サンライトリゾート編 第12話
三一二号室へ戻ったメリーは、ベッドに倒れ込んだ。フィリップは部屋に入るなり、追われるように鍵をかけた。
「怖かった。何もかも……。まだ脚が震えてる。人が死ぬところを見るなんて。はあ……」
悲鳴を必死にこらえていたフィリップが、胸の中で押し殺していた嘆息を薄く吐き出すと、メリーも頭をずきずきさせる混乱を打ち明けた。
「全部、幻だったらいいのに。さっき見たものが現実なのか、わからないです」
フィリップはコートを脱ぎ、メリーの隣に横になった。二人は虚ろな目で天井を見ていた。冷や汗でシーツが湿り、言葉も交わさずに過ごす穏やかな時間が、少しだけ鼓動を遅くしてくれた。手と手が触れると、二人は黙って指を絡めた。ワイングラスの破片が刺さった跡の残る手から、柔らかな体温が伝わってくる。青年の心は、メリーへの思いだけで満たされた。
フィリップは心配を滲ませた声で、雨音しか聞こえない部屋に生気を吹き込んだ。
「あのとき、どうして口を挟んだの? 僕は、もうあの人たちに関わっちゃいけないと思ったんだけど。責めてるんじゃないよ。ただ、メリーがどう思ったのか知りたくて」
「グレイソンさんがおっしゃったのと同じです。冷たくなっていく会長が、気の毒に見えたんです。最後に残された言葉があの石板なら、遺言と変わらないのに。形見を放り出して言い争うのが、何というか……見ていられませんでした」
「それはそうだね。本人たちだって、わかっていたのかもしれない。でも、行動に移せるメリーの勇気はすごいよ。考えてみると、僕は本当に情けないな。いつもメリーが前に出る。僕って、男らしくないんだろうな」
飛行機の中で『男らしく、ひと言言ってください』という頼みに応えられなかったことを気にしていたフィリップが、話し終えたときだった。ノックの音がした。
「開けて。ここにいるのはわかってるの」
低く抑えたジェリリンの声に、メリーとフィリップは起き上がり、互いを見つめた。(坊ちゃまが呼んだんですか?)(違うよ。メリーが呼んだんじゃないの?)。目だけでひと言ずつ交わす。強くなるノックを放っておけず、フィリップが扉を開けた。
「どうしてここに? 僕たちがいるって、どうやってわかったの?」
「部屋番号は従業員に聞いたわ。話があるの。中に入れて」
「わかった。ボディーガードはいないの?」
「どうだっていいでしょ。開けてよ」
戸口の青年はあまり気が進まなかったが、大広間で自分とメリーのために嘘をついてくれたジェリリンを、無視するわけにもいかなかった。フィリップが、明かりもつけていなかった室内をようやく照らすと、ジェリリンは湿ったシーツを見て、はしたないものでも見たような顔をした。
「何よ、人が死んだばかりなのに……」
「やめて。何を考えてるかはわかるけど、それは違うから」
ジェリリンはフィリップの顔を見た。落ちくぼんだ目には焦点も合っていない。点滴でも受けたほうがいいのではと思うほど、血の気のない顔色だった。彼女は言葉を引っ込めた。
「……それくらい、私だってわかってる。ただ、湿っぽい空気を変えたかったの」
「話があるんだろう? 聞かせて」
「単刀直入に頼むわ。おじいさまが残した謎の、本当の意味を解いてほしいの」
ツインテールの少女の視線は、メイド服の上へ向いた。メリーは、突然の頼みを安請け合いして後悔させたくなかったので、黙っていた。
「イエスなの、ノーなの?」
「解ける自信がありません。箱は開けましたけど、その先は何も推理できていないんです。頼ってくださるのは嬉しいですが、会長がご子孫に残したものです。会長にいちばん関心を寄せていた方なら、解けるのかもしれません。私には、知っていることがあまりにも少ないんです」
「あの嫌な奴が、パパの上に立つなんて許せないの……。もちろん、ただで頼んでるんじゃないわ。お金なら、いくらでも出せる。ほら!」
メリーの小銭入れなど比べ物にならない、洗練された高級革の財布から、青い紙幣――アデンマンの五百ドル札を何枚も掴み、差し出した。
「すみません。今もお話ししましたけど、私には難しいと思います。会長の趣味や好みを把握していないと、真意のわからない謎なのでしょうし、ご家族さえ手こずっていらっしゃるなら、私に解けるはずもありません。今は気持ちも落ち着かなくて、集中できませんし」
メリーはジェリリンの手を押し戻そうとしたが、ジェリリンは紙幣を握り潰し、一歩も引かなかった。
「ドナルドが会長になったら、パパが黙っているはずがない。そうなったら、黎明は……。お願い。やってみるだけでもいいの。あんたなら解ける気がするのよ。謙遜したふりなんかしないで、受け取って……」
メリーは、固く握られたまま震える拳をじっと見てから、腕を組み、唇を閉じたまま声を漏らした。
「試すだけでも構わない、ですか。うーん……」
「足りない? これじゃ満足できないの?」
ジェリリンは焦れた。(あんたたち、こういうのには目がないじゃない。一体、あといくら欲しいっていうの!)。眉間に皺を寄せ、財布からさらに札を出そうとしたところで、メリーはその手を止めた。
「足りないというより、条件が気に入らない、といいますか。お金の代わりに、ジェリリン様が私と友達になるというのはどうですか?」
静けさが流れた。そんなことを聞かされるくらいなら、いっそ『冗談です。本当はもっとお金が欲しいんです』という言葉が続いてほしかった。だが、メリーは冗談で言ったのではない。長引く沈黙の中、長い睫毛の目でじっと見つめ、本気だと伝えてくる。背の高いほうの少女は、入り乱れる感情に囚われた。石板の前で自分を襲った渦と、再び出会ったようだった。ジェリリンは、胸に幾重にも巻いた鎖の結び目を、ひと息に解いてしまった相手を認めたくなかった。
「お友達ごっこがしたいの? 私、そういうのは子どもっぽくて嫌いなの」
「ごっこじゃなくて、心を開いて話せる、仲のいい友達になりたいんです。知り合いが多いほうが、成功するんでしょう?」
「しないって言ってるでしょ。私、友達なんか作らないの!」
「大広間でも、本当は違う言葉を言いたかったんじゃありませんか? 嘘をつく人とは取引できません。ジェリリン様が、これからはご自分を偽らないこと。それが条件です」
「うるさい! あんたに何がわかるの? 私の人生の何を知ってるっていうの!」
「知りません」
「だったら!」
「知りませんけど、わかります。その態度は、昔の私と同じだから。ジェリリン様と話せば話すほど、壊れていた頃の自分と話している気がしたんです。鏡に映った自分を、見て見ぬふりはできません。私はフィリップ坊ちゃまに救われましたけど、あなたには、そういう人が周りにいなかっただけだと思うんです。心にもないことを言って、人を遠ざける気持ちもわかります。私も、そうだったんですから!」
フィリップは、彼女が自分のどんな過去を語っているのかわかっていたので、声を強めるメリーを止めなかった。
「寝言を言わないで。あんたと私は、今日会ったばかりよ。それなのに、何を知ったつもりで、見抜いたみたいなことを言うの? だから庶民は甘やかしちゃ駄目なのよ。よく聞きなさい。私は、サンライトの姓を持つ唯一の三代目なの。あんたの目の前にいるのは、この国最大の財閥の血を引く人間よ! どこの馬の骨とも知れないくせに、調子に乗らないで!」
ジェリリンは、大金の束を投げつけるように撒き散らし、戸口へ向かった。
「今、メリーに何て言った?」
フィリップは彼女を追って立ち上がろうとしたが、メリーが痛いほど強く腕を掴んだ。
「大丈夫です、坊ちゃま。行かせてあげてください」
扉が激しく閉まった。
「何なんだ、あの子。悪い子じゃないと思ってたのに、やっぱり根っこは変わらないのかな。それより、大丈夫? 昔から、ああ言われるのが大嫌いだったじゃないか」
「……もう、気にしません。それに私は、あの人には家族を思う優しさがあると思います」
「優しさ?」
「ただお父様に会長になってほしいという、自分勝手な望みだけじゃなくて、後継者争いが起きてほしくないという気持ちを感じたんです。何も決まらないまま本土へ戻ったら、勢力争いで血の雨が降りますから。それに私も、あの人を見ていると、よくない思い出が蘇って、感情的になってしまいました。ボディーガードを連れてこなかったのは、頼み事をする姿を人に見られたくなかったからでしょうに、私が言いたいことばかりぶつけたんです。気を悪くするのも当然です。今日初めて会った人に、あんなことを言うなんて、私もどうかしていました」
落ち着いていた。途中で、提案を受け入れてもらえないと察していたのだろうか。ジェリリンに感情のまま言葉をぶつけながら、失言だと直感していたが、もう取り消せなかった。
フィリップは、後悔の眼差しを読み取った。
「メリーは、ジェリリンが本当に好きなんだね」
「困っている人を見ると、助けたくなるんです。全部、坊ちゃまに教わったことですよ」
フィリップは気恥ずかしい言葉に鼻をこすり、何も言わなかった。だが、何年も前のことを覚えていてくれる、血の繋がらない妹がありがたかった。メリーは、重い話ばかりするのが嫌になったのか、紙幣を拾いながら明るく笑った。
「それに、報酬を受け取ってしまった以上、謎を解いてみるしかありませんね」
「受け取るの?」
「坊ちゃまは、これを捨てるおつもりですか? 一枚五百ドルですよ? ゴルフ用品で無駄遣いした分を、埋め合わせられそうです」
「うーん、持ち主を捜して返すのも変だしね。メリーがよければ、僕は構わない。どこから考えようか? 石板を見ながら悩んだほうがいいかな」
「内容は覚えています。問題は、アーノルド・サンライトに関わる手がかりを、どう探すかです。彼の人生の大事な出来事なら、できるだけ知っておきたいんです」
「こういうときこそ、検索の力を借りよう。あれ、雨のせいかな? 通信が不安定だ。いや、雨どころじゃないな。外を見れば、もう完全に台風並みだよ」
フィリップは何度も更新を押したが、ウェブページのエラー表示は消えなかった。だがメリーは、その意味のなさそうな繰り返しの中に、豪雨とともに閃いた稲妻のような突破口を見つけた。音もなく走った雷光に驚き、フィリップが携帯電話を取り落として呆然と窓の外を見つめている間に、彼女の頭の中では手がかりが導体となり、もう一つの閃光が弾けた。
(まさか!)
反発するばかりだった磁石を裏返し、ぴたりと引き合わせたような一致。苦悩の中に走った熱い稲妻が、真実を塞いでいた迷路の壁を、すべて焼き払った。燃え上がる爽快感とともに、リゾートへ来てからの出来事が、走馬灯のように流れていった。偶然ではない。メリーは何かに取りつかれたように廊下へ飛び出し、走りながら各部屋を確かめた。
(そんな。マクガフィンなんかじゃない。一文一文に意味があったんだ!)
すべての部屋が同じ規則に従っている。いや、規則というほどでもない。堂々と示されているヒントであり、会長が残した謎への熱望だった。大きく見開いた目が、静かな感嘆をほとばしらせた。
(やっぱり。誰もが感じる、まとわりつくような違和感を、大切にした人が勝つ勝負だったんだ!)
疑う余地のない解答の構造。テトリスの棒状のブロックを、苦悶の残骸にぴたりと差し込んだように、軽やかに導き出された答えが、未知のもたらす重苦しさを綺麗に洗い流してくれた。光が無人島を覆い、数秒後に雷鳴が轟いた。その雄々しい鼓動は、廊下の突き当たりで足を止めた、メイド服の解決士とともにあった。
「迷宮は、もう終わり」
フィリップは、飛び出したメリーを追った。雷鳴とともに呟かれた独り言が、どんな閃きだったのか、想像もつかなかった。だが、彼女は高い山の頂上に立って満足しているような顔をしていたので、こちらまで爽快な気分になった。
「メリー、何かわかったの?」
何が何だかわからないまま、旅立ちを前にした冒険家のように胸を躍らせて訊いた。メリーは疲れを忘れた澄んだ瞳でフィリップを見つめ、ためらうことなく、確信を込めて答えた。
「はい。早く行きましょう。依頼人が、やきもきしながら待っているはずです」




