サンライトリゾート編 第19話
ドナルドは、状況ではなく人間そのものを見ることにした。目の前に、吐き気を催す姿が浮かび上がる。手足には蕁麻疹、顔には麻疹のような斑点が出ていた。これでは、まるで伝染病の患者だ。
(死因は心停止でも、頭からの出血でもなかった。かといって、ウイルスで死んだわけでもない。これは、どう見ても……)
ドナルドは、気味の悪い斑点から目を逸らさなかった。まずは確認だ。思わず開いていた口を閉じ、ヒルダを呼んだ。
「叔母さん。おつらいでしょうが、遺体の状態を確かめてください。アダムさんは子どもの頃、肌がこんな状態になって、救急病院へ運ばれたことがあるはずです」
どうして、それを知っているのか。数十年前を見通す言葉は、活火山のように働く涙腺まで貫くようだった。ヒルダは弟へ近づき、喉を押し分けて飛び出しかけた驚愕の声を、押さえた。
「アダムがピーナッツを食べて、息ができなくなって、家中大騒ぎになったことがあったわ。そのときの体が、ちょうどこんなふうだった……」
「それなら、間違いありません。アナフィラキシーショックを起こしたんです」
兄の広い肩にアダムが隠れ、カレンはホッピングに乗ったように跳ねた。赤くまだらになった遺体の肌は、蚊に刺されたようだった。彼女は人差し指を頬へ当てた。(今、お兄ちゃん、何て言ったんだっけえ)。カレンは、ドナルドの背中へとろけるようにもたれ、負ぶさろうとした。
「そう言われても、私、わからないよ。何のこと? わかりやすく教えてえ」
「カレン、少しじっとしていて。今は集中しないといけないんだ」
ドナルドは、そっと彼女を引き離した。「嫌い」。カレンが負けじと反発すると、兄は続きを言いかけ、顔をしかめた。妹にそう言われて傷ついたのだろうか。いつになったら大人になるのか、というため息も漏れた。
メリーは、小学校の先生のように諭した。
「簡単に言うと、命に関わるアレルギーだよ。中でもピーナッツは症状が激しくて、ごくわずかでも命を落とすことがあるの」
「ピーナッツバターって、おいしいのに。一生食べられなかったんだねえ。かわいそう。でも、このおじさん、自分で食べて死んだんでしょ? ハニーピーナッツを」
「どういうことだい?」
ドナルドは、ここ一年で最も強い疑問符のついた質問を放った。
「私、ずうっと見てたもん。唇を見て。ふふっ。カレンのヒントは、ここまでだよ」
ドナルドは、唇についた液体を唾液としか思っていなかったが、指で触れると粘り気があった。
「これは、おじいさまの八十歳のお祝いに作られた、特製イチゴ味のハニーピーナッツのシロップじゃないか……」
「ピーナッツのお菓子を食べて死ぬなんて、本当に馬鹿だねえ。呆れた死に方をした人にあげる賞もあるんでしょ? ね、メリー?」
メリーは困ったように笑って受け流し、状況を整理した。ピーナッツが危険なことは本人がよく知っていたはずで、自ら食べたとは考えにくい。誰かがハニーピーナッツを食道へ押し込み、その痕跡が残った。皆、その点は理解したうえで、メリーの言葉を聞いた。
「どうして、こんな方法を使ったんでしょう? 首を絞めて、頭を殴るだけでも、人は死ぬはずなのに……」
ヘンリーは、かけてもいない眼鏡を押し上げるような仕草をした。
「殺しやすさよりも、捜査を混乱させるためかもしれない。アダムさんにアナフィラキシーショックを起こさせてから、頭を殴って殺せば、何が決定的な死因なのかわからなくなる。さらに考えるなら、蕁麻疹を起こして死んだ人を放置し、数時間後に戻って頭を殴ることで、アリバイを作ったとか……」
メリーは、すぐに反論した。
「それほど時間が経っていたなら、心肺蘇生の途中で、左手が反応するはずがありません。ピーナッツを食べさせ、首を絞め、ゴルフクラブで頭を殴るまで、一気に行われたんだと思います。疑問なんです。同じ時間帯に、殺す行為が三つも重なるのは、おかしいです」
そのとき、グレイソン、ルーク、フィリップが戻ってきた。秘書のうろたえた声だけで、詳しく聞かなくても、内容を察するには十分だった。
「大変です。なぜか防犯カメラが作動しておらず……記録を確認できませんでした」
生きている者たちの目が、すべて事務室の扉へ向いた。
「故障ですか?」
ハロルドが、いきなり入口へ近づいた。防犯カメラさえ見れば犯人がわかると思っていた社長の声には、潔白を証明しなければという、不安が混じっていた。
「その可能性も、ないとは言えません。映像を見る機会がほとんどなく、設置したまま、管理を怠っておりまして……。申し訳ありません」
「壊れたわけではないと思います。三人で、鍵を置いている別の事務室へ行ったんですが、マスターキーがなくなっていました。犯人が事前に設定を変えて、カメラを作動しないようにしたんです」
フィリップが言うと、ハロルドは壁を殴り、衝撃音よりも大きな声を上げた。
「秘書ともあろう者が、会長の住まいをどう管理しているんです! くず鉄同然のシャンデリアに、防犯カメラまで飾りで、マスターキーまでなくすとは。一体、何をしているんだ!」
グレイソンは両腕を体にぴたりとつけ、腰を折った。戻る間に頭の中で練習した、形の整った謝罪だった。少しのためらいもなく曲がる背中には、かえって本心が感じられなかった。何から何まで秘書が気に入らないハロルドは、「一体、正気なのか」と、聞こえるように呟いた。声が怒鳴り声と呼べるほど大きくなると、フィリップが秘書をかばった。
「怒っている場合じゃありません。マスターキーも、なくしたんじゃなく、犯人が盗んだんですから、悪いのはそちらです」
ハロルドは天井へ顎を上げ、一気に老け込んだような息を吐いた。怒りが収まるのを待ったメリーは、彼が椅子へ座ると、グレイソンへ質問した。
「どんな条件なら、鍵を盗めるのか、教えていただけますか?」
グレイソンによると、マスターキーは、いつも扉の開いている共用の事務室に掛けてあり、その気になれば誰でも持ち出せた。その説明は、頭の中で練習していなかったらしく、ためらいがちだった。「申し訳ありません。すべて私の不手際です」。同じ言葉が繰り返された。
「静かにしてください。聞きたくない」
ハロルドの言葉で、時間が止まったような静けさが落ちた。その不快な沈黙を、メリーが柔らかな声で緩めた。
「ルークさん。事務室へ行くことを、どなたかに伝えましたか?」
「いいえ。お嬢様に行くと言われ、お供しただけです。どなたにも連絡しておりません。お嬢様も同じだと思います」
「それなら犯人は、明け方に人が来るとは思っていなかったはずです。廊下を近づく足音を聞いて、窓から逃げたのでしょう。アダムさんに助かりそうな兆しがあったのは、襲われてから、間もなかったからだと思います。きっと、痕跡が残っています」
メリーが言い終わるやいなや、ドナルドが舌打ちした。
「ちっ。それくらい、わかっていたさ。でも、これを見ろ。窓の真下には石が敷いてあって、足跡が残らない。犯人は、そこまで考えて逃げたのか……」
嫌味な口調だったが、メリーが推理に加わるのを止めはしなかった。
「足跡は残らなくても、中へ戻るには、濡れた芝生を踏まなければなりません。なら、外にいた痕跡が、犯人に残っているかもしれません。失礼ですが、皆さん、靴を脱いでいただけませんか?」
メリーは靴を脱ぎ、乾いた底を見せた。皆、吸い寄せられるように従った。中でもハロルドは、慌てて光沢のある革靴を裏返した。だがドナルドは、ぴくりとも動かなかった。主導権を取り戻すためなのだろう。
「どうして、僕たちが君の指示に従う必要がある? 犯人が履き替える靴を用意していなかったという前提からして、憶測じゃないか」
「ドナルド坊ちゃま。ご承知のとおり、犯人は、私とジェリリンお嬢様がこちらへ来るとは思っていなかったはずです。ですから、自分が外へ逃げることも、想定していなかったでしょう。替えの靴を用意する理由も、なかったはずです」
ルークが丁重に反論した。坊ちゃまという呼び名にふさわしい財閥の人間へ異を唱えるには、勇気が要った。個人的に、メリーの味方をしたい気持ちもあった。メリーが付け加えた。
「お嫌でしたら、なさらなくても結構です。ただ、真夜中に嵐の中へ出る人は、殺人犯くらいでしょうけれど」
ドナルドには、反論が思いつかなかった。「勝手にするがいいさ」。皮肉を言いながらも、靴を脱ぐしかなかった。
外に出たとしても、靴底に痕跡が残るとは限らない。残っていても、窓から逃げたときのものだとは証明できない。それでもメリーは、できることは全部したかった。外から人が来られない今、ほかの者も心のどこかで、誰かに警察の役目を果たしてほしいと願っていた。ドナルド以外、これといった異論を挟む者はいなかった。
ただ、例外があった。
「私は、外に出ましたが……」
グレイソンは自分から靴を見せた。底には水気があった。靴を脱がなくても、上から見える靴下まで濡れていることが、そのとき初めてわかった。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
メリーは、すぐ右にいたグレイソンへ顔を向けた。疑う意図が見えないよう、ただ知りたいというだけの、丁寧な声を心がけた。グレイソンは「理由、ですか……」と、地面が沈みそうな重いため息をつき、そんなこともわからないのかという、苛立ちの滲む声を出した。
「あなたもご存じでしょう。会長が亡くなったんです。眠れるはずがありません。私の失態で命を落とされたのだと思うと、じっとしていられませんでした。外の空気を吸いに出たんです。雨もほとんどやんでいたので、芝生をぼんやり歩いていました。それから戻って、あなたに会い、アダムのことを聞いた……。それだけです」
腕を組んで聞いていたドナルドは、そのまま口を開いた。丁寧語には戻っていたが、メリーとは違い、相手への態度が、はっきりと声に出ていた。
「僕は生まれてから一度も、ぼんやり歩き回ったことなどありませんが、本当に芝生にいたんですか?」
「あなたがおかしいんですよ。私は普通の人間です。悲しみを抑えられない、弱い人間なんです。ぼんやり歩くことだって、あるでしょう」
「そこでやったのは、何も考えずに歩くことだけですか? 無意味というか、説得力に欠けますね」
青年の取り調べは続いた。ヒルダが名前を呼び、慎むよう求めたが、「僕は具体的な情報が欲しいだけです」と返し、逆に彼女を制した。
グレイソンは、頭に血が上らずにはいられなかった。
「思いやりの欠片もない人ですね! あなたにとっては、おじいさまが亡くなったんですよ。どうして、そんなに冷たく言えるんですか? そもそも、頭を空にしたかっただけで、計画を立てて動いたわけではありません。ええ、もちろん、歩くだけではありませんでしたよ。気が違ったように外を走って、笑ってみたりもしました。芝生では、重い雨に打たれて、会長と同じように死んだ虫から、目を背けたりもしました。これで満足ですか? 犯人を見つける役に立ちもしない話を聞くために、人の胸をえぐって、楽しいですか? もうやめます。外へ出たというだけで、人殺し扱いされるのは、断固お断りします」
秒針が十回進むほどの、沈黙が流れた。ドナルドが腕をほどくには、十分な時間だった。
「少し、やりすぎましたね。高圧的な態度だったことは、謝ります」
思いがけない言葉だった。グレイソンの顔に、ごくわずか、明るさが戻ったように見えた。だが、ドナルドがあえて続けたひと言で、それは瞬く間に消えた。
「ただ、誤解のないように言っておきます。人が一人行方不明になっても、不思議ではないような天候で外出するのは、怪しいということです」
「あなたという人は、最後まで!」
見るに見かねたフィリップが、二人の間へ無理に割って入った。
「ドナルドさん、僕も外へ出ました。ゴルフ場の芝生までは行きませんでしたが、建物の周りを散歩したんです。僕のスニーカーにも、汚れや水がついています」
話の出だしを聞くなり、ドナルドは「何?」と続きを促した。フィリップは落ち着いて最後まで話し、ドナルドは硬い声で訊いた。
「外出した理由は?」
「グレイソンさんと同じで、眠れなかったからです。ここで、ぐっすり眠れた人がいますか? いないと思います。人が死ぬところを、見てしまったんですから。神経が細い人なら、寝たり起きたりしても、おかしくないでしょう」
フィリップは、もちろん自分も犯人ではないと付け加え、一人ひとりと目を合わせた。理路整然とした話し方ではなかったが、ドナルドとグレイソンを落ち着かせようとする言葉と態度には、力があった。
フィリップが話し終えると、胸を痛めていたメリーが、ためらいがちに尋ねた。
「坊ちゃま、いつ、外へ……」
「メリーが眠っている間だよ。戻ってから数分して、目を覚ましたんだ」
メリーの肩が震え、心臓が沈んだ。グレイソンがいなければ、フィリップを犯人に仕立て上げていたのではないか。全身の神経を走る悪寒と、そうならずに済んだ安堵の中で、自信のない声が漏れた。
「訂正します……。外出したかどうかは、犯人とは関係ありません。皆さん、すみません……」
「くそ」。何人かの大人が、唇を噛んだ。犯人が見つからなかったからではない。昨日知り合ったばかりの少女に、酔ったように従った、受け身な自分を罵ったのだった。
「こうなると思ったよ。靴底が濡れているかどうかで犯人を決めること自体、笑い話にもならなかったんだ」
ドナルドは、意気揚々と主導権を取り戻した。さらに非難を続けようとしたところで、痛いところを突く者がいた。カレンだった。
「ふうん。でも、秘書のおじさんが外に出たって、責め立ててたのは、お兄ちゃんでしょ?」
「……怪しいものは怪しい。とにかく、今後、あの子の意見は却下だ。自分に近しい人間が外に出たと知った途端、主張を引っ込めるような奴だぞ。議論する価値もない。コスプレ女、君は黙っていろ」
ドナルドはメリーを睨んだ。彼女は目を逸らし、何も言えなかった。カレンは右手で口元を隠し、小悪魔めいた笑いを漏らした。
「お兄ちゃんに一本取られちゃったねえ。私、助けてあげようとしたのに、残念。次は頑張ってね、わかった?」
「お兄さんの言うことは、間違っていないよ。私の、推理に向き合う態度が悪かったの」
未成年同士の会話が終わるのを待たず、ヒルダが推理に加わった。犯人を明らかにすることだけが、姉としてできる復讐だった。その口から、深く考えるまでもなく、もっともだと認められる言葉が出た。
「原点に戻って考えましょう。犯行時刻は、だいたい午前三時。ルークさんと娘が確かめてくれたおかげで、その時間に何をしていたか証明できれば、容疑者から外れるわ」
「不在証明か。基本を忘れていたな……」
ドナルドは、中指でこめかみを強く押した。
いつの間にか、時計の短い針は四を過ぎていた。こんな状況なのに――いや、こんな状況だからこそ、誰の顔にも疲れが浮かんでいた。頭が錆びついている。『夜が明けたら、また考えよう』。そんな無責任な考えも、とっくに芽生えていた。大人たちは、互いの疲れた顔に覗く無気力を押さえ、ヒルダを見た。
「夫と私は、その時間、部屋にいたわ。一度も出ず、ずっと。気持ちとしては、義父のそばで夜を明かしたかったけれど、最近のストレスが溜まっていたせいか、横になるなり、気を失うように眠ってしまったの。娘がヘンリーさんを捜す声で、夫と一緒に目を覚ましたわ」
夫人は夫を見て、続きを話すよう促した。
「正確には、私は眠っていない。考えることが多くてな……。妻に疑いがないことは、確かだ。部屋へ戻ってから、二人とも一度も外へ出ていない」
ハロルドは、話の中心にいたドナルドを見た。青年は、その目配せに応じた。
「眠れない人が多くて、不思議ですね。僕は、何があっても眠くなれば寝るので。まあ、わかりました。僕が変わっているということで。次は、コスプレ女。君だ」
フィリップが「メリーは」と、先に発言した。彼女はドナルドと話したくないだろうという、気遣いだった。自分が外出から戻った午前二時から、メリーはベッドで寝返りを打っていたと証言した。「はい、そのとおりです」。メリーは淡々と合わせた。話したくない様子はなかった。
「そうだろうね。まあ、疑ってもいなかったけど」
その無関心は、フィリップには嬉しい知らせだった。メリーも自分も、犯人扱いされずに済む。誰かが殺されたという影を払うほど、喜びを感じた。
その後は、自分の部屋にいたという証言が続いた。一緒にいたと証言してくれる相手がいるかどうかで、疑いを免れる者と、顔に影の差す者に分かれた。
グレイソン、ヘンリー、ルーク。この三人のアリバイは、はっきりしなかった。
次回「サンライトリゾート編 第20話」は、2026年10月13日(火)21:00(日本時間)に公開予定です。




