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サンライトリゾート編 第10話

「手入れを怠ったせいで、錆びでもしたんだろう。大騒ぎすることはない。それより、こちらでテーブルを叩く音やら、ガラスの割れる音やらがしたもんでな」


アーノルドは、メリーが慎重に集めておいたワイングラスの破片に目をやった。


「すみません。すみません。申し訳ありません!」


目をつけられたら、残りの人生が険しくなる。フィリップは折り畳み式の携帯電話のように腰を折っては伸ばし、矢継ぎ早に謝った。額を何度も膝にぶつけ、痣ができそうな勢いだ。頭を上下に振りすぎて舌がもつれると、別の謝罪を口にした。『僕が悪かったです』『恐縮の至りです』『どうかお許しください』。ただし、『死んでお詫びします』だけは言わなかった。本当に償わされそうだったからだ。


「構わんよ。叱りに来たわけじゃない。それにしても、ずいぶん若いようだが、お前にも息子や娘がいたのか?」


アーノルドは杖でグレイソンを軽くつついた。


「いいえ、会長。子どもどころか、ここ数年は恋人もおりませんが……」


「そうか? お前の子でもないなら、ヘンリーがわしに黙って養子でも取ったのか? あいつの性格じゃ、そんなはずはないな。招待状は持っているかね?」


いいえと答えた瞬間、首が飛びそうな恐怖がフィリップの舌を引き裂いた。メリーは刺した手を押さえて腰をかがめ、顔を上げられずにいた。「申し訳ありません!」。それはフィリップに向けた言葉だった。


「答えを聞くまでもなさそうだな。では、お前さんたちは何者だ? グレイソン、親しい者だけで誕生日を祝いたいと、確かに言っておいたはずだが」


「面目ありません、会長。入場の際に紛れ込んだ者たちのようです。警備の連中、一体どんな仕事をしているんだ」


そのときだった。人混みの中からワイングラス勝負を見ていたジェリリンが、叱責に割って入った。


「おじいさま、その人たちは私の……」


ジェリリンは、口にするにはあまりにも馴染みのないその言葉を、簡単には言えなかった。アーノルドは、何をぐずぐずしているのかという目を向けた。


「お前の、何だ?」


「知り合いです。余分な招待状がなくて渡せなかったんですけど、私と一緒に入りました」


「おお、そうか。知り合いか、いいことだ。ジェリリン、人脈は広くなければ成功できんからな。何事かと思ったぞ。さあ、茶菓子はこの辺にして、誕生日のケーキだ! 毎年生クリームだったのに、今年は特別に真っ黒なダークチョコレートを用意するとは、グレイソンも気が利く。お前たちも好きだろう? 甘いものはうまいからな」


会長には、『だったら本人たちがそう言えばよかったのに』と思う気配さえなかった。とても八十歳とは思えないはしゃぎように、フィリップは、年を取るといつからか子どもに戻るという話を思い出した。


会長は舞台へ向かった。メリーとフィリップはドライアイスの雲を横切り、ジェリリンの家族がいる丸テーブルに、れっきとした客として腰を下ろした。


「ふう、おかげで助かりました。寿命が十年は縮むかと思いましたよ」


「別に、あんたたちのためじゃないから」


「それでも、ありがとうございます。ジェリリン様」


「これで借りは返したわ。言っておくけど、こんなことは二度とないからね」


ジェリリンはわざときつく言って距離を置いた。ツインテールが揺れるほど顔を背けなければ、決意が崩れてしまいそうだったのだろうか。ごく自然に隣へ座った二人に、目もくれなかった。ハロルドとヒルダ夫人は二人と名乗り合って挨拶した。助けてもらったのがよほど嬉しかったのか、メリーとフィリップは諦めずに話しかけ続けたが、ジェリリンは返事をしなかった。


***


午後六時半、全員がテーブルに着いた。グレイソンが司会を務め、今日の主役を舞台へ上げる。まばらな拍手が聞こえてきた。メリーは、映画館で長々と広告を見せられたあと、ようやく客席が暗くなったときのような気分になった。


「坊ちゃま、いよいよ始まるみたいですね」


「そうだね。有名な歌手もたくさん来ていそうだ」


会長はグレイソンに支えられ、舞台中央へ向かった。秘書はマイクスタンドを縮め、会長の背丈に合わせた。


アーノルドは一人ひとりと目を合わせながら、人生の黄昏の幕を開けた。


「皆、来てくれて感謝する。年寄りの誕生日を祝うために、島まで足を運ぶのもひと苦労だったろう。一人残らず、ありがたい人ばかりだ。グレイソンという秘書がいなければ、わしはろくに車の運転もできん。ペリーという弁護士がいなければ、会社は労組に潰されていただろう。アダムというゴルフ講師、いや、わしの友がいなければ、孤独のあまり、今日のような宴を開く前に死んでいたかもしれん。だから今日は、わしではなく、わしのために尽くしてくれた皆を祝福したい。時間がなくて、一人ひとりの名を挙げられんのが申し訳ないのう」


場の空気が、にわかに重くなった。


「お父様! もっと正直に話してくださいな。ここにいる人はみんな、お父様がそんな性格じゃないって知ってるんですから」


長女のサニー・カルヴィンが空気を変えようと大声を上げると、あちこちで笑いが弾けた。よほど鬱憤が溜まっているのだろうか。しかし、それだけ会長と近しいという証でもあった。アーノルドは毎年、自慢と毒舌で埋め尽くされた演説をしてきた。今年はことさら体が重く、これが最後かもしれないと思って口調を変えたが、やはり似合わなかったようだ。


「ばれてしまったか。ならば、口先だけの言葉はやめて、そろそろわしの圧倒的な成功の秘訣を教えてやるとするか。好き嫌いはともかく、誰かには黎明の未来を任せるのだからな」


日に日に老いてゆく会長に、毒気に満ちた昔の姿が覗くと、客席から盛大な口笛と歓声が上がった。


「人間は金を使うとき、いつも失敗を恐れるものだ。投資をするときも、賭け事をするときも、果ては初めての料理を注文するときでさえ、そうだ。わしの成功は、それを超える強烈な信念――『失敗したって構うものか』から始まった。わしは子どもの頃、甘いものが好きだった。煎餅を作りたくて小麦粉を買い、台所を滅茶苦茶にしたものだ。それでも、家族や友人がうまいと言ってくれたときの、胸の高鳴り! あのとき、この道が天職だと確信した。口元に菓子屑をつけながら、むしゃむしゃと平らげる、あの素晴らしい光景をもう一度見たくて、何度でも生地をこね、クッキーを焼いた。手作りのチョコレートで初恋の相手に告白したときなど、振られたことより、食べてもらえなかったことのほうが悲しかったほどだ。菓子との固い縁の前には、障害などなかった。金を捨てる覚悟で、食べる者の笑顔だけを求めたからだ。わしは、心臓が張り裂けそうなその信念を大人になるまで持ち続け、ついに製菓会社、黎明を立ち上げた。そして、身を削るような試行錯誤の末に生まれたのだ。老若男女を虜にする究極のスナック、ハニーピーナッツが!」


「おお! さすがです、会長!」


エジソンは電球を発明するまでに千回失敗したという話だったか。ついにフィラメントに明かりが灯る伝記のページをめくった小学生のように、客席の反応は熱かった。


「楽しかった。青春を燃やした若い日々が懐かしい。お前たちも時間を大切にしろ。老人とひと口に言っても、皆同じではない。七十と八十では、天と地ほども違う。こんなことは言いたくないが、今では遊ぶことさえしんどくなった。毎日のようにやっているゴルフも、クラブが重い。若者についていこうと覚えたインターネットも、やたらとエラーばかりで複雑だ。認知症予防にいいという花札のゴーストップも、もう面白くない」


再び客席が静まった。『会長、そんなことをおっしゃらないでください!』という声でも期待していたのだろうか。反応の乏しさに、アーノルドは照れ隠しの笑みを浮かべて付け加えた。


「すまん、取り留めのない話になった。まるきり冗談というわけでもないんだ。近頃は体が思うように動かんでな。謎を出して、解いてくれる者が現れるのを待つのが生きがいになっている。これだけは飽きが来なくて、やめられんのだ。ああ、そうだ。今日は新たに箱が開いた、めでたい日だったな。記念に一問出そうか。グレイソン、今日は何曜日だ?」


「金曜日です、会長」


「では、フライデーのFにしよう。お前たちの望むFは何だ? 正解はないから、気楽に答えなさい。飾らぬ考えが聞きたいのだ」


「F?」


テーブルのあちこちから、語尾の上がった疑問符つきのFが飛び出した。なかなか話が進まないので、会長の謎解き遊びに何度か付き合ったことのあるヘンリーが、口火を切った。


「父さん、私の望みはフリーダムです。新薬の開発で忙しすぎるので、休みたいんです。今の父さんを前に、体が昔のようには動かないとも言いにくいですが、日に日に衰えていくのだから仕方ないでしょう。仕事中毒から抜け出して、やりたいことをやりながら、自由に暮らしたいですね」


本音だった。サニーも質問の趣旨を掴み、口を開いた。他の社員たちにもそれぞれのFは浮かんでいたが、直系の家族が席を立ったので、発言を譲ったようだった。


「私のFはフィアンセです。あの人を見送ってから、もうずいぶん経ちますし、新しい男性と本当の愛を育みたいんですもの。男の人がもっと寄ってきてもよさそうなのに、どうしてお金だけ持って逃げちゃうのかしら」


舞台の下には愛想笑いをする者もいたが、会長は呆れた顔を隠さなかった。会長の長男であり、製菓会社の社長でもあるハロルドの脳裏に、ある考えが浮かんだ。


(父さんはこの謎かけで、トップになる資質を探っているんだ!)


ここでの模範的なFは何だろう。今まで父の謎など見向きもしなかったが、今ばかりはスフィンクスの謎かけだった。ハロルドは頭の中で台詞を反芻してから、大仰に語り始めた。


「私は、会長が血と汗を流して築かれた黎明だけを、ひたすら愛しております。そして会社の繁栄こそが、我が国の繁栄であると信じて疑いません。ですから、私が切に望むFはファクトリーです。アデンマンの国民に、父の作品をもっと広く味わってもらえるよう、さらに事業を拡大したいと思います」


(これで決まりだ。遊びたいだの、男と付き合いたいだのと言う子どもに、会長の座を譲りたいはずがない)


ところがアーノルドの反応は、期待外れだった。


「工場をたくさん建てると、環境汚染が起きるだろうに……」


(何だと? 父さんは一体、正気なのか。環境汚染の心配なら、科学者がしていれば十分じゃないか!)


その後もさまざまな答えが飛び交ったが、会長の心にぴったりくる言葉は聞こえてこなかった。


「もうないか? では、この辺で終わりに……ああ! そうだ、今日、箱を開けたジェリリンの答えを聞かんわけにはいかんな」


大半の者は、その箱が何を意味するのか、どんな碑文だったのかにもさして関心がなく、ただジェリリンを持ち上げるだけの言葉が、熱のこもらない声でいくつか聞こえた。だが、ドナルドだけは……。


(適当に当てたのか? いや。箱を開けたとしても、おじいさまの求める解き方を示さなければ、正解とは認めてもらえない。本当にあいつが解いたのか?)


ジェリリンは席を立った。


「私のFは……」


言葉が出なかった。「私のFは、私のFは……」。そう繰り返す姿を見て、メリーの胸中は複雑になった。ジェリリンの行き場を失った視線が床に落ち、奥歯に力がこもった。


(どうしてラミスの顔が浮かぶの。忘れようって決めたじゃない)


ジェリリンは目をきつく閉じ、幻を消した。ぐずぐずするな、というアーノルドの言葉が飛び出しかけたとき、彼女はテーブルを叩き、テーブルクロスを握りしめた。


「FUN! 楽しさです! 最近は何をしても退屈で、生きている気がしないんです。学校で何のために勉強しているのかもわからないし、話しかけてくる連中はみんなお金目当て。つまらないんです。退屈な暮らしを目覚めさせてくれる楽しさ、倦怠を忘れさせてくれる刺激が欲しいんです!」


(ジェリリン、あれほど気をつけろと言ったのに!)


ハロルドは熱くなった額に手のひらを当てた。だが会長は歯茎を大きく見せ、どこか貪欲にも見える笑みを浮かべた。


「うひひっ。やっといい答えが出た。間違いなく、わしの孫娘だ! 何をしても、まるで心が動かん。そうとも。謎かけは、これだから面白い」


『正解はない』が嘘だったとわかるほどの満足が、その顔に滲んでいた。秘書が、入れ歯の隙間から垂れる唾液を拭ってやった。


(ああ、よくやった、我が娘! さすが私の娘だ!)


ハロルドは、浮き上がりそうになる腰を押さえた。客席から拍手が起こり、場が明るくなった。ジェリリンは座らずに質問した。


「おじいさま、あの謎を解いたら大切なものをくださると言っていましたけど、どんなものなんですか?」


アーノルドは笑いを収め、先ほどとは質の違う、微妙な笑みを浮かべた。


「ジェリリン、石板にも書いておいたが、大切なものは禁じられた道路の空にある。お前は箱を開けただけで、本当の謎は解いておらんのだ。その一文に隠された意味を見抜く、並外れた者にこそ、わしの大切なものをやる。とはいえ、箱を開けただけでも、お前の頭が使い物になる証だ。精いっぱい励んで、この祖父を喜ばせておくれ」


「会長、そろそろお時間が……」


グレイソンがアーノルドの耳元で囁いた。会長はマイクから口を離して言った。


「お喋りが過ぎたな。せっかくのお客様に、年寄りの長話ばかり見せるわけにはいかん。予定どおり進めてくれ」


招待された芸能人による公演に先立ち、街のランドマークにしてもよさそうなチョコレートケーキが、その巨大な姿を現した。他の客と同じく、思わず口が開いたフィリップは、エッフェル塔でも見上げたような感想を漏らした。


「何度見ても、すごい大きさだね。大きすぎて、てっぺんがお祝いの横断幕に隠れちゃってる。全部食べられるのかな?」


「普通は長い蝋燭と短い蝋燭を組み合わせて、誕生日ケーキに年齢を表しますよね。同じように、ケーキの段の数で八十歳を表しているみたいです。蝋燭は太いものが一本だけ、いちばん上に立っていますよ」


メリーは舞台のほうへ顔を寄せ、横断幕の後ろに隠れた蝋燭を見た。


「本当だ。八段のケーキなんだね」


従業員が運んできたチョコレートケーキは舞台の中央へ移され、ステージ照明に強く照らされた。最前列にいたメリーは、対向車線からハイビームで走ってくるトラックでも見たように、目を細めた。


(うわ、何これ。お金持ちって、みんなこんなふうに誕生日を祝うの?)


グレイソンは記念撮影のため、会長がケーキに隠れないよう立ち位置を案内した。アーノルドは指でVサインを作り、マイクに口を寄せた。


「何をしている。お祝いの歌だ! ハッピーバースデー・トゥー・ユー。皆、知っているだろう?」


とんがり帽子でも被せれば、まるで小学生だった。アーノルドの注文に皆がためらっていると、愛社精神に満ちた社交的な社員が、手拍子でリズムを取りながら歌い出した。


ハッピーバースデー・トゥー・ユー♪


皆、その先陣に続いて、会長のための合唱に加わった。ぎこちなく始まった歌声はかなり大きくなり、荘厳にさえ聞こえた。


ハッピーバースデー・トゥー・ユー♪


だが、その中でただ一人、メリーだけは違った。正体の知れない違和感がステージを包んでいる。どうしても納得のいかない状況を感じ取っていた。


(おかしい。ただ変わったやり方というだけにしては、お祝いの根本が揺らいでいるような……)


ハッピーバースデー、ディア会長♪


(やっぱり何かがおかしい。これを誕生日パーティーと呼べるの?)


ハッピーバースデー・トゥー・ユー♪


手を叩いて、クライマックスを飾るはずの一節だった。シャンデリアが吊り具から外れ、一瞬で崩れ落ちる。十数分前の、悲鳴のような金属音は、断末魔の叫びすら上げられなかったアーノルドの代わりだったのだろうか。悪夢の夜が始まった。

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