サンライトリゾート編 第22話
前へ身を投げたジェリリンの足首が、手すりの下へ消えた。五歩離れた場所にいたメリーには、脚に鉄筋を結びつけられたように、相手が遠く感じられた。一歩進むたび、手すりの向こうに見える姿が、切り取られていく。最後の二歩を省き、頭から滑り込んだ。掴めさえすれば、買ったばかりの服が台無しになっても構わない。汚れれば洗えばいい。皺になれば、アイロンをかければいい。だが、死の布を命に縫いつけることはできない。
メリーは目をきつく閉じ、伸ばした手を握った。全力で走った膝が鉄の手すりにぶつかり、鋭い痛みが生まれたはずなのに、感じなかった。肌と肌が、触れ合っていたからだ。
(掴んだ……)
束の間の安堵は、煙のように消えた。
(重い!)
百七十三センチの体重を、片手では支え切れない。体の半分以上が手すりの外へ出ていたメリーは、自分まで落ちそうに脚をふらつかせた。一瞬、死の恐怖に、手の力が逃げかけた。残った左手も使ってジェリリンの手首を掴み、綱引きのように、両脚で手すりの壁を死に物狂いで押した。
「何をしてるの! 早く離して!」
答える体力は残っていなかった。呼吸が乱れると、下半身の力が抜け、腕が外へ引かれ始めた。
(ふざけないで)
心の中で吐いた荒い言葉は、つった自分の脚にも、死にたいと言うジェリリンにも向けられていた。メリーは左足を抜き、残る力を振り絞って体を反転させ、思い切り身を折ると、ジェリリンを床へ叩きつけた。その方法を選んだのは、相手の感情を死から怒りへ向け直し、自殺を防ぎたいという思いもあった。
投げ出された少女は、床を掻いた。大理石のタイルに残る爪の跡が、心をそのまま表していた。
「どうして、死ぬことさえ好きにできないの。庶民のくせに、偽善ぶって……」
恨みに満ちた言葉が矢となり、胸を撫で下ろす少女へ向かった。
「息を整えて、ゆっくり話してください。どんな気持ちが、心の中にあるのか」
「あんたなんかに、何がわかるの。私は、あんたが嫌い。何も知らないくせに、偉そうに喋るのが、吐き気がするのよ……」
ジェリリンは手すりへ腕を伸ばして這い、床を押して立ち上がった。一度、死を覚悟した脚は、凍りついていた。上へ登らず、腹を預けて、そのまま前へ倒れるつもりだった。杖の必要な老婆のように動きが鈍く、止めるのは難しくなかった。
「メリー、お願い……。私、死にたいの。おじさんのいない世界なんて、生きていたくない……」
ジェリリンは、死を願った。すると、腰を抱く手が離れた。苦しみをわかってくれたのだろうか。(これでいい。おじさんのところへ行ける)。絶望の果てへ向かう自由を得たはずなのに、誰の手も触れず、ただ死を望んでいる今、この瞬間が、気が狂うほど寂しかった。やがて、矛盾する思いが、深いところに根を張っていると気づいた。
私を、引き止めて。
メリーはジェリリンの肩を掴み、振り向かせた。涙に濡れた顎の下で布を丸め、ないはずの襟元を作って掴むと、腕に血管が浮くほど強く引いた。
「甘えないで!」
稲妻はなかった。ならば、あの雷は人の声だった。ジェリリンは心臓が止まるかと思った。
「全部終わったとか、死にたいとか、子どもみたいなことはやめて! 衝動に身を焼いて、何もかも壊したいなんて、世間知らずのお嬢様の甘えでしかない。本当の価値は、無駄死にではなく、生きることにあるの! 生きていれば、いろんなことがある。答えを、死ぬことだけに求めないでよ!」
「もっともらしいことを言って、説得しないで。あんたなんか、今すぐ消えて……」
死にたいのか、生きたいのか。頭の中が、壊れていく。唇はもごもごと動くだけで、ろくに発音もできなかったが、メリーははっきり聞き取り、正面から返した。
「死ぬとわかっていて、放っておけるわけないでしょう! もう二度と、間違えない。もう誰も、死なせたりしない!」
ジェリリンには、指を曲げる力さえなかった。脚が折れたように座り込み、メリーも黙って壁に背を預け、腰を下ろした。
沈黙が屋上を支配した。冷たい海水の気を含んだ海風が襲い、二人の肌に鳥肌が立った。涼しいというより、寒いと言っていいほどだったが、どちらもその場を離れず、口も開かなかった。
眠るときに化粧を落とすことさえ忘れていたメリーは、冷や汗で崩れた化粧を、溜まった雨水で洗い流した。
(ひとまず、乗り越えた)
顔をこすり、深呼吸をした。大太鼓のような心臓が、遅れて横隔膜を叩き、胸が締めつけられる。その痛みほど、嬉しいものはなかった。ジェリリンは死ななかった。目の前で、確かに息をしている。
うつむいていたジェリリンは、安堵の息のほうへ頭を動かし、化粧の落ちた素顔と目が合った。メリーは、堂々と怒鳴ったときとは違い、ひどく気まずそうに目を逸らした。空気に合う言葉を選び、ぎこちなさを消そうとした。
「何にしても、よかったです。屋上へ来るのが、少しでも遅かったら……。考えたくもありません」
ジェリリンは、敬語へ戻ったことを不思議がる様子もなく、固く閉じていた口を開いた。
「遅れるはずないわ。待ってたんだから」
メリーは、開いた口を閉じられなかった。内容に驚いたのも、返事があると思っていなかったのも、理由だった。
「私を、待っていたんですか?」
「あんたじゃなくても、誰でもよ。私が死ぬのを見て、悲しんでくれる誰かが、必要だったの。誰にも知られずに消える勇気は、なかったから。笑いたければ、笑えばいい」
メリーは笑わなかった。ジェリリンは、投げ出した脚を両腕で抱え、人に許したはずの冷笑を、自分で漏らした。
「私、一人じゃ何もできないのね。死ぬことさえ、人が必要なんて……。これから、どう生きればいいかわからない。何のために生きればいいかも。私の人生、どうしてこうなっちゃったんだろう。幸せになれる気がしない……」
ジェリリンは膝へ額をつけた。間を置いて立ち上がったメリーは、死への足場にもなった、曲線の手すりへ手のひらを載せた。
「人生って、この手すりに似ている気がします」
忠告したいわけでも、教訓を与えたいわけでもなかった。ただ、今日、昇ってくる太陽を、彼女に見てほしかった。
「ジェリリン・サンライトが歩いてきた道を、私はよく知りません。でも、人の人生には、みんな、起伏があると思います。この手すりみたいに。誰にでも、手に入れたものがあるはずです。苦しい坂を登って得たものが、一つくらいは。でも、頂上へ着けば、あとは下るしかありません。だから落胆は、成功について回るのかもしれません。時間は戻らないと実感したとき、自分で死の扉を開いてしまう人も、いるんだと思います」
手は、死の境を越えようとした少女が踏んだ、窪んだ部分へ移った。ジェリリンは、言葉に磁石のように引かれ、顔を上げた。
「遠ざかる頂上を忘れられず、足を止めたり、今の自分を認めず、見方を変えなかったりすれば、惨めさは膨らむばかりです。坂を下るとき、顎を上げたままなら、怪我をするのは当然です。だから、下り坂ほど足元を見て、転ばないようにしなければ。落ちていくことを受け入れてこそ、また飛び立つ準備ができます。いちばん下まで、生きて下りてきた人だけが味わえる、喜びもあると思うんです。ほら。最後には、上り坂が出てきます」
メリーは手すりをなぞり、生き生きした目を向けた。手は斜めの曲線を越え、再び頂上へ向かった。そのまま数歩、歩くのに合わせて上下し、強風で途切れた箇所で、行き場を失った。
「そのあとも、落ちたり立ち直ったりを何度も繰り返して、不意に、死が訪れます。本人だけでなく、周りの人にも、恐ろしいことです。誰かの最期を受け入れるなんて、想像するだけでもつらい。でも、終わりを認めなければ、私たちは、その人と別れられません。関係に永遠に縛られるのは、悲劇だと思います。私たちは、いろんなものの終わりに向き合いながら、成長していくんじゃないでしょうか」
メリーは、静かに微笑んだ。今度はジェリリンが、照れたように目を逸らした。それでも、立ち上がるよう促す手を、無視できなかった。握った左手にはガラスの破片による傷があり、顔は水に濡れ、メイド服は裂けていた。みすぼらしい姿が、なぜ、こんなにも強く見えるのだろう。
「何なのよ、あんたって」
ジェリリンは、その手を取って立ち上がった。
「難しい質問ですね。心の声に従う、コスプレ女……くらいでしょうか」
メリーは頬の脇を掻き、冗談を混ぜた。相手が反応しないので、今度は質問で会話を続けようとし、無意識に混ぜてしまった呼び名を訂正した。
「ジェリリンさんは、ご自分をどんな人だと思いますか? あっ、いえ。ジェリリン様は……」
「もういいわ。お姉さんって呼んで。あなたが私のファンじゃないことくらい、会ったときから知ってた」
「えっ?」と返し、メリーは昨日のことを思い返した。演技が見え透いていたのだろうかと、理由を探した。
「あんな場面に割って入って、平然と話しかけるファンなんて、やっぱり、いませんよね」
メリーは眉尻を下げて笑った。ジェリリンの口角は、上がらなかった。
「私、本当はファンなんていないから……。ファンクラブだって、ママが私の機嫌を取るために、お金で集めた人たちなの。試合のたびに応援してくれる人も、実はみんな偽物。おかしいでしょう?」
力のない笑い声が、波音に隠れたときだった。
「だったら、私が客室乗務員さんを助けようとしたとき、どうして話を合わせてくれたんですか?」
「私も、わからない。怒鳴っているうちに、やめられなくなって、怒るのをやめる口実が欲しかったのかもしれない。苛々しながら、恥ずかしくもあったし……。私も、終わらせたかったんだと思う」
少女たちは、暗い海を見ていた。次にジェリリンが自分から口を開いたのは、沈黙を破るためでも、慰めてほしいからでもなかった。夜明け前の闇に埋もれてしまう本音を、ただ、話したかった。
「フレンド。それが、私の望むFだった」
メリーは、水平線の向こうに置いた視線を動かさず、言った。
「話してくれませんか? お姉さんの、昔のことを」
「中学生の頃、家の都合で転校が続いて、ちゃんと友達を作れなくて、つらかったの。両親がお金持ちという以外、自慢できるものもなくて、結局、クラスではいつも浮いていた。自己紹介をすると、サンライトという名字には興味を持たれるけど、それだけ。あなたみたいに話がうまいわけでも、頭がいいわけでもない。時間が経って、物珍しさが薄れると、誰も私に興味を持たなくなる。財閥の影から抜け出して、認められたいと思っていたの。
そこへ、チャンスが来たのかな。転校先の学校では、体育でテニスをしていて、乗馬やフェンシング、テニスを習ったことのある私は、注目された。ボールを打ち返すだけで、歓声が上がる。そのとき、話すようになったの。同じクラスで、ジュニアの大会を目指していたラミスと」
「ラミス?」
「いつも人に囲まれている人気者で、自信に満ちた態度で、場を引っ張る子だった。勉強も運動もできて、長い金髪と青い目なんだから、人気が出ないはずがないでしょう。その、みんなの憧れの子が、私に言ったの。『テニス部に入って』って。それまで話しかけてくるのは、黎明の後光を見て近づく人ばかりだった。男の子も、女の子も、先生まで。それなのに、テニス部へ来てほしいなんて。初めて、自分の力を認めてもらえた気がした。もう転校はないって、ママにも言われて、本当に嬉しかった。
ラミスは、いつも私に勝った。素早くて、きびきびした動きは、体が子どもなだけで、すっかりプロだったの……。私は、彼女に教わりながら、一緒にいられる時間が好きだった。ラミスの努力を無駄にしないよう、毎日、校庭を走り、ラケットを振った。あんなに何かを頑張ったことは、今までの人生で、ほかにない。本当に、死に物狂いだったのに……」
手すりが震えた。ジェリリンの手と、同じ震えだった。言葉が続かない間、メリーは息を細く分け、音を立てないようにした。
「うちのテニス部は予選で負けたけど、私とラミスは、個人戦で本戦へ進んだ。決勝で会おうって約束したの。本当に、いちばん上でラミスに会いたかった。ただ、約束を守りたかった。膝を擦りむいても、疲れ果てても、諦めることだけはしなかった。嘘みたいに、私たちは決勝で会えた。どちらが勝っても、笑って思い出にしようって、約束したの」
冷たい吐息が、床へ落ちた。
「私が勝たなければ、今頃、ずいぶん違っていたのに」
胸を詰まらせる言葉から、十数秒。唇を潰すように噛んだジェリリンは、組んだ手に額をつけた。
「学校へ行くと、自慢しようと持っていった優勝杯を、鞄から出す前に、みんなが私の話をしていた。名前も知らない隣のクラスの子まで来て、話しかけて、一緒にご飯を食べたがった。ニュースでインタビューを受けてからは、うちの学校じゃない人にも、知られるようになった。そして、ラミスの周りには……前みたいに、友達が集まらなくなった。
二週間くらいすると、話しかけてくる友達がいなくなった。私を見て、ひそひそ話す人が出てきたの。そういう反応もあるんだろうと思ったけど、理由のわからない軽蔑の目は、いつまで経っても消えなかった。ラミスも、体調が悪いと言って、私とテニスをしなくなった。やがて、ひそひそ話が耳に入って、一人になった理由がわかった。私が審判を買収して優勝したっていう噂が、学校中に広まっていたの。
見つけたかった。そんなことを言い出した奴を。私の努力を無駄にして、人間関係を全部消してしまった奴を。私は、子どもたちや先生にお金を渡して、噂の出どころを言わせた。覚えていないと言う奴も、お札を増やせば、魔法みたいに思い出した。一緒にご飯を食べた子、隣の席の子、テニスを教えてとせがんだ子、ようやく名前を覚えた隣のクラスの子まで。何も知らないくせに嘘を信じる子たちが憎かった。そんな奴らを友達だと思った自分が、嫌いだった。その嫌悪を終わらせるためにも、何日も何日も捜し回った。でたらめを広めた奴に、思い知らせなければならなかった。でも、ばらばらだった根が、一本の幹へ集まったとき、私は何度も否定した。嘘の噂を流したのが、ラミスだということを。
みんなの前で、初めてラミスに怒った。それでも、彼女を許したいとさえ思っていた。でも、ラミスは知らないふりをした。まっすぐ目を開いて、嘘をつく姿に、私は肩を押したの。
みんながざわめいた。怒りが、少しは伝わったのかな。違った。みんな、私の悪口を言っていた。あの子たちにとって、私はただの話題でしかなかったんでしょうね。
嘘だと訴えても、出どころを捜すために使ったお金のせいで、みんなは、審判を買収したという噂を、ますます信じていた。認めてもらおうとした努力の全部が、親がお金持ちだというだけで、水の泡になったの。座り込んだラミスの、冷たい笑みを見たとき、わからずにはいられなかった。苦しむ人を慰めることは、誰にでもできる。でも、友達の成功を、心から喜ぶ人なんて、一人もいない。人間は、結局、裏切る生き物なのよ。親切にして背中を刺されるくらいなら、好きなだけ侮辱して、その場をやり過ごしてやる。だって、私には腐るほど財産があるんだから。忌々しいお金で、片づければいいんだから。どんな悪いことをしても、ママとパパが、尻拭いをしてくれるんだから!
決めたの。『友達なんて作らない。好き勝手に生きてやる』って。
でもね……。そう決めてから、離れていく同年代の子や、いとこ、それから、だんだん無関心になる両親が憎かった。それでも、失いたくなかったの。本当に馬鹿みたいでしょう?
アダムおじさんだけは、違った。おじさんが私を愛していなかったことは、わかってる。当然、友達だとも思っていなかったでしょうね。それでも、話しているときは、裏切られる前の頃を懐かしめた。乱暴になった私を、わかってくれるのは、おじさんだけだったから。ネットにまで広がった嘘より、私の言葉を信じてくれて、本当に嬉しかったの。今はもう、認めてくれる人がいなくなった。お金を使って、コートの客席を埋めれば埋めるほど、心は空っぽになっていく……」
ジェリリンの人生を支えていたものに、形はなかった。友情という言葉のほかに、絶えず求める何かを、表すことはできなかった。
「人を信じられないのは、つらいのよ」
自然に閉じた口を、どうにか開いて表した悲しみは、時が経っても、生々しいままだった。彼女がそっと目を閉じると、冷たい風に乾いていた睫毛が、また濡れた。何も聞こえなくなり、静かな明け方の空気を味わえるまで黙っていたメリーは、何十回も考え直した言葉を口にした。
「ファンはいないとおっしゃいましたけど、全部が偽物ではないと思います。誰かが精いっぱい頑張っている姿を見ると、応援したくなるものですから」
ジェリリンは、手すりに腕を預けた。顔は反対へ向け、過去の決意を手放さないまま、それでも淡い紅色の唇は、メリーと話したいという思いを、隠さなかった。
「あなたも話して。心から、欲しかったものを」
「私が望んでいたFは、ファミリーでした」
「家族?」
「私には、両親がいないんです。赤ん坊のとき、籠に入れて捨てられていたのを、牧師様が拾ってくださったそうです。フィリップ坊ちゃまは、人に名乗るとき、名字を言いません。私を気遣って、ついた癖なんです。子どもの頃、孤児であることが、コンプレックスでしたから。
中学へ入る前なので、もう四年以上前のことですけど、はっきり覚えています。人を仲間外れにする理由って、本当に単純なんですね。アデンマンでは、養子は名字を継げないと知った同い年の子たちから、いろいろなあだ名をつけられました。無視して、牧師様を父親だと思おうとしたんですけど、どうしてもできませんでした。
学校では、図書室のほかに、居場所がありませんでした。寂しさを忘れたくて、手当たり次第に読んだ本の知識は、役に立つこともありますけど……。それでも、欲しかったんです。本当の家族が。孤児のまま生きるくらいなら、拾われないほうがよかったかもしれない。そんなことも考えました。学校が終わっても放っておいてくれない子たちから、逃げたかったんです。
ある日、変化が起きました。血の繋がった家族がいないというだけで、指さされていた私を、下校時間の重なったフィリップ坊ちゃまが、本当の兄のふりをして、かばってくれたんです。それでも、私は、彼の顔も見たくありませんでした。家族ごっこで、気に入られようとしているだけに思えたんです。でも、次の日も、その次の日も。坊ちゃまは毎日、一緒に家へ帰ってくれました。
一週間が経つ頃、私は言いました。お兄ちゃんは、どうして私に気に入られようとするの。こんなことで、家族ができるわけじゃない。私を惨めにするだけだって。苦しくて、怒鳴ってしまいました。すると、フィリップ坊ちゃまは、こう言ったんです。
『怒っているときより、素直な顔のほうが、ずっと綺麗だよ。きっと、誰でもそうなんだ。僕は、君の心へもっと近づきたい。その顔を守りたい。君は地面ばかり見て歩くから、知らないだろうけど、僕はいつも、君を見ながら歩いていたんだよ』。
彼は、私の手に指を絡めました。いつしか、手を繋いで歩けるというだけで、学校へ行くのが怖くなくなったんです。恋をしたら、何もかも違って見えました。私は、あの人が好きです。好きにならずにいられません……。
何か月かして、牧師様と奥様が亡くなったという知らせが届きました。雨の道で車が滑り、事故に遭ったなんて。憎む相手さえ見つからず、泣くことしかできませんでした。私でさえ、あれほどつらかったのに、実の両親を失った彼は……。私は、悲しみに沈むフィリップお兄ちゃんを幸せにしたくて、彼が前から憧れていたメイドを真似たんです。ほかの人には、くだらなく見えるかもしれません。でも、メイド服を着ていると、自分に価値があると感じられるんです」
明け方の海の向こうで、灯が、うつむいていた顔を上げ始めた。
「真っ暗な中でも、太陽を待てるのは、一人じゃないからです。大切な人がそばにいれば、つらさに負けずにいられます。私たちは、縁を重ねて、誰かと繋がりながら、幸せになるんだと思います……。あの、ジェリリンお姉さん?」
すすり泣きのほうへ顔を向けると、水平線の向こうにかすかに見える陽光が、手のひらでは拭い切れない涙を照らしていた。嬉し涙でも、悲しみの涙でもなかった。
「何でもないわ。埃が入っただけよ……」
ボディーガードの言葉を真似て、メリーを見た。通じるはずもない、澄ました返事に、メリーは何も言わず、水色のハンカチを差し出した。優しい手つきを見たジェリリンの、揺れる心臓が、声を上げた。
どうして、あなたはそんなに愛おしいの。どうして、見上げていたくなるの。
黎明が昇り、陽射しになる。日の出は毎日のことでも、その日の光は、ジェリリンにとって、二度とない光明だった。差し出されたハンカチを受け取り、過去の決意に背を押されるように、今の自分へ言った。
「最後にもう一度、騙されてあげる。友情っていう名の、詐欺師に」
次回「サンライトリゾート編 第23話」は、2026年10月16日(金)21:00(日本時間)に公開予定です。




