サンライトリゾート編 第24話
材料:ピーナッツ一〇〇グラム、卵白三個分、小麦粉二五〇グラム、砂糖二カップ、塩五グラム、重曹三グラム、牛乳一五〇ミリリットル、バター一〇グラム、レモン一個、クルミ一個、アーモンドパウダー二〇グラム。
1.二〇〇度に予熱したオーブンで、皮つきのピーナッツを五分焼く。
2.重曹、砂糖、牛乳、バターを混ぜ、加熱してシロップを作る。
3.強すぎる甘みを和らげ、旨味を加えるために、レモン汁を振る。バターを減らしてイチゴを使っても、相性がよい。
4.ピーナッツを塩水に浸してから、皮をむく。このとき、皮は捨てない。
5.皮を挽いて粉にし、小麦粉、卵白、牛乳を混ぜる。皮は、食欲をそそる軽い苦みを加え、独特の食感を出す役割を果たす……。
「ハニーピーナッツのレシピじゃないか。もう、冗談はうんざりだ」
手順は十五番まで続いていた。ハロルドは呆気に取られ、途中で読むのをやめた。こんなときに、ふざけるとは、気でも違ったのか。二人も殺したのだから、頭がおかしくなっても不思議ではない。耳元で怒鳴りつけたい気持ちを抑えた。冷静さを取り戻し、額の血管が薄れる頃、疑問が浮かんだ。なぜ、秘書がレシピを持っている? 機密が漏れたのは、こいつのせいだったのか。
「ハニーピーナッツ……お前たちは、そんな悪魔の名前で知っているだろうな。それは、父が書いた、キャラメルピーナッツの作り方だ」
「何……?」
ハロルドには信じられなかった。(また、訳のわからないことを言って、ごまかすつもりだろう)。だが、グレイソンは目の細い血管が切れ、血の混じった涙を流していた。
「父とアーノルドは、創業の仲間だった。製菓業界に旋風を起こそうと、志を抱いて始めたんだ。最初は同じ目標へ走っていても、中堅企業になると、利益の配分で揉めた。さらに時が経つと、アーノルドは年の違いを理由に父を見下し、意見を無視した。時代遅れの、年寄り好みの製品を、押し通しながらな。
それでも父は、私にアーノルドの悪口を言ったことがなかった。菓子作りの考えが違って、うまく合わない相手だとしか言わなかった。酒も煙草もやらなかった父が倒れたのも、今思えば、怒りや悔しさを溜め込んだからだろう。
父は、病床でも夢を持っていた。共同代表を退いても、会社のためだと言い、点滴をつけたまま、私に試食を頼んだ姿を忘れられない。何度もレシピを直しながら菓子を作る父は、私の憧れだった。アーノルドが認めざるを得ない製品を、作ってみせる。そう言って、毎日、新製品の開発へ打ち込みながら、父は死へ向かっていった。
その父が、亡くなった。何も実を結ばず、人々に覚えられることもなく、死んだ。葬儀が終わると、アーノルドが、慰めるという口実で家へ来た。私は、父が研究してきた跡を話した。あいつが、少しでも申し訳ないと思えばよかったんだ。奴は、残念だと口先だけの言葉を漏らしながら、目をつけた。父が作り上げた、キャラメルピーナッツのレシピに……。皮肉にも、あの日を境に、黎明は天を突く勢いで伸び始めた。アーノルドは、それまで無視してきた父の菓子を真似て、大金を稼いだんだ。自分の無能がばれるのを恐れて、有能な父を黙殺していたのさ。タイムマシンがあるなら、あの日のアーノルドを殺し、何も知らずに、あんな屑へ喋った自分の首も絞めてやりたい。
お前たちには、一生かかってもわからない。昼も夜も研究し、作っては味を確かめ、苦労して生み出した作品を盗まれた、父の気持ちは。死んで生まれ変わっても、想像さえできないだろう。
おかしな世の中だ。本当に菓子を愛し、食べる人の笑顔を求めたのは、アーノルドではなく、父だった。それを、誰も知らない。忌々しい金さえあれば、食われずに済んだんだろう。あの怪物に。最初は訴訟を起こし、報道機関にも連絡した。だが、権力と金の前では、何もかも無意味だった。記者はアーノルドの成功物語を歌うばかりで、裁判官は賄賂を受け取った。私は決めた。法が裁かないなら、私が裁く。偽りの尊敬と権勢を享受する、アーノルド・サンライトを消すために、屈辱をこらえ、黎明へ入社した。
気まずい相手の息子でも、秘書にしたいと思わせるほど、努力しなければならなかった。毎日、吐きそうなお世辞を言っては、口を洗った。奴へ頭を下げるたび、父の苦しみを、どう返してやろうかと考えた。
弱みを探せ。あいつを隅々まで探り、根から引き抜いてやる。
ある頃から、アーノルドは謎を出すのを楽しみ始めた。次第に、常軌を逸した執着を見せる姿に、復讐の糸口が掴めるかもしれないと思った。賞品に触れた、たった一つの問題が気になり、解いた私は……すべてを放り出して、殺したくなった。あんな暇つぶしで、父の努力の結晶を、やるだの、やらないだのと。屈辱に耐えられなかった。今すぐ行って、海へ突き落としたいという欲望の前で、私は、かろうじて理性を取り戻した。『覇王を気取る奴を消すだけでは、足りない。黎明を、丸ごと潰さなければ』。それが、私の目的だった」
「どうして人を、長く仕えていた相手を、ためらいもなく殺せるの? そんな恨みがあったとは知らなかったけれど、それでも、長い間、近くで見てきた人なのに……。それに、アダムは関係ないでしょう。どうして殺したの!」
ヒルダが言った。
「ためらいがない? 口があるからといって、勝手なことを言うな。私も獣ではない。人の心を持った、れっきとした人間だ。いざアーノルドを殺す準備を始めて、どれほど耐え、どれほど選び直したか。暴れる良心の声を無視するのが、あんなに苦しいとは思わなかった。地獄へ送ってやると固く決めても、殺すか、耐えるかの間で、揺れていた。だが、あの吐き気のする演説で、心が冷え切った。ハニーピーナッツを作ったのは、自分の功績だと言い、父の名を、一度も口にしなかった。そのとき、天にいる父が耳元で囁いた。『お前は悪くない。早く殺せ』と。
父の作品を盗み、楽しみを貪った歳月。あいつの死と、黎明の分裂で、釣り合いを取らねばならなかった。遅ればせながら、競合会社に父のレシピを渡し、正しい名前で売ってくれと頼んだ。報酬も得られるようになった。それでも、殺さなければならなかった。疲れ切っていても、夢のために諦めなかった父の姿が、目に焼きついているからには」
グレイソンは、メリーを見た。
「碑文を解いた者に、会長の座を譲るのかもしれないと、お前が言ったとき、天は私に味方していると思った。アダムを復讐の肥やしにするかどうか、何百回も悩んだ。それでも、計画どおり進む以上、殺すしかなかった。刃物で刺すとか、鈍器で殴るとか、友にそんな方法は使いたくない。その自己満足のために、食べ物で殺そうとした。だが、ジェリリンが来たせいで、わずかな安らぎさえ許されなかった」
「おかしいですね。その方法は……」
ヘンリーが口を挟むと、グレイソンは目を剥いた。滴る赤い涙に、ヘンリーは口を閉じた。
「それくらい、わかっている! アナフィラキシーショックは、激しい苦痛とともに死へ至る症状だ。だが、私が怖かった。せめて、友の血は見たくなかった。狂っていると責めたいなら、好きにしろ。偽善者だと叫びたければ、勝手にしろ!」
グレイソンの目が、ぎらぎらと光った。色を失った顔で、二つの瞳だけが鮮烈だった。安らかに眠れない怨霊さえ怯みそうな、鋭い眼差しは、凶器になりそうだった。
ハロルドは、まだその話を信じられなかった。それでも、真実だとは、迫力でわかった。(会長が、父さんが、そんな人間だったのか……?)。眼差しで研がれた刃が胸を貫き、親へのわずかな尊敬が、血を吐いた。
カレンは左手の甲を腰へ当て、右の手のひらを頬へ寄せた。
「ふうん。じゃあ、メリーの演説に反応したのは、詐欺師のおじいさまと同じになりたくなくて、良心が痛んだからなんだねえ。人を殺しておいて、痛む良心があるなんて、面白いなあ」
「やめろ、カレン! 刺激するな!」
ドナルドは感じた。人の心には収まり切らない殺意が、体の外へ溢れ出している。
「ええ? 大丈夫だよ、お兄ちゃん。ゲームオーバーでしょ。ねえ、人殺しのおじさん。今は、良心が何て言ってるの?」
グレイソンの肩は、自分のものではないようだった。体が操り人形になり、誰かが動かしている。腕に糸を結んだのは、天国の父なのか。そうだ。これは、父の意思だ。
「私の良心はな……」
グレイソンは、スタンドに立ててあるゴルフクラブを掴んだ。
「アーノルドの血を引く奴を、一人残らず殺せと叫んでいる!」
(しまった!)。ルークは一秒前へ戻り、呆然としていた自分の頬を殴りたかった。グレイソンまでが遠すぎる。脚で三メートル進むより、人の腕が一度弧を描くほうが、はるかに速い。背中へ消えたヘッドが、カレンの頭頂へ、真っすぐ落ちた。
鈍い音が、事務室を満たした。
カレンは、柔らかな腕に包まれるのを感じた。母に抱かれるような、温もりがあった。暗くて、少し息苦しい。ここはどこだろう。腰を抱く手をそっと辿り、自分を抱いている人を見た。メリーだった。
「メリー、助けてくれようとしたの? ありがとう」
メリーは、抱き締めたカレンの顔を見た。無邪気な顔は、少しも歪んでいない。その安堵とともに、まとわりつく違和感が、心臓を握った。
「痛くない。カレンも、無事。どうして?」
自分が生きているという安堵は、なかった。疑問だけだった。グレイソンは、目を血走らせていた。ボディーガードが止めたのか。そうでなければ、いけない。
「君を狙ったんじゃない。勝手に飛び出してくるから……」
グレイソンは、呆然とクラブを落とした。ルークは巨体で彼を激しく押し、壁へ叩きつけ、膝の裏を蹴って倒した。
(ルークさんでもないなら……)
メリーは、考えるのを止めようとした。ブレーキを踏むほど、地獄へ加速するのは、なぜだろう。振り向いた。
フィリップが、倒れていた。
メリーは手の甲で涙を拭ったが、濡れた目元を乾かせなかった。手首や手のひらでこすっても、無駄だった。真実を明らかにしたという事実では、昇華できない悲しみが、絶えず水柱のように噴き上がった。
フィリップが倒れて、二十分。ドナルドは、何を言えばいいかわからなかった。カレンは無事だ。それでいい。残っているのは、取るに足りない庶民の、お涙頂戴の芝居だけだ。なのに、誰かに正面から長剣で刺されたように、みぞおちが痛む。
人間というものは、よく知っている。人を動かすことなら、ドナルドに並ぶ者はいなかった。だが、目の前の男女は、理解の外にいた。実の兄である自分でさえ、叫ぶだけだった。地面が沼になったように、足が動かなかった。あの二人は、一体何なのか。どうして、美しく見えるのか。
カレンの悪戯心は、尽きなかった。死にかけたことなど、どうでもよかった。兎のように跳ねてグレイソンへ近づき、手を振った。
「残念だったねえ。ふふっ。それじゃ、バイバイ」
グレイソンには、何も聞こえなかった。ただ、ベッドに横たわるフィリップを、ぼんやり見ていた。体から力が抜けて久しかったが、ルークは押さえ続けた。
カレンは肩を揺らして踊りながら、呻く少女のそばへ行った。事務室には、メリーの泣き声と、カレンの靴の騒々しい音しかなかった。ジェリリンには、不快さが耐え難かった。ドナルドさえいなければ、蹴りつけていた。
「おじいさまの血を引いてもいないのに、死ななきゃいけないなんて、かわいそう。でも、面白くしてくれたから、冥福くらいは祈ってあげるねえ。お兄ちゃん、黙祷って、こうすればいいの?」
「カレン」
「うん?」
ドナルドが、頭を下げた妹を呼んだ。彼女が見上げて返事をした、そのとき、頬を打つ音がした。ジェリリンは目を疑った。カレンが目を丸くし、赤く腫れた頬に触れていた。
「お兄ちゃん、どうして……?」
「おとなしくしていなさい。今は、何も言うな」
カレンは、生まれて初めて、冷や汗をかいた。
そのときだった。喘息の患者のような激しい咳がベッドから聞こえ、フィリップが、目を閉じたまま口を開いた。
「僕は、生きてるのか……」
「ああ……よかった、よかった……」
メリーは、声の乱れを直すこともなく、繰り返した。激しく打つ胸と同じくらい、舌にも、言いたいことがあった。フィリップが瞼を開け、一輪の水仙のようなメイドを見ると、メリーは声を強めた。
「どうして、私の前に立ったんですか! 坊ちゃまが死んでしまったら、私は……」
「わかっていたから。メリーなら、人を守ろうとするだろうって。僕は、昨日会った人を助けるために、火の中へ飛び込めるほど、立派な人間じゃない。でも、メリーが傷つくところだけは、見たくなかったんだ」
「もう、しないでください。命を捨てようとしないで。お願いです。約束してください……」
フィリップは笑った。(それは、僕の台詞だよ。馬鹿だな。少しは、自分の命も大切にしてよ)
その、愛おしい矛盾を指摘はしなかった。
「メリー。時には、損得なんか考えず、命を投げ出してでも守りたいものがあるだろう。僕にとって、それは家族なんだ。君は、まだ心のどこかで、孤児であることを傷だと思っているかもしれない。表に出さなくても、本当の兄じゃない僕を、ぎこちなく感じることもあるかもしれない。でも、僕は君と過ごす時間が楽しい。それが、本当の気持ちなんだ。妹がいたら、きっと、こんな感じだろうと思っていた。両親が亡くなって、教会だけがぽつんと残ったとき、これからどう生きればいいのか、途方に暮れた。頼れる人がいなくなって、寂しかった。そのとき、僕が口癖のように言っていた願いを叶えようと、メイド服を着て慰めてくれた君が、ありがたくて、好きだったんだ。
一緒にいたい。話したい。声が聞きたい。顔が見たい。それなのに、いつか君が大人になって、出ていくかもしれないと思うと、胸の片隅が、いつも痛んだ。だから、一緒に旅行へ行きたい。思い出を作りたい。君を守りたいんだ。
これは、愛なんだろうね。でも、恋人同士の愛とは違う何か。燃えるような性的な欲望とは、離れた温もり。家族の、兄妹の、父と娘の愛情。君といると、そういう温かさを感じる。だからだと思う。代わりに死のうと思うより先に、脚が飛び出していた。焼けるような痛みが陽炎みたいに立ち上ったけど、胸は、君を守れたという喜びでいっぱいだった。
血は繋がっていなくても、心が絡み合った、離れられない、たった一人の家族なんだ。そんな相手のために身を捧げるのは、男らしいと思わない?」
メリーの握るフィリップの手には、力が入っていなかった。離せばベッドの下へ垂れ、二度と上がってこない気がした。かつて彼が自分を救ってくれたように、彼女も、その指へ自分の指を絡めた。
「しっかりして……。フィリップお兄ちゃんがいなくなったら、私、どう生きればいいの……」
終わりは、不意に訪れる。受け入れなければ、別れられない。すべて、自分が語った言葉だった。だが、死を静かに受け止めるには、少女は、あまりにも幼かった。
「誰が死ぬって? 痛いから、手を離してくれないかな……」
間違いなく、フィリップの声だった。手は、ひどく腫れていた。
「指の骨折で済んだ。天が助けてくれたんだな」
ヘンリーは、ようやく口を挟めた。フィリップは頭の上へ手をかざし、強打を受けたのだった。意識を失うとき、恐怖、安堵、痛み、喜び――相反する感情が、胸の中で嵐を起こした。限界を超えた勇気と、激しい衝撃がぶつかった瞬間、気を失ったが、命は途切れなかった。
メリーは膝をつき、シーツを涙で濡らした。死ぬかもしれないと思ったときより、大きな泣き声がドナルドの耳に届いたが、うるさいとは思わなかった。フィリップは起き上がり、布団に顔を埋めたメリーの髪を撫でた。やがて彼女は、ベルトを巻くように、両腕でフィリップを強く抱き、言った。
「愛しています」
フィリップは、顔を赤らめた。
「生きている……」
部屋の隅から、すすり泣きが聞こえた。グレイソンだった。演技のうまさは、皆知っている。だが、もう嘘をまとわなければならない理由は、残っていなかった。目的のために、罪のない友を殺した。百回、千回、覚悟していても、それだけで首を吊りたい気持ちだった。フィリップまで死ねば、もう人として生きられないだろう。そんな彼にとって、フィリップの生存は、何よりも大きかった。
グレイソンは、小刻みに震えた。ルークはグレイソンの両腕を背中へ回し、自分のネクタイをほどいて結び、応急の手錠にした。それから、体を押さえるのをやめた。
***
グレイソンが倒れた。舌でも噛んで自殺したのかと思ったルークは、様子を確かめ、苦笑した。彼もまた、眠気には勝てなかった。緊張と疲労、激しい感情が積み重なり、張り詰めた糸が緩むと、何もかも手放すように、体が強制的に眠りへ落としたのだ。ハロルド、ヒルダ、ヘンリーも、「終わった」と漏らし、それぞれの部屋へ向かった。互いへのわだかまりは、ベッドに背をつけると、半分ほど溶けていった。
ジェリリンは、もう何も言えないアダムの前で、目を閉じた。
(ごめんなさい。最期まで、一緒にいられなくて)
黙祷を終え、ゆっくり息をした。アダムは、いない。死んだのだ。痛いほど知る事実が、改めて、よそよそしく感じられた。彼女は遅れて、別れを告げた。
(さようなら、おじさん。ゆっくり休んでください。もう、全部終わりました)
別れは、忘れることではない。心にしまうことだ。そう決めて、アダムから顔を背けた。
そのとき、かかとを床につけられず、足踏みするカレンが目に入った。
「お兄ちゃん、私、もう行っていい……?」
カレンは両手の人差し指を合わせ、小さな三角を作った。兄へ向けていた目は、彼が近づくと行き場を失い、また床へ落ちた。
「ああ。戻って、おやすみ」
ドナルドは、カレンの赤い左頬を撫でた。カレンは、兄が離れないよう手首を掴み、しばらく頬を寄せてから、ようやく目を合わせた。
「いつもの、して」
ドナルドは周りをちらりと見て、前髪を上げ、額へ口づけた。
「おやすみなさい、お姫様」
カレンは微笑んで、事務室を出た。照れてはいなかった。当たり前の儀式だった。
一方、妹を送り出したドナルドは、この事件をどう処理すべきか、考えていた。彼には、終わったという言葉は似合わなかった。
(会社の評判への傷を、どう抑えるか。残った後継者問題も、頭が痛いな)
金を稼ぐために生まれた人間。呼吸さえ計画していそうな彼には、妹の頬を打った自分が信じられなかった。メリーの機嫌を取るためでも、カレンへ礼儀を教えるためでもなかった。それなら、何の目的もなく叱ったのか。無意味というか、説得力に欠ける話だ。
それでも、なぜか、体と心が一つになって、冷たい叱責を口にした。
(くそ。どうして、こんなに頭がごちゃごちゃするんだ)
絡んだ謎は、もうなかった。なのに、ドナルドは頭を抱えた。庶民が美しいと思うなど、目がおかしくなったのか。支配する側と、される側に分かれる。それが、世の道理だ。他人を搾取し、上に立てばいい。だから、会長になろうとした。サンライトでなくても、黎明を掴めると証明したかった。僕は、そういう人間だ。
庶民は、財閥の手のひらの上で物乞いする存在。労働力以外に、価値のない集団だ。そんな者たちに美を見いだすとは。つまらない冗談だ。死んだら、そのとき冥福を祈れば済む相手なのに。
「畜生」
ドナルドは、あえて悪態をついた。気を別のところへ向けたかった。録音の結末を聞こうと、メリーと同じ方法で、携帯電話のロックを解除した。
ひと目見ただけでも、使っていなさそうなアプリが、山ほど入っていた。社員の散らかったパソコン画面を注意するドナルドには、耐え難い光景だった。他人の携帯電話を手にすると、写真や閲覧履歴を見たいという好奇心も湧いたが、やめておいた。
録音ファイルを開くと、彼は携帯電話を取り落とした。
「ば、馬鹿な……」
「どうしたの?」
ジェリリンが床から拾った。驚くようなものはない、平凡な操作画面だった。ドナルドをじっと見ることで、問いかけた。
「録音時間を見ろ。五時間だ。喧嘩があったのは夜八時だから、午前三時まで届いていない……」
「保存容量が足りなくて、録音が止まっていたんです。予想外でした」
メリーは、そのときになってようやく、縮んでいた胸を撫で下ろせた。
「これを見て、よく、あんな嘘を……」
「嘘ではありませんでした」
彼女は、きっぱりと言った。
「自白を引き出すためでしたけど、嘘ではありません。私は、本当に、人は善いものだと信じています。人は衝動的に誰かを傷つけますが、それは本心ではないんです。一日経って考えれば、そうしなくてよかったと思うことです。欲に目がくらみ、獣へ落ちていく淵でも、最後まで崖にしがみつき、光を求め続ける存在。理性の船が衝動で難破しても、歯を食いしばって港を目指す、諦めない船長。それが人の姿であり、今までの人類だと思います。
波にさらわれた船を掴めず、悪へ手を伸ばしたとしても、人の心があれば、罪悪感は残るはずです。その感情こそ、人格の欠片。人は、それをなくしたら、もう人間ではないと思います。グレイソンさんをかばうわけではありません。でも、あの人も、復讐の渦に沈んだ、弱い人間の一人なのだと思います」
メリーは息を止め、フィリップを見た。
「人を殺す人がいます。でも、何もかも投げ出して、人を救おうとする人もいます。世の中には悪が溢れていますが、善もまた、満ちています。私は、人の明るいところを、もっと信じたいんです」
ドナルドは深くため息をつき、やがて、似合わない、甲高い笑い声を上げた。三十秒も続いた。気が触れたと言っても、おかしくないほどだった。笑うといえば、取引相手に作り笑いを見せることしかなかった人間が、腹を抱えて笑っている。ジェリリンは、いとこの兄が発作でも起こしたのかと思い、親族を呼び戻そうとした。
「まったく、笑わせる子だ」
ドナルドは、皮肉な鼻笑いを一つ漏らし、爆笑を終えた。ジェリリンは、出しかけた足を止め、呆然とした。メリーが『何がおかしいんですか』と、きつく言おうとした、そのときだった。ドナルドは目をそっと閉じ、口角を上げ、言葉を締めくくった。
「僕の負けだ」
終わらなかったワイングラス勝負は、ドナルドの降参で決着した。メリー、ジェリリン、そしてルークは、そっくりな別人でも見るように、彼を見つめた。ドナルドは片膝を床につき、気絶のあとで、まだ横になっているフィリップへ、目を合わせた。
「フィリップさん。大広間でのことを、謝ります。あなたは、勇気のある人です。それに、立派な妹さんをお持ちですね」
ドナルドには、彼女の言葉が正しいかどうか、論じる気は起きなかった。人が善いか悪いかに、関心がないからなのか。どんな理屈をつけても、理由は説明し難かった。確かなことは、一つだけ。この敗北は、ひどく甘いということだった。
握手を求めようとして、ドナルドはフィリップの手の甲の痣に気づき、腕を引いた。フィリップは照れたように笑った。そして、妹を持つ兄同士の会釈が、握手の代わりになった。
空気を震わせる規則的な音が、かすかに聞こえた。近づくサイレンのように大きくなり、プロペラの音へ変わった。広い平地には、ゴルフ以外の使い道もあった。着陸した警察のヘリコプターから、私服の刑事が三人下りた。
メリーは、窓の外を歩いてくる刑事たちを見てから、目の周りが血で汚れたグレイソンを見た。彼は、どうなるのだろう。法の裁きを受けるのか。生まれ変われるのか。罰は人を変えられるのか。自分だったら、アーノルドを殺しただろうか。殺さないと、言い切れるだろうか。すべての争いを、話し合いで解決できるのか。父の遺作を盗んだ者が威張る世の中を生きるのは、どんな気持ちなのだろう。
胸に、石が載せられた。
「本当に、おかしな世の中ですね」
「ふん、まったくだ。ずいぶん早い到着だよ」
「警察のことではありません。エジソンは電球を発明していないのに、偉人伝に載って、アイデアを盗まれたジョゼフ・スワンは、誰も知らないでしょう。ひどいと思いませんか?」
ドナルドは黙って見た。メリーなら、きっと続きを言うと感じたからだ。
「一つ、お願いがあります」
***
眠り込んでいたサニーとペリーが、何事かと、遅れて騒ぎ出した。ドナルドは二人を抑え、現場を見守るためにも、徹夜するしかなかった。カフェインの偉大さを知る瞬間だった。
正式な聞き取りが始まったのは、眠っていた者たちが再び一日を始めた、その日の午後三時からだった。警察官の役目は、市民を守る者というより、書記に近かった。ドナルドは事件の経緯を発表するように説明し、グレイソンは刑事の前で自白した。ネクタイの手錠を外され、鉄の拘束をつけられた彼は、両脇を刑事に押さえられて歩きながら、すれ違うメリーへ言った。
「償うのは、アダムを殺した分だけだ」
脅しでも、警告でもなかった。社会に残す、最後の言葉だった。
取り調べは、もう一日続いた。アダムだけでなく、アーノルドの死も調べるので、時間がかかったのだろう。それだけでなく、幼い顔の少女が事件を解いたことが、信じられなかったのかもしれない。まだ結婚する年でもなさそうな刑事は、武勇伝を訊くように、「犯人を明かすときは、どんな気持ちだった?」と、何度も尋ねた。これでは、警察でも書記でもなく、芸能記者ではないか。犯人はわかったのに、何が問題なのかと言いかけたハロルドは、後継者問題の解決策を考える時間ができたと、受け止めることにした。
「わかりました。女子高生が殺人事件を解決するとは、大したものですね」
警察の中で、最も年長に見える男が言った。二人の命が絶たれてから、すでに三十時間以上が過ぎていた。手帳をめくり、何度か無線で話したあと、「もう、お帰りになって結構です」と、椅子を引いて立ち上がった。
終わらないように思えたリゾートでの時間にも、幕を下ろすときが来た。ゴルフ場を越え、一時間車に揺られ、島の端の空港へ着いた一行は、何事もなかったように握手を交わした。ヒルダは、ヘンリーへ無礼な口を利いたことを、まだ気にしていたらしく、相手が気まずくなるほど謝った。
「構いませんよ。変なことを言ったのは、私が先ですから。それでは、それぞれ、気をつけて」
ヘンリーはそう言って、ヒルダの謝罪を遮り、実の兄を見た。『あのときは、冗談だったんだ』とでもいうような、ばつの悪い顔だった。ハロルドは鼻でひと笑いし、争いを終わらせた。
滑走路脇の駐機場まで、一緒に歩いたメリーとフィリップは、来たときには気づかなかった光景に、感嘆した。やはり、金持ちは金持ちなのか。ハロルドも、ヘンリーも、サニーも、それぞれ小さな自家用機を持っていた。ジェリリンは、今度も一般の便で帰ると言ったが、ヒルダは、しばらく娘と離れる気になれなかった。抱き締めて、母の気持ちを伝えた。
エンジン音を響かせる別れを前に、ジェリリンは足を動かせなかった。振り返り、メリーを見た。
「会えて、楽しかった」
そう言っても、体が傾かないことが嬉しかった。最後は、笑って別れたかった。だが、友達の顔を見ると、また馬鹿みたいに泣いてしまいそうだ。肘の内側で目を隠し、返事を待たず、空を飛ぶ機械へ走った。出会いがあれば、別れがある。世の道理の前に、膝を折った気分だった。
それでも、エンジン音に消されない、はっきりとした声が、背中へ届いた。
「また、会いましょう。お姉さん」
窓の外で、メリーとフィリップが手を振っていた。ジェリリンも手を上げようとしたが、目がこぼれそうなほど、悲しくなった。顔を隠すため、窓のカーテンを引くしかなかった。
考えを整理する間もなく、飛行機が動き始めた。学校の前を通る車のように、ゆっくり進んでいた自家用機は、やがてレーシングカーのように走り、轟音とともに機首を上げた。
「二度と来たくないな」
「あなたは、年を取っても、あんな島に建物を造らないでね」
ハロルドとヒルダは、小さくなるリゾートを見ると、喉が乾いたように、すぐ顔を背けた。だが、ジェリリンはカーテンを開け、外を見ていた。リゾートが点になり、雲の向こうへ消えても、濡れた目を離せなかった。
次回「サンライトリゾート編 エピローグ」は、2026年10月17日(土)21:10(日本時間)に公開予定です。




