サンライトリゾート編 第11話
阿鼻叫喚という四字熟語は、この瞬間のために生まれたのではないか。背を丸めて立っていたアーノルドのうなじの下に、シャンデリアが落下した。周囲にはチョコレートが飛び散り、赤黒い水溜まりができていた。誰の目にも即死とわかる凄惨な光景に、人々は口を覆う者と、席を蹴って舞台へ走る者に分かれた。
「会長!」
「父さん!」
変わり果てた遺体が答えるはずもない。誰もが胸の片隅ではわかっていながら、口から飛び出す無意味な呼び声を抑えられなかった。宴会場には悲鳴とすすり泣きが満ちた。誕生日が命日になってしまった悲劇を前に、現実を受け入れられない者もいた。
「そんな、誰か助けてください! 会長が……早く、血を止めないと……」
グレイソンは熱い嗚咽を飲み込み、ずたずたになった老人の頭を抱え、四方を見回して叫んだ。
「皆さん、何をしているんです! 会長が血を流しているんですよ!」
獣のような咆哮が、衝撃にざわめく声を圧倒した。何人かがテーブルのナプキンを持ってきた。秘書は震える手で、去りゆく命を引き留めようと、ひたすら大きな傷を押さえた。だが、壊れた蛇口のように赤いものが噴き出し、舞台は地獄のような血の海になった。
時間は過ぎてゆく。もはや救命の余地もない亡骸を抱き、動かない心臓を叩く。心肺蘇生とは、これほど虚しいものなのか。汗まみれのグレイソンは諦めず、数を数えながら十数分も老人の胸を押し、潰すように圧迫し続けた。それでも、肺の上の皮膚に落ちるのは、涙と荒い息ばかりだった。幻想の中で命を吹き込む者を、あえて止める者はいなかった。だが、見るに見かねたドナルドが赤い川を渡り、微動だにしない亡骸の脈を取った。
「もう駄目です」
「駄目だと! 君は医者なのか! これからも黎明を支えてくださる方なんだ! 馬鹿なことを言うな!」
青い髪の青年には、たかが秘書に反抗されるなど耐え難かった。だが、やつれ果てたグレイソンの顔を見て、何も言えなかった。
「グレイソンさん、落ち着いてください。会長は……父は、もう……」
舞台に上がったハロルドは、グレイソンの肩を掴んだが、目を合わせることはできなかった。傘寿の祝宴を取り仕切っていたグレイソンは、冷たくなってゆくアーノルドを前に、床を殴った。
「ああ、会長が、こんなにも呆気なく……。あのときパーティーを延期すべきだった! 変な音がしたとき、中止すべきだったんだ! 全部、私の責任だ! 全部!」
「落ち着いてください。時間は戻せません。事故で亡くなったんです。会長は、不慮の事故で……」
「はあっ……」
グレイソンが息をあえがせた。過換気症候群の初期症状だ。舞台に上がっていた者たちは秘書を横たえ、呼吸を整えさせた。意識を失いかけながら、うわごとのように会長を呼ぶ姿に、人々の目にはまた別の涙が浮かんでいた。舞台の下で、そのひび割れた泣き声を聞くメリーの唇が震えた。
(アーノルド・サンライト。どれほど愛される人生を歩んできたんだろう。胸が痛い。尊敬していた人を失う悲しみなんて、とても見ていられない……)
その思いは、少女の瞳に表れていた。出会って間もない相手でも、命の灯が消えるのを見るのは悲しい。それでも、血の宴と化した舞台の上で、誰もが悲嘆と絶望を乗り越え、まだ息をしているグレイソンを助けようとする姿もまた、メリーの胸を切なく打った。
***
サニーは、驚きに縮んだ胸を撫で下ろした。父の死から一時間が経った今になって、ようやく状況を理解できた。衝撃を受けたであろう娘が心配になり、カレンを強く抱きしめる。すると、「ママ、大丈夫?」と逆に気遣われ、その健気さを伝えるように背中を叩いてやった。
(へえ、シャンデリアが落ちると、人って死ぬんだあ)
カレンはサニーに抱かれるのが暖かくて嬉しかったが、母が背中を叩く理由がわからず、大丈夫かと訊いたのだった。今まで見たことのない光景で面白いのに、どうしてみんな泣いているのだろう。騒ぎが落ち着いたら、何でも知っているドナルドお兄ちゃんに訊いてみようと思った。
人々が状況を受け入れるには、さらに長い時間がかかった。遺体が目の前にある以上、騒ぎが収まったとは言えない。大広間の扉を蹴るように開けて出ていく者も、まだ泣きやまない者もいた。それでも、永遠に続きそうな慟哭の中で、冷静な話をしなければならない。それが残酷な現実だった。
「一体どうして、こんなことに……。ひとまず、警察に電話しなくちゃ」
サニーは、動かない肉体を見まいと舞台に背を向けた。だが、携帯電話のロックを解除しようとする彼女を、ハロルドが制した。社長自身、自分の行動を快く思ってはいないようだった。
「待ってくれ、姉さん。もうすぐ株主総会なんだ。求心力を失ったと知れば、動揺が広がる。それまでは隠して、時期を見て公表するのが……」
「本気で言ってるの? どうしたら、そこまで俗物になれるの?」
「静かにしてくれ。私だって、父さんが死んで嬉しいわけじゃない。電話して何になる? 土砂降りの離れ島に、救急車でも来ると思うのか? 父さんの財産で、男遊びばかりしていた姉さんに、何がわかる!」
ハロルドが声を荒らげると、ドナルドはネクタイを締め直し、仲裁に入った。
「落ち着いてください、叔父さん。おじいさまは、いつ亡くなってもおかしくないお歳でしたし、事故死なら隠す必要もないでしょう。それに、これだけ大勢が目撃しています。仮に皆が口をつぐんだとしても、あそこにいるジェリリンが連れてきた部外者たちは、勝手に行動するでしょう。隠したという事実そのものが、後ろ暗さを匂わせます。先に公表するほうが、事業上のリスクは小さいはずです」
ハロルドは腰に手を当てた。(まだ嘴も黄色いくせに)。父を失った胸の痛みより、青二才が得意げに語る姿のほうが、強く心に引っかかった。年齢を盾に説教してやりたかった。
「……さすがはドナルド君だ。私より一歩先まで考えていたな」
しかし、その言葉は間違っておらず、反論もできなかったので、腰に当てた手を下ろすしかなかった。
「それより重要なのは、後継者です。おじいさまは、黎明を継ぐ人をおっしゃいませんでした。いえ、おっしゃれなかったというべきでしょうが」
青みがかった髪の青年は、言葉と表情が食い違うハロルドをさして気にせず、本題を口にした。するとヒルダ夫人が、聞き捨てならないという声で遮った。
「待って。こうなった以上、母体企業の社長が会長になるのが当然でしょう。皆さんも、そう思いませんか?」
誰も答えなかった。ヒルダ夫人は、その沈黙が恐ろしくてならなかった。義父がシャンデリアの下敷きになった姿を見たときよりも。
「そう思う人はいないようですね。僕たちだけで言い合ったところで、会長のお考えを推し量ることはできません。そもそも、母体企業の社長が必ず継がなければならない決まりもない。副会長を置かなかったのは、なぜだと思います? 後継者は未定だという、無言の意思表示だったんですよ」
「ドナルド君、人を貶めるのは、そのくらいになさい。会長は夫を信頼して、誇りある製菓会社を任せたのよ。国内でいちばん大きな会社にしたのは、夫なんですから」
ハロルドが途中で「おい、落ち着いて」と止めたが、夫人は言うべきことを言わずにいられなかったのだろう。だが、怒りに任せて吐いたその言葉は、ドナルドが調べておいた反証を、遠慮なく披露する口実になった。
「叔父さんが製菓事業を引き継いだとき、黎明はすでに大企業でした。ところが叔父さんは、ライバルのシリウスが類似品を作るのを防げなかった。底の抜けた樽のように機密管理がずさんだから、離れていく消費者を引き留められなかったんです。実際、ハロルド・サンライトの就任後、四半期ごとに純利益は減っています。製菓業界で絶対的な強者だった黎明が、揺らぎ始めた。叔父さんに責任がないとは言えませんよね。僕より、ご本人のほうがよくご存じでしょう?」
ヒルダは夫の顔色を窺った。中年の男は、口が利けなくなったようにひと言も反論できず、うつむいていた。宴会場へ入る前、不安そうにしていた夫の姿は、アーノルドが単に気分屋だからというだけではなかった。それを察するには十分だった。
「ですから、長引かせず、ここで決着をつけましょう。あとから何も言われないように」
「どうやって決めるんだ? 仮に決めたところで、誰も納得しないだろう」
ハロルドのその言葉を待っていたように、ドナルドは答えた。これも用意していた台詞なのだろう。
「合理的な方法で、今後の可能性を見るんです。黎明を育てる能力が、数字に表れている人が継ぐ。成長率が適当でしょうね」
「ドナルド君。君が有能なのは確かだ。だが、それは自分が会長になると言っているのと同じじゃないか。君がサニー姉さんの代わりに経営している保険会社の成長率は、いつも垂直に伸びていたからな」
「ええ。底辺から始めて、一流ブランドへ育て上げる力があるのなら、会長になる資格としては十分すぎるのでは?」
「いや、いや、これは子どもの遊びじゃない。こんな場所で軽々しく決めていい問題では……」
ジェリリンはテーブルに突っ伏したまま、父の言葉を最後まで聞くのをやめた。
(醜い。いい子のふりはしないって、あれほど決めたのに、遺体を前にこんな話をしているのが、つらくてたまらない。どうして、こんな気持ちになるんだろう。おじいさまが好きだったわけでもないし、偽善ぶるのだって大嫌いなのに……)
両耳を塞ぐジェリリンを、見て見ぬふりをしてやる。それがフィリップにできる精いっぱいだった。こんなところにいてもいいことはない、とメリーに言いながら振り向いたが、彼女は席にいなかった。
「最後の謎の、本当の意味を解き明かした人に、会長の座を譲るおつもりなのではありませんか?」
アーノルドの血を引く者たちが、一斉に、メイド服で堂々と現れたメリーを見た。ジェリリンも、テーブルクロスに埋めていた顔を上げた。
「また君か? 少しは空気を読めよ。部外者は引っ込んでいてくれ」
当然といえば当然の反応だった。呆れた苦笑を浮かべたのは、ハロルドも同じだ。だが、祖父の死を前にしてもにこにこしているカレンは、メリーの肩を持った。
「待ってえ、お兄ちゃあん。メリーは魔法使いなんだよ、ふふっ。もしかしたら、あの子の言うとおりかもしれないよお」
「違うよ、カレン。どこの正気でない人間が、謎解きで大企業の後継者を決めるんだい? カレンなら、そうするかい?」
「うーん……私なら、そうするかもお。だって面白いじゃない。お兄ちゃんは、そう思わないの?」
カレンは、言葉に詰まったドナルドを見上げた。首を右へ左へと傾け、悪戯っぽく瞬きをする。兄は、かなり振り回されているようだ。
「そんなことは絶対にありませんよ、お姫様。あってもいけないんです」
ドナルドはカレンの頭を撫でた。ハロルドも、謎解きによる決着だけは受け入れ難く、未成年の発言をきつくたしなめた。
「そうだ。筋の通ったことを言いなさい。これはクイズのような余興ではなく、極めて真剣に考えるべき問題なんだ」
小さくはあったが、ヒルダが顎を引いて頷いた。ドナルドは、同意を示すまでもないと思ったのか、壁に背を預け、ポケットに手を突っ込んだ。カレンは家族で宝探しをするのを期待していたが、兄が断固として否定するので、黙って唇を尖らせていた。
そうしてメリーの力説が、時間とともに煙のように消えかけたとき、常識を打ち破ったのはアーノルドの末息子、ヘンリーだった。
「兄さん。実は私も、あの子と同じことを考えていたんだ。あまりに突拍子もないから、自分から言い出すのは気が進まなかったが、話が出たからには言うよ。会長が病的なほど謎好きなのは知っているだろう? それでも、ほどほどだと思っていたんだが、三か月前、うちの製薬会社に来て、困ったことをしてくれてね。採用面接の面接官として出席したかと思えば、質疑応答でクイズを出して、それに答えられなかったというだけで応募者を落としたんだ。いつからか、仕事は二の次で、自分の謎を解く人間を気に入るようになった」
「ヘンリー、余計なことを……」
ハロルドは聞こえるように呟いたが、その説を裏づける話が、さらに別の口から出てきた。
「会長でしたら、十分あり得ます。重要な書類のパスワードを謎の形で書き残されて、半月も苦労したことがありましたから……」
メリーが正解者こそ後継者だという説を述べたとき、何度も唇を開いては閉じ、ためらっていたグレイソンは、話す機会を探していたらしい。ヘンリーを皮切りに、あとを続けた。顔を洗っても涙の跡がくっきり残っている彼は、沈んだ吐息とともに意見を述べた。
「雨がやみ、本土に戻れるようになるまでの間だけでも、ご家族皆様で碑文を解いてみてはいかがでしょう。謎を愛した会長も、それを望んでいらっしゃるかもしれません。もし『大切なもの』が、本当に会長の玉座を意味するのなら、会長のご意思として受け止めるほかありません。仮に会長の座を意味していなかったとしても、それはそれで疑いが晴れるのですから、よろしいのではないかと」
正論だった。石板を読み解いた者に跡を継がせるという遺言状が隠されているなら、謎を解いて損はない。心の色が変わった。幼い頃から会社を率い、さまざまな人間を見てきたドナルドは、祖父が常識に囚われない変人だと知っていた。(アーノルドなら、本当に……)。直感が、これまで積み上げてきた教養を上回った。
(おじいさまは、半ば謎に取りつかれていた。出した問題を解くたびに、感心してくださった。大切なものをくれるという難問を、解いてみないかとせかされたこともある。僕に会長になってほしいということなのか)
「わかりました。そうしましょう」
議論を引っ張っていた青年が承諾し、争いはひとまず収まった。サンライト一族は碑文へ向かった。窓の外の土砂降りは嵐となり、激しく降り注いでいる。終わらない悲劇を予見し、空が涙を流しているのだろうか。




