サンライトリゾート編 第1話 甲と乙
アーノルド・サンライトの死の八時間前
肩より下まで伸び、毛先が顎の方へ内巻きになった黒髪。その持ち主は、チェスの駒を思わせる黒と白を取り合わせた上着に、腰から下は柔らかなミニスカートという姿だった。漫画にでも出てきそうな服装に、乗客たちの視線は自然と彼女に集まった。
思春期の真っ只中といった男子中学生が、機内の通路を挟んだ席からちらりと見ると、彼女は爽やかに微笑み、目元に柔らかな弧を描いた。目が合い、知らん顔をしようとした少年の頬の熱さまで鎮めてしまうような、優しい笑顔だった。猫のような顔立ちをしていながら、気取りとは無縁のその少女は、高校一年生だった。隣の席のフィリップが、彼女の名前を呼んだ。
「メリー、わくわくしないかい? 僕たちは今、貴族のスポーツをしに行くんだよ」
「シミュレーションゴルフで十分じゃありませんか? わざわざ、こんなに本格的にやらなくても……」
「ちっちっ、わかってないなあ。画面を眺めて、本当の醍醐味が味わえるかい? どうせやるなら、清々しいグリーンと素晴らしい景色を楽しもうじゃないか」
成人したばかりで、うんざりする勉強ともおさらばしたフィリップ。ゴルフをしてみたいという漠然とした欲望が、二人に久しぶりの旅行をもたらした。(本当は黎明タイガースの試合を観たかったんだけど……)メリーは心の中で少しだけ名残惜しみながら、用意してきた小冊子を読み始めた。やるからには、きちんとやろう。それが彼女のささやかな信条だった。
「何を読んでるの?」
「ゴルフのガイドブックです。スコアの呼び名が鳥の名前なのが面白いですね。アルバトロスというスコアは、野球の完全試合より難しいそうですよ」
「君もずいぶん本気だね。僕も僕なりに、コツをまとめてきたんだ」
フィリップは鞄からノートとペンを取り出し、メリーが触れた箇所に下線を引こうとした。けれどインクが切れていたため、紙には細い筆圧の跡だけが残った。彼は空き缶のように役目を失ったペンを三、四度回し、いつになったら離陸するのだろうと話題を変えようとした。
その瞬間、若い女性の怒鳴り声が、穏やかな離陸待ちの時間を破った。
「ちょっと! 何なのよ、このサービス! 私が注文したのは黎明製菓のハニーピーナッツよ。それなのに、ライバル会社のシリウス製菓のキャラメルピーナッツを持ってくるなんて、正気なの?」
「お客様、誠に申し訳ございません。ハニーピーナッツは機内にご用意がなく、似た商品はこちらしかございませんで……。すぐに別の商品とお取り替えいたします」
「もういい。私が誰だかわからないから、そんな真似をするのね。上司に連絡するわ。今すぐ降りなさい。この飛行機、飛ばせなくしてやる」
乗客たちの目が、一斉に騒ぎの方へ向いた。赤いドレスに茶色のツインテールの少女が、しきりに指を突きつけ、客室乗務員を罵っていた。隣の席には、サングラスをかけた黒ずくめのボディーガードが一人。丁寧な言葉で必死に取りなそうとしている。通路では、きちんと制服を着こなした乗務員がひざまずき、つらそうな表情を押し隠して謝り続けていた。
「ジェリリンお嬢様。乗務員にも悪意はなかったはずです。そろそろ、足を下ろしていただけませんか……」
「うるさい! ただのボディーガードのくせに、私に指図する気? 私は、あんたに給料を払ってる人の孫なのよ。もう一度言うけど、あんな基本もできてない乗務員と一緒の飛行機には乗れないわ」
ジェリリンは乗務員の後頭部に靴を載せていた。頭にかかる圧力に短いうめき声が漏れると、フィリップはようやく合点がいったように息をついた。
「あの子、黎明グループの創業者の孫、ジェリリンだったんだね。ジュニアのテニス大会で優勝したって、何年か前にニュースに出てたけど、ずいぶんひどい性格だな。ファンクラブまであるそうだけど、こんな姿を知ったらどう思うだろう」
「黎明ですって? こんな会社だったなんて、夢にも思いませんでした。野球チームの名に泥を塗るなんて。坊ちゃま、男らしくひと言言ってきてください」
メリーはフィリップの脇腹を肘でつついた。少し強すぎたのか、彼は傷をいたわるように脇腹をさすり、頼もしいとは言い難い小市民の声を出した。
「そうしたいのは山々だけど、勇気が出ないよ」
「私は我慢できません。ひと言言ってきます」
「待って! 相手は大企業だよ」
「だから、なおさらです。親に恵まれたからって横暴に振る舞うなんて、許せません」
「同感だ。でも、君が出ていって声を荒らげたところで、ジェリリンの態度は変わらないよ。恥をかくきっかけを作ったからって、乗務員をもっといじめるかもしれない。今、君にできる一番いいことは何だろう?」
「それは……」
メリーは肘掛けの先をつかみ、今にも立ち上がろうとしていた。彼女がためらっている間に、フィリップは落ち着いて助言した。
「怒っている人に、その人の間違いを論理的に指摘したって無駄なんだ。感情に振り回されていれば、なおさらね。効果があるのは、関心を別のものへ向けることだよ。ジェリリンの騒ぎも、もしかすると、ただの退屈しのぎなんじゃないかと思うんだ。いわゆる、お金持ちのお嬢様のわがまま……聞いてる、メリー?」
「ありがとうございます、坊ちゃま。ペンとノートを貸してください!」
「メリー、そのペンはもうインク切れだよ。何を考えてるかわからないけど、新しいのがあるから。ほら」
「大丈夫です。インクがないから、持っていくんです」
「え?」
意味がわからずぽかんとするフィリップを残し、メリーは乗務員のいる方へ向かった。ジェリリンに近づくほど、心臓の鼓動が耳に響く。刺々しい声と怒った顔がはっきりするにつれ、理性が遅れて警鐘を鳴らした。(もう少し慎重になるべきかな?)かっとなって考えなしに立ち上がった気が、十拍も遅れてしてくる。けれど、弱い立場の人を助けたいという本能が足を急がせた。打開策も思いついている。その知恵と話術にすべてを託し、この場を収めよう。衝動的な人類愛が、緊張に囚われかけた身体を落ち着かせる。メリーは、靴を載せてはいけない場所に足を載せている相手と目を合わせ、明るく声をかけた。
「あれ? 大きな声がしたので、どなたかと思ったら、ジェリリン・サンライト様ではありませんか?」
「あんた、誰? そんな時代遅れの服を着て」
「メリーと申します。以前からジェリリン様に憧れていたんです。ドレスを着て、ボディーガードを連れて、あちこち旅行をなさって……。きゃあ! 本物にお会いできるなんて、光栄です」
メリーは、指を突きつけていたジェリリンの手を両手でつかんだ。黒いサングラスの男が引き離そうとしたが、ジェリリンはまんざらでもないらしく、逆に彼を制した。
「いいわ、ルーク。それより、あんた。私に何の用?」
「お優しいんですね。お綺麗ですし、女の私でも惚れてしまいそう。突然で申し訳ありませんが、ここにサインをお願いしてもいいですか?」
ジェリリンは戸惑った様子を見せたかと思うと、そっと目を閉じ、控えめに手を振った。
「なんだ、私のファンだったの? 何度かニュースに顔を出しただけで、もうファンができるなんて。今の世の中は、十代の私にだって展開が早すぎるわ」
財閥三世の手がゆっくり宙を泳ぐにつれ、メリーの口の両端も少しずつ上がった。(よし。このままいけば……)唇の裏に隠した言葉が飛び出したがっているかのように、歯の間がむずむずする。口元に本音が出るのを消そうと、ごくりと唾を飲み込む。まだ終わっていない。そう気を引き締め、彼女は一段と爽やかな声を出した。
「本当ですね。でも、サンライト家のお嬢様が、どうしてエコノミークラスに?」
「パパが、普通の人の生活を学べって、この席を予約したの。いつもはファーストクラスだから、座ったことのない席も面白いかと思ったんだけど」
メリーはその言葉を遮った。
「あっ、これはシリウスのキャラメルピーナッツですね。でも、私は黎明製菓のハニーピーナッツが一番好きです。ジェリリン様もナッツがお好きなんですね。乗務員さんに頼んで召し上がっているんですもの。そっか。ライバル会社の似た商品を試食しながら、販売戦略を考えていらしたんですね!」
「うん……まあ、そうね」
ジェリリンは真っ赤になった顔を背け、乗務員の頭に載せていた足をどけた。完全にメリーのペースだった。サングラスのボディーガードだけは、いつ時限爆弾が爆発するかと気を揉んでいたが、意地悪に満ちたジェリリンの勢いは、メリーの熱演を前に明らかにしぼんでいた。
「だから背もすらりとしていて、運動もお得意なんですね。テニス大会で優勝までなさって! やっぱり財閥の方は、私たち庶民とは格が違いますね!」
「何を食べたから運動ができるってわけじゃないわ。そもそも、生まれからして、あんたたちとは違うっていうか?」
「もちろんです。そのとおりですとも。もしかして、お気を悪くなさいましたか?」
「そうじゃないけど、あんた……」
「よかった。では、まずサインを!」
メリーはまたも言葉の腰を折り、会話の順番に割り込んだ。無礼とも取られかねない振る舞いを取り繕うように、両手でノートとペンを差し出す。
「わかったわ、書いてあげる。貸して……ん? このペン、出ないんだけど?」
「あっ、申し訳ありません。私ったら、本当に馬鹿ですね。乗務員さん、すみませんが、ペンを一本お借りできますか?」
ひざまずいたままの乗務員に、メリーは優しく声をかけた。乗務員は「はい、お客様」と答えて立ち上がり、筆記具を探しに一度姿を消してから戻ってきた。
「こ、こちらでございます、お客様……」
ジェリリンに差し出したボールペンは、空港に地震でも起きたかのように震えていた。ジェリリンは気にも留めず、目を合わせようともしない。この瞬間のために何度も練習したとわかる手首の動きで、曲線と鋭い折り返しを組み合わせ、ノートにそれらしいサインを書いた。
「はい」
「大切にします。それから、乗務員さん。お手洗いの便器が故障しているみたいなので、一度見ていただけませんか?」
そう言い終えると、メリーは自分の席へ戻った。ジェリリンは借りたペンを返しながら、乗務員に刺々しく言った。
「何してるの。早く仕事に戻りなさいよ」
騒ぎが収まると、離陸を知らせる機内放送が流れた。ジェリリンは、さっさと出発すればいいのにとでも言いたげに退屈そうな顔をし、飛行機が雲を抜ける頃には眠っていた。
***
「見てください、坊ちゃま。飛行機を飛ばさないって大騒ぎしていた人が、気楽に眠ってますよ」
「まったくだね。でもメリー、別の仕事を頼んで乗務員を逃がすなら、最初からそう言えばよかったんじゃない?」
「初めから二人の間へ割って入って、乗務員さんを別の場所へ行かせようとしたら、ジェリリン様は部外者の干渉を許さなかったと思います。だから、二人の間に入るために、ファンのふりをしたんです」
「知らない人が好意を示すには、いい口実だね。ニュースにも出ていたし、ファンクラブもあるらしいから。熱烈なファンなら駆け寄ることもあるかな」
「私が手をつかんだとき、反応したボディーガードをジェリリン様が止めたでしょう。それを見て、この人は褒められることに飢えているんだと感じました。ですから、彼女に詳しくないとばれないよう、質問する隙も与えずに褒め続けたんです。わざとインクの切れたペンを渡して乗務員さんを立たせたのは、ひざまずいている方にいきなりお手洗いの便器の話をする不自然さを避けるためでした。サインまでしてあげたファンの頼みで仕事へ戻るのですから、ジェリリン様も引き止めにくかったはずです」
「なるほど。インクの切れたペンにも使い道があるんだな」
「もうひとつ。借りたペンの持ち主は乗務員さんで、サインを終えた時点ではジェリリン様の手にありました。そのペンを、自分が侮辱した相手に返す。その行為に、さっきのお菓子の件はこれで終わり、という意味を持たせられると思ったんです。そんな区切りもないまま逃げたのでは、どちらにとっても後味が悪いでしょうから」
「わかったよ。じゃあ、君が割り込むのをジェリリンが嫌がったら? ファンだと言っても、その可能性はあったと思うけど」
小腹の空いたフィリップは、通路を通りかかった乗務員に、ジェリリンが頼んでいた菓子を身振りで注文しながら言った。
「お菓子を間違えたというだけで人を憎む方なら、私がどんなに好意を示しても、声をかけた途端に罵声や暴力が返ってくると思いました。そうなったら、坊ちゃまも座って見ているだけではなく、立ち上がって抗議なさるでしょう。それをきっかけに機内の人たちを味方につけて、ジェリリン様に降りていただくつもりでした。乗客と乗務員のトラブルはよくありますが、乗客同士の争いとなれば、話は変わりますから。あのお嬢様が、そこまで話の通じない相手ではなくてよかったです」
「僕が抗議するって、どうしてわかるの? 相手が大企業だから勇気が出なかったのを、君も見てたじゃないか」
「それは、虐げられていた方が、坊ちゃまにとっては他人だったからです。さっきのようなとき、出ていかずに見ている方が普通だと思います。でも、私が理不尽な目に遭ったら、坊ちゃまが黙っていらっしゃる人ではないことは、よく知っていますから」
「小さい頃のこと、覚えていてくれたんだね。嬉しいな」
フィリップは微笑み、彼女の理屈に納得した。それが、もう別の話にしようという合図でもあると察したメリーは、上着についたレースを、サスペンダーでも引っ張るように指でつまんだ。
「ところで、この服、変でしょうか?」
「今どきメイドなんて、ほとんどいないからね。見る人によっては、役になりきりすぎたコスプレイヤーだと思うかもしれない」
今さら気づいたのかと言わんばかりにフィリップがくすくす笑うと、メリーはぐっと拳を握った。
「そう言われると、恥ずかしくなります……。でも、メイドは男のロマンだとおっしゃったのは、ほかならぬ坊ちゃまなんですからね!」
「メリー、声が大きいよ」
近くの中年の乗客が「いいねえ、若いって」と合いの手を入れると、娘を微笑ましく見守る父親のような笑い声があちこちから上がった。自分の声がジェリリンに負けないほど大きかったことに気づき、メリーは太ももに届くほど深くうつむく。圧力鍋のように蒸気を噴き出し、熱くなった肌を冷ましていた。フィリップのもとへ来た乗務員も、そんなメリーを微笑ましく眺めながら菓子を渡した。
「お待たせいたしました、お客様」
フィリップはキャラメルピーナッツを一つつまんで口に入れると、不思議そうな顔を隠さずに言った。
「これ、不思議なくらい黎明のハニーピーナッツと味が似てるね。同じと言ってもいいくらいだ」
メリーは顔を上げた。いくらか蒸気が抜けたのだろうか。少しやつれたような顔になっていた。
「人気商品には類似品が多いですから。黎明も気をつけないといけませんね」
メリーは菓子の袋へ手を伸ばした。地上を離れて二時間が過ぎる頃には、初めて空を飛ぶ子供の歓声さえ静まっていた。飛行機は静寂の中を飛び、アーノルド・サンライトの八十歳を祝うリゾートへ向かっていた。




