第十五章 おせん清兵衛
第十五章 おせん清兵衛
大八車を塩田屋に戻し、曽根崎の裏長屋に帰った頃には、とっぷりと日も暮れていた。九尺二間の借家で、板戸を開けて入ったところが半畳足らずの土間で、上り框がそのまま板敷のひと間に続き、その中ほどに茣蓙が敷かれ小さな火鉢が据わっている。奥の隅には一組の布団が折り目正しく畳まれている。それが清兵衛の台所兼、居間兼、寝室と言うことになる。煤けた行燈に火を灯してごろりと寝ころんだ。目の上の天井には明かり取りと煙出しを兼ねた天窓があった。が、清兵衛は開けたことがなかった。慣れたとはいえ力仕事である、一日が終わると体の芯から疲れて着替えるのもおっくうになる。ましてや天満の親分さん連中に凄味を利かされた後だ。心中動転し、気分が優れず、このまま床に就こうかと思った。と、その時するすると表戸が開いた。
「思っていた通りや。ご飯も食べんと寝るの?」
弾んだ中年増の声が飛び込んできた。清兵衛に向けた目顔は優しくもあり心配そうでもある。せんと言う名で、同じ裏長屋の井戸端を挟んで三軒奥に、病で臥せたきりの母親、ゆきと住んでいる。若いころ一度嫁いだが、縁がなくて出戻りになったと本人から聞いている。それから八年、二十代も半ばを過ぎているが、肌がきめ細かく色白で動作がきびきびしている。
「ああ、なんだか面倒でな」
「あかん、あかん、そんなじゃ体にええ事ないよ」
遠慮なく上がると、火鉢に新しい炭を継ぎ足した。風呂敷から夕飯を取り出し箱膳に並べた。二人分ある。
「一緒しようと思うて、待ってたんや。お母はんは先に済ましはった」
茶をいれながら、ようやく清兵衛を見つめた。綺麗な目だ。初めて会った時、一目ぼれした女でもある。せんは天満の大川に面した料理茶屋で働いている。その店、浪花茶屋では『小菊』という名で働いていた。
清兵衛とせんが知り合ったのはつい半年前だった。若芽が淡く色づき出したばかりのさつきのことだった。せんが井戸端に行った時、近所の女房達が待ち受けていた。
「おせんちゃん、今度引っ越してきやはった男はん、独りみたいやね」
と女房の一人が意味ありげに目配せした。男は毎朝水汲みに来ると言うのだ。
「歳は取ってはるけど、なかなかええ男はんや」
と、もう一人が
「どこかのお侍はんやったのと違うかな。可哀想に、奥方はんに先立たれはったんやろうね」
と頭から決め込んだ。もう一人が
「なにかあったんやろう。そやないとこんな裏長屋に独りで住みはれへん」
「そう言えばチョッと暗い顔してはるなあ。せっかくの男前が台無しや」
「どこかで悪いことして、隠れんとあかんご身分になってはるのと違うかなあ」
「何言うてんねん。ひとを泥棒みたいにいうたらあかん」
「そやそや、借金踏み倒すため夜逃げせんとあかんのはお前はんの方と違うか」
と何時も以上に話は盛り上がった。せんは所帯云云と言う話になると、腰が引け、話題を避けたり変えたりしたものだった。だが、二十も半ばを過ぎて腹が据わってきた。
「そら、ええ人やったら、所帯持つのもええね。この辺ではうちだけが一人やから」と冗談口も叩けるようになった。「それに、口が軽うて調子ええだけの男はんは腹の底が見えへん」と珍しくせんにしては饒舌だった。だが、誰も本気で聞かない。何度も縁談を断っている間に、口年増の男嫌いで通っている。
「そうやね、わては、こぶも付いているし、焼き餅焼きの旦那までぶら下がっとる。おせんちゃんには勝てんわ」
と相手も軽く応酬した。そうなると他の女も黙っていない。
「当たり前やない、おせんちゃんはこの辺り一番の器量や。大年増で人一倍不細工なあんたとでは比べものにならんわ」
女房たちはこの手の話になると、いつも以上に活気を帯びて喧しくなるのだった。
それから間もない早朝だった。せんは水汲みに行き、噂の独りものに出会った。細身で、上背があり、男にしては色白で、控え目である。世間ずれしていなさそうな、見ようによっては頼りなさそうな中年男だ。井戸端で佇み、まるで何かを思案しているようだった。手には空の水桶がある。せんに気付き、体躯をずらせて水汲みの順番を譲った。と、その時、男の視線はせんに釘付けになったようだった。せんもドキリとした。どうしてだろうか?普段と異なった自分の感覚に戸惑った。それを解き放つように、思い切って話しかけた。
「こんなとこで遠慮してはると水汲めまへん。朝は混んでいる時が多いからね」
と、汲み上げた水を男の桶に入れてやった。声は心なしか弾んでいた。
「かたじけない、では、今度はわたしが汲もう」
男は綱を手繰って水を引き上げた。そして
「何杯の水が所望かな?」
と、せんを見つめ鷹揚に訊く。言葉付きや素振りから確かに町人になりたての元侍のようだった。聞いたことがない訛りである。
「おおきに、二杯もらいま」
明るく答えた女の面にほんのり赤みがさした。男は目を和らげた。
「承知した」
声に温かみがある。そうして相変わらずその目はせんに釘付けだった。
気が合う、合わないと言うのは自然な感情で、せんは初めて会った時からその男、清兵衛にときめきを覚えた。仕草一つ一つが胸に刻み込まれるようだった。何となく同じ時刻に井戸端に行くようになり、すると必ず清兵衛も水を汲みに現れる。時には清兵衛の方が先に来ていた。せんを待っていたのだろうか、手持無沙汰な様子で桶を片手に佇んでいた。そうして
「わたしが汲もうか」
と眩しそうにせんを見つめる。せんは
「おおきに」
と素直に好意を受け入れる。会えた途端にワクワクし、見つめられるとドギマギする。生まれて初めての感覚だ。
「なに、お安い御用だ。二杯だったかな?」
と男はぎこちなく微笑んだ。女は頬を染め思わず
「へえ、うちは、お母はんと二人暮らしやから、助かるわ」
と礼を言った。連れ合いが居ないことを、それとなく伝えた格好だ。
半月ほど経った時だった。月が替わり、せんの勤めは遅番から早番になった。早番の月は明け六つに店に向かい、帰りは暮れ六つにもどる。逆に遅番の月は、巳の刻四つからで帰りは戌の刻五つ過ぎとなる。早番の時の水汲みは、仕事から戻って夕飯を終えてからになる。だが、清兵衛は相変わらず朝、何時もの時刻に井戸端に行くのではないか。水汲みの時刻が変わるのを伝えたかったが、妙に気恥かしくて言い出せなかった。また、ある時は、まわりあわせが悪く、裏長屋一のお喋り女房がそばに居た。で、結局言いそびれてしまった。早番となり、水汲みは日がとっぷり暮れてからとなった。
清兵衛のいない井戸端は、せんの気持ちまで暗くした。考えなおせば、清兵衛の方は、せんのことをそれ程気に留めていないかも知れない。偶然何度か井戸端で会った中年増と言うだけの話なのだ。ましてや好き嫌いという感情が介在したはずもない、ちょっと水を汲んでもらっただけで舞い上がってしまった。結局自分の独りよがりだったのだろう。と、その時だった。井戸の三軒向こうの表戸がゆっくりと開いた。出てきた男が静かに歩み寄る。せんを覗き込むようにしている。確かめるまでもない、清兵衛だった。せんは弾む気持ちを抑えて言い訳した。
「今日からお店に行くのが早番になってしもうて。朝早く出掛けるので、水汲むのは帰ってからになりま。月ごとに変わるんやけどね」
「それでは、これからひと月は、おせんさんの水汲みは日が暮れてからになるのだね?」
「清兵衛はんに言おうと思うたんやけど、わざわざ言うのが恥ずかしゅうて」
「そうとは知らず、今朝は井戸端でうろたえたよ。結局水を汲まずに戻った。それで、こうしてまた来たのだが、会えてよかった」
「うちも」
とまで答えたが、あとは言葉にならなかった。
「それではこれからひと月、わたしの水汲みは夜のこの時刻だ」
せんの顔に、嬉しさの余りぱっと朱が差した。年甲斐もなく、また他愛もない感情だが、抑えることが出来なかった。実際、会えなかったなら胸に穴が開いたような気持ちを引きずっただろう。
「清兵衛はんは、お仕事は何をしていやはるの?」
「うん、お初天神のすぐ近くにある塩田屋という炭屋に奉公している。まだまだ半人前の手代だけどな、ようやく見つかった働き口だ」
清兵衛の歳で手代とは、やはり郷を追い出された元侍で、次男坊か三男坊だったのだろう。適当な入り婿の口が見つからなかった、いわゆる厄介叔父だったのだろうか。だが、そんなことは問題ではない。
「うちは通いの仲居やけど、堂島川沿いの浪花茶屋というのがお店だす。天神さんから近い川沿いにありま。お母はんが長患いで住み込みは無理、通わんとね」
「そりゃ大変だね。親父さんは?」
「十年ほど前に流行り病で亡くなってしもうて」
「わたしも色色あったが、郷には身寄りもなくてね、思い切って大坂に出て来たばかりの田舎者だ」
やはり食いはぐれた田舎侍だったのだ。
「うちは確かに一人やけど、本当のところは出戻り。ずっと前に嫁いだけど、それは、ひどい目に遭うてしもうて。でも、あの頃のことはお蔭はんですっかり忘れてしもうた」
「女手一つでお袋さんの看病もしているとは、りっぱだね」
「清兵衛はんも一人で大変やろう。うちに手伝えることあれば言うてな」
「そう言ってもらうだけでおおきに、独り暮らしだから」
清兵衛は使い慣れない大坂弁を交えて続けた。
「実はおせんさんのことも少しは知っている。あるおかみさんに『清兵衛はん、おせんちゃんは出戻りやけど、ほんとに気立てのいい娘や、おかしな虫も付いてへんからね』と教えてもらった」
「そしたら出戻りというのを知ってはったのや。ここの人は皆、人はいいけど、お喋りでお節介焼きやから」
せんはしかめ面を作ろうと頬を膨らませたが、思わず吹き出してしまった。
「しかし、おせんさんの月番のことは教えてもらわなかったなあ」
二人が会話らしい会話を交わしたのはその晩が初めてだった。次の日から話は少しずつ弾むようになった。せんが薄く化粧しだしたのも、その昔、父親に買ってもらった小粋な笄を髪に差すようになったのも、丁度その頃からである。清兵衛は、しかし、お互いに打ち解けて話すようになっても、大坂にやって来る前のことは口にしなかった。余程辛い出来事でもあったのだろうか。ひとそれぞれに事情があるからなあと、せんは独り合点した。
この二人はお似合いだねと、周りは勝手に決め込んだ。
だがここまで懇意になったのは、清兵衛の風邪が拗れたのがきっかけだった。清兵衛が裏長屋に引っ越してふた月も経たない頃だった。早番から再び遅番に代わり朝の水汲みに出かけたところ、清兵衛がヨロヨロと井戸端に近付いてきた。立っているのも難儀なようで、顔は熱でほてっている。
「どうしはったの?すごく赤い顔して、ふらふらやね、熱あるのと違う?」
「うむ、体が重くてお茶だけでも飲もうとしたのだが、こんな時に限って溜め置きの水が底をついていた」
かろうじて答える男の額に手をかざし、女は驚いた。
「これは、えらい熱や。汗搔いていやはるね。無理せんと、早う家に戻らんと。立っているのも辛そうやね。さあ、うちの肩につかまって」
「病気などしたことないのだが」
「なに言うてはるの、これは立派な病気や」
せんの介助を受けながら男はよれよれと家に戻ったが、上り框に座るのが精一杯だった。せんは急いで布団を敷いた。
「ご飯の支度くらいうちがやります、気遣わなくていいからね、今日は月に一度のお休みもろてる日です」
「済まないな。おせんさん、一つ頼まれてくれないか」
「ああ、おかゆ位なら直ぐに作りま」
「そうではない。曽根崎の塩田屋に行って、今日は休みを頂くと伝えて欲しい」
「当たり前やろう、そんな体で行かれたら店に迷惑をかけるだけや。おかゆを作ったら、すぐに塩田屋はんに言うておきま。心配せんとな、ゆっくりお休み」
高熱で朦朧とした男の耳に、せんの声が通ったかどうか定かでなかった。かゆを少し口にしたかと思うと、男は前後不覚で荒い息を出し始めた。せんは、父親の次に母親と、看病に慣れていた。が、落ち着きを失い体が震えた。自分の人生は上手く行きっこない、落とし穴がないか、と身構えるのが癖になっている。しかし、まさか清兵衛が病気で倒れ込むとは予期しなかった。
塩田屋に行き清兵衛が休むのを伝えると、番頭が奥に引っ込み、待つほどもなく主人の塩田屋喜兵衛が心配顔で現れた。手伝えることがあれば遠慮なく何なりと相談して欲しいと、予期外の申し入れを受けた。清兵衛はたかだか手代である。喜兵衛の気配りにかえって面食らった。挙句に医者を手配して貰った。父親の時にも薬師には世話になった。が、医者に掛かったことは一度もない。武内玄白と言う和漢医が往診し、高価そうな薬を調合してくれた。『熱が下がれば心配ない』という診断で少しは安堵した。
清兵衛はその日一日眠り続け、大量の汗をかいた。日も暮れた頃、目に見えて熱が下がりだし、ようやく眠りから覚めた。と、目の前に心配げなせんがいた。
「おせんさん。塩田屋に休むのを伝えて欲しい」
と弱弱しく清兵衛は頼んだ。
「随分汗をかきはったので、少しは熱が下がったね。塩田屋はんには二、三日休むとお願いしときました」
「わざわざ塩田屋に行ってくれたのか?」
「何言うてはるの?覚えてはれへんのね、あの熱で。寝入る前に塩田屋はんに連絡して欲しいと頼みはりました。塩田屋の旦那様に大変お世話になってしもうて、武内玄白さんというお医者様に来てもろうたよ。お蔭で、元気になってきやはった、よかった。これからは食べんとな、滋養のあるもん食べると病気は早く治りま」
額に載せた手拭いを冷水で絞り直しながら、せんはかいがいしく看護した。まだ体はだるそうで熱も少し籠っている。
「ずいぶん世話を掛けたな。おせんさん、もう大丈夫だから、帰ってもらって結構だ。礼はまた改めて」
「こんな時に遠慮は要らへんよ。それよりおかゆを温めるからね」
清兵衛が訊くと、ゆきのお晩も済ませたとのことだった。
「なあに、お母はんは一日中臥せているけど元気やから、それより清兵衛はんの方こそ早く元気になりはらんとね」
億劫ながら粥をすすったのまでは記憶がある。
「熱さえ下がったらな、これが飲み薬、あした一日分まであるよ」
せんの声が遠くで聞こえるようだった。その声に誘われたかのように再び意識が薄れた。目が覚めるとまだ外は暗かったが朝が来たようだ。雀がちっちっと鳴きはじめていた。近所で赤子のあやし声も聞こえ、井戸より水を汲み上げる、軋んだような音も聞こえた。上布団がかけられており、横にせんが添い寝していた。眠そうに目を擦り、おや、お目覚めかい、と艶のある微笑みを送ってきた。骨惜しみせず介抱してくれたのだろう。
「寝ていないのか?」
「いえ、適当に休ませてもらいました。清兵衛はんはよく寝たこと。でも、おかげで熱は引いたみたいやね」
上半身を起こして、上から手を伸べて清兵衛の額にかざした。意外と豊かな胸のふくらみが清兵衛の目の前で泳いだ。袖口から見える肘から奥の白い肌がまぶしかった。清兵衛の視線に気づくと、せんは目を丸くして清兵衛を見つめた。
「清兵衛はん、どこ見てはるの。元気やね。その調子やと大丈夫や、よかった」
「おせんさん、店に行く時間じゃないか?」
「心配せんでもええから。今まで一日も休まへんかったから、お店の方はお昼前に行けばええようになりました。そうそう、勝手にお布団に入ってしもうてごめんな。お布団が一枚しかないし、清兵衛はんの体が冷えるのはよくないと思うて、うちはおこた代わり」
「世話になりっぱなしだな」
「塩田屋はんを辞めさせられたら、大変や。これから浪花茶屋に行く前に、塩田屋はんにもう一回寄っておきま」
せんは昨日も天神筋で行き倒れに出くわした。三年続きの大凶作だ。当てもないのに仕事を求めて大坂の町に大勢の無宿人が集まる。だが、悪臭を放ちボロをまとった群れに仕事が回ることはない。店先をウロウロしようものなら、水を掛けられたり、こん棒で容赦なく追い払われたりするのが関の山だった。で、早晩行き倒れとなってしまう。屍を改めても一文の銭も持っていない。目の前の清兵衛は頼りなげで、蓄えがあるとも思えない。塩田屋を首になれば、もうお仕舞ではないか。
「旦那はんは本当にいい人で、清兵衛はんの具合を気遣うていやはった、『無理したらあきまへん、十分休みを取って』と言うてはった。いまどき、あんなにええ店他にありまへん。辞めはったらえらいこっちゃ」
いや、大変どころではない、働き口は見つからず、路頭に迷うのが目に見えるようだった。
「明日から仕事に出ますと、塩田屋はんに言うといてええかなぁ?」
せんは、冷気が入らぬよう夜具の端を丁寧に押さえながら訊いた。
「ああ、明日からは必ず行くと伝えておいて欲しい。ずいぶん楽になった。本当に助かった」
清兵衛はそう答えたが、休んでいるのを気に留めているように見えない。何を考えているのだろう?双眸はどこか遠くを見ているようだった。
一旦せんは自分の裏店に戻り、戻って来たときには握り飯と小皿を抱えていた。昼飯だろう。箱膳に仕舞って優しい目を清兵衛に送った。
「お昼は戻られへんから、これ食べてね。お薬はここに置いときま。食後に一服や。出来るだけ早う戻るから、養生してな」
余程疲れがたまっていたのだろうか、清兵衛はそれからまた深い眠りに陥った。ふと目が覚めた昼時には、言われた通り、握り飯を食べ、それからまた、海の底に沈みこむように寝入った。次に目が覚めた時には既に夕刻だった。ひと寝入り毎に回復するのが実感出来るようになった。と、せんが顔を覗かせたと思うと、鍋と椀を手に姿を消した。鍋は一つしかないのだ。次に現れた時には夕飯を持ってきた。味噌汁に、具沢山の煮ものと焼き魚、柔らかめの飯と、精一杯手をかけた料理だった。
「お酒はまだ辛抱しとかんとね、元気になってからや。明日から仕事やから、きょうは早く寝ないとな、これ最後の薬や、治ってきてよかったなぁ」
手際よく箱膳を片付けると、清兵衛が横になるのを手伝った。自分は当然のように同じ布団に体を滑り込ませた。
「おせんさん、昨日もこうして傍に居てくれたのかな?」
「そうや、一緒でおました」
上を向いた二人の肩と肩、腕と腕が、腰と腰も触れ合っている。
「そりゃ、惜しいことに、覚えていない」
と本音を漏らした。せんは素知らぬ風で、
「二人だと温かいなぁ。頭は冷やしても体は温めんとなぁ」
と医者の診立てのようなことを呟いた。
「そうだな、温かい、温かいよ」
せんが行燈の灯を落した。まるで十年前からそうであったように体を寄せ合ったまま一つ布団で寝た。間もなくせんの寝息が聞こえた。一昨夜来の看病疲れが出たのだろうか。熟睡している。清兵衛の方は体の芯が熱くなり、暫くは寝つけなかった。
朝起きると、せんは居なかった。一旦家に戻ったようで、すぐに鍋を抱えて顔を見せた。朝粥を食べながら清兵衛はせんに笑いかけた。
「おせんさん、昨日寝息を聞いたぞ」
「ええ?うち、鼾かいたりするの?」
「いや、鼾ではない。寝息だよ、静かな寝息だった」
「きのうは、うちもよう寝たみたいや。清兵衛はん本当に今日からお店に出はって大丈夫かな?」
「ああ、お蔭で元気になった。一昨日来、面倒を掛けっぱなしだったな。お母さんは、おゆきさんの方は大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。逆に清兵衛はんは元気になりはったかと、心配していやはりました」
「では、そろそろ出かけるか」
清兵衛が出かける時には、せんは清兵衛の裏長屋の戸口に立ち、無理せんとな、と真顔を覗かせた。いつ準備したのか、弁当を持たせてくれた。
「前から思ってたんやけど、清兵衛はんは外回りでしゃろう?力仕事やし、ちゃんと食べはらんとなぁ。お弁当、よかったら、これからも作りまひょか?」
「ありがたい、本当にありがたい」
と清兵衛は間をおかずに答え、せんの手を両掌で包んだ。そのまま指先に力を入れて痛くなるほど強く挟んだ。そして
「おせんさん、この長屋に来てよかった」
と耳元で囁いた。その声に屈託はなかった。仕事を休んだのに、まるで無頓着だった。塩田屋への気兼ねは無いのだろうか?
「清兵衛はん、塩田屋はんにはホントお世話になりました。あんばいお礼言うとかんとな」
と、男の背中に女の声が追い掛けてきた。
その晩、仕事を終えた清兵衛はせんを待った。独りで晩飯をすます気にならなかった。暫くするとせんが戸口に顔を覗かせた。何か包みと鍋、それに茶瓶まで両手で抱えていた。清兵衛の顔艶を確かめて一安心の風だった。
「清兵衛はん、元気が戻ってきたみたいやな。よかった」
旨そうな匂いが漂う。
「おせんさん、腹が減った」
世話をかけた上に今日は遠慮なかった。腹が空くのも元気になった証だ。せんはニッコリ笑顔を返した。この頃よく見せてくれる笑顔だ。
「待っててくれはったんやな。おおきに。そう思うて二人分作りました」
「手際がいいな。遅番から帰ったところだろう?」
「朝に下拵えしてま。手の込んだものやあれへんから。それに、お母はんが手伝うてくれはるから」
「それにしてもおせんさん、厄介を掛けたな」
清兵衛は漸く労った。
「困った時はお互い様、うちが好きでやったことやから、気にせんといてな」
二人は昔からそうだった風に一緒に箸をつけた。
「そうそう晩御飯も」
せんは今しがた思いついたように言葉を繋げた。
「当分うちが作った方がよさそうやな。清兵衛はんは病み上がりやし」
せんは片付けをして、いったん戻ったが、暫く間を置いてまた顔を見せた。先程と違い何か緊張が走ったような顔つきだった。せんは急くように
「キチンと食べはって、よく寝はるのが一番」
というが早いか寝支度を手伝った。清兵衛の返事を待っていなかった。一枚しかない布団を茣蓙の上から敷き、清兵衛が横になるのを手伝った。湯を使ったような肌の香りが横切った。
「いや、もう大丈夫だ。すっかり元気になった」
「そのようやね。もう安心」
と、口元を綻ばせ白い歯を覗かせた。そして丸行燈の灯を細くした。昨日みたいに布団の片隅に滑り込んだ。訊かれもしないのに、
「お母はんのご飯も済んだから」
と言うとあとは口をつぐんだ。布団の中で体が触れ合っている。静かに時が流れた。どれくらい経っただろうか。昨晩以上に今宵は寝つけなかった。相変わらず体の芯が熱くなった。二度三度とせんに気兼ねしながら寝返りを打った。
「暑いな」
と小さなため息をついた。と、せんが布団の中で清兵衛の方に体をくるりと回した。せんも寝ていなかったのだ。女の頬が薄明りに紅く染まり、男の首筋に近づいた。温みが伝わってきた。やおら清兵衛の手を乳房に導き押し抱いた。
「ふしだらと思わんといて」
と掠れた小声が続いた。先程まで大きく見開いていた瞼は閉じられている。清兵衛は一瞬たじろいだ。が、せんの気持ちは確かめるまでもない。くびれた腰に腕を廻し、しっかりと抱きしめた。いつしか腰ひもを解いた。はだけた胸にくちびるを這わせた。柔らかな盛り上がりが素直に震えた。腰や太ももが次第に伸びあがった。
「おせんさん」
と言ったものの、それ以上は言葉にならなかった。一つになりながら、こうなるのをお互いに待ち望んでいたと感じた。
その日から清兵衛とせんは朝夕の膳を一緒に囲んだ。『なに、二人分も三人分も作り始めたら一緒や』と事実せんは手際よく支度した。『そうだね、水を汲み上げる手間も二人分も三人分も同じことや』と清兵衛はこたえた。時にはゆきも交え三人で箱前を並べた。ゆきは体が不自由なので清兵衛が母娘の店に行くことになる。そんな時、ゆきに笑顔が蘇る。何年ぶり、いや、十年このかた見せたことが無かった笑顔だ。無論食事だけではない。次第に二人は体を合わせることも多くなった。さすがに母親のいるところでは気恥ずかしい。そういう時はせんが清兵衛の店へ行く。清兵衛とのそれは、生まれて初めての感覚だった。
「せんのあの時の声が大好きだ」
と清兵衛は喜んだ。が、せんには記憶がなかった。声だけの話ではない。
「爪を立ててくれるのもな」
と清兵衛は手の甲や腕を見せた。赤い爪筋が残っている。が、あの時は頭が空っぽになる。どのように時が流れたのか、せんは何も思い出せなかった。
それから暫く経った時のことである。
「お母はんが、早う清兵衛はんのところに行き、と言いはるんや」
裸の体を寄せたまま、せんが甘え声で続けた。
「うちらに気を使うて。そら、こんなこと、出来へんけどな、お母はんが同じ部屋に居てはったら。それでも別々に店を二つ借りるより、二部屋ある店に皆で住んだ方がええことない?」
と、せんは遠慮気味に切り出した。今日が初めての相談ではない、何度か同じような問いかけをしているのだった。
「うむ、そうだなあ」
清兵衛は生返事をするものの、この話になると歯切れが悪かった。
「家賃も別々やと勿体ないし、一つの所帯にした方が楽と違う?」
「そうやなあ」
と、今度は浪速言葉で答えた。相変わらず頼りなげである。手に持った団扇をくるくると回し、それをぼんやりと見つめている。何か別のことを考えているような顔付きである。
「急いて急かんような話やけど、清兵衛はんは忙しいし、浪速の町に慣れてはれへんやろう。うちが探してもええのやけどねえ」
控え目にもう一度問いかけたが、とうとう清兵衛は頭を縦に振らなかった。どころか、真顔をせんに向けて清兵衛は答えた。
「おせんさん、わたしはおせんさんと所帯を持つ値打ちがない男だ。面白味もないし、生れ付きの根暗だし。この根性が今更変わることはない」
清兵衛はそう打ち明けると口を閉ざした。それを聞いた途端、『嘘や』と、せんは直感した。理由は他にあるに違いない。何かわだかまりがあるのだろう。その為、せんにすら本当のところを言えないのだ。
将来の話をすると、清兵衛はいつもこの調子だった。清兵衛のせんへの気持ちに揺らぎがあるとは思わない。せんも同じだった。近頃ではどこで何をしていても、一息付けば清兵衛の影が脳裏をよぎる。一緒に居るだけで今まで味わったことのない安らぎを感じる。二人が、いや、ゆきと三人で一緒に住むのは良いことに決まっている。だが清兵衛には何か、誰にも知られたくない隠し事があるのではないか?最初にそう感じたのは清兵衛が風邪を拗らせた時だった。世は未曾有の大不況、長患いとなれば職を失うだろう。ぽっと出の田舎侍に情けは無用、代りを探すのに手間暇は要らない。ところが、清兵衛本人は無頓着に見えた。その一方で悪い夢でも見ていたのだろうか?真夜中にうなされたり、時には目を覚まして夜具の上に座り直したりした。どうしてだろうか?何か別のもっと大きな悩みを抱えているのだろうか?そうであれば、何故自分に打ち明けてくれないのか?出自を明かさないことといい、せんとの所帯を望まないことといい、考えれば考えるほど不安がつのった。
『一体、何でやろうか?』
せんは落ち着きを失った。
『清兵衛はんは、うちに心配かけたないのやろうか?』
そうであっても、清兵衛の悩みのもとが分からない。分からないだけに一層苦しくなる。
『それでも、うちは』
と思い直すうちに胸が一杯になる。
『お前はんと一緒にいたい。他には何にも要らん。もう独りでは生きとうない』
せんは清兵衛の横顔を見つめながら、生まれて初めてひとに恋したと感じていた。




