サンライトリゾート編 第9話 一万ドルのワイングラス勝負
「意味がわからないな。僕は、君たちに出ていけと言った覚えはない。そんなくだらない遊びに付き合う気もないよ」
「答えがわからないと、遠回しにおっしゃっているように聞こえますね」
「好きに思えばいい。僕は、生産性のあることしかしない主義でね。会社を経営していると、つまらないことに時間を奪われたくなくなるんだ」
「待ってください」
「悪いけど、もう興味がなくなった。行こう、カレン」
ドナルドが余裕を持って背を向けた途端、テーブルを強く叩く音とともに、凛とした声が会場に響き渡った。
「人を馬鹿にしておいて、逃げるのか!」
白い雲の上で演奏していたチェリストが、弓を止めた。朗らかだった人々の話し声が、彼女へ向かい始める。客たちは互いに顔を見合わせ、何のいさかいだろうと様子をうかがった。
(メリーの声?)
隅のテーブルで一人、菓子をもぐもぐ食べていたジェリリンは立ち上がり、声のした方を見た。メリーは片手を、中の見えない逆さのワイングラスに置き、もう片方の手でドナルドを指さしていた。いつの間にか、敬語は消えていた。
「頭がいいとか悪いとか以前に、ただの臆病者じゃない。人の無知を指摘するくせに、こんな簡単な謎ひとつ解けないなんて、口先だけなの? 違うというなら勝負してよ。自慢の観察力と常識でね」
首を一回りさせて骨を鳴らしたドナルドは、ゆっくり歩み寄った。額が触れそうなほど顔を近づけ、凄みのある表情で目を合わせた。
「そこまで言うなら、遊んであげよう」
「いいわ。早く選んで」
「ただし、その前に賭け金を上げる」
「何?」
「招待もされていないのに大声を出し、ほかの方々に迷惑をかけた。なら、負けたときの代償も大きくなるのが当然だろう。僕が当てたら、退場に加えて、一万ドル払ってもらおうか。いや、小銭入れなんかを持ち歩いているところを見ると、そんな金はないだろうね。それなら、足りない分は身体で払ってもらう。どうだい?」
高圧的に言い放つドナルド。それを聞いても、メリーは目をそらさなかった。
「坊ちゃま。本当に、ここはならず者の巣窟ですね。いくら会長の直系だといっても、女に身体で払えなんて、大勢の前でためらいもなく言うんですから」
フィリップの頭は混乱した。(何だ、この状況は? 今からでも止めるべきじゃないか?)ここは黎明の会長の八十歳を祝う会場。悪の組織の、ど真ん中だ。あんな言葉を平然と口にする相手では、メリーが危ない。それだけは防がなくては。だが、光の速さで駆け巡る思考とは裏腹に、舌はのろまな亀のように動かなかった。
嘲られたドナルドも、黙ってはいなかった。
「自分から始めておいて、何を言う。僕だって、悪役になりたいわけじゃない。今からでも頭を下げれば、寛大な心で、なかったことにしてあげようか」
「魂胆は見え見えよ、ドナルド! 今までも、そうやって脅して、不公平な契約でも取りつけてきたんでしょう。勝負を避けたがっているのは、どう見てもあなたじゃない。余計なことを言わずに選んで。十セントはグラスの中か、それともハンカチの上か! 常識だの知恵だのと言うほどのことですらないわ。硬貨がどこにあるかなんて、わかりきっているでしょう?」
メリーは、もう一度挑発した。彼女が坊ちゃまと呼ぶ男は、ぞくりと身を縮めた。数秒前に危険を感じたのとは違う冷たさが、ドライアイスの煙のように広がり、会場を満たしていく気がした。(メリーに、こんな一面があったなんて。さっきまで甘えん坊の妹だったのに、今は冷酷な勝負師に見える。僕のために、そこまでしなくても……)
「大丈夫ですよ、坊ちゃま。勝ちますから」
メリーはフィリップに、満面の笑みを向けた。「負けたら、君が……」と言うことさえ申し訳なくなるほど、勝利への揺るぎない信頼が伝わる笑顔だった。フィリップは、止めるのを諦めた。本当に、愛おしい瞳だった。
「カレン。僕が背を向けていた間、あの女が何か細工をした様子はあったかい?」
「ううん。ずっと見てたけど、あの姿勢のままだったよお」
カレンは、きらきらした目で勝負を待ち望んでいた。メリーが負ければ、身体で償わされる下卑た光景が見られる。兄が負ければ、恥をかく滑稽な姿が見られる。どちらに転んでも楽しそうで、口の端は耳まで上がっていた。刺激を求めて輝く瞳は、どちらの味方もしていなかった。ドナルドも、カレンが楽しみを何より優先する性格だと知っている。ただ、自分を陥れるために、嘘までつく妹ではないことも、よくわかっていた。
(なら、考えるまでもなくハンカチの上だ。テーブルを叩いたのは、人々の目を集め、僕の選択に圧力をかけるためか。何かの仕掛けで、硬貨がグラスの中に入っているかもしれない。そう疑わせて、当然の答えにさえ迷いを生じさせるつもりだな? 愚かな。そんな策が、僕に通じると思うのか)
「僕は……」
意地を張った子羊が、哀れに絶望する姿を目に焼きつけようと、続きを少し惜しんでみる。ゆっくり顎を動かし、ずっと背の低い少女を見下ろした。ところが、どうしたことか。見据えられていたのは、ほかならぬ自分だった。どこを取ってもか弱そうな身体と顔の中で、瞳だけが鋼のように強かった。錐のようなその目に突き刺されそうで、ドナルドは一歩下がった。
(僕の考えは、間違っていないはずだ。それなのに、あの燃える目は何だ。この威圧感は、どこから来る? まるで、僕が負けると確信しているような……待て、確信? 二者択一のゲームで必ず勝つ方法は……そうか。どちらにも正解がない、それだけだ)
「どうしたの、ドナルド? 難しいゲームではないはずだけど」
選択の岐路に立つ男は、急かす声に乗らず、状況を整理した。
(最初、女は右手の親指と人差し指で硬貨を持ち、左手に移した。一見、何気なく持ち替えただけに見えたが、あのとき妙に手品師めいた仕草をしていた。左の手のひらに直接載せるのではなく、右の二本の指の間から、左手で盗み取るような動きだった。そのとき、曲げていた右手の残りの指は、開かれていた。つまり、中指、薬指、小指が目隠し。左手につかむふりをして、親指と人差し指の間の硬貨を、右の手のひらへ落としたんだ。なるほど、勝ちを確信するわけだ。グラスの中にも、ハンカチの上にも、硬貨はないのだから!)
思考の馬車が、全速力で走る。その行き着く先は、真実か、虚構か。
(万一、あらかじめ手品の道具でも用意して、硬貨をグラスに通したのだとしても、テーブルに落ちる音がするはずだ。何も聞こえなかったということは、やはり両方にない。最初から、選択肢そのものが罠だったんだ。頭を使ったことは認めるよ、コスプレ女。好きな男の誇りを守るために立ち上がった度胸も、拍手に値する。だが、それも勝ってこそだ。大人の世界は、冷たいものなんだよ)
青年の想像の中で、硬貨は両手の間を行き来し、最後には消失という結論に至った。長く考え込むドナルドを前に、メリーは、彼の頭の中が見えるかのように、静かに自分の策を振り返った。
(ドナルド、あなたの観察眼なら、妙な手つきには気づいたはず。でも、残念ね。私はあのとき、硬貨を落としたりせず、正直に左手へ移したの。このゲームで本当に使った仕掛けは、小銭入れから十セントを二枚取り出したこと。あなたに見せた親指と人差し指の間の一枚とは別に、曲げたままだった三本の指にも、もう一枚が隠れていた。見せた硬貨を左手へ移してから、ハンカチをグラスにかぶせるとき、右手で視界を遮った。わざと一度で覆わず、きちんと隠すという口実で、ハンカチの中央を台座の真ん中へ置き直すふりをしたけど、同時に左手でグラスの脚を、気づかれない程度に傾けて、テーブルとの隙間を作ったの。そして、右手に隠していた硬貨を、音がしないようそっと置き、布の端の高さをそろえながら、その内側に隠れた指で軽く押し込んだ。硬貨一枚の厚さほど開いた、グラスとテーブルの隙間へ。たった五秒ほどだったけど、メイド服を着るようになってから、一番息の詰まる時間だった)
心臓が激しく打っていたあの瞬間を思い出すと、メリーのこめかみに、細かな冷や汗が浮かんだ。
(硬貨は、両方にある。たぶん、あなたは『どちらにもない』と答えて外すでしょう。でも、手つきを怪しまなかった場合に備えて、もう一重、罠を張っておいた。ハンカチの上だと答えたら、私はグラスを持ち上げ、すり抜けたように見える硬貨を見せて勝つ。グラスの中だと答えたら、ハンカチの上の硬貨を宙へ弾いて勝利を宣言し、注目をそちらへ向ける。その間に、ハンカチを片づけるふりをして、中の硬貨を回収する。あなたが何を選んでも、私が勝つ)
硬貨がガラスを通り抜けるはずはない。その常識を前に、二人は行動の跡をたどり、それぞれ自分の勝利を予感していた。そして、メリーはドナルドの一手先にいた。
(一見、必勝法に見えるけど、仕掛けを見抜く手がかりはあった。硬貨を取り出すとき、私が小銭入れを探ったという事実。一枚だけなら、手を入れて取り出せば済むから、探る必要なんてない。でも私は、同じ種類を二枚見つけるため、中を見ながら指でかき分けた。その千金にも値する一瞬に、何も気づかなかったのなら、中途半端な観察力で威張っていた、あなたの負けよ。
もっとも、無理もないけど。『勝負』を持ちかけるより先に、硬貨を取り出したのは、そのためだったんだから。先にゲームを提案したら、あなたは必ず、私の次の動きを注視する。手品師が未開封のトランプを用意しても、このあと不思議なことが起きると知っていれば、疑う観客がいるのと同じ。だから、ショーの宣言はあと。あなたが何も警戒していないうちに硬貨を見せて、弱点を隠したの)
時間が、ゆっくり流れていた。互いの策が渦巻いた二十秒ほどの間が終わり、ドナルドが口を開いた。
「よく知恵を絞ったけれど、残念だったね。正解は……」
舌先から言葉が飛び出す寸前、天井から、不気味にささやくような異様な音が、会場の隅々へ響いた。耳を塞ぐほど大きくはないが、神経を引っかく金属の摩擦音だった。突然の音に、緊張でこわばっていたメリーの手へ強く力が入り、グラスが割れた。
「いたっ……」
破片に刺されたメリーは顔をしかめ、反射的に手を離した。ハンカチの上の硬貨が見えると、ドナルドは拍子抜けした。
(仕掛けでも何でもなかったのか。考えた僕が馬鹿みたいだ)
天井の音が静まった。祝祭の空気に包まれているはずの大広間には、冷えたざわめきばかりが満ちていた。音の出どころは、舞台の上の装飾品だった。
「硬貨が見えてしまった以上、仕方ない。この勝負はなかったことにしよう。もう、時間の無駄はうんざりだ。破片を適当に片づけて、出ていくなり、好きにしたまえ」
メリーが呼び止める間もなく、ドナルドは悠々と席へ向かった。けれどカレンはついていかず、割れたグラスを覆う水色のハンカチに近づくと、人の日記を盗み見るように、そっと布をめくった。
「へえ、魔法使いなんだ。どうやったのお? あなた、名前は?」
「……メリー」
「姓は? 姓も教えてえ」
「ないわ」
痛む左手を押さえ、メリーは硬い声で答えた。優しく応じたかったが、驚きで跳ねた心臓を落ち着かせるだけでも精いっぱいだった。周りの人々と同じように顔を上げ、先ほど身をよじるような音を立てた、何かに取り憑かれたようなシャンデリアを見ると、蝋燭の火が消えていた。
「皆さん、ご無事ですか! 今、ものすごい音が!」
慌ただしく駆けてくる誰かの声。傷ついたメリーの手をさすっていたフィリップは、つい先ほど聞いた声に、入口へ目を向けた。
「無事でよかった。はあ、あのシャンデリア、見た目は豪華でも、かなり古いんです。事故でも起きたのかと……」
閉まっていた入口の扉を開け、膝に手をついて安堵の声を漏らす男は、グレイソン。今回の傘寿の祝宴を取り仕切る、会長の秘書だった。めでたい日が台無しになることを、よほど恐れたのだろう。息の出入りが激しかった。
「物も人も、年を取れば苦労するのは同じか。寂しいものだな」
いくつの年月を重ねたのか、見当もつかない新たな声がした。人々は、モーセの奇跡と呼んでもいいほど整然と道を開けた。杖をつき、悠々と歩いてくる老人。アーノルド・サンライトだった。




