サンライトリゾート編 第23話
「お嬢様! こちらですか?」
屋上に響いた大きな声は、ルークのものだった。朝日に照らされたジェリリンをすぐに見つけ、返事も待たず駆け寄ってきた。社長が心配していると告げると、メリーは「ご心配をおかけして、すみません」と、何があったかは話さなかった。
「ご無事で、何よりです……」
行方のわからない少女を捜しながら、ルークは最悪の事態を考えていた。ハンカチで両目を強く押さえる姿が、これほど美しく見えたことはなかった。「大げさね」。平然としたふりをするジェリリンは、目に当てた布を、長く離せずにいた。
メリーには、心臓の音が聞こえた。一人ではなく、二人分だった。人は、生きているだけで価値がある。友達と並んで見られる日の出があるだけで、生きる理由がある。メリーが押し込んだ命の波が、二人の少女の胸を、ともに脈打たせていた。
「そういうことだったんだ」
メリーは胸に手を当て、呟いた。続く言葉で、その気づきがどこへ向いたのか、察することができた。
「戻りましょう、お姉さん。すべてを終わらせる時間です」
ルークに、大広間で使ったドライアイスを持ってきてほしいと頼み、ジェリリンと階段を下りた。理由を問いもせず引き受けたボディーガードは、メリーへの深い信頼を示していた。
「秘密にして。飛び降りようとしたこと」
一階の廊下の向こうに、明かりのついた事務室が見えると、ジェリリンは歩調を落として言った。メリーも歩みを合わせ、軽い調子で答えた。
「うーん、一つ、約束してくれるなら」
「な、何よ。あなた、本当に交渉が好きなのね」
澄ました反応を、メリーはにこりと受け流し、声に力を込めた。
「お姉さんの持つ富と地位を、弱い人を助けるために、使ってくれませんか?」
金を欲しがることはないだろう。それ以外、何も予想できなかった。ジェリリンは、頷けなかった。
「どうして、私が守ると信じられるの。知ってるでしょ。私、性格がねじ曲がってるのよ……。箱の前の碑文だって、自分が主役になれないなら、あなたにも解けなければいいと思ってた。私、ラミスと同じだったのよ」
「人を妬む気持ちは、誰にでもあると思います。性格の曲がった人は、困っている誰かのために、嘘をついてくれたりしません。約束を守ってくれると思うのは、特別な保証があるからじゃないんです。友達は、理由もなく信じるものだから。私が、信じたいだけです」
「何の理由もなく、人を信じるの? そんなこと、言わないで。口先だけの甘い言葉じゃない……」
「約束を破る人ではないと、わかっています」
メリーは足を止め、ジェリリンの顔を見た。
「屋上で昔の話をしたとき、憧れていたラミスの、よいところも話してくれましたよね。裏切られた相手の長所を覚えていて、口にできるなんて、なかなかできません。感じたんです。お姉さんは、裏切り方を知らない、馬鹿みたいに一途な女の子なんだって」
ジェリリンは天井を見上げ、何度も瞬きをして、また熱くなる目元と喉を冷ました。「私を馬鹿だなんて、いい度胸ね」と、つっかえながら言い、どうにか涙をこらえた。数歩進むと、事務室の声が聞こえ始めた。歩幅は、歩き始める前の赤ん坊のように、さらに狭くなった。
「私のことも、秘密にしてください。坊ちゃまが好きだということ」
「それは、隠す必要もないと思うけど……。とにかく、私にも条件があるわ」
「はい?」
「あなた。どこに住んでるか、教えて」
「クヌルプです。今まで、田舎者っぽさが出ていましたか?」
「黎明タイガースの本拠地があるところじゃない。偶然ね」
「人が少なくて、本拠地が変わってしまいそうなんです。この機会に、お姉さんが支援してください」
「駄目。私、節約には厳しいんだから」
「えっ。そうは見えませんでしたけど」
「な、何を言うの! 私、ヨーグルトの蓋だって舐めるんだから!」
この時間が、永遠に続けばいい。メリーが、あの扉をいつまでも開けなければいい。そう願いながら、小さな都市であり、大きな町でもある名前を、繰り返した。
隣にいるだけで、温もりを感じる存在。サンライトは、私より、あなたに似合うんじゃないか。束の間の笑いが静まると、メリーは黙って私を見た。私は、頷いた。
彼女は、終幕を開くドアノブを回した。
***
ヒルダがジェリリンを抱き締めた。娘を案じる母の心と、弟を失った姉の悲嘆が混じる抱擁を、離したくなかった。母の肩越しにテーブルを見ると、皆、囲んで座り、頭を抱えていた。母娘が再会を味わうのを待ち切れず、ドナルドは「どうして事務室へ行ったんだ?」と問い詰めた。ジェリリンは、おじさんが死ぬ夢を見て、不吉に思ったと話すのをためらった。説得力に欠けることも理由の一つだったが、夢を思い出すと、父の顔を見るのがつらくなったからでもあった。大人たちは、ためらいがちに始まった話を追ったが、たどたどしい説明に耳を閉ざした。
「待つだけ損だったな。判断の根拠は、ただの悪夢か」
要点だけを拾ったドナルドには、本当かと問い返す気力もなく、非難で話を終えた。夢の内容を詳しく訊かれるのではと心配していたジェリリンは、それらしい話を作る苦労を免れた。
「天気も回復したし、数時間もすれば警察が来る。結局は、全部わかるさ」
ヘンリーは、うんざりしていた。険しい目で実の兄を睨んでいたので、まだ名前の出ていない誰かが捕まるのを、期待した言葉ではなかった。だが、最後に口が開き、あくびが出たので、ハロルドは刺々しい真意を感じ取れなかった。その場の全員が、犯人との勝負ではなく、疲労との大激戦を繰り広げていた。睡魔を前に、血気盛んな青い髪の青年も、白旗を上げた。
「無駄骨ばかりでしたね。従業員に、事務室の戸締まりをさせてください。僕は、もう休みます」
「素人が出る幕ではなかったんだ。現場を保存すべきなのに、大事な証拠を壊してしまった……」
ハロルドは、遺言状を捜してあちこちへ足跡や指紋を残した、自分の落ち度が大きいとは言えなかった。疲れた目がドアノブへ向いた、そのときだった。
「あんな方法で、人を殺せるなんて。想像もしませんでした」
背を向けた大人たちの足が、次の一歩を踏み出せなかった。メリーだった。ハロルドは、自分を犯人と名指しするつもりかと思い、わざと呆れを示した。
「ピーナッツで殺したのは、皆わかっているだろう。何を今さら」
「普通なら、社長のように反応するはずです。犯人なら、私の口を塞ぐ方法を、考え始めたでしょうけれど」
「一体、何のことだ。わかるように説明しろ」
ドナルドは、メリーの意見を却下するという言葉を、静かに撤回し、両腕を組んだ。
「メリー。真相がわかったの?」
フィリップが低く囁き、メリーは、その呼びかけに答えた。
「アダムさんを殺したのは、グレイソンさんです」
誰もが凍りつき、メリーと秘書を交互に見た。反論する者も、頷く者もいなかった。なぜ、と自分に問いかけていた。静けさが長引くと、グレイソンは力なく唇を開き、気の抜けた笑いを漏らした。そして、さらに深く椅子へもたれた。
「私だと思った理由を、聞かせてもらいましょうか」
「四つ、あります」
グレイソンの頬が、ひくりと動いた。大人たちの足先は、いつの間にか、人差し指を立てたメリーへ向き直っていた。
「一つ目は、三階へ駆けつけたとき、アダムさんとハロルド社長に、どうして喧嘩になったのか、尋ねたことです」
「何がおかしいんです?」
「倒れていたのは、ハロルド社長だけではありません。ヘンリーさんやサニーさんも、いました。階段を上がってきたばかりの人が、あの二人の喧嘩だと特定するのは、難しいはずです。あなたは終わるまで見ていて、社長がアダムさんを殺してもおかしくないと思われる頃に、姿を現したのではありませんか?」
「呆れたな」
グレイソンが、空気の抜けたような声を漏らすと、ヘンリーが続けた。
「それは、言い方の問題だろう。仮に見ていたとしても、殺した証拠にはならないじゃないか」
「そのとおりです。根拠としては、あまりにも足りません。私も、これだけで犯人の仮面を剥がそうとしているわけではありません」
メリーは、人差し指に続いて、中指を伸ばした。
「二つ目。あなたは、外へ出たと言いました。あの風雨の中を」
「言いましたね。それがどうしました? 外に出たことは犯人と関係ないと、ご自分で言ったではありませんか」
グレイソンの口調が、一段荒くなった。犯人だという言葉は、冗談ではなかったのだ。
「こうも言いましたね。『芝生では、重い雨に打たれて、会長と同じように死んだ虫から、目を背けたりもしました』と。悲しい気持ちを表すには、ぴったりの言葉です。でも、荒野だった無人島に造られた、このリゾートのゴルフ場は人工芝で、虫は棲んでいません。窓から逃げて靴が濡れたことをごまかそうと、外出の理由を飾るためにつけ足した、ありもしない美辞麗句。それで、あなたがアダムさんを殺したと確信しました」
一つ目の根拠には首を傾げた者たちも、頭に雷が落ちたようだった。グレイソンの隣にいたドナルドが、そっと一歩離れた。
「いや、それは見間違いでしょう。ひどく暗かったので。話すうちに、大げさになることくらい、あるでしょう?」
グレイソンは照れたように笑い、皆を見回した。その空気に乗る者は、いなかった。
「三つ目は、根拠と呼ぶのは難しいのですが……」
メリーは語尾を濁した。憶測を俎上に載せることに、抵抗があったのだろうか。
「構わない。言ってごらん」
ハロルドに促され、続きを口にできた。
「ジェリリンお姉さんの心肺蘇生には、生かしたいという、はっきりした思いを感じました。でも、グレイソンさんの心肺蘇生は、虚ろでした。執念を感じなかったんです。やらなければ困る、目的を果たせない。そんな気持ちから来る、冷たい行動に見えました」
グレイソンの前には、話し終えて唇を結び、反論する機会を与えるように見つめる少女がいた。乾いた笑いを飲み込むと、人間への嫌悪が沸き上がった。もう、丁寧に話す必要はなかった。
「映画の感想文か? そんなことで難癖をつけるなら、理由もなく私が犯人だと言えばいい。人が倒れていたから、助けようとした。それだけだ!」
メリーは、苦い笑みを浮かべた。言わされたのだとグレイソンが気づいたとき、少女は三つ目の根拠を説明した。
「人が倒れていたら、助けようとする。誰もが持つ、憐れみの心が起こす行動です。心肺蘇生をしている人がいる限り、常識のある人なら、倒れている相手を勝手に遺体扱いして、観察しようとはしません。胸を押す人がいなくなり、蕁麻疹を見たとき、こう思うんです。『アダムは、アナフィラキシーショックで死んだ。慌てていて、こんな状態だったことにも気づかなかった』と」
「死因が違うというのか? 出血多量の可能性も、考えられないことはないが、死ぬほどの量ではなかった」
ドナルドは顎を撫で、誰にともなく呟いた。ヘンリーは、何食わぬ顔で言った。
「最初から、おかしいと思っていたんだ。なぜ、犯人は心臓を止めたのか。血が巡らなければ、アナフィラキシーショックは起こらない」
「ショックは、見たとおり、実際に起きました。ただ、その時点が違うんです」
「時点?」
フィリップは、話についていけなかった。
「アナフィラキシーショックは、心肺蘇生の最中に起きたんです。アダムさんの左手が動いたのは、止まった心臓を動かしたための反応でした。でも、心臓を押して血液を送ることで、血に溶け込んだ死の成分も、体の隅々へ広がりました。私たちは、心肺蘇生を尊い救命処置だと考えています。だから、殺人に直結するとは、思いも寄りません。心肺蘇生による循環は、通常の三分の一ほどなので、蕁麻疹が出るまでに、三倍の時間がかかります。グレイソンさんは、目で見えるショックの痕がアダムさんの体に現れるまで、胸を押し続けなければならなかった。死因がピーナッツだと知らせ、ハニーピーナッツをハロルド社長のポケットへ入れて、罪を着せるために。私たちがあなたを止められなかったのは、表向きには救命行為だったからでもあります。でも、即死した会長へ駆け寄り、涙を拭う姿と重なって、『この人は命を大事にする人だ』という印象があったことも、大きかったでしょう」
「違う。馬鹿な話だ。私は、アダムを助けたかっただけだ」
「答えに詰まったら、そう反論できるのが、このトリックの便利なところですね。ジェリリンお姉さんが事務室へ来るという、不測の事態の中でも策を思いつけるとは、大したものです」
カレンがメリーの前へ出て、いつもどおり、語尾を伸ばして言った。
「ふうん。言いたいことはわかるけどお。ハニーピーナッツを食べたこと自体、おかしいよね。唇にシロップまでつけて食べたのは、どうしてえ?」
ヒルダはためらいながら、秘書の名を口にした。
「それは、グレイソンさん……が、無理に食べさせたんでしょう」
「私が殺したんじゃありません! 皆、どうかしているんですか? 警察も来ていないのに、どうして、その子の言葉を信じるんです!」
ドナルドはグレイソンを睨んだ。犯人扱いする目ではなく、騒がしさに耐える限界を示す目だった。乱暴な言葉を口にしないよう堪えるだけで、ドナルドは疲れ果てていた。
「まずは、答えを聞きましょう」
メリーは、初めてドナルドをありがたいと思った。
「アダムさんは、ハニーピーナッツを食べていないはずだよ。固形物を口に入れて、気道に詰まらせたら、ショックを起こせないから。ピーナッツの成分を含む液体を使ったんだと思う。グレイソンさんは、テーブルの魔法瓶に触れて、私たちの目の前で指紋を残し、中身もなくそうとした。そこに入っていたんだろうね。ベッドに血がなく、倒れていたのがテーブルの近くだったことからすると、親しい人に相談でもしながら、自分で飲んだのかもしれない。人が近づいてきたので、意識のあるアダムさんに、自分と会ったと言われないよう、グレイソンさんは暴力を使ったんだ。心肺蘇生で、とどめを刺すことまで計算して」
「でも、唇にはハニーピーナッツのシロップがついてたよお。それはどうして?」
「カレン、グレイソンさんが、心肺蘇生をやめたあと、泣いていたのを覚えてる? アダムさんの両頬を撫でながら泣いていたよね。そのとき、口元にシロップをつけたんだと思う。遺体の唇へ親指を近づけるために、それらしい言葉を言いながら」
メリーはグレイソンを見て、カレンに向けていた優しさを消した。
「大広間のほうから歩いてきて、私と会ったのは、偶然ではなかったんですね。ハロルド社長に罪を着せるハニーピーナッツを用意し、ショックの原因がそのお菓子だと思わせるため、手にシロップをつけて、戻る途中だったのでしょう。アダムさんの頭を殴りつけたあと、平然と心配する演技をして」
ジェリリンの手が震えた。気づいたヒルダは、もう一度娘を抱いた。母は娘の胸に顔を埋め、すすり泣いた。「どうして……」。アダムの死で苦しいのは、自分だけではなかった。ジェリリンは、グレイソンへの怒りより、母を慰めたいという思いが先に立った。
「反論はありますか?」
ドナルドは容疑者に発言を促したが、すでに距離は、反論で縮まるようなものではなかった。入口側にいた者たちが、一人、また一人と、部屋の奥へ移った。「動機が知りたいなあ」。カレンが腰をかがめ、グレイソンを見上げると、ドナルドが慌てて駆け寄り、手首を引いた。
グレイソンは、反り返って笑った。頭頂が床を向き、背中が逆に折れそうなほどだった。奇妙な振る舞いを、ただの突飛な行動だと思う者はいなかった。座っていた椅子を蹴り入れ、「探偵ごっこは、そこまでだ」と切り出した。
「人を殺人犯呼ばわりして、物証は一つもない。空論を並べ、根拠だと言って差し出すのは、思い込みだけだ。おい、メリーと言ったな? 何を話すかと思えば、そんなものは推理じゃない。作り話だ。証拠もないのに、詭弁で人を惑わすんじゃない。社会に出たら、痛い目を見るぞ。大人として、忠告しておく」
「魔法瓶があります。洗い流しても、痕跡は残っているはずです。調べれば、持ち主もわかるでしょう」
フィリップは気の毒そうに言ったが、グレイソンの顔は、元がわからないほど皺だらけに強張っていた。
「ピーナッツの成分が出ると、どうしてわかる! アデンマンは法治国家だぞ! 推定無罪の原則を知らないのか? 結局、言い間違いに食いついているだけじゃないか! 確かな証拠を出せ。証拠を!」
「最後の、四つ目です」
メリーは遺体へ近づき、膨らんだポケットへ手を入れた。
「アダムさんは、携帯電話の録音を始めていました。外からの脅迫を証明するためですから、事務室へ戻っても、止めなかったはずです。録音を始めたのは、四〇三号室の中。あなたは、こんな伏兵がいるとは、思わなかったでしょうね」
「何だって……?」
言葉は心の中に留まらず、思わず口から飛び出した。
メリーは、遺体の親指を携帯電話へ当て、ロックを解除した。画面を見て一瞬止まり、微妙な笑みを浮かべると、録音を再生した。
「これなら、納得していただけますね?」
再生バーが進むたび、音が次々と変わった。ハロルドとアダムの争い、それを止める声、グレイソンが事情を訊く声、廊下を走る音。昨日の騒ぎが、順に再現された。
「待て」
「無実を証明したくありませんか?」
かちゃりと事務室の扉が閉まると、独り言や、紙を握っては広げる音が、はっきり聞こえた。その紙が遺言状だとは、アダムの笑い声で、誰にもわかった。やがて、寝る合図のようにマットレスが弾む音がし、そのあとは、何も物音を立てなくなった。
誰もが息を潜めた。まもなく訪れるアダムの運命を知る者たちは、悲鳴や恐ろしい音がするのではと怯えながらも、耳を離せなかった。人間なら、想定外の事態には何か反応する。独り言でも、短いため息でもいい。犯人の声を探す。あるいは、被害者が犯人の名を叫ぶかもしれない。
メリーは携帯電話を操作しながら、グレイソンを見つめた。
「この辺りで、午前三時でしょうか」
指が動くたび、グレイソンの手に残る、痺れるような恐ろしい感触が蘇った。(やめろ。父の無念を晴らしたかっただけだ。私は悪くない)。自分を慰めるほど、嘘を重ねる疲れに、何もかも投げ出したくなった。アダムを死へ送ると決め、練り上げた計画が、すべて水の泡になった。
「グレイソンさん。人が獣と違う理由を、ご存じですか?」
その声は、殺人犯へ向けるものではなかった。一人の人間へ訴える、切実さが滲んでいた。窓の外の雨音だけを収め、死へ向かって走る録音を止めると、メリーは一歩、近づいた。
「私は、都市伝説のようなものは好きではありません。でも、世界を動かす摂理や運命は、あるかもしれないと思っています。人は古代から、罪や道徳という概念を作り、秩序を守ってきました。でも、それは作ったのではなく、最初から人間が持っていたからこそ、殺人や盗みを悪とする考えが、今まで続いてきたのではないでしょうか。
人を殺してはいけない。人を殴ってはいけない。他人の物を盗んではいけない。古くから、世界各地のさまざまな民族が築いた法律には、通じるものがあります。社会の秩序を守るという理由だけで、そんなふうにできたのでしょうか。
つまり、人は生まれたときから、知っているんです。何をしていいのか、何をしてはいけないのか。人が獣と違っていられるのは、良心という臓器が傷ついたときに感じる痛み――罪悪感のおかげです。
私たちは皆、誘惑に負けて罪を犯します。目先の利益に、目がくらむこともあります。それでも、罪を認め、責任を感じるとき、自分が獣ではないと証明するんです。
あなたを人間にしてくれる、その尊い感情が、まだ少しでも心に残っているなら、選ぶ機会を差し上げます。人間として負けるか、獣としてあがくか」
メリーが言い終えると、答えがあるまで、息の音一つ聞こえなかった。グレイソンの腕が、力なく下がった。反動で揺れた腕が、やがて太腿の脇に収まると、ズボンを握りしめ、独り言を漏らした。
「他人の物を、盗んではいけない……」
(なぜ、私まで、こんなことになった。どれほど努力しても、私たちは実を結べない)。ふと浮かんだ肉親の姿に、グレイソンは苦く笑った。良心を捨てたあいつのせいで、安らかに目を閉じられなかった人が、脳裏に揺れた。
父さん、許してください。刑を軽くして、また復讐します。必ず、黎明を潰してみせます。
「そうだ。私が殺した」
時が止まった。
「どうして殺したの。おじさんとは、友達だったんでしょう……」
ジェリリンだった。自分の信じるものの外にある行為への、呆然とした思いは、アダムを殺した者への怒りを超えていた。
「あいつと友達だったなどと言うな。アダムは、私の婚約者を奪おうとした。女好きなのは知っていたが、私の恋人にまで手を出すとは思わなかった。あいつを殺して、自分も死のうと、機会を窺っていた。だが、会長の遺産が、アダムを後継者にするものだと聞いて、社長へ罪を着せようと思いついてしまった。恥知らずにも、会長の死を利用しようとしたんだ。魔が差したんだろう」
「違う。おじさんが、そんなことをするはず……」
ジェリリンは、言葉を漏らした。フィリップは喫茶店で読んだブログを思い出した。(そんなことまでしていたなんて)。唇を噛み、心の隙間から、ほんのわずかな同情を向けた。
メリーは、胸が潰れそうだった。嘘の中に閉じこもってまで、果たさなければならないことは何なのか。底の見えない憎しみを感じ、悲しくなった。
「自白しても、まだ嘘をつくのは、なぜですか?」
視線が、彼女へ集まった。
「宴会場で、息子や娘がいるのかと会長に訊かれたとき、子どもどころか、ここ数年は恋人もいないと、おっしゃいました。なぜ、動機まで作って、本当のことを隠そうとするんですか?」
グレイソンは、呆然と後ずさった。「そんなことは言っていない」。壊れたロボットのように、同じ言葉をつっかえながら繰り返す姿は、哀れですらあった。メリーは、ベッドの上で自ら崩したパズルを、もう一度組み立てていった。
「グレイソンさん。あなたは、アーノルド・サンライトも殺した。私は、そう主張します」
「父さんまで、お前が?」
「待ってください、叔父さん。結論から言え、コスプレ女。シャンデリアを、どうやって落とした?」
今にも飛びかかりそうなハロルドを止め、ドナルドが言った。
「会長の演説のあとに出てきたケーキは、天井へ届きそうな高さでした。その上には、蝋燭が一本、立っていました。あの火で、シャンデリアと天井を繋ぐ、木の接合部分を焼いたんです。毎年の生クリームを、ダークチョコレートに変えたのも、ケーキに落ちた灰に、気づきにくくするためでしょう」
「蝋燭なんて、あったっけえ。私、見てないよお」
「カレンだけでなく、ほとんどの人には見えなかったはずです。大きすぎる横断幕のせいで。でも、最前列にいた私は、確かめられました。潰れたケーキの中を調べれば、蝋があるはずです」
「じゃあ、燃えるところも見たの?」
メリーは、事務室の天井を指さした。
「ううん。照明が強すぎて、天井を見られなかった。前の席の人を警戒して、そうしたんだと思う」
「そのときから、殺人が起きると思っていたの? 恐ろしいほど鋭いのね……」
ヒルダが言った。義父の死が事故ではないと聞いて、それほど驚かずにいられたのは、目の前に殺人犯がいたからだった。
「いいえ。照明や横断幕は、会長が亡くなってから考えると気になるだけで、その場では、主催側の手違いで済ませられる程度でした。強い違和感を覚えたのは、写真を撮り、お祝いの歌を歌う光景です。誕生日の主役を、ケーキの横に一人で残し、離れた場所から歌うのは、おかしかった。お祝いの根本が、揺らいでいると感じたんです」
ドナルドは、口を挟まずにいられなかった。
「そこには共感できないが、写真を綺麗に撮るためと言って、会長をシャンデリアの真下へ案内したのは、確かにグレイソンだ。横断幕も、ケーキも、八十歳の祝宴を取り仕切ったのは、同じ人間だな」
「シャンデリアは、実際に妙な音を立てただろう。あれは何だ?」
ヘンリーの言葉は、反論ではなかった。目の前の少女なら答えを知っているという、確信からの質問だった。
「遅くなって、申し訳ありません。ご依頼の品を、冷凍倉庫から持ってまいりました」
扉が開き、頼もしい声が聞こえた。ルークが、給仕のように、銀の蓋のついたトレーを持ってきた。(料理を注文した覚えはないが)。ヘンリーは冗談めいた考えを浮かべ、首を傾げた。
「ちょうどよかった。同じ音を、聞かせます」
メリーが蓋を開けると、白い霧が、一瞬で四方へ広がった。その見事な光景に、「わあ」と声を上げたのは、カレンだけだった。呆れた顔をする者はいない。大人たちは学生時代に戻り、結果の決まった科学実験を見るような気分だった。ドナルドだけは、何をするか察していたが、止める気にはならなかった。
メリーは小銭入れを取り出し、丸いトレーへ、中身をまとめて落とした。
「こ、これは……」
一同は、言葉を続けなかった。いろいろな硬貨が、ドライアイスの上で震えていた。振動とともに、耳の奥をかき回す異音が響く。夢の中で聞いたのか。既視感を覚えた。
「冷たい二酸化炭素の気体が、熱伝導率の高い物体の表面を振動させて、音を立てるんです。四〇三号室には、切れたパイプがあります。その筒が向かう先は、大広間の舞台のシャンデリアです。犯人は、私が硬貨を落としたのと逆に、金属へドライアイスを落とし、音を立てました。音がしたあとのシャンデリアは、蝋燭が消えていました。それも、ドライアイスの冷気によるものです。噴き出した霧が広がる頃、グレイソンさんは大広間の扉を開け、皆の視線を集めました。霧が床へ沈めば、そのときチェリストの演出用に出ていたドライアイスの霧へ混じり、証拠は消えます」
「ふうん。四〇三号室からドライアイスを落としたのが、秘書のおじさんとは限らないんじゃない?」
カレンが言った。
「あのとき、大広間の扉は閉まっていた。普通の耳なら、それほど大きくない音は聞こえない。それにグレイソンさんは、息を切らしていたから、かなり遠くから聞きつけてきたことになる。音がすると知っていなければ、無理だよ。仮に、特別に耳がよくて聞こえたとしても、閉じた大広間の外から、どこで鳴ったかはわからないはず。でも、グレイソンさんは、シャンデリアが古いことを口にした。まるで、そこから鳴ったと知っているみたいに。それは、先入観を植えつけて、シャンデリアが落ちても事故だと思わせるためだったんだ」
「そうなんだあ。二人も殺したんだから、ずいぶん長く、牢屋にいることになりそうだねえ」
絶望した顔を見たかったカレンは、兄の手が緩んだ隙に、グレイソンへ近づいた。しゃがんで眺めようとしたとき、叔父が邪魔に入った。
「遺言状をすり替えたのは、お前か! 本物はどこだ? どこへ隠した!」
ハロルドは、グレイソンの襟を掴んだ。いちばん大事なことを、まだ聞いていなかった。図々しく自分へ罪を着せようとしたことを責めるのは、あとにした。するとグレイソンは、コートの内ポケットに、いつも持っていた封筒を、社長のみぞおちへ押しつけた。ハロルドは相手の襟を掴んだまま後ずさりし、壁へぶつかった。ルークが、もう一度腕をねじろうと近づいたが、グレイソンは自分から離れ、社長へ真実を委ねた。
「ハロルド。謎の賞品は、会長の座なんかじゃない。それより、ずっと価値のあるものだ」
次回「サンライトリゾート編 第24話」は、2026年10月17日(土)21:00(日本時間)に公開予定です。
同日21:10(日本時間)には、「サンライトリゾート編 エピローグ」を公開予定です。第24話から順にお読みください。




