サンライトリゾート編 第8話
「招待状をお持ちでなければ、お知り合いだと証明できるものをお見せいただければ結構です」
ルークは人差し指でつるを押し上げ、サングラスを掛け直した。そんなもの、あるはずがないとつぶやきながらも、フィリップは藁にもすがる思いを捨てきれなかった。
「電話番号、知ってる?」
「いいえ……」
(別れる前に、連絡先くらい交換しておけばよかった)その一文が、メリーの顔にはっきり書いてあるようだった。もう手はないのに、立ち去れずにいる彼女を見て、ルークは低い声で言葉を濁した。
「名刺ですとか、署名ですとか……」
頭の中で火花が散ったようなひらめきが、背筋を駆け抜けた。心地よく感電したように、背を向けかけていた身体が元へ戻る。
「あっ! 持っています!」
メリーは鞄を探り、フィリップのノートを取り出して開いた。筆記体のアルファベットが、整って並んでいた。
「こちらが、ジェリリン・サンライト様のサインです」
「そうだ、これがあった! おじさん、これならいいでしょう?」
「承知しました。どうぞ、お入りください」
「やったあ! さあ、行こう!」
名前を知らない方のボディーガードに文句をつけられる前にと、フィリップはメリーの手首をつかみ、会場へ駆け込んだ。坊ちゃまと呼ぶ相手の突然の疾走を楽しみながら、メリーは振り返り、ルークにウインクした。
(ありがとうございます、ボディーガードのおじさん)
ルークは、会釈で黙って応えた。自分の意思とは関係なく走らされながらも、メリーには、サングラスの奥に隠れた優しい眼差しが、かすかに見えた。
入場者も減り、二人の門番に暇ができた。細身のボディーガードが、数分前の騒ぎを話題にした。
「先輩、ばれたらグレイソンに怒られますよ? 正式な招待状でもないのに、勝手に入れたんですから」
「大丈夫だ。お嬢様のご友人だからな」
「あの性格の悪いジェリリンに、友達? 冗談でしょう。客役のバイトでも雇ったんですか?」
「余計なことを言うな」
「私があの子の担当だったときは、一週間で泣きついて、やっと替えてもらいましたよ。先輩はすごいですね。幼稚園の先生になるのが夢だったって聞いて、鼻で笑ったのは謝ります。はは」
「……」
どうにか中へ入れたメリーは、中世の平民が侯爵の城を見学するように、扉の隙間からは見えなかった飾りや、格の違う高級な服をまとった人々を、きょろきょろと眺めた。
(住む世界が違うって、こういうことなんだ。みんな現代の服なのに、一人として普通じゃない。舞台で演奏しているチェリストも優雅……。私、雰囲気に酔ってるのかな。テーブルにお酒の瓶がきちんと並んでいるだけで、素敵に見える! ドライアイスの煙のおかげで、不思議な庭園にいるみたい。舞台の一番上の、やたら大きなお祝いの横断幕は、ちょっと野暮ったいけど。このパーティーの仕上げを飾るものといえば……)
製菓事業の売上が黎明グループの総利益の九割を占めるという統計を裏づけるかのように、途方もない量の多種多様な菓子が、ずらりと並んでいた。いつの間にか隣から消えていたフィリップも、そこにいた。
「うわっ、これはハニーピーナッツのストロベリー・エディションかな? 今日のために特別に作ったんだね。売ってるのより赤いよ。おいしいなあ。ハニーピーナッツって、名前と違って蜂蜜の味はしないけど、この不思議な甘さが癖になるんだよね」
「坊ちゃま、ゆっくり召し上がってください。それより、そんな食べ方をされたら、私まで恥ずかしいんですが……」
三日も食べていない物乞いのような口元を、メリーは袖で擦り、苺のシロップを拭ってやった。子供をあやしている気分になる一方で、幼子のような彼の姿を、もう少し見ていたくもあった。
「ふう、餓死せずに済んだ。じゃあ、ゆっくり見て回ろうか。あっちのワインが、僕を呼んでるよ」
メリーの胸がうずき、先ほど機会を逃したグラスの触れ合う音が、頭の中で再生された。甘い雰囲気の中で、ロマンチックな大人の真似をしてみたかった彼女は、フィリップの腕に自分の腕を絡めようとした。
「あの、それなら、私も一緒に飲みます」
「駄目」
「私とは、乾杯したくないんですか……」
思いがけずきっぱり断られ、眉尻を下げた女子高校生を残し、フィリップは飲み物のテーブルへ軽い足取りで向かった。沈むようなチェロの音が、とりわけ物悲しく聞こえ始めた。この旋律を書いた作曲家は、捨てられたペットを慰めようと五線紙に向かったのだろう。メリーは、そんなことを考えた。
「君は未成年だから、代わりにこれにしよう」
十数秒後、戻ってきたフィリップは、オレンジ色の液体を入れたワイングラスを両手に持っていた。メリーは「そのつもりなら、早く言ってください、坊ちゃま」と、仲よく肩をこつんとぶつけた。にこりと笑い、グラスに鼻を近づけると、爽やかな果汁の香りがした。
(ん……愛情の香り)
二度ほど手首を回し、揺れる液面を眺めてから、目を閉じた。
(気が遠くなりそうなくらい、爽やか。売っているものも、こんなふうに作ってくれればいいのに。この日のために、特別に選んだ、とびきり甘いオレンジなんでしょうね)
ひと口味わうたび、有機栽培のオレンジの生命力が、心地よく少女の胃へ届いた。市販の着色料や人工甘味料に疲れた舌を、優しく慰めてくれる。喉を通ったあとにも余韻の残る酸味は、閉じたまぶたの裏に、新鮮な一滴のために働く農夫の姿を描くに十分だった。
「くううっ!」
もう一方からだった。工事現場の作業員が、きつい一日を終えて濁り酒を一杯あおったような声がした。食道まで凍りそうな冷たさと、一日の推奨量を超えたビタミンCの刺激を、声帯いっぱいに吐き出したフィリップは、空のグラスを頭の上で逆さに振った。
「一気飲み」
あまりに場違いな動きに、メリーは思わず笑った。そういうところも、嫌いではなかった。
「その、笑えもしない格好は何ですか? 庶民のユーモアですか?」
どこかで聞いた声とともに近づいてきたのは、広い肩と、勿忘草のように青い髪を持つ男だった。美しいという形容も、惜しくない。フィリップは頭の上のグラスを背後に隠し、口笛を吹き始めた。まるで漫画のひとこまだった。
「躾のなっていないジェリリンの相手をしてくれたのは感謝しますが、パーティーの品格まで落とさないでください。招かれざるお客様たち」
仰々しい登場だった。男は、そのすらりとした長身からフィリップを見下ろし、綺麗な大きい手を差し出した。
「改めて、ご挨拶しましょう。母に代わって保険会社を経営している、ドナルド・カルヴィンです」
まさに、御曹司。大企業の本物の御曹司を前に、フィリップは気圧された。世間知らずのお嬢様とは、明らかに違う。有能さが全身からにじむ人物だった。
「こ、こんにちは。フィリップといいます。僕は……」
ドナルドは、鋭く言葉を遮った。
「結構です。あなたのことは、もうわかりましたから」
「どういう意味ですか。名前を伝えただけですよ」
「握手もしました。振る舞いも見ましたし、声も聞きました。十分ではありませんか?」
フィリップには、相手の意図が読めなかった。笑うべきか、真顔でいるべきか。迷う間に頬が勝手に引きつり、顔が左右非対称になった。
ドナルドは、やれやれと首を振った。
「ああ、これだから無知は嫌なんですよ。僕の口から、いちいち説明しなければならないとは。一度しか言いませんから、よく聞いてください。その軽薄な振る舞いを見る限り、学問に造詣が深いとは思えません。たこ一つない綺麗な手から、僕と似た仕事かとも考えましたが、何度言っても話の通じない頭では、ホワイトカラーとは縁がないか、無職でしょう。名乗るときに緊張していたのは、人見知りか、上流階級に慣れていないかのどちらか。しかしコートの生地が安物なので、後者だとわかります。口からはオレンジに加えて、強いコーヒーの匂いがしました。それでも歯を磨いていないのですから、清潔さへの意識も知れます。あなたは、この場にふさわしくありません。せいぜい、人混みに紛れて入ってきた部外者でしょう。隣のメイド服の女性も、役になりきりすぎたコスプレイヤー。これで、答えになりましたか?」
フィリップは、何も言わなかった。確かに、自分は招かれていない客だった。相手のホームグラウンドで味方を期待するのも、お門違いだ。言い争いになれば、自分が追い出されるだけでなく、メリーにも火の粉が飛ぶ。大人らしく振る舞わなくては。
「ははは! 正解です! すごいですね」
苦しいときに笑える者が一流だ。どこかで聞いた格言を思い出し、彼は寛大な人間の仮面をかぶった。
(坊ちゃま……)
メリーは、スカートの裾を握り締めた。
フィリップの返答に続いて、ドナルドの隣にいた、メリーより指二関節分ほど背の低い少女が口を開いた。
「ふふっ、やっぱりお兄ちゃんって格好いい。どうやったのお?」
「カレン、このくらい、少しの観察力と常識があれば誰でもできるよ。太陽にわざわざ触らなくても、熱いとわかるのと同じさ」
「妹さんの、カレンさんですね」
フィリップは手を差し出した。カレンは小首をかしげながら、握手に応じた。
「手に汗をかいている。緊張している証拠ですね。それに、ドナルドさんの後ろに立っているところを見ると、初対面の人と接するのは苦手らしい。セーラーシャツを着ているのは、海軍に興味があるからでしょう。意外な魅力ですね」
「ええ、はずれ。手が汗ばんでるのは、ボウリングしてきたから。お兄ちゃんが先にこっちへ来たんだから、私が後ろにいるのは当然でしょ。別に、人が嫌いなわけじゃないよお。それに、このシャツは可愛いから買っただけ。軍隊に興味があるわけでもないんだけどお」
語尾を伸ばし、からかうように言われて、フィリップの顔はくたくたになった。そこで終わってくれればよかったのだが。
「猿が、一日二日で人間になれるとでも……」
皮肉たっぷりなドナルドの独り言に、メリーの目つきが厳しくなった。ハイヒールを履いても目線を合わせるには程遠い身長差だったが、ひるまず彼の前に立った。
「ちょっと。あなたがどれほど賢い方かは知りませんが、人としての礼儀くらい、守っていただけませんか」
「聞こえたのかい? 事実を言っただけだけど」
フィリップは、慌てて小声でメリーを止めた。
「僕は大丈夫だよ。こんな場所で騒ぎを起こしたら、危ないかもしれない。相手はジェリリンとは違う、本物の権力者なんだから」
「申し訳ありません。でも、たとえ魚の餌にされても、我慢できません。あなた、坊ちゃまにきちんと謝ってください。そうでなければ、絶対に許しません」
「許す、か。それは、上の者が下の者に情けをかけるときの言葉じゃなかったかな。意味くらいわかってから、口にしてほしいね。まったく、類は友を呼ぶというわけだ。愚かな庶民どもめ」
メリーは猫のような目でテーブルをじっと見ると、片方の口角を上げた。それからメイド服のポケットにある小銭入れを探り、手を引き抜いた。
「ドナルドさんは、人を無知だと言ってはばかりませんね。それなら、一つ勝負をしませんか。あなたがお好きな、知恵比べのゲームで」
「何だい?」
「ルールは、いたって簡単です……」
メリーは、オレンジジュースの入っていた空のワイングラスを逆さにして、テーブルへ置いた。そして、右の拳から親指と人差し指を伸ばし、つまんだ硬貨を見せた。
「ここに十セント硬貨があります。これを、何も持っていない左手でつかみます」
手品を披露するように、右手の中指、薬指、小指を開く。左手へ硬貨を移す仕草をしてから、水色のハンカチを取り出し、グラスにかぶせた。左手でハンカチの中央を台座の真ん中に合わせ、同時に右手で、テーブルへ届く両端の高さをそろえる。グラスが背の高いものだったため、透明な中身をすっかり隠すには布が足りないようにも見えたが、幸か不幸か、ぎりぎりで覆えた。
「何をするつもりだ?」
「そう急がないでください。ここからが本題です。このグラスの中に何もなかったことは、あなたも見ていたはず。私の左手には硬貨があります。そして、これを、こう!」
メリーは、逆さになって上を向いたワイングラスの台座へ、握っていた左手をぱっと開いて打ちつけた。
「ここで問題です。硬貨はハンカチの上にあるでしょうか。それとも、グラスの中にあるでしょうか? 外れたら、坊ちゃまに丁寧に謝ってください。当てたら、あなたの頭脳を認めて、愚かな庶民は会場を出ていきましょう」




