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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第十八章 返り忠

第十八章 返り忠


 立入与力栗林隼人と同心平山助次郎が二度目の談合を持ったのは三日後だった。今度は助次郎の方から是非にと面談の申し入れをしたのだった。場所は浪花茶屋の二階の小部屋だったが、僅か三日間で助次郎は見た目にも痩せ、肌色もどす黒くなっていた。酒肴が準備されたが手も付けず、膝も崩さなかった。一方、隼人は胡坐をかいてゆったりと助次郎を見やった。今日も小菊が甲斐甲斐しく世話を焼いている。

「平山殿、ほら、この小菊の目はどうだ。男をぞくっとさせる。口年増だが意外と身持ちが堅くて、手も握らせてくれぬ。しかも、これが全くの下戸と来ておる。新町の娼妓と違って身請けする訳にも行かん。店に借金がないのでな。勿体ない話だ」

本気半分、冗談半分で隼人は残念がった。未だ酒も口にしていないのに今日の隼人は執拗だった。

「なあ、小菊。隠し立てはならんぞ。近頃、男が出来たのではないか?めっきり女っぽくなったではないか。わしの目はごまかせんぞ。そやつは、その果報者は、一体何処の誰じゃ?」

ねちこい好色な目で小菊の姿態を観ながら、隼人は更に絡むのだった。

「女は男次第だ。男次第でどうとでもなる。その男にわしがなりたいものだ。わしが嫌なら、今日の客人でどうだ?わし程厚かましくない。しかも若いからな。その分、元気で勢いがある。楽しめるぞ。しかも、お前のことを憎からず思っておられるようだ。何ならご本人に確かめるか?なあ、平山助次郎殿」

答える代わりに助次郎は顔をひきつらせた。そんな浮ついた話に挨拶する余裕もない。前の会合以来、安眠どころか寝付けば悪夢にうなされた。まなこも充血しっぱなしである。今日こそ話さねばならない。

「おお、さようか、今日は貴公との相談事が先だったな。浮世の戯言はその後か」

隼人はにやりと笑った。

「小菊、そういう訳でお前との大事な話は後回しにせねばならん。暫くは人払いじゃ」

と命じた。

小菊がふすまの向こうに消えるのを待って、改めて助次郎に対座し目元を和らげた。

「なにか掴めたのか?」

「はい、その前にお聞きいただきたいことがございます」

「いちいち改まずとも何でも話されるとよかろう」

「はっ、実は先日お会い申し上げた時、思わず言いそびれたことがございます」

「ほう、わしが一方的に話し過ぎたかな?」

「いえ、余りにも突然のことで、頭が混乱したのでございましょう。本来、最初に申し上げるべきでございましたが・・・栗林様は洗心洞についてお聞き及びでございましょうか?」

「ふむ、聞いたような、聞いていないような、まあそれよりも先ずは膝を崩されてはどうか」

「恐れ入ります。洗心洞と言いますのは、元与力大塩平八郎先生が開かれました私塾でございます。陽明学をご教授なさっておられます」

「さようか、それで貴公はいかがしたのだ?」

「実は、純粋に学問として四書五経に興味を覚え、一昨年来それがしも塾に通ってございます」

「陽明学か。聞いたことはあるが、中身はわしにはサッパリわかり申さぬ。儒学の一学派ではござらんか?」

「はい、早朝より講義を受けておりますが、時と場合により議論が白熱し、過激に走り過ぎた意見が出されることもございます」

「それは学問上のことであろう。わしもそれをいちいち論うつもりはござらん。いや、待てよ、その塾は与力町にあるのではないか?」

「はい、先生がご自宅で開講されておられます」

「まさかと思うが、そのようなところで百姓や町人相手に入れ知恵すれば誤解も生ずるぞ。ことあれば一番に探索の手が入るだろう。おお、そうだ、お奉行が仰せになったのは洗心洞のことかもしれん。もしそうであれば、平山殿、用心に越したことないぞ。ここだけの話だが、秘かに探査が始まっておる」

「それがしは塾生でございますので、何かの際に誤解を招きはせぬかと危惧いたしております。その為、本日栗林様のお時間を頂戴した次第でございます」

「なら、心配要らぬ。その塾長が何をいおうが、貴公には関係がござらん。わしがいざという時には庇ってやる。いや、一番良いのは、貴公からわしに洗心洞の動静を適宜報告することだ。他人が見れば貴公は数年来の塾生、疑惑を招いても仕方がない立場だろう。そこでお国の治安維持のため、敢えて塾生となり、内部より調べを怠らなかったことにすればよかろう。既に貴公のことはお奉行跡部様の耳にも入れてある。懸念には及ばん」

「それをお聞きして安心申し上げました」

「貴公を見殺しなどにはせぬ。その代り東組の同心として勤めに励むことじゃ」

「はい、軽輩ではございますが、お役を忘れることはございません」

「念のため申し添えるが、上書だ、決起だと一時の気の迷いで騒ぐのも困りものだが、ましてや連判状のようなものに血判を押したりすれば、いかなわしでも庇い切れぬ」

瞬間、平山助次郎の顔色がどす黒く変わったのを見逃さなかった。

「いいな、その場合は、予めわしの方からお奉行のお耳に入れておくのが肝要だ。貴公が塾生であるのは内偵が目的で、わしが承知しておったと。さもなければ、例え役人であっても切腹、悪くすれば獄門首も避けられぬ」

「血判を押した上での、返り忠でございますか?」

「さよう、『武士は二君にまみえず』だ。貴公は東町奉行所の同心であろう。返り忠こそ、貴公の役割だ」

「それがしは元元勉学の為、入塾したものでございます。講義の中心は、四書五経、特に陽明学でございます」

「まあ、まあ、陽明学だの何だのと、さような固い話はもうよかろう。わしだから良いようなものの、侍らしくもない、申し開きに聞こえるぞ。それとも貴公、何かやましいことに関わってしまったのか?もし、さようであれば尚更のこと、返り忠として働かん限り、誰も聞く耳を持たんぞ。万が一、大塩殿が決起してからでは遅すぎる。それくらい貴公も分かっておろう。おーい、小菊、話は終わったぞ」


 平山助次郎を通して、洗心洞の概要を掴むまでに時間はかからなかった。また、天満のまむしこと目明しの吾平よりも新しい情報が続続と入っていた。洗心洞の塾生は総勢百名弱。意外と町人は少なく、大半は役人や藩士と近郊村の庄屋の子弟が占めていた。


 栗林隼人は洗心洞派の面面を武家とその他に分けて、東町奉行跡部山城守良弼に報告した。その内、武家として報告したのは次の十一名であった。

東組元与力 大塩平八郎

東組与力 瀬田済之助 (大塩)

同    小泉淵次郎 (大塩)

同    渡辺良左衛門 (不明)

同    大塩格之助 (大塩) 

東組同心 河合郷左衛門 (中間)

同    吉見九郎右衛門 (中間)

同    平山助次郎 (中間)

同    近藤梶五郎 (大塩)

玉造口与力 大井正一郎 (大塩)

弓奉行組同心 竹上万太郎 (大塩)


同様に、町民、百姓の塾生も次第に調べが付いた。

河内百姓 庄司義左衛門(大塩)

同    西村利三郎(大塩)

摂津百姓 橋本忠兵衛(大塩)

同    摂津の五右衛門(大塩)

摂津神主 宮脇志摩(大塩)

摂津百姓 堀井儀三郎(大塩)

船場医師 松本隣太夫(大塩)

船場商人 亀井屋の伝八(不明)

等等数十名で、出身も広範囲で目明しの探査能力では精査しがたかった。また、お上の内偵が進んでいることを感じ取った塾生の中には退塾する者も相当数となった。


 東町奉行跡部良弼は名簿を食い入るように眺めた。目は満足気である。

「隼人、大儀であった。よく調べあげたな。ここまで来れば取り押さえるのはたやすい」

と、自らに言い聞かせ、更に言葉を続けた。

「しかし、待てよ、このような少人数でいか程のことが出来ようか。ご城代も、ちとご懸念が過ぎるのではないか。ところで、名前の下に(大塩)とか(不明)とか(中間)と書いてあるのは何か?」

「はい、大塩とありますのは、決起した時に大塩平八郎殿と命運を共にすると、覚悟を決めたと考えられるものでございます。不明は、文字通り判定が付きかねるものでございます。また、中間とは、場合によっては返り忠に組みすると思われるものでございます」

「ふむ、寝返るものは意外と少ないものだな」

「大塩殿と袂を分かとうと決めたものは、既に洗心洞から退塾しております。これからの行動を考えて、塾長が意図的に退塾させたのかも知れません」

「なるほど、決起するのに足手まといという訳か」

「退塾者を二、三、取り調べたところ、全く何も承知していないようでございました。勿論、当方が取り調べを行ったことについては、固く口封じしてございます」

「しかし何だな、瞥見したところ、与力が大塩に組みし、同心が離反するように見えるではないか。また、百姓と言っても豪農が多いではないか」

「ご奉行、それが誠に不思議でございます。貧者が公儀に媚び、逆に富者が楯突くように見えます。洗心洞の中核としてその思想に殉じようとしているのは与力と庄屋に多ございます」

「下手に動くとわれらの動きが悟られる恐れがあるな。当分はお前に任せよう。油断なく見張っておれ。ご城代にはわしからご報告申し上げておく」

「決起した時に、一網打尽にするのが宜しゅうございませんでしょうか」

「うむ、それはその時に考えればよかろう。しかし、隼人、お前なら本当に決起するか?」

「はっ、わたしなら、という話になりますと、答えるのが大変難しくなります」

「さようであろう。決起すると言うことは、自らの命を捨てる覚悟を決めたというに等しい。いや、家子、郎党にも類が及ぶのは必定。いざとなれば安易に行動に移せるものでもない。ましてや武士と言っても田舎侍ではない、彼らは御家人ではないか。公儀に弓など引けるものか。平山助次郎ではないが、命を惜しむものが出てきて当然だ」

「はい、確かに昨秋より退塾者が増えたと聞いております」

「だから言うたのだ。早まって召し捕りにかかったところ、『あれは全て修学上の論議、根も葉もない戯言のごとし、我等とて御家人の端くれ、謀反など興す筈もない、何をご懸念されたのか』と一笑に付されれば何とする?」

良弼は堂堂たる体躯で太り過ぎ、近頃では動作も緩慢になっている。本人もそれを気にしているが、部下をどのように扱えば良いかは十分に承知している。つまり、報告を聞いた後で、自慢のぎょろ目で相手を睨め付けるのだ。そうしておもむろに疑問を呈すればよい。

「しかし、大塩平八郎が首領でございます。後先を弁えぬ無謀なところがございます」

隼人は額に汗して釈明に当たった。

「もっと確かな証を掴むことだ。隼人は大塩のことになると頭に血が上り過ぎやせぬか」

そう言って、良弼は疑い深そうな目を隼人に向けた。

「あと少し時間を頂戴しますれば、平山以外の線からも絡め取ることが出来ます」

「なら、それからで良かろう。連判状が手元にある訳でもなし、武具を買い求めている風でもない。証跡がこれほど少ないと、取り押さえる訳にも行かぬ」

「はっ、はっ」

「わしには未だに洗心洞一派が決起するのかどうか疑念がある。大騒ぎして物笑いの種とならぬことが肝要だ。何しろ相手は大塩だ。不遜な振舞いも多いが、学者としても高名だ」

しかも世評では、隼人、お前より人望を集めているからなあ、と奉行の顔に書いてあった。


 ここは例の曽根崎の裏長屋である。早いもので、清兵衛がせんに看病してもらってから、半年近くたっている。塩田屋の手当はそのまませんに渡す。所要がない限り、晩飯は一緒に食べる。せんが早番の月は帰りが早くなる。清兵衛がせんの借家に行って、ゆきも交えて三人で箱膳を並べる。昼は弁当を作って貰う。偶には天神橋界隈でうどんを食べたり、道頓堀まで足を運び芝居を観たりする。今日は遅番月なので、せんが清兵衛の方へ行き、二人で遅めの食事となった。食事が済めば体を合わせるのが習いとなっていた。至福の時だ。

それにしても、と清兵衛は感心した。せんは一体どこで身につけたのだろう?食べ物をしとやかに口に運び、ほとんど音を立てない。その仕草も美しいと思った。

「何を見てはるの?うちの顔にご飯粒でも付いているのかな?」

と見つめ返した。

「いや、せんを見ているのが好きなだけや。飽きない」

清兵衛は目をそらさず浪速言葉をまじえて答えた。ついでにせんの鼻筋を指で撫ぜた。せんは気持ちよさそうに目を閉じた。

「そんなお世辞を言いはっても、もう何も出まへん。けど、うちもお前はんに見つめられるのが好きだす」

と、嬉しそうだった。

「そうそう、前から訊こうと思うてたんやけど」

せんは箸を休めず興味深げな顔を覗かせた。

「なんだ、改まって?」

「清兵衛はんはいっとき江戸にも住んでいやはったんやな?」

「ああ、二年近くかな、田舎者には江戸は賑やかすぎた。あまり好きでなかった」

「でも、大きな町で歌舞伎もあるし、おいしい食べ物もあるやろな」

「侍の数もむやみに多かった」

「立派なお屋敷も多いやろうな」

「だが、庶民の暮らし向きは江戸も大坂も変わらない。いや、大坂の方が豊かに見える位だ」

「どうして?」

「例えはこの裏長屋だ。ここでは屋根瓦がきれいに連なっている。江戸では長屋は板葺きと決まっていた」

「へえ、江戸では板葺きなんや」

「まあ、暮らし向きが大変なのは江戸も大坂も変わらないけどな」


 夕食をほぼ済ませた時だった。せんが改まった声音で清兵衛に尋ねた。

「お前はん、お前はんから洗心洞と言う名前を聞いたことがあったね」

「洗心洞?わたしが炭や薪をお納めしているお得意様だ。それがどうしたのか?」

「それがね、浪花茶屋のお客はんで、その方はお侍はんやけど、洗心洞がどうこうと、たいそう怖い顔で談合しやはるのよ。決起すれば大塩を許さんとか、臆病なドブネズミに何が出来ようとか、老いぼれの隠居の癖にとか、すごい剣幕でおました。お客はんの相手もお侍はんやったけど、若いひとで、緊張のあまり厠で食べたものを戻しはったのよ。見ている内に心配になってしもうた。洗心洞がなにか危ない目に遭うんやないかと。お前はん、大丈夫やね、巻き込まれないよね?」

「何を阿呆な心配しているのだ?わたしは炭屋の手代。住んでいるのは裏長屋。塩田屋も、洗心洞も大坂のど真ん中にある。何も心配はないよ」

しかし、せんは不安気な面を消せなかった。

「あのお客はん、東組の与力で栗林隼人様というのやけど、評判が良くなくてね。手下の天満の目明しの親分はんを使うて、浪花茶屋からも縄張り料を、みかじめ料とか言うて、取り立てるのよ。別に付け届けも要るしね、女将さんも大変やとこぼしていやはった。しかも、幾ら飲み食いしても何時もお代は付け、その付けが払われたためしはおまへん。洗心洞も栗林様に狙われているのではないやろうか?清兵衛はんに悪いこと起こらなかったらええのやけど、気になってしもうて」

「洗心洞は、孔子や孟子といった偉い学者先生の書物を勉強する場所だからな。お役人から睨まれるような悪いことはやっていない。しかもわたしはそこに炭や薪をお納めしているあきんどだ。心配に及ばない。ところで、相手のお侍はどのようなひとだったのだ?」

「同じ東組の同心でね、平山助次郎様です。たぶん洗心洞で勉強していやはるのと違うかな。お膳を替えるときに小耳にはさんだんやけど、『かえりちゅう』とか言うてはりました」

「返り忠?そのような話が出ていたのか?」

思わず清兵衛の目が光った。

「何のことかさっぱり分からへんけど、かえりちゅうが平山様の役目やとか言うていやはりました。最初は人払いしてヒソヒソ声やったのに、お酒が入ると声も大きなって、まる聞こえやった」

「せん、お侍さんというものは難しい話をされるものだな。わたしたちは町民でよかったよ。その話はもう忘れることだ。心配するな」

「余計な心配しとうないけど、お前はんに何かあればどうしよう?今もかえりちゅうと言うたらお前はんの目色が変わってしもた。お前はんは毎日のように洗心洞に品納めしてはるからね。どうぞ、危ない橋を渡るようなこと、せんといて」

「炭屋の手代の仕事が危なければ、一体どんな仕事をすればいいのだ?本当に心配は無用だ。取り越し苦労をするのではない」

清兵衛はせんを安心させ、優しく抱き寄せた。香しい匂いが鼻を突く。

「清兵衛はん、早く、浪速の言葉を覚えてな。それで、やっぱりお茶屋さんより、うどん屋がええわ。あんなお侍さんを相手にせんでもええからなあ。最初は屋台でもええなあ。一緒にうどん屋をやりたいなあ」

せんは目を瞑り、清兵衛に体を預けた。

「そうだな、うどん屋だな。せんがそう思うなら、うどん屋だ」

せんの体をしっかり受け止め掌でいとおしんだ。清兵衛にとって今腕の中にいる、せんとの時間は人生の全てである。ああ、この女に会うために生まれて来たのだ、と思ってしまう。何物にも代え難い。だが一方で、清兵衛には昔からのしがらみがある。それをどのように切り離せるのか?せんにもまだその話を切り出していない。本当にせんと新しい生活に歩み出せるのか?清兵衛にとっても心もとなく悩ましかった。

 

 一方、そうこうする内にも栗林隼人の探索も進んでいた。ここは浪花茶屋の一室で、隼人はまず褒め言葉で平山助次郎を安心させた。

「助次郎殿、貴公のお蔭で、洗心洞一派の顔ぶれが掴めた。ご奉行も貴公の労を多となされておるぞ。わしはご奉行に、貴公は最初から内偵目的で洗心洞に入塾した、と申し上げておいた。ご安堵めされ。いやいや、よくぞ短時間の間にここまで調べあげることが出来たものだ。これはひとえに貴公のお手柄じゃ。余人にはなかなか出来るものではない」

助次郎の顔には、ひとまずの安心と、未だ去りやらぬ不安とが交錯した。

「それがしは浅はかにも連判状に名を連ねております」

「おお、さようなことを聞いたな。版木で試し刷りした檄文の裏面を連判状として使ったとか。それは確かに早まったものだ」

「檄文では腐敗した役人の所業が厳しく糾弾されております」

「だからこそ、返り忠であったことを明かさねばならぬ。心配は無用と思うが、奉行所の内部にも貴公を疑ってかかるものが居ないとも限らん。また、捕えられた洗心洞の塾生が、貴公を連判状にも名を連ねた中心人物の一人と白状するかもしれん」

「隼人様、如何すれば宜しゅうございましょうか?」

助次郎は心底洗心洞の塾生になったのを悔いていた。自分が小心者で、肝が据わっていないことは重重承知していた。同僚と議論を交わしただけでも鼓動が高まり平常心を失ってしまう位である。正義だの、世の中を変えるだのと言っても、所詮そんな器でないのは分かっていた。血判状に名を連ねたのも、その場の雰囲気に気圧され、断る度量がなかっただけだった。今となっては頼れるのは栗林隼人だけである。

「一番良いのは、貴公は引き続き洗心洞に通い、大塩殿が決起する日が決まった時に、直ちにお奉行の跡部良弼様に密告することじゃ」

「それがしが密告でございますか?」

「さよう、それが返り忠の証となるではないか。そうすれば、貴公の真意を疑いようもなくなるぞ。あくまで内偵目的で塾にとどまったのだ」

「それがしは洗心洞の裏切り者となります」

「汗をかいてどうしたのだ?貴公や家名の命運がかかっておる。先祖代代家禄を賜って来たのだぞ、躊躇する場合ではなかろう」

「はっ、は」

「矢は既に放たれておる。逡巡する時ではござらん。気持ちを静めて忠節を尽くす以外になかろう、宜しいかな?」

「はい、承知仕りました。先祖代代賜った恩沢に、今こそ報いる所存でございます」

「となれば、かような場所で貴公と会うのも今宵を最後としよう。助次郎殿、奴らも命懸けだ。密談の現場を押さえられれば、二人とも生きて帰れんぞ」

「それでは、決起の時は跡部良弼様にじきじき訴え出るように致します。奉行所内には洗心洞の門下生もおりますれば、軽輩ながら直訴が必要かと存じ上げます」

「それがよかろう。お奉行にはわしから予め耳にお入れ申そう。さすれば貴公の身が潔白である証ともなる。だがな、考えてみれば貴公の線だけでは細すぎるか。大塩殿が決起したとすれば、これは天下の一大事、地付とは言え、与力が徒党をなして公儀に弓を引くのだからな。また、万が一われらの探索が誤謬であったとすれば、これもただでは済まぬ。譜代の家臣を無実の罪に陥れようとしたことになるからな。さて、ここはどうすればよかろうか?」

「隼人様、河合郷左衛門殿や吉見九郎右衛門殿に忠勤を尽くすよう、隼人様から釘を刺されては如何でございましょうか?お二方とも連判状には名を連ねています」

「つまり、返り忠をそそのかすのか?一体誰と誰が連判しているのだろうか?」

「詳細は大塩先生にしか分かり申さぬことでございます。倅の格之助殿ですら全貌を知っておられぬご様子でございます。」

「で、その二人は連判したのを悔いているというのか?」

「はい、動揺が胸中を走っているようでございます」

「よし、早速どうするか考えてみよう。が、今宵の話は委細内密にするのだぞ」

「はい、もとより承知いたしてございます」

最早、助次郎に否応はなかった。内偵を続け、平八郎中斎の動向を事前に密訴せねばならない。迂闊にも連判状に名を連ねたのだ。起死回生の手立てが必要である。助次郎は、隼人の一存で、己の命運が如何様にもなる恐怖心を覚えた。


 隼人はもう一度全体の流れを考えてみた。秋以降、退塾者が増えている。退塾者は多くを語らないが、塾頭の考え方の延長線上に破滅的な匂いを嗅いだのだろう。遅まき乍ら自制心が働き、これ以上危ない橋を渡るのはどうか、と怖気を振るう者も出て来た。議論だけならよい、だが、実行となれば命や生活がかかって来るのだ。簡単に踏ん切りが付く筈もなかった。となると、中間派の河合郷左衛門や吉見九郎右衛門も寝返る可能性が出て来るのだ。 

『返り忠だな』

と隼人は的を絞ることにした。

『動揺している輩に返り忠をそそのかすのだ。これが一番手っ取り早くて、わしに禍が及ばぬ』

大塩平八郎中斎の尋常でない鋭い目つきを思い浮かべると首筋が冷たくなった。

『気違い相手に、まともに渡り合っても我が身が危うくなるだけだ。だが、卑怯者と誹りを受けないように気を付けないとな。世間など判官贔屓で、冷たいものだ』


 江戸廻米令は天保七年十一月二十九日に公布された。だが、庶民にとって米どころではない。子供に食わせる稗粟の雑炊も都合が付かず、食事抜きの日々を過ごすことも多い。その頃には清兵衛とせんは共稼ぎ夫婦同然に過ごすことが多くなった。

「清兵衛はん」

せんが、雑巾がけの手を休め、とつぜん生真面目な顔で清兵衛を見つめた。

「どうした、何かあったのか?」

「いいえ、うちには何もありまへん。あるのは清兵衛はんの方と違いますか」

「そのような顔をしているかな?」

「近頃ひどく沈み込んでいやはります。今日も難しい顔してはりま、うちに出来ることありまへんか?」

「そうだな。それではちょっとお前のからだを借りようか」

「そんなの何時でも喜んでお預けしていま。それより、仕事で何かしくじりでもあったのでおますか?心配事あればうちに言うてくださいな」

「あいにく、相談するような心配事はない」

「嘘や。うちにもそれくらい分かりま」

「そう言われても、仕事は旨くいっている。少し体にはきついが」

「話を逸らしたらあきまへん。そのうち清兵衛はんの方から教えてくれはると思うて、待っていたのやけど」

「何のことだ?」

「清兵衛はんはもともとお侍はんと違いますか?」

「うむ、よくそう言われる。そういう風に見えるか?」

「せやかて、清兵衛はんは難しい字の読み書きもお出来になりま」

「以前奉公していた店のしつけが厳しかっただけだ」

「言葉遣いも大坂生まれと思えまへん」

「いまさら何をいうのだ、生まれは大坂でなくても、せんと大坂で添い遂げようと思っている。お前さえ異存なければ二、三年経てば所帯を持ちたい」

「それは嬉しおますけど、今すぐに所帯を持てない理由があるのと違いますか?隠し事は嫌だす」

「別に隠し事がある訳ではないが」

「うちは最初、清兵衛はんは郷にお嫁はんか許嫁はんが居てはるのではないかと思うてました」

「そのようなことは絶対にない」

「となれば、何かお役のことかと思いました。そのお役に目鼻が付けば所帯持とうかと考えていやはるのと違いますか」

「せんも色色と考えるものだな」

「うちは一緒に暮らせたら、それで十分幸せだす。ただ、待つのはええけど、所帯持とうと言いはれへんのは、何か危ないお役を残しているからと違いますか?それで後先考えると所帯を持つのが怖いのやろう」

「それこそ要らざる心配というものだ」

「なら、何でも言うておくれやす」

突然、せんは手で顔を覆い、泣き崩れた。自分でもどう表現して良いのか分からなくなったのだろう。一生懸命清兵衛の立場になって考えようとするが、考えが及ばず不安を拭い切れない。それが不甲斐なく、切ないのだった。未だしゃくりあげているせんのうなじを見ていると清兵衛も胸が一杯になった。

「せん、わたしにだって段取りがある。そうだな、あと半年待って欲しい」

せんを手元に抱き寄せ耳元でささやいた。

「半年後には、こんなわたしで良ければ、所帯を持ちたい。これは二人の間の契りだ」

清兵衛が期近に区切りを付けたのは初めてだった。一時凌ぎに誤魔化すような男ではない。そう思うと喜びで気持ちも高ぶったが、相変わらず漠然とした不安も拭い切れなかった。結局、何も聞かされていないのだ。半年と区切るからには、それなりに裏付けもあるのだろう。しかし、その背景が想像つかない。一方、清兵衛のわだかまりのもとが、年が明ければ決着を見るのではないかと予感した。

天保七年暮れ、年の瀬までひと月を切っていた。廻米令に後押しされた歴史の歯車は、大きく軋む音を立てながら、後戻りすることなく回り続けていた。




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