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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第十一章 ヤン・ヘンドリック・ダップル

第十一章 ヤン・ヘンドリック・ダップル


 天保七年七月

 梅雨もそろそろ終わろうとしている。これから真夏日を迎えようとしている時期だった。ところが、まるで氷雨と見間違えるような雨が断続的に続いた。三年続きの冷夏が懸念された。


 ここは例の屋形船である。牧野小次郎が大坂の町中に潜んで以来、大坂城内で城代土井利位に会うことはなかった。商人の身なりの小次郎では目立ち過ぎる。とかくの噂が立ち、小次郎の安全が脅かされかねない。人目を避け、談合の場所は屋形船と決まっていた。ただ、今日は城代家老の鷹見泉石は居ない。

「小次郎、お前のあきんど姿もなかなか堂に入ってきたな」

「そう仰せの利位様も、いっときは坊主頭がお似合いでした」

二人だけなので小次郎も気楽に答えている。大坂城内西の丸庭園で催された野点以来、利位はかつらを被っていた。

「はっはっは、当分こいつの世話にならねばならぬ。が、暑苦しくて敵わぬ」

と、かつらを脱ぎ捨てた。外すと頭皮を短い髪が薄っすらと覆っている。

「しかし、まだ出家するほど人間ができておらぬ。江戸表や古河には病の治療のため頭を剃ったことにしておいた」

「わたしは逆に、町人姿に馴染んで参りました。もうこのまま一生この姿でも良いかと思います。裃など今となっては窮屈で気疲れしそうです」

小次郎の話ぶりには本気の程が匂った。目は利位をじっと見つめている。ふと、今の役目を全うしても小次郎は城に戻らないのではないか、という予感がよぎった。が、利位は素知らぬ素振りを通した。雨が止んでいる。上弦の月が、無数の白い短冊を敷きつめたように、川面を照らしている。

「そうは言っても町の暮らしでは不自由も多かろう。苦労を掛けるがあと暫くの辛抱だ」

「泉石様はいずこに?」

「一昨日より摂津、播磨に出向いておる」

「さようですか」

「支援隊受け入れの話だ。いざという時の段取りを詰めに行っておる。泉石は緻密だが、気遣いが過ぎるところがある」

「さようでございましょうか?わたしには思いも及ばぬお心配りをなさいます」

「ところで、お前の話では、洗心洞一派が最も危険な集団ということだったな?そうであろうが、表向きは私塾だ、しかも塾頭は大坂町人の信望が高い元与力だ。確たる証拠を掴まない限り、取り抑えることは出来ぬ」

「捕まえるどころか、侍たるもの、少しは見倣うべきと思います。わたしも改めて義とは何たるか、仁とは何たるかに思いをいたすようになりました。また百姓町人といえ、塾生の勤勉さや求道心には感服するばかりでございます」

「だが、誉めそやしてばかりもおれぬ。最も心すべき危険な一党であることに相違なかろう。これからどのように処すれば良いのだ?」

「はい、三つの策があるかと思われます。一つはわたしが従前どおりの筋で網を張ります」

「二つ目は?」

「武器、武具商の監視です。それらを納入できるあきんどは限られております」

「三つ目は?」

「内通者の手配りです。洗心洞の門下生には現役の与力、同心がおります。一時は大塩中斎殿のお考えに心動かされても、公儀に楯突くことは、余程の覚悟がない限り、ございますまい。妻子もおれば、日取りも決まり、いざ鎌倉となれば、中には返り忠する者も出て来ましょう」

「思い当たる門下生はいるか?」

「はい、東町奉行同心、平山某が門下生です。更に、同じく同心、吉見某」

「暫く泳がせて、時が来れば吐かせば良かろう。その役割は、東町奉行跡部良弼であろう。しかし、兄様奉行殿に出来るかな?それからもう一人、これは役に立ちそうなのがいる。大坂東町奉行所の与力、栗林隼人というのだが」

「栗林?洗心洞の門下生でございましょうか?」

「全く逆の立ち位置の人間だ。立入与力だが、私利私欲が先に立って栄達欲が強い。この役にうってつけだ。頃合いを見計らって栗林からそれら二名の同心に返り忠を促せばどうか、否応なかろう」

「はい、これら二名のご仁は腹が据わっておりません。大塩殿に殉じると思われません」

「ほかに、内通しそうな輩はいないのか、百姓や町人に?」

「それが、意外でございます。百姓、町人には見当たりません。陰日向なく勉学に勤しんでおります。義に生きようと念じており、自らの命を惜しむようには見えません」

「それでは侍と町人が逆ではないか。武士と言う名前だけを身に纏った人間と、仁義道を学ぼうとする人間とでは比べるべくもない。なさけない話だ。よし、これら三つの策を講ずることにいたそう。本来は全て奉行所の役目だ。が、兄様奉行からして、どうかな?務めを果たせなくとも恥とも思わぬのであろうか」

「いかにも、無いものねだりになるかと思われます」

「ところで小次郎、お前は抜き差しならなくなる前に、何とか思いとどまらせたいと言っていたな。その見込みはあるのか?」

「利位様、それが一番の気掛かりでございます。が、もはや説得は難しそうです」

と眉をひそめ、ため息をついて続けた。

「大塩殿は滅私奉公、翻意を期待できるご仁ではございません。しかし、大塩殿が翻意されないのは、今のご政道に原因があります。ご政道を改めない限り、例え洗心洞ご一党が立ち上がらなくとも、第二、第三の大塩殿が全国から輩出するでしょう。利位様ご自身ご承知の通りです」

「ならば、武家社会が変わるということか?」

「はい、それも予想以上に変わり目は早く来るように思われます。武家社会と言われましたが、本当の侍など大坂にはおりません、武家風の衣装を纏った輩なら、毎晩花街に出没しているようですが」

町人に変装し、大坂の町に身を置く間に、小次郎の考えは確信に変わった。江戸幕府は終焉を迎え、次世代の黎明の気配がついそこで待ち構えているようだった。

「ふむ、お前がそう考えておるのは承知だ。侍には相変わらず手厳しいな、小次郎」

と利位は笑った。このあと廻米に対する批判を口にだすのが何時もの小次郎である。が、そればかりは譲れない、利位にも廻米への思い入れがあるのだ。

「しかし、小次郎、お前に幾度となく申し伝えたな。大飢饉に遭って、天下泰平の根本が揺らいでおる。いま、江戸表に廻米無かりせば、天下泰平はあり得ぬ。先ず意を凝らすべきは安寧ではないか。最早、仁義と言う話ではない。善悪と言う話でもない。そのような議論であればお前にかなわぬ。だが、今は非常時だ」

爛爛と輝いた目を和らげて、幼なじみに静かに言葉を続けた。

「いつの世であれ、戦乱の犠牲となるのは、実は一番に庶民と決まっておる、侍ではない。今お前が潜んでいる周りにうじゃうじゃいる庶民だ。その庶民の平安な生活も廻米に掛かっている。わしは、そう考えてお役目に命を懸けておる。もとより私利私欲に目が眩んだ訳ではない」

小次郎にも主君の気持ちは痛い程分かっていた。野立ての時、武士たるものが頭を剃ったのだ。驚いたのは十人衆だけではない。家老の泉石や小次郎自身も驚愕した。だが、大坂の庶民の惨状は小次郎の想像を超えている。

「利位様、大坂には、この十日程ろくざま食い物を口に入れていない幼子がおります。一滴の乳も出ない母親の胸乳に弱弱しく貪りついている瀕死の赤子がおります。ご公儀の意向に沿うだけで、眼前の庶民の生き地獄に目を瞑ってよいものでしょうか?例え廻米が公儀の意向であったとしても、大塩殿の腑に落ちるとは思えません」

「またまた、大塩某の話か。小次郎、先程から洗心洞の話にかこつけて、お前自身の気持ちを訴えているのではないか?とどのつまり、お前にはこの利位の思いを受入れ難いということか?いやいや、政治というのは難しいものだ。掛かる大飢饉では、大義庶民を滅す、ということか?わしも城代など辞めて、大塩某になりたいものだ。そうすればお前の小言を聞かないで済みそうだ」

利位は皮肉っぽく笑った。そこまで言われると小次郎も二の句が継げなかった。


 すると、利位は目元を和らげ話題を変えた。

「ところで小次郎、早く国元に帰りたいな。大坂には飽き飽きした。帰って元の暮しに戻りたいものだ」

と利位は古賀を懐かしんだ。

「元の暮しと申しますと?」

「雪よ、雪。雪のそのまた結晶よ」

「ああ、さようでございましたな。ヤン・ヘンドリック・ダップル殿でございましたか」

「よく覚えているな。雪を観るには古河が勝っておる、大坂の牡丹雪は駄目だ」

ヤン・ヘンドリック・ダップル、これは古河藩家老、鷹見泉石の好んで使った雅号である。自然科学全般に興味を持ち、海外通の泉石は開国主義の論客でもあった。そういう泉石に啓発された利位は、何時か雪の結晶の研究にのめり込んだ。研究と言っても手順としては簡単である。降った雪を外気で冷やした黒い布で受け止め、顕微鏡で覗き込み、その結晶を図解する。雪が融けないように工夫を凝らし、一瞬の観察力が勝負である。それだけのことだが、根気と緻密さを要する研究だった。利位は毎年冬が来るのを嬉嬉として待ち、明日が降雪と予想されると興奮して夜も眠れない位だった。二十年に亘る研究の成果を『雪華図説』に纏めたのが天保三年のことだった。研究書としても高く評価されている。更には美しい雪の結晶は江戸庶民の間で雪華文様として様様な意匠に使われることになり、利位の官名を冠して大炊模樣と名付けられた。

「ヤンもそうだが、わしもお前も今時の武士には向いていないのだろう。わしは顕微鏡さえあれば、他に何も要らぬ。早く隠居して雪に埋もれて暮らしたい。小次郎、お前も大坂の暮しに飽きただろう」

『雪』の話になれば利位は饒舌になり楽しそうである。公の場ではそう行かないが、国元家老の泉石を、親しみを込めてヤンと呼んでいた。四書五経は小次郎が師、自然科学は泉石が師と口癖のように言い、事実、利位は心底そう思っていた。それが徳川譜代の名門、土井家の血筋に生まれたばかりに古河藩主となり、否応なく政治の世界に身を投じている。

「はい、大塩殿は武士の中の武士、選りに選ってその大塩殿の洗心洞を見張るのがわたしの役目です。情けなく、辛く感じることがございます。忸怩たる思いを払拭しかねます。素行を監視、監督せねばならないのは奉行所の面面です。わたしも早く、この役目を解いていただきたいものです」

「しかし、お前の場合は古河に帰っても何をするのだ?独り身だしな」

「いまさら所帯を持つわけにも参りません。千に一つも望みがある訳ではありませんが、実は、江戸の天文方に仕えるのが夢でした」

天文方の歴史は古く、設置されたのは貞享二年(一六八五年)である。そして初代天文職には、碁打ちとしても有名な、渋川晴海が任じられた。

「そういえば、長期の天候さえ読むことが出来れば、天災にも対応する術があると申していたな」

「はい、もともとは泉石様のお考えです。治水、灌漑、品種改良に加え、天候の長期予報が確かなものとなれば農政改革にも役立つと。それでわたしを江戸の天文方に派遣されたのです」

「うむ、そういうことがあったな。が、結局、大飢饉は予測できなかったのだ」

「ただ、予報だけの問題ではありません」

「というと?」

「はい、天文学を学ぶ間に、浅草天文台で望遠鏡なるものを何度か試す機会がございました。特別な遠眼鏡ですが、望遠鏡により、天体に様様な顔があることを始めて知りました。わたしの惹かれるのは、傾国傾城よりも、真っ暗な天空に輝く星です。時間の経つのも忘れ、いつまでも覗いていたくなります。不遜と思いますが、利位様の雪観測に似ているところがございます」

「眼鏡を通して、わしは小さな雪の結晶を、お前は大きな夜空を覗いてみたいとは、不思議な縁だな」

「利位様、天文方筆頭であらせられました高橋景保先生の事件をお聞き及びでございましょうか?」

「なんだ、改まって?」

「はい、景保先生はシーボルト事件に連座され文政十二年(一八二九年)に獄死なされました」

「ふむ、聞いたことがある。禁制品である伊能図をオランダに贈った罪人の主犯格だったな」

「はい、景保先生は天文全般に亘って深い知識をお持ちで、私のような弟子にも分け隔てなくお教えくださいました」

「それで予報よりも天体に興味を持つようになったというのか?小次郎、長期予報の勉強をしたいなら、もう一度江戸にやってもよい。合間に望遠鏡を覗こうと、それをとやかく言うものは居ないだろう。お前に合った役目かもしれんな」

利位は小次郎の意向次第では叶えてやりたかった。治安維持だの内偵だのは小次郎に似つかわしくなかった。ところが小次郎はかぶりを振った。

「これは道楽で、しかも、大坂でのお役がございます。結局見果てぬ夢になるかと思われます」

成り行き上、断念したように答えた。が、実のところ今の小次郎の夢は天文方になかった。確かに今までは天文方で勤めるのが夢だった。だが、大坂の下町に潜伏し、洗心洞に探りを入れている間に、ささやかな新しい夢を持つようになった。その為、致仕したいと考えるようになっている。そうとは知らず、利位は目に笑みを浮かべている。

「ああ、皆で古河に帰りたいな。そうそう小次郎、役目柄色色あろうが、用心に越したことはない。油断は禁物だ、命を粗末にするな」

利位はそう命じた。『命を粗末にするな』は話を打ち切る時の口癖になっている。利位にとって一番付き合いが長く深いのは、両親でも、血を分けた兄弟でも、家老の鷹見泉石でもない。目の前に控える近習だった。




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