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サンライトリゾート編 第7話

一階から階段を一つ上り、二階の三一二号室に戻ったメリーは、汗ばんだ身体も、まとまらない考えも、湯船に深く沈めた。


(あの数字は、本当にマクガフィンだったのかな。ジェリリン様に鋭く言われて、言い訳みたいに思いついたんだけど、話しているうちに、合っている気もしてきて……)


温かい湯に浮かぶ泡を布団にして脚を組むと、水面の氷山のように、乳白色の膝が顔を出した。姿勢を変えれば、思考も変わるらしい。ゆったり揺れる湯気とともに、推論が進んでいく。


(ボディーガードのおじさんが言っていたこと。八十歳だから、老いているのは確かだろうけど、アダムさんの話では、会長は挑戦する気持ちの強い人。老いを悲観するようなメッセージを残すとは、思えない)


メリーは左腕を浴槽の縁に掛けた。湯から出した拳に顎を載せてみても、答えに近づく気配はない。謎を考えるのに疲れ、思うままに言葉をこぼした。


「でも、箱は開いたんだから、解けていないとも言えないんじゃないかな……。もう、わからない。それより、私、結構偉そうに見えるかな。お金持ちって、こんな格好でお風呂に入るんでしょうね。薔薇の花びらに囲まれた、池みたいな浴室で、夫婦でワイングラスを持って、こう言うの。『どんなにお金があっても、あなたの前では意味がないわ』。何それ、何それ。結構ロマンチックじゃない。では、坊ちゃま。乾杯しましょう」


右手に想像上のワイングラスを持ち、メリーは気取った笑みを浮かべた。もたれていた上体を起こすと、鎖骨の下まで湯から出た。幻のグラスとグラスが触れ合い、ちん、と効果音が響くはずの、そのとき。


「メリー、もう一時間だよ。僕にも使わせて」


目玉が飛び出しそうになるのをどうにかこらえ、メリーは泡をかき集めて、肩から下を隠した。


「な、何をなさってるんですか? 坊ちゃま、正気ですか?」


「見てのとおり、いたって正気だよ。僕も洗いたいんだ。ノックして呼んでも返事がないから、仕方なかったんだって」


「はい……。出ます」


大急ぎで切り上げ、タオルで身体を包んで出てくると、湯気がもくもくと立ち上った。けれどフィリップにとって、それはただの化学反応でしかなかったのだろうか。XY染色体の持ち主は、雰囲気にそぐわないまま、胸にしまっていた不満を漏らした。


「本当に、あれでよかったの? 大企業の会長が願いを聞いてくれる謎を解いたんだよ。お小遣いをもらうにしたって、桁が違うはずだ。その機会をジェリリンに譲っちゃうなんて、君はお人好しすぎるよ」


表情一つ変えず、露出した肌をじっと見ているフィリップに、メリーは頭の中で文句を言った。


(旅行先で、男女が二人部屋なんて、普通はそういう意味じゃありませんか。坊ちゃまは、どこまで鈍感なんでしょう……)


まだ気が済まないのか、フィリップは浴室へ向かわず、ベッドに座ったまま話し続けた。


「まあ、君が解いた問題なんだから、どうするかは僕の口出しすることじゃないけど。僕はね、ジェリリンがあのドナルドって奴にやり込められたとき、正直、すっとしたんだ。君もそうだと思ったのに、手柄まで譲っちゃうなんて……もったいないなあ」


メリーは、むっとしてフィリップを見た。


「いくら何でも、女の子がお風呂に入っているところへ入ってくるわ、こんなに無防備な私を見つめながら、ほかの人の話をするわ。今度、泌尿器科にでも行ってみてください」


「いきなり、何の話? あ、そうだ。こうなったら、ジェリリンのつてで、会長の八十歳のお祝いに行ってみない? リゾートに戻ってあちこち見てたら、大広間で準備してたんだ。想像もできないくらい、ものすごい量のお菓子があったよ。ケーキだって、天井に届きそうなほど大きかったんだ」


「そうですかあ」


女心が、どうしてこうもわからないのか。その抗議がこもっていただろう。


「そんなこと言わずに行こうよ。僕だけじゃ、ジェリリンが入れてくれるわけないんだから」


駄々をこねるように頼み込むフィリップに、メリーは折れてしまった。


「わかりました……。着替えますから、よそを向いていていただけますか」


フィリップは白く曇った浴室へ入り、シャワーを出した。その間に着替えたメリーは、頭から足先まで映る鏡の前で、後ろ姿を見たり、ポーズを取ったりした。両腕を広げて一回りすると、スカートがふわりと浮く。まだ新品の匂いが残る黒と白の取り合わせに、満足そうな笑みを隠せなかった。


(特別な日のために取っておいたけど、本当に素敵)


カップ麺ができるより短い時間ですべてを終え、フィリップが楽なTシャツ姿で出てきた。水気も払っていない髪を揺らし、行儀よく立つ少女の方へ顔を向ける。彼が反応するまで待てなかったメリーは、自分から話しかけた。


「坊ちゃま、私、どこか変わったと思いませんか?」


無邪気な問いに悪戯心を刺激され、フィリップは数秒、指で頭をかいた。


「髪、切った?」


「そうじゃなくて、服です、服!」


「服? メイド服だよね?」


「そうですけど……前のは、スカートが短かったでしょう。今着ているのは、ふくらはぎまで隠れるクラシックなタイプなんです。坊ちゃまに期待した私が馬鹿でした。坊ちゃまも馬鹿です」


長い裾を少し持ち上げる姿は、こんなに違うのに、と訴えているようだった。わざと気づかないふりをすると返ってくる、こうした可愛い反応が、フィリップは昔から楽しかった。


「ふふ、冗談だよ。それじゃ行こうか。億万長者のパーティー会場へ」


勢いよくドアを開けて出ようとしたフィリップを、メリーが「あっ、Tシャツのままでは駄目です」と引き止めた。予備に持ってきた、安物だが艶のあるコートを上から着せ、乱れた髪も丁寧にとかしてやる。鏡を見たフィリップは、仕上がりが気に入ったのか親指を立てた。だが。


「どうしよう。私、こんな顔で行ったら恥ずかしいかな。坊ちゃま、少しだけお待ちください」


少女漫画の一輪の花のように美しい貴族たちが集う、夢のような舞踏会を思い浮かべた少女は、慌てて化粧品を取り出し始めた。口紅以外は名前もわからない品が鞄から出てくるたびに数えていたフィリップは、二桁になって指が足りなくなると、心の中でぼやいた。


(また、ずいぶんかかりそうだな。メリーは、化粧しなくても可愛いのに)


「僕は部屋にいると息が詰まるから、外に出てるよ。このリゾートには、謎解きみたいな面白い催しが、ほかにもあるかもしれないし。準備ができたら、大広間の前へ来て。そこで会おう」


待っている相手を気にして、ゆっくり身支度できないのではと思った、彼なりの気遣いだった。廊下に出ると、各部屋の入口に見える部屋番号は、どれも百の位が同じだった。一階へ下りると、傘寿の祝宴が始まっていて、入口では人々が招待状を見せて入っていた。フィリップは、時間をつぶすためにカフェへ入った。


(キャラメルピーナッツ以外、何も食べてないな。カロリーの高いデザートを頼みたいけど、もう少しあとの楽しみのために、我慢しておこう)


冷たいアメリカーノを注文した。コーヒーの苦味まで甘く思えるほど空腹だった彼は、ストローに口をつけるなり、半分以上を吸い込んだ。だが、空のグラスを前にぼんやり座るのも気まずいと考えたのか、傾ければ底が見えるあたりからは、少しずつすするようにペースを変えた。


(香りが強いな。口、臭くなるかな)


何分か経った頃、入口からは見えない、角の向こうで電話が鳴った。退屈に耐えかねたフィリップは、乾いた唇にグラスを近づけては離しながら、耳をそばだてた。


「またかよ」


見えない場所の男が、不満そうに吐き捨てた。すぐには出ず、着信音が何度も繰り返された。


「もしもし!」


(あれ、この声は……)


怒った声の主は、アダムだった。フィリップが見てきた、下心はあるものの気さくな態度とは、ずいぶんかけ離れた口調だった。コーヒーの香ばしい匂いとともに、緊張が漂い始めた。


「だから、返すって言ってるだろ! 何回電話してくるんだよ!」


相手の声は聞こえなかったが、内容を推測するには十分だった。


(あの人、大企業の会長にゴルフを教えてるんだろう? それなのに、借金があるのか?)


「言っただろ! 一か月、いや、二週間あれば用意できるって!」


(催促の電話は、一度や二度じゃないみたいだな)


受話口の向こうの声が続いている。アダムは、三十秒ほど聞くばかりだった。


「……くそっ。もう勘弁してくださいよ。わかったから、切ってください」


相手の口調も険しくなったのだろう。アダムは言葉遣いを改め、電話を置いた。苛立ちを含んだ荒い息が聞こえ、やがて静かになった。フィリップは携帯電話で検索し、難なくアダムの情報を見つけた。


(ブログも書いてるんだ。何年か前まではゴルフ場や旅行の写真があるけど、最近の記事は、賭け事や女遊びの話ばかりだ)


会長のそばで愛想を振りまき、もらったボーナスで始めた遊興。最初は上流階級を真似てみたいという若気の至りで、一線は越えていなかった。だが、いくら失っても絶えず懐を満たしてくれる莫大な金づるが近くにいたせいで、彼は湯水のように金を使った。引退後も自己管理を怠らなかったゴルファーは、とうに消えていた。一瞬で大金が動く刺激を求め、小さな賭け金では満足できなくなった彼は、会長の小遣いだけでは飽き足らず、借金にまで手を出したのだ。


会長に知られれば、よく思われるはずがない。大した成績も残せなかった三流プロが賭け事に溺れたなどと、家族に打ち明ける勇気もない。彼は一攫千金を夢見て、昼と夜で別の顔を持つ暮らしをしていた。


(宝くじに当たった人は不幸になる、って聞くけど、そういうことかな。それにしても、お腹がご飯をくれって大騒ぎだ。そろそろ出よう)


残り少ないコーヒーを、フィリップは口へ流し込んだ。話を聞いていたと気づかれたくなくて、メリーが着せてくれたコートの襟を立て、念を入れる。出る準備を終えて立ち上がると、中年の男の声が、入口のベルをかき消した。


「アダム、こんな所で何をしてるんだ? 早く大広間へ来いよ」


窓の外からたまたま友人を見つけ、入ってきた男だった。吊り上がった目を、丸い輪郭が和らげている。紺のスーツ姿でも、近寄りがたさはない。二、三度話せば、すぐ気の置けない間柄になれそうな、不思議な直感を与える人だった。


「グレイソン! おっと、もうそんな時間か。すぐ行くよ。友達が企画したパーティーで、うちの会長の八十歳のお祝いだ。欠席するわけにはいかないね」


アダムは複雑な胸中を隠し、よくできた仮面をかぶったように話した。


(ああいうところは大人だな。誰にだって、見習えるところはあるんだ)


カフェを出た途端、メリーから電話がかかってきた。出ようとしたが、目の前に、携帯電話を握ってきょろきょろしている彼女の背中があった。フィリップは小さな肩をつかみ、耳の横へひょいと顔を出した。


「じゃん。ここだよ」


「あっ、お待たせしましたか?」


「ううん。思ったより早かったね。じゃあ、行こうか」


金色のシャンデリア、ワイングラスを掲げる人々、甘い菓子が果てしなく並ぶ豪華なテーブル。大広間の扉の隙間から、その光景が見えた。メリーは思い描いたとおりだったのか、軽い足取りでフィリップを追い越した。


入口には、二人の門番がいた。靴を脱いでも二メートルは優に超えそうな大男は、ジェリリンのボディーガード、ルーク。もう一人は細身で、通りかかる人々と短く言葉を交わし、会場へ案内していた。どちらも、黒いスーツとサングラスがよく似合っている。フィリップが後ろで手を組み、鼻歌交じりに入ろうとすると、案の定、名前を知らない方が腕を横へ伸ばした。開かないホームドアだった。


「ジェリリン・サンライトさんに招かれて来ました」


フィリップは言った。


「招待状は、お持ちでしょうか?」


「ありませんけど」


「それでは、お引き取りください」


「中にジェリリンがいるんでしょう? 呼んできてもらえませんか。あのおちびちゃんとは、知り合いなんですって」


フィリップは、遮る腕の上下から身体を動かし、会場をのぞき込んだ。


「招待状がなければ、絶対に入れない」


細身の男はフィリップを入口から押し戻し、険しい口調に変わった。黒いレンズの奥で、獣のような目が光った。だが、低血糖で手足が震えそうなのをこらえる空腹の男は、逃げなかった。フィリップは顔を向け、ルークに話しかけた。


「おじさん、僕たちの仲で、それはないでしょう。メリーが、ジェリリンのために、どれだけ頑張ったと思ってるんですか」


「できません。招待状をお持ちでなければ、お入りいただけません」


「ああ、腹が減ってどうにかなりそうだ。じゃあ、中からお菓子だけでも持ってきてくださいよ」


「坊ちゃま、無理みたいです。私たちは庶民らしく、豆もやしのクッパでも食べましょう……」


赤い絨毯の上で男女が優雅に踊る仮面舞踏会を夢見ていたのに、現実の壁は厚く、高かった。落胆を隠せない少女。すがるフィリップに「決まりですので、どうにもできません」と言い聞かせていたルークは、念入りに装ったメリーの顔が失望で曇るのを見ると、言葉を止めた。そして、ひと言付け加えた。


「招待状をお持ちでなければ……」

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