第十二章 東町奉行
第十二章 東町奉行
大坂のまつりごとは東町奉行と西町奉行が月番で役目に与る。大坂城京橋口は城の北に位置する。京橋口の東には寝屋川、北には大川が流れている。城を出て京橋口から外堀に沿って西へ進むと程なく東町奉行所に突き当たる。つまり、城に通じる唯一の陸路の防備を東町奉行所が固めていることになる。更に一町ほど西に進むと、天満橋が大川を横切っている。東町奉行所は京、大坂、大坂城を繋ぐ要に位置していた。
跡部山城守良弼、堺奉行より水無月に東町奉行に転任したばかりである。時の老中、水野忠邦の実弟であった。良弼の前には東町奉行所の立入与力、栗林隼人がかしこまっていた。さきほど下城したばかりである。つまり、権力者たる良弼の眼前に、配下の与力一人が正座しているだけの話である。遠慮も会釈も要らない。先ずはその立派な体躯で背伸びして大きな欠伸を一つした。やおら勿体を付け、
「ご城代の謦咳に接する役目、大儀であった」
と労った。その酒焼けした顔には、別状なければ早く切り上げたいと書いてある。
「利位様はご健勝であったか?」
答えが何であれ、右の耳から入って左の耳へ素通りし、いずこかに飛び去って行く。
「はっ、ご城代はご健勝であらせられました。何時ものことながら、鋭いご下問を賜りました。農産物の出来高、米相場、庶民の暮らし向き、市中の治安等についてお問い合わせがございました」
ふん、と言わんばかりに良弼は薄ら笑いを面に浮かべた。多少笑った位では二重あごの弛みは微動もしない。ぜんたい、城代自ら下問して?それでどうしようと言うのだ?側近に任せておけばよかろうに余計な詮索だ、と腹の中で呆れ返っている。
「なるほど、色町については何のお問い合わせもなかった訳だ」
と砕けた声音で皮肉を利かした。ついでに太った指で鼻毛を二、三本勢いよく引き抜いた。しかし、冗談であっても城代を茶化すのは程程にすべきだろう。口は禍の元というではないか。
「まあ、いい。万が一、町奉行についてのご下問があれば、隼人、分かっているな、よしなに答えるのだぞ」
と、目の前の『忠犬』に念押しした。自分に歯向かう懸念はない。が、犬には躾を忘れてはならない。
「それは、もう、重重承知申し上げてございます。立入与力とはいえ、終生東町奉行所にお仕えする身でございます」
額をピタリと畳にくっ付け隼人は忠誠を誓った。指で弾かれた鼻毛が宙を舞い隼人の髷に向かったのは知る術もなかった。普段なら、これで切り上げるところだった。が、良弼は、ふと不愉快な出来事を思い出した。つい最近の話である。眼前の忠犬とは正反対の厄介者が身近にいるのを思い知らされたのだった。
「隼人、与力や同心の皆が皆、そこもとのように立場を弁えておればよいのだが。中にはとんでもない輩もいる」
と顔をしかめた。
「そやつは誰のお蔭で碌を食んでいるのか分かっておらんのだ」
「それは情けのうございます、それがしより確と諌めねばなりますまい。若いものの中には未熟者も多く、その立ち居振る舞いに呆れ果てることもございます」
「ところが隼人、そやつはお前よりも年長者だ、家督を譲って隠居しているのだが」
「はて、どちらの家の者にございましょうか?」
「隠居して、与力町で私塾を開いておる。大塩某というてな」
「大塩平八郎中斎殿でございましょうか!」
「何とか洞、だったか、塾の名前は」
「はい、よく存じ上げております。洗心洞でございます。これは驚きました!偶然とはいえ、かくまで符号が一致するとは!大塩平八郎殿の儀、ご奉行からもお聞きするとは、思いがけぬことが続くものでございます。実はいずこからお聞きなされたのか、ご城代より洗心洞とはどのような私塾か、秘かに調べよ、油断なく見張れ、との仰せを賜りました。いえいえ、もう少し調査を尽くした後、ご報告申し上げる算段でございました。洗心洞と申せば、平八郎殿が隠居なさった後、おこされた私塾でございます。陽明学を軸に据え、よく賑わっていると聞き及びおります」
「まさに大塩平八郎だ。そやつが倅に取り次がせて、わしに上書を送りおった」
「何と、血迷ったこと!隠居の身をいかが心得ておるのでございましょうか!」
「上書の中で大塩は、江戸への廻米の御達しは断じて出すな、窮民のため豪商より義損金を拠出させよ、挙句に蔵米を窮民に配分せよと、好き放題の言い草だ。あれでは上書の体裁を整えた強訴だ。わしは公儀のご意向そのままに動いているだけだ。公儀とて斯様な大凶作が続かなければ無体なことはせん。が、まさに『背に腹は代えられん』事態になっておる。天下の状勢を見れば分からぬ筈が無い。ましてや大塩は元与力、隠居したとはいえ役人の片割れだったではないか。しかるに、あやつは『このまま無策でおれば天誅が下る』と放言の極み。おのれを何様と妄想しておるのだ。だが、平八郎が非難しているのは政事だけではない。最も激しく糾弾しているのは、お前たち与力や同心であるぞ。豪商と結託し、私利私欲を肥やすことしか考えておらぬ、腐りきっているので、直ちに厳正な監査が必要だとわめいておる。平八郎の雑言など聞く耳持たぬが、天明以来の大飢饉の最中だ。この太平の世の中、不満を煽り、ご政道を中傷するような言動は許せぬ。もう一度上書をしたためるようなら、厳しく処罰せねばならぬ」
「平八郎殿ならやりかねぬ話でございます」
「あやつは、ご城代にも上書を送ったのではあるまいか?あることないこと訴状仕立てで中傷しかねぬ」
「平八郎殿も元与力、倅の格之助殿もご奉行の許で碌を食んでおります。気でも狂わない限り、そのようなことはございますまい。ただ、ご城代は『火のないところに煙は立たぬ、騒動が起こってからでは遅いので、洗心洞には用心するように』と仰せられ、『良弼殿は先刻ご承知のことと存ずるが、念のため申し伝えよ』とのご下命でございました」
「うむ、それでは一旦あやつが事件を起こせば、わしにまで咎が及びかねんではないか。いったい平八郎は何を考えているのだ?どんな目論見で上書など送って来たのだ?」
「その性は唯我独尊、傲岸不遜で、思うように行かないと癇癪を起し、手が付けられなくなります。意見が合わないと正義を盾に相手を愚弄嘲笑、中庸の心得は欠片も持ち合わせておりません」
「ご政道をわきまえず、怪しからんが、えてして庶民の人気はそういう輩の方が高くなる。われわれはお国全体を考えて動かねばならぬ。大坂のことだけを考えて済むなら苦労はない。ご城代からおかしな情報が江戸表に流れる前に、わしからも兄上に報告しておこう。江戸への廻米に付いては正式に御達しを出した方が良さそうだ。わしの咎になっても困る」
「ご城代も『窮乏のおり、江戸への廻米が京、大坂の庶民の不満を煽らぬか』ご懸念されておられました」
「無論、不満は出るであろう。しかし、大坂の町民や百姓が直訴するとは思えん。そうであろう?天下の台所、大坂の繁栄は誰のお蔭だ?おのれの力で『天下の台所』になりえたと考えるなら、笑止千万、思い上がりも甚だしい。江戸表を主家とすれば大坂は犬のようなものだ。犬が本気で飼い主を噛むか?あきんどであれば得意のソロバン勘定で分かることだ。金目が全てのこの世間、狂犬でない限り、江戸表に歯向かうことなどあり得ぬ」
良弼にとり、江戸表に盾突くことなど天地が逆さまになるような事件で、絶対にありえなかった。
「仰せの通りでございます。そら、風水害だ、干ばつだ、地震だ、火事だと大騒ぎして、そのつど江戸への廻米が不足するようでは論外でございます。さすれば、その狂犬にだけは目を光らせておくべきでございましょう」
「そうだな、狂犬一匹が暴れても世の中びくともせん。しかし、治安を与る奉行の首くらいは吹っ飛ぶかもしれぬ。そうだ、隼人、そこもとが洗心洞の門下生になって怪しい動きがないか、内偵せよ」
「ご奉行のご下命でもそれだけは無理でございます。知る人ぞ知る、平八郎殿とそれがしはお互い遺恨を持っていると思われており、犬猿の仲と噂も立ってございます。それがしが急に陽明学を学ぶと言いましても、疑いの目を向けられるだけでございます」
「そうか、犬猿の仲であれば、大塩が狂犬であれば隼人の方は狂猿と言うことになるな。狂犬と狂猿が争えば面白そうなのに無理ということか。だが、本当に平八郎は何かをしでかすのか?」
良弼は急に真顔に戻って訊いた。
「ご懸念には及ばず、と申し上げたいところでございますが、そうは参りません。思い込んだら最後、平八郎殿は狂信的でございます。後先が覚束なくなってしまう御仁でございます」
「隼人、そこもとは相当、平八郎に恨みを持っているようだな、申し方に棘が感じられる。元を正せば、同じ与力仲間ではなかったのか?」
「跡部様、それがしの役目柄ご注進申し上げております。決して私怨があって申し上げているのではございません。しかし、一人の異端者が出ることで、奉行所全体が誤解を招くようでは由由しき問題でございます」
「誤解だけでは済まぬ。着任して間もないわしにまで累が及べば一大事だ。ご城代からすれば、立入与力のそこもと経由で、『町奉行に洗心洞の危険性は申し伝えた、然るに有効な手立てを講ずることを怠った』となるかも知れん。事あれば責任は全てわしに降り掛かって来るのだ。一人の狼藉者の為に、わしの行く末にも影を落としかねん。隼人、これは思った以上に厄介だ」




