サンライトリゾート編 第21話
大男のルークが制止し、争いは収まった。グレイソンがハロルドの襟を掴み、拳を振り上げた瞬間、巨体からは想像し難い素早い護身術で、秘書の腕を背中へねじ上げた。短い悲鳴が上がったが、完全に抑えたと判断するまで、腕を緩めず、ボディーガードの務めを果たした。
悲鳴を上げた秘書は、奥歯を噛み締め、無実の死刑囚のように言った。「結局、身内の肩を持つんですね」。やがて乾いた笑いを漏らした。体から力が抜け、抵抗する意思が消えたと感じたルークは、腕を戻し、膝をついた。
「グレイソンさん。殴ってお気持ちが収まるのでしたら、気が済むまで、私をお殴りください。ですが、どうかおわかりください。お嬢様は、人を殺していません。もちろん、ハロルド社長も、奥様も、グレイソンさんも、ヘンリー社長も、殺人などなさっていないはずです。ですから、争いをやめていただけませんか」
『なら、誰が犯人なんだ』という反応はなかった。礼儀正しい言葉の裏に、本気を感じさせる気迫があったからだ。
「くだらない感情のぶつけ合いを止めてくれて、助かりました。いずれにしても、ジェリリンには話す義務があるでしょう。まだ、きちんと聞けていませんから」
ドナルドが言った。ヒルダは、再び起こりかけた殴り合いに縮んだ胸を撫で、あとを続けた。
「あの子はアダムが大好きだったから、ひどく傷ついているはずよ。私よりも、かもしれない……。だから、今は一人にしてあげましょう」
「例外にはできません。犯人でなければ、後ろめたいこともないでしょう」
「どうして、あなたはそんなに……」
ヒルダは鋭い目を向けた。だが、頼りにしていた人を失った娘を一人にしたら、どんな選択をするかわからない、という考えも浮かんだ。言葉を濁し、咳払いで、反論しかけた気持ちを消した。
「皆でジェリリンお嬢様を捜し、お話を続けてはいかがでしょう。争うのではなく、順を追って話せば、真相へ辿り着けるはずです」
ルークは、ややありきたりな言葉を、グレイソンと長く目を合わせて言った。サングラス越しなので、相手には目が見えなかったが、腕を強くねじりすぎたのではないかという眼差しだった。
「一人か二人で、十分でしょう。このリゾートは小さいですし、かくれんぼをするつもりでなければ、すぐ見つかるはずです」
ドナルドの合理的な性格は、わずかな無駄も許さなかった。ハロルドが名乗り出た。
「私が行こう。頭も痛いし、少し風に当たりたい」
「ポケットからマスターキーとハニーピーナッツが出た以上、叔父さんを行かせるわけにはいきません」
ドナルドは、誰かがハロルドを嵌めたという仮説を立てていたが、証拠どおり、社長が犯人だという結末も、考慮していた。
「実に……つらいものだな。犯罪者扱いされるのは」
片方の口角をふっと上げた社長から、悔しさと諦めの入り混じった言葉が出た。申し出たのは、ドナルドが自分をどう見ているか、探るためだった。自暴自棄のように笑ったハロルドは、「警察が来てから考えよう」と言い、血走った目を閉じた。
「ジェリリン様なら、私が捜してきます」
「好きにすれば」
ドナルドはメリーに無造作に答え、現場を歩き回り、再び探偵の顔になった。フィリップは、ジェリリンと会ったときと、ここへ来たときの話をしろという指示を無視して、メリーについていこうとした。
「おい。質問に答えろ」
ドナルドに呼び止められた。少女も、フィリップへ片手を上げ、一人で大丈夫だと合図した。それでもついていこうとしたフィリップだったが、必死に胸を押していたジェリリンの姿が目に焼きついており、事務室を出ようとした足を止めた。
メイド服の背中が、遠ざかっていく。
メリー。僕は、君が無事でいてくれれば、それでいい。
***
(もう少し。もう少しなのに……)
廊下を歩きながら、考えに沈んだ。一人で出てこようとしたのは、考えを整理する時間が欲しかったからでもあった。
(ゴルフクラブは事務室にある。事前に用意した凶器は、ピーナッツだろう。同じ時間帯に、殺す行為が三つも重なったのは、予想外の訪問者に慌てたから。目に見える形で死を確かめたくて、物理的な方法を使ったんだ)
被害者には、アナフィラキシーの症状が出ていた。ピーナッツを食べさせてすぐ首を絞めたのではなく、ショック症状が出るまでの時間があったのだ。ジェリリンが扉を開けたとき、アダムは食べてから四、五分ほど経った状態だったと考えられる。ピーナッツアレルギーは、とりわけ致命的だ。だが、心肺蘇生の最中、彼の手には生きている反応があった。
(もちろん、ショックの程度には個人差があるだろうけど……。それより、順番を整理しよう。犯人の狙いが掴めるかもしれない。ピーナッツが口に入ったのが最初? 正気で食べるはずがない。クラブで頭を殴って気絶させてから、お菓子を食道へ押し込んだんじゃないかな)
だが、人にゴルフクラブを振るうことは、気絶させるか、殺すかを選べるような行為ではない。運よく気絶させたとしても、激しい衝撃を受けた脳に酸素は届かず、血液も巡らないので、ピーナッツを食べさせる前とは考えにくい。首を絞めるのも同じだ。頸動脈を圧迫すれば心停止し、ピーナッツの成分は体へ広がらず、死因は窒息となる。ショック症状は起きないはずだ。
難しく考えるのはやめよう。正気では食べないなら、眠っているとき、喉へ入れればいいのではないか。だが普通は目を覚ますだろうし、食べさせたとしても、疑問は残る。ピーナッツで毒殺するのが目的なら、なぜクラブで殴り、首を絞めたのか。力を使ったのは、招かれざる客が来たからだ。だが、遺体にはアナフィラキシーショックが起きている。推理は同じ場所を回り、前へ進まない。失われた数分が、引っかかった。
「ピーナッツを食べさせたあと、数分も現場に残る理由は何? ショック症状が出るか、確かめたかったのかな。証拠を消すのに、時間を使ったのかもしれない」
皆が眠っている廊下なので、独り言を不思議がる者はいなかった。半ば飾りとして置かれた振り子時計を見ると、夜明けは近かった。普通なら眠っている時間だと知ると、なかった疲れまで押し寄せる気がして、目を逸らした。自分の問いに答えられない部分は後回しにし、今できる推理をまとめていった。
「ハニーピーナッツを食べて死んだ被害者。その食べかすを持つ人が犯人。見かけ上は、おかしくない。でも、いちばん処分したい物を、平然と身につけているなんて、ヒルダさんの言うとおり、変だ。防犯カメラの記録を消すほどの、用意周到さが感じられない。あれでは、ハロルド社長は犯人ではないと、言っているようなものだった」
メリーは、また独り言を漏らした。事務室から離れると、言葉のあとに続く静けさが、ふと不自然に思えた。
「私、ここで何をしてるんだろう?」
ジェリリンの部屋番号を聞いていなかった。これでは、望まぬかくれんぼだ。戻って訊こうかとも思ったが、あの場所へまた足を向けるのも、うんざりだった。結局、引き返さず、捜すついでに頭を冷やそうと、屋上へ向かうことにした。
三階へ上がり、さらに一階分の階段を上って、外へ出た。強風は、すっかり弱まっていた。島の天気は、実に気まぐれだ。
屋上には、パラソルと浅いプールがあった。晴れた日なら、よい憩いの場所に見えただろう。だが、嵐がひと暴れしたあとの施設に、褒めるところはなかった。ただ、高い場所から見る夜の海だけは、なかなかよかった。肌寒い空気さえ、爽やかに感じる。一方には広大な平地、背後には涼やかな水面。事件さえなければ、星を五つつけていただろう。
波を見ようと、端へ近づいた。縁には、洒落た模様のある手すりが、曲線を描いて巡っている。風で曲がったり、壊れたりした跡もあり、修理が必要そうだった。
波が崖を打つ音を聞くと、こらえていた眠気が逃げていく気がした。両肘を手すりに載せ、慌ただしく過ぎた一日を振り返った。
(いろいろあったな。飛行機の中から、騒ぎがあった。最悪の出会いだったっけ)
ふと、ジェリリンの第一印象を思い出し、メリーは軽く笑った。
(ゴルフ場で、アダムさんとジェリリン様に会って、石板の謎を解いた。ルークさんが気を利かせてくれたおかげで、会長の傘寿のお祝いにも出られた。そこで、ドナルドの鼻を明かしてやりたかったのに、惜しかったな。それから演説があって、ケーキが出てきて……シャンデリアが落ちた。違和感を覚えたとき、アーノルド会長へ駆け寄って避難させていたら、惨劇は起こらなかっただろう。アダムさんも、死なずに済んだ。違う、駄目だ。自分のせいだと思ってはいけないのに……胸が張り裂けそう。どうして、死ななければならないの。世の中には、正しい方法があるはずなのに……)
人の死のそばにいた記憶が休息を妨げ、口元の笑みはすぐ消えた。同じ旋律を繰り返す波音に、すすり泣きが混じった。いつの間にか、事務室を出てきた理由さえ、忘れていた。
メリーは、滲んだ涙を必死にこらえた。生きた命を奪った奴に、誰かの友であり、弟である人を殺した者に、屈したくなかった。唇を結び、鋭い目で呟いた。
「泣くものか」
だが、哀れな声は途切れなかった。幻聴でも聞こえるのだろうか。メリーは周りを見回し、長い建物の屋上を、そっと歩いた。
足を進めるごとに、声は大きくなった。幽霊の声ではなかった。ひたすら、かすれた声を上げる、一人の女の呻きだった。
メリーは、ツインテールの影に誘われるように近づいたが、その顔を見て足を止めた。雨はすでにやんでいたので、頬を伝う水の正体を、推理する必要はなかった。
「話すことはないわ」
ジェリリンは、相手を見もしなかった。メリーは、どう切り出せばいいかわからなかった。「あの……」と、考える時間を稼ぎながら、一歩近づいてみた。だが――
「もう、全部終わったの」
手すりを握ったジェリリンは、崖の下へ目を落とした。心が死んで残った抜け殻を、深い海へ捨てたかった。一日が過ぎたところで、何が変わるのか。自分を認めてくれる人は、アダムだけで十分だった。ほかの人々の、偽りの混じった褒め言葉などいらない。いつしか、ぼんやり生きるくらいなら、思い出を抱えて世を去りたいと思っていた。
「終わっていません。犯人は、まだリゾートにいます。いえ、事務室の中にいます。アダムさんの無念を、晴らさなければ」
「そうしたところで、何が変わるの。死んだ人は戻ってこない。私を愛してくれる人なんて、もう一人もいないのよ!」
愛には、三つの形がある。親が子に尽くすような、無条件の愛情、アガペー。快楽を求める欲望、エロース。そして、金では買えないものがこの世にあると教えてくれた、最後の形。相手の幸せを願う、純粋な心で結ばれた友情、フィリア。
踏みにじられた花は、乾くことのない露をまた流し、手すりの上へ立った。
「何をしているんですか!」
ジェリリンはメリーの叫びを無視し、手すりの窪みを踏んで、海を見た。死を決めた言葉と、震える脚は、体と心がばらばらになる悲嘆を描いていた。爽やかな波音が、鎮魂歌へ変わろうとしていた。
「放っておいて」
心は決まっていた。恐ろしいほど落ち着いた声が、聞く者をぞっとさせた。
メリーは息を殺し、近づいた。『下りてください』といった、無責任な言葉は危険だ。うかつに自殺防止の相談員を真似ても、ジェリリンを追い詰めるだけになりかねない。
ジェリリンは振り向いた。雨雲は晴れ、星明かりを街灯のように受けて、少女の瞳がほのかに光っていた。その奥の善意と、目が合った。最期の言葉を告げようとしていると察したように、メリーが駆けてくる。ジェリリンは、彼女へ二度目に見せる表情を浮かべ、唇を動かした。
「会えて、楽しかった」
平衡感覚が、理性とともに切れたのか。体が傾いた。
おじさん。もうすぐ、会いに行きます。
次回「サンライトリゾート編 第22話」は、2026年10月15日(木)21:00(日本時間)に公開予定です。




