わせでございましたか?」

「うん、摂津の村村では誰と連絡を取るのかというようなことやった」

「わても同じことを問われました、河内ではどうかと」

「伝八、これは若先生に報告しておいた方が良さそうやな」

「それよりも檄文の領民への配布を早めた方が宜しゅうございませんか?万が一、捕り手が襲っても先に配っておけば安心だす」

「そうやな。大坂の町中に配るだけでは片手落ちや。わしは村という村に是が非でも配り切りたい。その準備も出来ている。一日早めて今晩にでもやるか?」

「若先生の下知次第でおます」

「よし、分かった。檄文の配布が上手く運べば、決起は半分成就したようなものや」

格之助経由で平八郎中斎の決断は直ぐに下された。決起は二月十九日。決起当日に配布する檄文の保管を格之助に頼み、五右衛門、伝八ほか地理に詳しい塾生たちは十六日、夜陰に紛れ洗心洞を出発した。配布先は大坂近郷の播磨、摂津、河内、和泉に及んだ。

 




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