サンライトリゾート編 第18話
「一、二、三、四……」
事務室に、ルークの数える声が響いていた。アダムの肋骨は、圧迫ですでに折れていた。
ゴルフクラブについた血を前に、事故死や自殺を思い浮かべる者はいなかった。グレイソンは血を見るなり駆け寄り、アダムの状態を確かめた。ほかの者は数メートル離れ、それぞれの反応を示した。目をこするヘンリー、口を覆うヒルダ、顔を背けるフィリップ、スカートの裾を引き裂くメリー、床に膝をついて打ちひしがれるジェリリン。そしてドナルドの目は、何かを捜して室内を歩き回るハロルドへ向いていた。
(まさか、社長が……)
その先を考えようとしたとき、グレイソンがルークに尋ねた。
「心肺蘇生を始めて、どれくらいですか?」
「六分は経っているはずです」
保健の教科書に載せてもよさそうな姿勢が、崩れ始めていた。高地に来たように、息が荒くなる。心肺蘇生が、これほどきついとは。ルークは筋力ではなく、気力で、胸を押す深さと速さを保った。
「交代しましょう」
その言葉を聞くと、最後の鼓動を押し込み、場所を譲った。汗を滴らせるルークは、ようやく床に座り、息を整えることができた。
グレイソンは両手を重ねて指を組み、みぞおちを押した。会長の死を前にしたときとは違う。アダムの顔色は、まだ生気を失っていなかった。肌に感じる温もりだけで十分だ。諦めずに何十分も心肺蘇生を続け、命を救った例もある。そんな話が、走馬灯のように頭をかすめていった。
ヒルダは両手を合わせて祈った。信仰があったわけではない。目に見えない存在にすがって解決するのなら、何でもする。知っている限りの神々に願いを届けたが、答えは返らなかった。
「五、六、七、八!」
数える声が繰り返されるほど、空気は重くなった。覚悟を決めなければならない。だがヒルダは、数時間前に何があったにせよ、弟が去るのを受け入れられなかった。背を向け、涙を拭うばかりだった。
グレイソンは止まらない。いや、止まってはいけない。その努力に、友も応えたのだろうか。秒針が一周したとき、アダムを見つめていたフィリップの言葉で、空気が一変した。
「指が動いた!」
「本当ですか?」
グレイソンは数えるのをやめ、尋ねた。
「見間違いじゃありません。左の人差し指が、ぴくっと動きました! 効いています! 心肺蘇生が、効いているんです!」
単に心臓を圧迫した反動で跳ねたのではない。命は、まだ終わっていなかった。人が倒れていたら、理由を問わず救う。その美しい鉄則の中で、ジェリリンは絶望に垂れた頭を上げ、細い希望の糸を掴んだ。
交代から百秒が過ぎ、グレイソンの息が乱れた。「代わります」。フィリップが秘書の肩へ手を置いた。だが――
「どいて!」
ジェリリンがフィリップを押しのけた。押された彼は、目を瞬かせて戸惑ったが、燃えるような顔に圧倒され、場所を譲った。
心肺蘇生では、相手の背中に穴が開くほど、胸を押さなければならない。全身全霊で、心臓をポンプのように動かさなければ。ジェリリンは、アダムの肋骨を全部折るつもりだった。申し訳なさはない。友を救うだけだ。その一念で、ボディーガードよりも強い波を、これまで休むことなく動き続けてきた、拳ほどの臓器へ送り込んだ。
肩が上下するたび、見る者の胸もいっぱいになった。アダムの体内では、折れた骨が内臓を刺していたが、血液は脳へ送られていた。その反応が、再びこの世に届いた。
「また動いた! 今度は、左手全体が!」
「私も見ました、お嬢様。このままなら、助けられます!」
フィリップとルークが、続けて叫んだ。何にも代え難い、力強い応援だった。ジェリリンはさらに激しく、両手を心臓の位置へ埋め込むように圧力をかけた。喉元まで息が上がっても、こらえる。おじさんを、ほかの誰かに任せたくなかった。
「お願い……お願い……」
金で解決できるなら、一文無しになっても構わない。ドレスも、リムジンも、お嬢様という呼び名もいらない。望みは一つ。息をして。もう一度、私に話しかけて。たとえ、うわべだけでも。偽善でも。あなたがいなくなったら、私も後を追ってしまいそうだから。
普通の人なら、二分も続ければ倒れるほど激しい有酸素運動である、心肺蘇生。彼女が引き継いでから、分針は五つ進んだ。胸を壊すように押していた手に、とくりとした感触があり、耳を胸へ寄せた。
鼓動はなかった。
CPRは、死を遅らせることに重点を置く技術だ。除細動器もなく、心臓が自ら動くのをやめてから、かなりの時間が経っている。人工的に血は巡っても、アダムはゆっくりと死へ近づいていた。頭への打撃が致命傷だったのか。脳出血も起こしていたのかもしれない。
体力は落ちていくばかりだった。いつからか、アダムにまだ命が残っていると知らせてくれる言葉が、聞こえなくなった。死神の鎌が、そばで揺らめいた。
「死なないで! 死なないでよ!」
胸から両手を離せなかった。頭から流れる血は、メリーがメイド服を裂いて作った応急の包帯を、ぐずぐずに濡らしていた。ジェリリンの手の甲へ、顔から流れ出るありとあらゆる液体が落ちた。その姿を、汚いと思える者など、いるはずもなかった。
「ジェリリン……」
遺言状を捜していたハロルドでさえ、娘を見て、引き出しを探る手を止めるしかなかった。
「アダムとの最後が、喧嘩だなんて……」
血の繋がらない者の死ではわからなかった、肉親を失う痛み。(嘘でしょう)。ヒルダの顔から血の気が引いた。紙切れを巡る争いが、弟と過ごす最後の時間になってしまうなんて。頭がぐらりと揺れた。ふらつく彼女の腰を、ルークが支えた。
「ありがとう」
夫人に手を強く握られ、ルークは氷に触れたように感じた。
グレイソンは、アダムの様子をじっと確かめた。胸の辺りだけが熱くなっていて、ほかの肌には体温が感じられなかった。
「私が続けます」
ジェリリンはうつむいたまま、事務室を飛び出した。もう生き返れないとわかったのは、何も答えない心臓に、いちばん近くにいたからなのだろうか。
「七、八、九、三十!」
虚しい数唱。墓を掘り返し、亡骸を蘇らせる降霊術でも見ているように、周囲の者はグレイソンから目を逸らした。
カレンはあくびをした。本物そっくりの人形も、動かなければ飽きるものだ。魔法使いであり、玩具でもある同い年の少女へ目を向けると、メリーは腕を交差させ、両肩を抱いていた。
メリーは、ぞっとしていた。頭をよぎった、自分自身の直感に。
(こんな、汚いことまで考えるなんて。私は、おかしいんじゃないだろうか……)
二分が過ぎ、グレイソンは胸から手を離した。命の時計は止まった。グレイソンはアダムの両頬を撫で、すすり泣いた。
「どうして逝ってしまうんだ。会長も、君も、どうしてこんなに突然、いなくなるんだ……」
グレイソンは叫ばず、息も荒らげなかった。会長の死を受け入れられなかった大広間での姿との違いが、見る者の悲しみを、さらに深くした。フィリップは、大切な人を失う虚しさを知っている。背中を叩いたり、大丈夫かと声をかけたりするのが、どれほど慰めにならないかも知っている。一緒に泣くことさえ、差し出がましいのかもしれない。それでも、涙は勝手に出た。四年前、突然去った両親へ抱いた気持ちを、グレイソンが口にしたからだった。
「どうして、最後の言葉を伝える時間さえ、くれないんだ……」
メリーは、自分がメイド服を着ている理由を、もう一度胸に刻んだ。(坊ちゃま、どんな記憶を思い出したのか、わかります)。固く強張ったフィリップの手を撫で、気持ちを伝えた。フィリップは彼女の顔を見て、涙を湛えたまま微笑んだ。メリーに抱いていた、揺れる感情の名は、愛だった。
***
なかなか落ち着きを取り戻せなかったグレイソンは、テーブルの上の魔法瓶の水を、ごくごくと飲んだ。空になった魔法瓶に、外の給水器で水を入れにいくとき、ドナルドも、理由を言わずについていった。
皆が正気を取り戻すまで、何分経っただろう。
「それでさあ。誰が殺したんだろうねえ?」
誰かが口にしなければならないことだったので、カレンの言葉に敵意を示す者はいなかった。明らかな殺人事件だ。「ここへ来たときの状況を、説明してください」とドナルドが言う。ルークは、仕える少女の分まで説明した。
「鍵がかかっていなかった……ふむ」
ルークの説明を聞いたドナルドは、独り言を漏らして顎を撫で、それから屋外へ通じる窓を見た。
「窓にも鍵がかかっていないので、密室殺人ではありません。まず、防犯カメラの確認が先でしょうね。僕は遺体の状態を見ます」
「それでしたら、私一人で確認してまいります」
秘書は、直系の子孫たちに手間をかけたくなかったのか、丁重に申し出た。だがドナルドは引き止め、命令するように言った。
「いえ、一人では行かないでください。ジェリリンのボディーガードと、コスプレをしている子のお兄さんを、一緒に連れていってください」
「殺人犯が近くにいるかもしれないから、何人かで行くほうがいいということですか?」
グレイソンの問いに、ドナルドは適当に肯定して取り繕おうかとも思ったが、やはり性に合わなかった。
「あとから説明するのは面倒なので、はっきり言います。一人で行けば、証拠を隠滅する可能性があるからです」
「何ですって! 私がアダムを殺したというんですか?」
「特にあなたを名指ししているわけではありません。この中に犯人がいる可能性が高い、ということです。アダムさんを殺す理由ができるのは、あの遺言状の、馬鹿げた内容を知っている人間くらいでしょうから」
「私は会長候補でもありませんでした。友人を殺す動機などありません。訂正してください。侮辱です!」
声を荒らげたグレイソンは、ドナルドへ指を突きつけるのもためらわなかった。
「黙れ」
「何ですって?」
「一度だけ説明してやる。遺言状が細工されたものだというのは、内容を見ればわかるが、会長の印が堂々と押されているせいで、偽物だと証明するのは難しい。印を手に入れやすいのは、いつも行動をともにしている秘書、あなただ。仮に会長が書いたものだとしても、指定された後継者を消す見返りに、利益を得る密約があったかもしれない。そもそも、アリバイも証明されていない人間に、殺人事件の物証を任せるなど、論外だ。わかったか?」
グレイソンは、歯を食いしばった。
「……わかりました。行きましょう」
事務室の扉が、苛立たしげに閉まった。
ドナルドは、自由に観察できるようになったアダムの前に立った。後頭部からは、締め切っていない蛇口のように、少しずつ血が流れていた。ドナルド・カルヴィンは目を閉じた。しばらく開かず、冥福を祈った。これから彼を名前ではなく『遺体』と呼ぶことになるので、心の負担を軽くしたいという思いもあった。
靴紐を結ぶときくらいしか床を見ない兄が、黙祷を捧げた。カレンも、親を真似る子どものように頭を下げた。暇つぶしにはちょうどよかった。(へえ、お葬式ごっこ。やっぱり、真似より本物がいいよねえ)。そんなことを考えながら、目は閉じずに亡骸を眺めた。
(あれえ? 唇についてる、あれは……)
首を傾げたカレンは、探偵の助手役を買って出ようかと思ったが、片膝をついて遺体を見る兄の姿に、機を窺うことにした。
死んだ人間を見るのは、まだ二度目のドナルドだったが、葬儀屋だと言われても信じられそうなほど、冷ややかな眼差しを向けた。
(首を絞められた痕……。眠っているところを襲われたのか? それにしては、ベッドのほうに血痕がない。倒れているのはテーブルの近くだ。魔法瓶も、グレイソンが触る前はテーブルにあった。茶を飲みながら話していたところ、態度を変えた犯人に首を絞められ、頭を強く殴られたのか。打撃と首絞めの順番は、逆かもしれないが、大筋はこの範囲だろう。ベッドで首を絞め、気絶した体を移動させてからクラブを振るったとは考えにくい。首にあるのは手の痕ではなく、もっと幅広い、丸太で圧迫したような痕だ。指紋を残さないよう、背後から腕を回して殺した。仰向けに寝ている人間に、それはできない)
ドナルドが一通り考えをまとめて横を見ると、ヘンリーも遺体を観察していた。現場や手口より、遺体そのものに注意を向けていた彼の目に、ある変化が留まった。
「この皮膚は……」
次回「サンライトリゾート編 第19話」は、2026年10月12日(月)21:00(日本時間)に公開予定です。




