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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第十七章 御達し

第十七章 御達し


天保七年九月

 いつもの屋形船だった。迎えの小舟が八軒屋から屋形船まで頬かむりした牧野小次郎を乗せてきた。小次郎は力仕事を終えたばかりの町人風情に見えた。日に焼けて肌色は随分黒くなっている。汗と埃で汚れた顔を急いで拭ったようで、顔に薄黒い筋が走っていた。屋形船には大坂城代土井利位と鷹見泉石が待ち構えていた。

「小次郎、随分元気そうだな。城内より町の暮らしが合うのか?」

利位は安堵の色を浮かべて訊いた。

「はい、お陰様で浪速の水が合っているようです。あきんどの町、大坂と毎日実感しております」

「羨ましい限りだ。城内にへばり付いていると何も見えぬ」

中秋の名月をこれから迎えると言うのに、昨日などは晩秋のような冷たい風が浪速の町をよぎっていた。今年も冷害が続けば天保の飢饉も四年続きと言うことになる。敏感に先高を読んだ米商人は、昨年以上に割増金を上乗せし、買い付けに走っている。一方、高津屋信次郎の手腕も期待にそぐわなかった。不思議なことに約定の名義人として高津屋の名前は出て来ない。取引は細分化されており、通常の取引の中に埋まっていた。江戸への廻米は順調に実行されている。また、高津屋が十人両替衆に多額の借入をしたことも表立った噂にならなかった。これは大坂城内での茶会が『ものをいった』のだろう。その方が都合がよい。公儀の後押しで買い占めたと風評が立つのは避けたかった。

「それにつけても、さすが高津屋、ほかの商人ならこうは行かぬ。見事なものだ」

利位は感嘆した。その思いは泉石や小次郎も同様だった。五十万両もの買い付けである。米相場が暴騰し大騒動になるやも、と覚悟した。相場はじりじりと上がったが、さして風評も立たず、水面下で静かに約定が履行されつつあった。あと一か月も必要としない。高津屋の役割は手際よく終わるだろう。他方、城代に入った情報では、東西町奉行所はようやく洗心洞の内偵に動き始めたらしい。

「ただし、塾生には相当数の役人もいるので、高飛車に出て一気に取調べとは行きもうしません。いや、肝心の議論となると洗心洞一門に圧倒されていると聞き及びます。情けない話でございます」

鷹見泉石は淡淡と状況を利位に報じた。泉石の話を受けて小次郎は洗心洞の動きを報じた。

「泉石様、しかし、内内とは言えご奉行の意向を受けた調べなので、一部の塾生には動揺が走ったようでございます。夏を過ぎた頃から退塾するもの数名、また今まで激論を交わし、議論の輪の中心にいたのに、距離を置くようになった侍もおります」

「保身か?さすが大坂の役人、己を守るに敏、見上げたものだ」

泉石は皮肉っぽく薄笑いを浮かべた。二人の報告を聞いて利位は

「塾生には百姓、町人もおろう。彼らの動静はどうだ?」

と小次郎に問うた。

「今のところ、変わりがないようでございます。平八郎殿の講義は相変わらず夜明け前から始まり、厳粛そのもののようでございます」

「小次郎、何時もいう通り、同情は禁物だ。それから身元がばれぬように。洗心洞一派にも緊張が高まっている筈だ」

「はい、緊迫感がないのは東西町奉行所の面面でございます」

「相変わらず役人には厳しいな、小次郎に掛かっては堪らぬ。が、奉行所は聖人君子の寄合所ではない。それだけは分かってやれ。ところで小次郎、お前の耳に入れておかねばならぬ話がある」

と利位はおもむろに切り出した。そうして視線を泉石に移した。泉石は頷き、

「我らも聞いたばかりの話だが」

と改まった表情をみせた。利位は横で腕組みし焦点のない目を障子に向けている。

「どうも出されるらしい」

泉石にしてはぞんざいな口振りだった。

「はい?」

と小次郎は次の言葉を待った。

「お達しだ。内密の話しらしいが」

「お達し?」

小次郎は不審気な瞳を泉石に据えた。泉石は淡淡と続けた。

「ここひと月の間に『廻米令』を出すことになった。断腸の思いらしいがな」

一瞬、小次郎は息を止めた。泉石の説明が直ぐには理解できず、自分の耳を疑うようにぶるぶると頭を振った。泉石は静かに待っている。その顔には、冗談でかようなことは言わぬ、と書いてある。利位に目をやると、口をへの字に小次郎を見つめていた。小次郎はようやく事態を理解した。みるみる顔面蒼白になった。

「それはひどうございます。万民が困っている時に、余りにも身勝手ではございませんか。われらが苦労も水の泡です。何のために高津屋に骨折りさせたのか、これでは筋が通りませぬ」

「うむ、わしも聞いたばかりの話だが、難民が江戸表に押し寄せ、大きな騒動が続発しているらしい」

泉石の言い開きも苦しげだった。それを受けて利位が続けた。

「小次郎、近隣諸国から糧米を求めて予期せぬほど人が押し寄せて来ておるそうだ。高津屋の力を借り、出来る限りの手は打った。が、それでも事態は相変わらずだ。米は不足しておる。かくなれば、触れを出して廻米の上乗せをせざるを得ないのだ。しかし、そうなればわしの知ったことか、勝手にやればよかろう」

利位にしては珍しく、顔を紅潮させて憤っていた。今までは通常取引に紛れさせて廻米を画策した。高津屋が担ったのがこの役割だった。これからは『御達し』という権力をかざして更なる江戸廻米に当るのだ。

「とんでもない話でございます。京、大坂も五穀の不足と物価高騰に窮乏しております。このような時こそ、公儀は公正な配分に気を配るべきでございましょう」

「泉石、小次郎、わしも理不尽な策と思うておる。しかし、もはや留め立て出来ぬ」

「京や大坂は、いや、江戸以外はどうなっても良いのでございましょうか?かような御達しは、如何に公儀といえ、納得いくものではございません。庶民の不満を煽り、怒り騒ぐのを後押しする振る舞いにみえます。憚りながら軽率としか言いようがございません」

放っておけば何時までも憤っていそうだった。

「小次郎、静まれ。事が起きれば鎮圧する以外にない。その備えは出来ておる。お前も承知の通りだ」

泉石が既定の策を口にした。その意味するところは厳しいが、小次郎に気遣っているのだろう、言葉付きは穏やかで優しくさえあった。が、小次郎は収まらない。

「泉石さま、公儀とは一体何でございましょうか?」

「何だ?改まって何を言いたいのだ?」

「はい、公儀の品格は一体何に拠りましょうか?」

「突然の謎かけか?小次郎はどう思っているのだ?」

「はい、公儀は公儀だから偉いのではございません。公儀の役割を果たすからこそ、世間にも敬われ、信義があろうと言うものです。言葉を換えますと」

「ふむ、言い換えると?」

「公儀の立場にありながら民の悲鳴に耳を傾けず、先んじて不公正を働き、庶民の不満を権力で抑え込むだけであれば、この世も末、地獄に成り果てかねません」

小次郎は話している内に、怒りを抑えられなくなり、声を荒げた。

「一体この期に及んで公儀の仕業は如何なものでございましょうか?大塩殿でなくとも、承服いたしかねます。ああ、早晩、洗心洞一派の決起は避けられますまい!」

小次郎は目の前で事件の幕が切って落とされたように感じた。

「殿もわしも重重憤り、洗心洞のことは懸念しておる」

小次郎もそれ位は分かっておろうと泉石の顔に書いてあった。すると利位が付け加えた。

「だが、既に公儀で決めたことだ。覆すことは出来ぬ」

その口調も静かだった。小次郎を宥めるようだった。

「もはやこれまででございます。天下万民のことを考えずして、これでも、これでも、侍と言えましょうか。十分な糧米を江戸表に集めて、一幕僚功成りて万骨枯る、でございましょうか?義も仁も誠も、それらのひとかけらも見当たりませぬ」

小次郎は悲痛な思いを口に出し肩を震わせた。

「しかし、小次郎、お前が洗心洞一派に同調して決起とも行かないだろう」

泉石は改めて諭すように言った。

「そうは参りません。しかし、このようなお役目、余りにも辛うございます。忠ならんと欲すれば義ならず、でございましょうか?」

「もう良い、小次郎、下がれ。廻米令をわしが出すとでも言いたいのか!」

利位にしては珍しく不興気に命じた。はっはっ、と畳に額を付けたまま暫くじっとしていた。それ以上言葉を発することは無かった。小次郎は面を上げず、同じ姿勢でずり下がり、退出した。


 「泉石、小次郎にも困ったものだ。言い出すとかたくな、ひとの話を聞かぬ。われらの苦労が分かっておらぬ」

「いや、さようでございましょうか?」

泉石は口元に笑みさえ浮かべながら穏やかに言葉を続けた。

「小次郎は泣いておりましたな。畳にその滴が、たんと残っております」

「泣きたいのはわしの方だ。公儀は分かっておらぬ」

「小次郎は、殿が廻米に命を賭けたのを承知しておりましたからな。それで公儀の廻米令に、殿のお気持ちも察し申し上げ、憤り、涙したのでございましょう」

「憤慨したのは、われらに対してではなかったのか?」

「はい、それが証拠に、一幕僚功成りて万骨枯る、と申しておりました。われらのことを幕僚とは申しますまい。利位様の命懸けの策を、台無しにしたのは江戸の幕僚でございます」

「うむ、わしが早合点したのか。それにしても、小次郎も何時までも憤っておっては、そのやり場に困るだろう」

「頭の痛いのはそこでございます」

と泉石は応えた。思い悩んだ時の癖で視線を畳に落としている。

「小次郎はどうする積りだ?」

「はい、命を粗末にするな、と命じねばなりますまい」

泉石は漠然とした不安を口にし、更に付け加えた。

「江戸廻米の御達しが出たなら、小次郎の命を縮めましょう」

裏付けがある予測ではない。だが曖昧模糊とした勘が泉石を追い詰めた。一体、どのように対処すべきだろう?利位も暫し黙考した。薄薄同じような不安を抱いていたのだ。目を開けると真顔を泉石に向けた。

「そうであるなら、小次郎を城に戻すのがよかろう。もはや町には置けぬ、泉石、よいな?」

利位は当座の策を断じた。




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