第十九章 おしの伝八
第十九章 おしの伝八
ここは天満の天神宮、若い女中と、幼い丁稚の二人連れが頼りなげに社務所の近くに佇んでいた。よく見ると女中姿は高津屋の娘、しのだった。
「宗太郎や、一体いくたび洗心洞の近くを行き来したんやろう。今日は勉学、明日は御稽古事と、もっともらしい口実を設け、何とか与力町を訪れる折を作ってきた。けれど、こんなことを何時までも続けられる筈があれへん。その内父様母様にバレてしまい、もう今橋の店から出られんようになってしまうやろ。しかも、洗心洞に来たところで、中に入れるわけでなく、近くをウロウロしたくとも周りは全て武家屋敷。出入り商人に御用聞き、他にはお武家様やお供が通るだけ。あの辺りには頼れる知り合いもなく、伝八はんに会えないままに時間ばかりを費やして、当所もなく天満をさまようばかり。以前には伝八はんと天神様に、学問成就の願かけて、朝な夕なに参ったもの。それを思い出してくれぬかと、天神様の境内で時を過ごすが、待てど暮らせど音沙汰なし。宗太郎や、どんな苦労も厭いはせえへんけど、伝八はんに迷惑掛けずに会える手立てはないものやろうか?」
「おっと、そこの二人。そうや、そうや、お前らのことや。近頃この界隈でよく見かけるが、ご用の筋で改めたい。わいは怪しいもんやない。天満で十手を預かる吾平親分の一番の子分で熊というんや。天神さんに来て願かけるでもなく、用もないのに与力町をウロチョロして、盗人とも思えんが怪しい素振り、御用改めやらん訳に行かんわな、ちょっと番所に来てもらおうか」
「親分はん、わてらは怪しいものやありまへん。わては堂島の米問屋、高津屋の丁稚で宗太郎と言いま。こっちは女中のしのどんでおま。お店のいとはんが勉強好きで難しい書物を読んではりますけど、体が弱うてお天道様に当ると差し障りがありま。それでしのどんと二人で、いとはんに代わって求めた書物をいただきに塾に行ったり、天神さんで学業成就を祈願したりしま。今日はいただける筈の書籍が届いておらず、お店に帰るのも中途半端なので、天神さんで待ち時間を潰してたんだす。わては字が読めへんもんやから、間違うて別の本を持って帰らんように、しのどんに付いてきて貰うてますのや」
「ほんだら、そっちのしのどんは、女だてらに字が読めるんかいな?大したもんやな。わしも習い事は苦手で平仮名しか書けん。で、塾はどこにあるのや?」
「へえ、与力町におます。洗心洞言いまして、お侍さんもお越しなさる立派な塾でございま」
「なに、洗心洞やて?あそこに女人で塾生がいるとは初めて聞いた。お前らは本当に洗心洞に関係があるんか?」
「いえ、わてらが通うのではおまへん。いとはんの勉強しやはる書籍を貰うのですわ。いとはんも洗心洞に通われるのやありまへん。偉い先生に選んで貰うた本をわてらが持って帰るんだす」
「そんな難しい本を女だてらに読んでも何にもならんと思うが、大店の娘はんとはそんなものか」
そのように熊と宗太郎が話をしていると突然横から声がかかった。
「おーい、宗太郎こんなところで何している?洗心洞で探しておったぞ」
振り向くとそこには日焼け顔の清兵衛がニコニコと笑っていた。
「おお、清兵衛やないか」
「熊親分、この二人をご存知で?」
「いや、そういう訳でないが、こ奴ら与力町をウロチョロしてたんで、あとをつけてここまで来た。念のため取り調べようと思うたところや」
「親分、この宗太郎ともう一人は、怪しいものやありまへん。学問好きの大店のいとはんに代わって書籍を受け取りに来やはるだけです。手前も何度か洗心洞で挨拶ぐらいはしたことがありま。手前の顔に免じて見逃してやってください」
「それより清兵衛、その後怪しい動きはないのか?お奉行所の方からの詮議が厳しい。今年も凶作やさかい、洗心洞の動きが気掛かりだとお奉行様より仰せがあった。何かをご注進に及ばんと、わしらの面子が立たん」
「吾平大親分さんの他の筋からのご注進は無いのでっか?」
「それが何も無うて困っとおる。出入りのあきんどを隈なく当たったんやが、一向に埒があかん。清兵衛、お前が頼りや。伝八の筋から何かを掴めたか?」
伝八と聞いて、しのは思わず目を丸くした。それを熊に感づかれなかったのは幸いだった。
「熊親分、急いては事を仕損じま。探りを入れるには手間暇かかりま。伝八さんと馴染みになるにはもう少し時間を貰わんとあきません。なにかあれば一番に熊親分にお知らせいたしま。それより、こんな素人さんの前でややこしい話は止めときましょう。あとで例の番所に行きまっさかい、この場は穏便に頼みます」
「清兵衛、お前がそういうなら分かった。この二人の身柄はお前に預けた」
「何を大袈裟な、熊親分、こやつら二人が騒いでも何にもええことありまへん。この二人は高津屋の奉公人、高津屋といえば代代の大坂城代御用達の米問屋、名の知れた大店でっせ。熊親分が探りを入れてはるのがばれたら不味いでっしゃろが。分かってまっしゃろ。ほな、また後で。おい、そこの二人、うどんでも奢ったろうか。この界隈をうろちょろしてるから親分さんに迷惑掛けるんや、さあさあ、熊親分にご挨拶して」
何とか難を逃れ、二人は清兵衛に案内されるままに天神橋筋のうどん屋に入った。
「どや、ここの天ぷらうどんは?天満で一番上手いという評判や。『願掛けするなら、天、天、天満の天神さん、帰りは天満の天ぷらうどん』言うてな、天神橋筋の名物の一つや。お参りした後は天ぷらうどんが一番や。うまい上に安いと来ている。これ食べ終わったら悪いこと言わへん、店に戻るのだぞ」
清兵衛は精一杯大坂弁を使った。
「清兵衛はん、ここのうどんは本当においしおます」
一口すするなり宗太郎は顔をほころばせた。
「清兵衛はんもおうどんがお好きなのですね」
ようやく落ち着いて、しのも微笑んだ。
「わたしの郷では、うどんは余り食べへん。ほとんどが蕎麦や。蕎麦も好きやが、うどんがこれほど美味いとは大坂に来るまで知らなんだ」
「それは良うございました。大坂ではおうどんばかりですから」
「実は、連れ合いもうどんが大好きでな。というか、わたしが好きになったのも連れ合いのお蔭や。纏まった金が貯まれば、所帯を持って、うどん屋を開こうかと、話し合うている。場所は天神さんの近くがええなと、これが二人の夢や」
聞こえない程の小さな声で、わても伝八はんとお店を持ちたいと、しのは呟いた。その目には陰りがあった。思えば、一体伝八としのの共通の夢とは何だろうか?一緒に死出の山に旅立つだけが目的なら、余りにも悲しい。しのは思い直して清兵衛に礼を言った。
「清兵衛はん、先程はほんまに助かりました。急に怖い目に遭うて、声も出まへんでした。宗太郎がえらい機転を利かしてくれて、それでも番所に連れて行かれたら、どうなったことやら。お指図通りに、うどんをいただいたら帰ります。でも、清兵衛はんには初めてお目にかかったと思うてます。ご挨拶が遅れましたが、わては」
「いや,名乗らなくてもよい。実はお前たち二人を何度も洗心洞の近くで見かけたことがあった。わたしは見ての通りの炭屋の手代だが、洗心洞に出入りし始めてから、随分伝八さんにはお世話になっている。宗太郎、先程はご苦労だったな。おしのはん、通りすがりに偶然見かけたが、居合わせて本当に良かった。町の十手持ちの子分といっても、あの熊親分の生業はやくざと変わらない。これに懲りて洗心洞には近付かんことだ。宗太郎、お前はいとはんの付き添いだろう?与力町界隈まで足を延ばしたことが、大旦那に知れてしまえば不都合ではないか?災難に遭うてからでは遅い。二度と立ち寄らないことだ」
「清兵衛はんは伝八はんにお会いなさっているのでしょうか?伝八はんはお元気でしょうか?伝八はんと先程の親分はんとは何か因縁がおますのやろうか?」
「伝八さんはお元気や。洗心洞の勘定を一人で取り仕切って、一方で大変厳しい勉学の最中だ。住み込みの塾生で自由になる時間はない。だから、そっと見守ってやればどうだ?お忙しくって、当分誰とも会えないだろう。もはや、伝八さんには普通の人の生活は望めないのだよ」
しのは呆然と清兵衛の話に耳を傾ける以外になかった。
「そうそう、先程の熊親分だが、洗心洞に付きまとい、塾生らをお縄にかけたいらしい。その訳は分からないが、非常に厄介で危ない連中だ。お前たちが伝八さんに会おうとすると、洗心洞に迷惑をかけてしまうよ。それどころか、高津屋にまで累が及んでしまいそうだ。だから二度と近付かない方がよい」
そう話した清兵衛の目は真剣そのものだった。しのは恐れをなし蒼白になってしまった。
「よく聞きなさい。伝八さんが離縁を決心したのにも訳があるのだろう。訳があるからこそ、訳をいえない。納得行かないだろうが、訳を明かせない伝八さんはおしのさん以上に苦しいかもしれない。全てを知ろうとしないで、伝八さんのためにも会わないことだ」
しのが伝八に会いたい理由は薄らと想像ついたので、清兵衛は踏み込んで言い聞かせた。
「他所にいいひとが出来たということではないのですね」
しのは顔を赤らめながら思い切って尋ねた。
「馬鹿なことを言うたらあかん」
と、おかしな声音で浪速言葉を使い、清兵衛は話を続けた。
「そのように疑われれば、余りにも伝八さんがお気の毒。伝八さんは男の中の男、立派な御仁や。ほら宗太郎、うどんは温かいうちに食べるのが一番だぞ」
「清兵衛はん、もう二度と愚かなことはお訊きいたしまへん。でも、もし伝八はんに離縁せなあかん理由があるのなら、お聞きしとうおます。伝八はんとは今世も来世も夫婦と誓うた仲、わて一人では生きていけぬことは伝八はんも百も承知、たとえ地獄でも一緒におれば極楽、極楽でも別れて暮らせば地獄同然。訳知り顔に、しののためと隠し事を持たれては辛うおます」
「だが、伝八さんは、おしのさんを巻き込みたくないのだろう。そのお気持ちは褒めこそすれ貶すことではない。わたしも事情の全てが分かっている訳ではないが、どうすればよいのだろうね。伝八さんもおしのさんも、これ以上苦しませたくない」
「清兵衛はん、わては伝八はんの女房でおます。もし伝八はんに火の粉が降りかかるなら、女房のわてが火の粉を払いのけたくなるのは自然の情でおます。離れておればそれも出来まへん。わては何があっても伝八はんと一緒に生きていく覚悟でおます」
しのは胸中を吐露して清兵衛をじっと見つめた。
「いや、難しい話やな。おしのさん、考える時間が欲しい。この場で決めて、あとで悔いるのもどうかと思う。一つ約束して欲しい。これからは与力町、いや天満界隈にも二人で来ないことや。今日は熊親分の追求を何とか凌げたが、何時も上手く行くとは限らない。お前たち二人は熊親分に顔も覚えられてしもうた。熊親分の上には、吾平大親分がいる。へびのようにしつこい十手持ちで洗心洞を内偵している。これは伝八さんの命にかかわる問題だから、自分勝手に動くことはこれきりにしなさい。その代り、わたしの方で、お二人が会えるような算段をしよう。おしのさんとの連絡はわたしが取ろう。連絡には宗太郎の手助けも借りようか。さあ、うどんも食べ終わったし、今日はこのまま帰りなさい。誰かが後を付け狙うかも知れないので、わたしが見張っておこう。振り返ったりせずに、そのまま帰るのだぞ」
天神橋筋のうどん屋を出て、清兵衛はその場に佇み、しのと宗太郎の後姿を見送った。しのは人波から振り返り清兵衛を見つめてお辞儀した。宗太郎もあわせてお辞儀する。
『振り返るなと念を押したのに、不用心なものだ。天満のまむしにかかれば一溜りもないな』
遠ざかる二人を見て苦笑した。
『伝八さんはおしのさんに何も打ち明けていないのだろう。情が通えばこそ仔細を話さなかったのだ。だが、これも何かの縁、二人が会えるように工面してやらねば』
清兵衛はしのの気持ちに揺り動かされ、一肌脱ごうと決意した。このままでは余りにもしのが不憫である。そして、
『伝八さんもおしのさんに伝えれば良いのに、本当の気持ちを』
と思わず呟いてハッとした。同じことが、せんとの関係で自分にも当てはまらないだろうか?しのとせんの苦衷には微妙な一致点がある。そうして清兵衛は、自分がせんにしてやれない事を、伝八がしのにしてやれるようにと、望んでいるのかも知れない。その時、かなたで又もや二人はお辞儀し、そのまま人波の向うに消えてしまった。
『義ならんと欲すれば恋ならず、か』
と、伝八の立場を慮った。すると、今度はせんの幻影が清兵衛の心に浮かんだ。
『俺の方はどうだ?忠ならんと欲すれば恋ならず、か』
と自嘲した。
暮れも押し迫った頃だった。ようやく段取りが付き、しのと宗太郎を清兵衛の裏長屋に案内した。宗太郎は紛れもない丁稚、しのの品の良さは隠し通せないが、大店の女中に見えないでもない。清兵衛の店はこれ以上窮屈に作れないほど小さいが、しのは案外気にかけていないようだった。
「ここが清兵衛はんのお住まいでございますか」
もう直ぐ伝八に会えるからだろう、しのは上気した顔付きで、声も自然と弾んでいた。
「いい年をして、未だに独り身の手代、これが分相応なところや。この界隈には適当な宿もないので、むさ苦しいところだが辛抱しなさい。何とか寒さだけは凌げるやろ。宗太郎、伝八さんが来やはるまで、それほど時間はかからん筈や、ここで待とうか。で、おしのさんは学友のおたかさんの宅に泊めて貰うていることになっているのやな?」
と清兵衛は宗太郎に尋ねた。
「へえ、以前に二回程、三橋屋のおたかはんが高津屋にお泊りになりはりました。今日は手習いの勉強で、いとはんが三橋屋はんにお泊りなさる順番でございま」
「宗太郎、お店に帰った時、無事わてを三橋屋はんまでお送りしたというのよ。今度、宗太郎にも手習いのお手伝いをするからね」
「どうか、宜しく教えて下さいませ。わては習字が大好きでございま。先ずは『高津屋の宗太郎』と上手に書けるようになりとうございます」
「おしのさん、ここは本当にむさくるしいが、待合茶屋という訳にも行かない。この裏長屋は曽根崎のお初天神さんの北の外れ、この先は梅田村に続くだけで人家も途絶え、夜が更けると通行人も少ない。伝八さんとの待ち合わせにはお誂え向きだろう。伝八さんは摂津にご用があったので、今夜は洗心洞に戻る必要もない。わたしは塩田屋の主人筋に呼ばれている。伝八さんが来なさったら、逆にわたしは出掛けることになる。今夜はお二人で納得いくまで、これからのことを話し合えばよいだろう」
と、頃合いよく伝八が急ぎ足で戸口に現れた。最後に会ってから早や半年が過ぎている。若い二人は、目と目が合ったまま、お互い言葉も出て来ない。
「伝八さん、おしのさん、お二人がここで会えるのも、神仏のご加護があったのでしょう。竈の横にあるのが水瓶です。そこにあるのが米櫃、小魚の干物の取り置きと味噌醤油が、ほらあの棚に。その横にあるのが茶筒と我が家の椀や器のすべてで、箱膳は二組あります。連れ合いに頼み綺麗に洗うてもらいました。火鉢には種火が残っている筈です。わたしは炭屋の手代なので、炭だけは沢山あります、ほら、俵ごとあの隅に。寝具は枕屏風の奥にある。あいにく一組しかありません」
「清兵衛はん、何から何までお世話になり、お礼の言葉も見つかりません。次におしのと会うのは、三途の川の渡し場と覚悟を決めていたんやが」
「おっと伝八さん、手前との話に時間を使っちゃ勿体ない。炭の注文なら洗心洞でお伺いしま。わたしは主人との談合の時間も迫っており、出掛けねばなりません。今晩は塩田屋に泊まりとなりま。早朝から主人のお供でお得意様を回りま。ここへの戻りは昼時を過ぎてしまいま。どうせ盗られるものなどこの家には何もありません。開け放ってお戻りなさればようございます。さあ、宗太郎、そろそろ行こか」
「清兵衛はんは、元お武家様のようですね」
清兵衛と宗太郎二人の背中が夕闇にまざり消え去るのを戸口のすき間から見送りながら、しのは頭を伝助の胸に寄せた。背中から伝八の暖かな手がしのを包み込んだ。
「このご時世や、お武家が町人になったとしてもおかしくない」
「でも、清兵衛はんが本当のお武家様なら、用心に越したことがないやろう。伝八はんが心配や」
「どうして心配するんや?わては洗心洞で住み込みの奉公人、やましいことはない」
「伝八はん、伝八はんのお役目が勝手方だけなら、どうして親子の縁を切り、離縁を望みはったのや?切っても切れぬ縁を切ろうとしやはるのは、何か恐ろしい企てをお持ちなさってはるのと違うやろうか」
「何か思い当たる節でもあるのかい?」
「天満の目明し吾平大親分はんや、一の子分熊親分はんが洗心洞を抜かりなく見張っておりま。その大親分はんと清兵衛はんに繋がりがありそうでおます」
「そりゃ清兵衛はんだけではない。他の出入り商人にも探りが入っている。その訳は分からへんが、痛くもない腹を探られているだけや。洗心洞には何も怪しいところはあれへん」
「そうでおますやろか?わてには、洗心洞の皆様が命を賭けて何かをしなさるように見えま。それ以外に思いつかへんのや」
「清兵衛はんにもおしのの考えを言うたのかい?」
「いいえ、用心に越したことがないと思い、伝八はんのなさろうとしていることは何も話していまへん。清兵衛はんにはお会いしたばかりやから。天神さんで熊親分から取調べを受けそうになった時、清兵衛はんに助けてもらいました。でも、翻って考えると清兵衛はんと熊親分とは以前からの知り合いのようやった。どうして炭屋の清兵衛はんと熊親分とが知り合いなのやろうか。それに、清兵衛はんのあの言葉遣い、元お武家様に違いありまへん」
「清兵衛はんが昔はお武家さんだったというのはわても考えたが、しかし、清兵衛はんは本当に良いひとや。わてが昨今のご政道を批判した時も、周りに用心なされと諌めてくれはったくらいや。安心おし」
「そう言いはっても伝八はんのことやから、心配が先に立ってしまいま」
と、しのは伝八の胸に顔を埋めた。
「夫唱婦随と覚悟を決めても、分からぬことが多すぎて、心配の種は増える一方。破談にしたのもしのの為と、伝八はんの勝手な言い分。こんなことが続くなら、一足先に三途の川に旅立って向こうで伝八はんを待とうかと、いやしかし、川にかかる夫婦橋、一緒に渡るが一番と、思い直して来たものの、伝八はん、訳を聞かへんかったら越すに越されぬ思案橋、なにか腹に収めていやはるようやけど、このしのに隠し立てほど悪いものはあれへん。夫婦の契りを立てた以上、良いも悪いも包み隠さず教えて下さいな。隠し事があれば何のための夫婦やろうか。伝八はんに会えぬのは寂しいが、会えないだけなら辛抱も出来ま。今のままでは、このしのの悩みは尽きず生き地獄。包み隠さず教えて下さいな」
「しの、それでは思い切って話そう。実は洗心洞で学ぶうちに、知識を身に付けただけではなんの意味もないと思うに至った。学問は口先だけの問題ではない。知行同一こそ学問の神髄。それをお教え下さったのが中斎先生や。考えれば考えるほど、今のご政道は間違っていると確信した。が、その思い以上に、なす術もない自分自身を歯がゆく思い、耐えられなくなった。先生は大坂東町奉行に提言を書き送ったが、なしの礫、どころか上書を認めるなど以ての外、もう一度さようなものを送れば咎めなしに済まさぬと、まったく理不尽な御達し。ご奉行、跡部山城守良弼殿は書状を受け取れば将来に禍根を残すと懸念されたんやろう。上書を突っ返してきたんや、大坂の役人どもは仁の欠片も持ち合わせがない。われら洗心洞一門は、先生に身の処し方をお任せし、ご政道をただすために身命を賭す覚悟でいる」
「それではこれから何をしやはるお積りなんやろうか?」
「それは先生のお考え次第や。だが廻米の御触れが出た以上、見過ごすわけに行かへん。この伝八は侍やないが、義を見てせざるは勇なきなり、人の道を外す訳に行かへん。今こそ学んだことを生かす時や」
「ああ、そのようなことをしやはったら、伝八はんの命も尽きま。わても生きてはおれへん」
「そうかも知れん。だが、一人の力は知れている。洗心洞一門が一丸となってこそ、意も通じると言うもの。こうなれば、この世でおしのと添い遂げることは千に一つも果たせぬ夢。命を惜しみ、己の損得のみを考える余り、眼前の不正義を見て見ぬふりをしては、この伝八が伝八でなくなる。生ける屍のような伝八になっては生きる甲斐もないと言うもの。もはや後には引けんようになった」
「この世で添い遂げることが出来へんのなら、早く来世で暮らしたいものや。この世の命を惜しんで,悔いの残る生き方をするより、一緒に三途の川を渡ろうか」
「おしの、お前は花に例えれば、まだ三分も咲かぬ蕾やないか。これからという時に手折られてよい筈がない。生きてさえおれば、あでやかな色香で幸せを呼び寄せることも出来るやろう。この世に未練は残らないか?若さが後押しした一時の思いに流されて、後で悔いることはないか?一旦渡れば戻れぬ三途の川。ご両親も一人娘に先立たれば悲嘆に明け暮れることになる。それを重重承知の上でほんまに決心できるか?」
「ああ、今日は涙がよう出ること。そのように問い詰められると、気持ちの揺れを押さえられん。伝八はんのお母様が病に伏せられたのも、伝八はんが勘当されてからのこと。これ程の親不孝もあれへんやろう。そうは言っても今の伝八はんは昔と少しも変らぬ伝八はん。今日明日の食べ物に困っている親子を目の前にすれば、手を差し伸べるのは人の情。何も悪いことをしやはった訳やあれへん。どうして伝八はんと別れることなど出来るやろうか」
「考えれば考えるほど、悩みも尽きへん。書物を読んでも答えは見つからへん。今日心に決めたとしても、明日にはまた思い惑うもの。一つ言えることは、二人きりでこうして会えるのは、現世では今宵が最後ということや。おしの、離縁と口に出してしもうたが、どれほど会いたかったことか。この世でもあの世でも、お前のいない世界なら住みとうない」
「伝八はん、しのも」
同じ思いです、という声が聞こえたようであったが、もはや言葉を交わすまでもなかった。一枚の板を隔てて両隣から子供の笑い声や、しかりつける母親の怒鳴り声が響いている。しっかりと抱き合い、どちらからとも分からぬが帯を解き、一つ敷布の上で体を重ねるまでに時は掛からなかった。体の芯から溢れる情熱が何度も二人を結びつけ、歓喜は燃え上がり消えることがなかった。
井戸水をくみ上げる音や、ニワトリのせわしない鳴き声が聞こえる。表戸からはまだ一条の光も差し込まない。しのは伝八に裸の胸をくっつけたまま余韻を楽しんでいるようだった。
「朝になってしもうたな」
「あっという間に時間が流れます」
「まだ、朝飯を食う時間はある。一緒の朝飯も最初で最後やろなあ」
身づくろいしたしのが、手際よく朝食を準備した。二人で朝飯を一緒にするのは初めてだった。伝八が器を洗い、二人で清兵衛の裏長屋をあとにした頃には大坂の町も活気を取り戻している。並んで歩くと時として体が擦れ合うのも心地よかった。
「清兵衛はんや三橋屋のおたかはんにはお世話になりっぱなしやった。お蔭で契りを結ぶことも出来た。夜明けの町を一緒に歩けるとは思わなんだ」
「伝八はんと一緒になれてよかった」
「二人の時は伝八でよいやろう。これで思い残すことはない」
「また、すぐに会えますね。この世か次の世で」
「そうや、すぐに会えるよ。次の次の世まで一緒や」
話していると切なさが込み上げてくる。
「伝八、こんなに幸せでよいのやろうか」
「しの、わてらは夫婦やから」
「それも、誰よりも幸せな夫婦でおます」
「この世の契りを封印して、二人して、来世にそのまま持って行こう」
「伝八、わてはもとよりその積りでおます」
朝の白い光が面を差し、右手に天神の森が見えた。紅葉していた桜も下枝に柿色の葉を僅かに残しているだけである。
「与力町に近づくと天満の吾平大親分が鬱陶しい。それではまた会おう。せいぜい一ヶ月か、二ヶ月の辛抱や。それより長引くことはない。それからは水入らずで、ゆっくりする時間も作れるやろう」
「それまでは宗太郎の手習いのお手伝いをしようか、約束したもんなあ」
「高津屋の宗太郎か、なかなか堂堂としたええ名前やな。商売熱心やし、高津屋という暖簾に誇りを持っとおる。立派なあきんどになるやろう」
「伝八、わては次の角を右に折れます。いつまでも一緒に居たいのは山山やけど、最早これまで。どうか本懐を遂げておくれやす。わてもお供いたします」
「しの、ただただ命を長らえるだけの生活を送る訳に行かへん。お前の亭主らしく、信念を持って生き通すつもりや。一生懸命ものづくりに励んだ百姓や町民が飢え死にするとは、おかしな世の中や。しかも万民の窮乏にとどめを刺すような廻米の御達し、仁義の欠片も見当たらへん。明け方の東の空、与力町の方を見て欲しい。洗心洞に火の手が上がるので、その日が分かる筈や。われらが立ち上がるのはその時や」
「わては伝八の女房、お前はんの住まいの方の空を、一日も欠かさず見ておきます」
袖口で涙を隠して、しのは振り返りもせず、角を右に折れて堂島の方に向かった。もうこの世では一生会えまい。だが、この体と影が対のように、今日から伝八としのは心ひとつ、切ろうとしても切り離せぬ、三途の川も手を携えて一緒に渡ろうと、涙ながらに決意を新たにした。




