第十章 出入り商人
第十章 出入り商人
ここ二、三年おかしな気象である。今年も既に梅雨に入っている。いかにも水を抱え込んだような湿気が肌を撫ぜる。が、雨にはならない。時として晩冬に戻ったかのような冷気が町を覆った。『降りそうで降らん、けったいな天気でんなあ』というのが浪速の町の挨拶になったくらいだ。
伝八が洗心洞に住込みとなって早や三月が経とうとしていた。伝八は十人ほどいる住み込み塾生でも特別な立場だった。住み込みは、通いの塾生以上に経費もかかる。五右衛門や他の住み込み塾生は月謝として纏めて支払っていた。伝八の場合、特別の計らいで授業料も食費代も免除された。その代わり洗心洞の雑役全般を請け負っている。その一番の仕事は洗心洞の賄いに掃除、仕入れと金銭管理、更には帳簿付けだった。
「伝八さん」
声がしたので振り向くと炭屋の清兵衛が通用口から入って来たところだった。炊事、風呂焚きは全て炭や薪を使用する。火鉢の暖も勿論炭火でとる。所帯が大きいだけに使う量も半端でなかった。数日で大俵の炭一俵と大束の薪を十把消費している。今日も二俵の炭を両肩に抱え持っていた。
「おや清兵衛はん、相変わらず精が出るねえ」
「まだまだ半人前ですが、炭や薪もようやく持ち運び出来るようになりました」
日焼けか、それとも炭の粉か、ニッコリ笑った汗まみれの清兵衛は、頭頂から足の甲まで黒光りしていた。
清兵衛が洗心洞に出入りし出したのは今年の春先だった。初めての日に、炭を担いでいた清兵衛は釣り合いを崩し、伝八の前で倒れてしまった。俵の口が裂けて炭が散乱した。当の清兵衛は額から血を流し、出入り口の柱に体をあずけ気を失いかけていた。思わず抱えたところ、清兵衛は薄目を開け、『今日の不始末は店に伝えないで欲しい』と懇願した。雇われたばかりで、炭俵も満足に扱えないようでは馘首されてしまうと言うのだった。清兵衛の胸元を見ると法被の下に白い肌が見え隠れした。陽の当たったところは水膨れ交じりで赤く腫れ上がっていた。体全体の骨格も細く、肉付きも貧相だった。力仕事には向いていそうもなかった。が、『せっかく見つけた働き口、今度こそ失いたくない』と訴える目元が必死で憐れでさえあった。素性を聞くまでもない、元は貧乏侍で、書物でも読んでおれば様になったであろう。力仕事の経験がないのは明らかだった。が、清兵衛なりの事情もあったのだろう。大坂に流れ込んで、ようやく仕事にありつけたのだ。そんな出会いだったので、伝八は何となく清兵衛が気掛かりだった。歳は三十半ばを過ぎている。しかも天涯孤独の身の上と聞いた。
「手前のような極道者が所帯を持つのは無理ですよ」
と、達観したかのように言う。伝八には当時、将来を約束したしのが居た。清兵衛の歳まで全くの独りというのは理解が及ばなかった。
「いやぁ、初めて会うた時は、えらい頼りなさ気やったからなあ。何時まで勤まるのやろうかと心配したよ。本当に良かったねえ」
「手前の腕をご覧下さい。最初は俵で擦り切れて生傷が絶えまへんでしたが、今ではこの通り。両肩を使い、二俵分の生木を担ぐコツも覚えました」
あやふやな浪速言葉を使いながら、それでも清兵衛は嬉しそうだった。確かに腕も太くなり、日焼けした皮膚は逞しく見えないでもない。受取に押印しながら伝八は目元を緩めた。
「頑張った甲斐があったなあ。三年続きの大飢饉で、この不景気や。あの時炭屋を辞めてたら他の職にありつけんかったかも知れへん。短気を起こさんで、辛いことがあっても続けるんやよ」
歳が遥かに下だが伝八は客の立場、気楽に喜びを伝えた。
「はい、おおきに。どんな仕事でも長続きしない情けない性分でおましたが、今回は何とか続けています」
「それが一番や、ひょっとすれば次の冬は景気がますます悪くなるかも知れへん。一生懸命働いても食うのに困るご時世やから、ましてや仕事を失えば大変や」
「でも、何時までこの不景気が続くのでしょうか、手前は独り身だから何とかなるでしょうけど」
「それやなあ、問題は。本物の侍はどこに居るんやろか?庶民が困窮しているというのに、今どきのお役人はんは私利を求めて大忙し、我が身の行く末に心を配るだけ。我欲を捨て、仁に生き、公に殉ずるのが侍やのにねえ、清兵衛はん、ホントおかしな話や」
五右衛門の影響だろうか、寡黙だった伝八も、最近ではいっぱしの口をきくのだった。しかも清兵衛は初端からの馴染みなので話し易い。
「こんな時こそ武士は食わねど高楊枝。貧に甘んじ、義の為に身を挺してこそ、あっぱれ武士。ところが施米など、したこともないし、する気もない。飽食に慣れ親しんで、好色自慢、庶民の窮状も見て見ん振り、聞く耳持つのは利権絡みの豪商相手の時だけ」
「伝八さん、そのように強く言われると、手前などはオロオロするだけです。お腹立ちも分かるけど、ならぬ堪忍するが堪忍、どうか自重なさって」
「清兵衛はん、世の中のことなら辛抱も出来ま。わてが本当に我慢でけへんのは」
伝八は自虐的に言葉を続けた。
「実はわて自身に対してなんだす。今何をすべきか分かっていないならまだしも、少しは世の中も見えておりま。見えていて何もしないなら尚更悪い。中斎先生もそう仰っておられま」
「洗心洞ではそんなことを学んでおられるのですか。炭を運んでいるだけの手前には、思いも付きません。頭が下がる思いがします」
「清兵衛はん、わてなど足元にも及ばない真のお侍が、洗心洞には沢山いやはりま。中斎先生ですら、何も出来ぬご自身への腹立ちのあまり、遂には胃をお壊しなされたくらいや。また腐敗した政道に激怒され、食されていた金頭をかみ砕かれたという噂もありま」
「伝八さん、手前は話を聞くばかりで、情けないことに、何のお役にも立てません」
「お武家はんをあげつらうだけでは話になりまへん。近い将来、知行合一を実践するのがわての望みだす」
「でも、物騒な世の中にならないよう、お祈りしたいものです」
「わては中斎先生のお考えのままに、その使い走りとなるだけだす。また、事に及んで冷静さを失わないように、もっと修業を重ねたいと思いま」
塾の掃除は伝八の役目である。他に洗心洞の雑用が引っ切り無しである。普段の唯一の息抜きが清兵衛との短い会話であった。
「でも、中斎先生は、いつ、何をなされるのでしょうか?お聞きしていて、たいそう不安になります」
「それはわても知りまへん。でも、いつかその日が来るやろう。そう考えて覚悟を決めました。それで、実はつい前のことやが、親には勘当を願い出て、許嫁とは破談したのです」
「なんと!」
「少し前に、論語の勉強をしている丁稚はんを見やはったな?あの丁稚はんは高津屋と言う米問屋の奉公人だす。高津屋は大店やけど、そこの一人娘と一度は将来を誓い合っていたのだす。破談しても未だに未練がましくなってしまうこともありま。高津屋と言う名前を聞いた時には本当にビックリした」
伝八は顔を青ざめたまま話を続けた。
「わては、片方で世間的な幸せを追い求めながら、片方で義に生きることが出来るほど器用やおまへん。煩悩に煩わされとうない。先生が決断される時、お供をしたいと思っていま。退路を断たんと進むことが出来んのは、わてが人一倍弱いからや」
「しかし、この広い世間、思うようにはなりません。綺麗ごとでもすみません。命を粗末になされないように頼みます」
「清兵衛はん、偉そうなこと言うたが、こうして話しながら、わては勉強のお浚いをしているのや。清兵衛はんの足を止めて悪いが、勘弁してな」
伝八は、清兵衛と話をするのが楽しみだった。清兵衛は寡黙だが聞き上手で、どことなく親しみを持てる。清兵衛は一日置き位にしか来ないので、来ない日は何となく張り合いがなくなる。伝八も今日は特別饒舌で、清兵衛が去るのを惜しむかのように話し込んだ。
「滅相もない、お話を聞くのを手前も楽しみにしております。ただ、こんな話をお役人様が聞けば仰天なさいます。伝八さん、誤解を招きませんよう、くれぐれもお気を付けなさってください」
「ご心配には及びまへん。誰彼となくこんな話をする訳やおまへん。それでもなあ、目の前で仰山の人が苦しんでいる時に、見て見ん振りは出来へん。わてはホンマに憶病だす。しかし、そろそろ覚悟を決めんとな」
洗心洞の勝手口から表に出て、清兵衛は伝八の話を思い返した。大塩平八郎が決起する時はそう遠くなさそうだった。門弟をざっと見渡すと、百姓と町人を合わせた人数は、武家人とほぼ同数だった。また年齢層も若い。決起すれば、百姓も加わるのか?今でも洗心洞を金銭面で支えているのは、百姓や町人たちである。塾生の中には大坂近辺の庄屋の子息もいた。暮らし向きには恵まれている庄屋、その中でも飛び切りの富裕層で、豪農と呼ぶに相応しい庄屋の子息もいた。特権階級とも言える彼らが、何に後押しされ洗心洞に加わったのか?翻って、覚悟とは具体的にどのようなものになるのか?そんなことを考えていると清兵衛の体に震えが走った。
清兵衛が与力町から西に向かい、谷町筋に入った時だった。通行人に混じり、地味な装いの若い女が南の方から近付いてきた。丁稚が付き添っている。際立った目鼻立ちで、病み上がりのように青ざめていた。丁稚にはどこかで会ったような覚えがした。清兵衛は大八車を引く手を休めた。土壁際に体を向け、ゆっくりと額や首筋の汗をぬぐった。清兵衛の背中を二人はすれ違っていく。
「宗太郎、お父はんには内緒ですよ。こっちの方に寄り道したというのではないよ」
宗太郎?ああ、この丁稚は洗心洞で論語を勉強していた子供ではないか?
「へえ、いとはん、大旦那はんにも大番頭はんにも言いまへん、ごあんしん」
そこで子供の声は遠ざかり、かき消えてしまった。間違いなかろう、背格好といい声音といい、あの時の丁稚だ。
『とすれば、これは高津屋信次郎の一人娘だろうか?確かその婚約者が伝八さんだった』
と、清兵衛は勘を働かせた。伝八は離縁したつもりでも、相手の娘には純な想いが強く残っていたのかも知れない。突然別れ話を持ち込まれても受け入れられなかったのだろう。そして伝八に逢いたい一心から、機会をこしらえ洗心洞近辺をうろついているのだ。
清兵衛は踵を返し、ほどよい距離をあけて二人のあとをつけた。二人は無防備に谷町筋を北に歩む。そして、二つ目の角を東に折れた。その先は川崎東照宮に突き当たり、与力町の洗心洞に続く。
『やはり伝八さんの婚約者だ』
清兵衛は暫し歩みを止め考え込んだ。




