サンライトリゾート編 第16話
「お嬢様?」
ジェリリンの部屋の前で待っていたルークは、表情を隠そうとする彼女と鉢合わせした。数十分前、押し出されるように四〇三号室から離れたばかりだった。いつも得意げに怒っていた顔が、ひどく崩れているのを隠すため、頭は深く垂れていた。だが、長いといえば長い間、身近で仕えてきたボディーガードには、ただ機嫌を損ねただけではないとわかった。乱闘までは想像できなくても、家族の間で何か揉めたのだろう。呼びかけを無視しようとしながら、震える手で扉を引く姿を見て、担当する令嬢への心配というより、一人の大人が若者を気遣う言葉を、重ねた。
「何か、おありになったのですね」
質問の答えが欲しかったわけではないので、語尾は上げなかった。ただ黙って一人にすれば、寂しい思いをさせるのではないかという、差し出がましい考えが浮かんだ。何かひと言、慰めの気持ちを伝えたかった。ジェリリンの過去を知っているから、そんな思いが先に立ったのだろうか。それとも、子どもの世話をしたいという、幼い頃の夢を思い出したのだろうか。
「……」
答えない相手に、無理に言葉を重ねることはしなかった。冷たい廊下に、休めの姿勢で一人残されたルークは、自分にできるのは、ただ戸口を守ることだと、改めて思った。だが扉が閉まると、静けさの踊りに歩調を合わせる不安が押し寄せ、その大きな体でも防ぎ切れなかった。突然シャンデリアが落ちるなど、誰かが会長を狙ったのではないか。それなら事故ではなく、事件では? 騒々しい音を立てた、くず鉄のような装飾品が、都合よく会長の頭上に落ちる確率は、どれほどだろう。黎明を憎む者の仕業なら、サンライト一族を皆殺しにできる、今日のような悪天候こそ絶好の機会なのでは……? 駄目だ。余計なことは考えるな。私は務めを果たそう。ルークは、崩れた姿勢とともに心を立て直しながらも、不安げに呟いた。
「これ以上、何も起こらなければいいが」
ジェリリンが部屋へ入ると、祖父の死が残した冷気と、煮え立つ殺意の波が、扉の隙間から忍び込み、彼女を貫いた。胸をえぐる痛みに、隠していた顔を上げ、顔を洗った。鏡には、麻酔が切れたような表情が、はっきり映っていた。水滴の落ちる顎の上には、悲しみに荒れた、赤い目元。醜いほど正直な姿と向き合った、鏡の中のツインテールの少女は、顔を背けた。
目まぐるしかった一日の終わりに立ち、ジェリリンは何もかも忘れて眠りたかった。ベッドへ倒れ込んで、高価なドレスが皺になった。だが、それ以上に傷ついたのは、心の中に描いていたアダムだった。紙切れを挟んで殴り合い、人間関係を破綻させたあの人は、本当に信じていたおじさんだったのだろうか。横になったまま長い枕を抱き、孤独を慰めた。
「おじさんだけは違うと思ってた。でも、あんな……。私、また裏切られたの……?」
中学のテニス大会で優勝したあと、自分を変えてしまった裏切りの記憶が、陽炎のように立ち上った。毎晩泣き明かし、弱くなるまいと何十回、何百回も繰り返した悪夢が再び現れ、内にしまった日記帳を開き、一文字ずつ塗り重ねる。信じた相手に背中を預け、刃を突き立てられたあの日から、決して泣かないと決めたのに。アダムを止めながら一度、そして今、落ちる涙でまた一度。ジェリリンはもう二度も、自分との約束を破ってしまった。
(違う。あんな内容の遺言状だったら、おじさんでなくても、誰だって理性を失う。家族が認めないってわかっていたくせに、ああ書いたおじいさまが悪いんだ! ねえ、枕。あんたもそう思うでしょう?)
(もちろん)
悲観に沈むたび、彼女は無生物に命を与えた。友達は作らないという信条と、絶えず友情を求める欲求。その間に生まれた一人芝居だった。心の中で、同じ声がこだまのように行き来する。ジェリリンは虚しく笑いながらも、柔らかな枕を、さらに心臓へ近づけた。
(それでも、怖くて……。会長なんて誰がなってもいいけど、このままだと、家族も会社も壊れてしまいそうで……)
(一晩経てば、みんな元どおりになるよ)
(おじさんとの関係が、壊れなければいいな。この世でたった一人、友達になってくれたおじさんが、遠くへ行ってしまいそう。そうしたら、私、もう……)
(心配しないでってば。みんな、神経が尖っていただけだよ。だから、ジェリリンは何も考えなくていい。たとえおじさんがいなくなっても、私が友達でしょう? 永遠にね)
(うん……)
そのあとは、窓を叩く雨音だけが部屋に響き、魂のない生き物が喋ることはなかった。抱き締めていた両腕の力も、少しずつ緩み、やがてマットレスへ落ちた。瞼が重くなったジェリリンは、髪をほどくのも忘れ、意識を手放した。夜十時を過ぎ、疲れ切った頭は、瞼の裏の空想へ向かっていった。
***
「ジェリリン様は、怒ったお顔より、そういう素直なお顔のほうが、ずっと綺麗ですよ」
聞き慣れた声に顔を上げると、メイド服の解決士は、箱だけでなく、私の心の錠前も開けようとしていた。私の心臓へ鍵を差し込みながら、それを回す役目だけは、私に譲ってくれた。
メリーと友達になりたかった。ありがとうと言いたかった。でも私は、胸のざわめきから目を背け、みぞおちに差し込まれた鍵を、自分で抜いてしまった。
(決意を破ってはいけない。私は友達を作らない。どんな好意も、素直には受け取らないって決めたの。あの女は、お金持ちの私に気に入られたくて、ああしただけ。本気だったとしても、いつか背を向ける。あの頃のラミスみたいに)
部屋へ入ると、アダムおじさんがベッドに座り、膝に枕を置いて、手を振って迎えてくれた。私が変わっても、何も訊かず、そのままの私を受け入れてくれた人。いやらしい冗談も言うし、だらしないところもあるけれど、魅力的な男の人。おじさんがいなかったら、テニス大会で優勝するために努力した日々は、波を前にした砂浜の足跡のように、消えていただろう。
理由もなく信じてくれることは、悔しさに痣だらけになった心へ、温かいお茶を一杯差し出されるようだった。私は他人を信じないけれど、この人にだけは、心を開くことにした。祝日でもなく、会う機会がないときも、電話であれこれ話せば、胸のしこりが小さくなった。一度話したことをまた話しても、自分のことのように、優しく聞いてくれた。いつからか、私は彼からの連絡を待つようになっていた。両親より信頼している人が、自分を待っていてくれた。その事実に、胸が高鳴った。
でも、その人は、私の知っている人とは違う顔をしていた。震える拳には血がつき、ポケットから見たことのない紙を出すと、自慢するように広げた。(おじいさまの遺言状……。おじいさま、亡くなったんだっけ……? そうだ、確かシャンデリアに潰されて……)。白く霞んだ記憶を辿り、思い出に沈んでいると、アダムは、私を迎えたときとは違い、不安そうな顔をした。
「ジェリリン、謎を解いたのは俺だろう? だから、俺が会長になるべきなんだよな?」
「はい……」
(会長になっても、ならなくても、おじさんは私から離れちゃ駄目。一人は嫌なの)
幼児のような考えで埋め尽くされた、頼りない頭を整理しながら、私は荒い息を吐く顔と、赤い指の関節を交互に見た。(どうして血が……。違う。事情があるはず。暴力を振るうしかなかったんだ。理由もなく、血をつけるはずがない。それじゃ、まるで狂った人じゃない。おじさんは違う。相手が先に始めたんだ)
「……してやる」
頭を支える物にも、言いたいことがあるのか。低い声で話し始めた。澄ましたような高い声は、私の声に似ていた。囁きの前半を聞き取ろうと、私は永遠の友達に訊き返した。
「えっ? 何て……?」
「殺してやる」
枕の表面には、あるはずのない、髭の生えた口がついていた。口はしきりにぱくぱく動き、声は次第に太くなって、父の声になった。「殺してやる。殺してやる」。そのひと言だけを繰り返しながら、真っ白な画用紙に、刃物を持った不審者の姿が描かれていく。ふっくらと弾力のあった綿菓子は、見覚えのある輪郭の男になり、アダムへ近づく。常識を超えた光景に、疑問を抱く暇もなかった。柄を逆手に持ち、上から突き下ろすつもりだ。おじさんは遺言状を広げ、満面の笑みで私を見ている。刃物を持つ影が、ベッドの上の明かりをすべて覆った。
「やめて!」
ジェリリンは叫んで目を覚ました。夢だった。その事実に束の間ほっとし、すぐに、現実になるのではという焦りに囚われた。右腕のそばに、邪魔なものを感じる。目をこすって起き上がると、不快な柔らかさと、吐き気を誘うふかふかした感触の正体がわかった。彼女は爪の一本一本を牙のように立て、噛みつくようにそれを掴んだ。
「縁起でもない! あっちへ行って!」
そばにあった気味の悪い枕を遠くへ投げ捨て、息を整えた。永遠は、一晩さえもたなかった。
携帯電話で時刻を見ると、午前三時だった。もう一度眠ろうと、想像を止めようとしたが、無駄だった。夢は夢にすぎない。悪夢を忘れようと、当たり前の事実を繰り返しても、それさえ眠りを妨げ、ベッドを殴った。目を閉じるたびに揺れる光景は、危険を告げる信号ではないのか。予知夢のようにも思えた。横になっているのが苦痛だったジェリリンは、乱れた髪を整え、ドアノブを握った。
(心配だ。おじさんのところへ行こう……)
扉を開けると、壁に背を預けて座り、片膝を立てて、こくりこくりと居眠りする男がいた。眠っては覚めるのを繰り返し、疲れ切った目には、サングラスに隠れた隈があるのだろう。警護は基本的に三交代だが、ジェリリンだけはルーク一人が担当していたため、睡眠時間も勤務時間に含まれているようなものだった。浅い眠りから覚めた彼は、あくびをどうにかこらえ、ジェリリンを見上げた。
「お嬢様、こんな時間に、どちらへ……」
「おじさんのところ。ついてこなくていいわ」
「大丈夫です。お供いたします。それが私の仕事ですから」
ルークは壁に手をついて立ち上がり、つらそうに見えないよう、いつもより太い声で言った。一階へ下りて外を見ると、雨はかなり弱まっていた。風の音だけは変わらず、会話のない間を、強風が窓を叩く音で埋めながら歩いた。ルークは、なぜ彼女がそこへ行くのか気になったが、訊かないことにした。こみ上げるあくびを押し殺すと、反動で涙が滲んだ。アダムの事務室の前で、ジェリリンが足を止める。ルークは何気なくサングラスを外し、スーツの袖で涙を拭っていて、彼女と目が合った。
「疲れてるみたいね。顔が……」
ジェリリンは、初めて見るエメラルド色の瞳に浮かんだ涙に気づいた。ルークは、色眼鏡越しではない彼女の顔に、中学のテニス大会の優勝杯を掲げる前の少女を見た。これが、本当の姿なのではないか。これからも仕える令嬢への、希望の混じった期待かもしれなかったが、人が人を見る眼差しでもあった。
「いえ。少し、埃が入っただけです」
急いでサングラスをかけ直した。懐かしい顔が黒く染まるのは、名残惜しかった。ジェリリンは、おそるおそる事務室の扉をノックした。事務室といっても、ゴルフ用品と、レッスンの予約者を書き込む大きなカレンダーがある以外は、個室と変わらない。十年前の記憶では、そうだった。ならば、アダムはここで眠っているのではないかと思ったのだ。
もう一度、扉を叩いた。最初より力が入り、どんどんと鳴る一歩手前だった。(おじさんの気持ちいい眠りを、邪魔しているだけなのかな)。そんな考えが頭を走るたび、ペースメーカーのように悪夢の記憶がついてきた。
「アダムおじさん! 中にいるんですか?」
自分がハロルドの娘だから、返事をしないのだろうか。それなら、いっそ眠れそうだった。ここまで歩く間に、最悪の筋書きを何度も思い描いたが、その結末には慣れなかった。おじさんを呼ぶ声は、廊下に響くほど大きくなっていた。(何でもいい。怒鳴りつけてくれてもいいから、お願い、何か言って……)
「開けましょうか?」
ルークには、ドアノブに触れもせず、ノックばかりするジェリリンの気持ちが読めなかった。彼女自身も、声を上げるだけで、ノブを回そうとしない自分を、おかしいと思った。無意識のどこかでアダムの死から逃れるため、部屋へ入ることだけは避けていたのだ。
「うん」
返事が響くと、真実を隠していた壁が回った。
「よかった。鍵はかかっていませんね」
ルークは、彼女の目的が果たせたので、何の含みもなく言った。だがジェリリンは、違和感を覚え始めていた。あんな騒ぎのあとで、鍵もかけずにいる。その不用心さに、恐怖が満ち潮のように押し寄せる。普段、事務室は開いている。だが、鍵は確かにあるのだ。
「おかしい。あんなことがあったのに、鍵をかけないなんて、あり得ない……」
ルークは『あんなこと』という言葉から、家族間の争いの中心が、アダムだったと悟った。真っ暗な事務室は、廃屋のように息遣いもなかった。壁を探って明かりをつけ、中へ入ると、アダムが背中を上にして倒れていた。周囲に転がるゴルフクラブと、ヘッドに付着した血が、状況を物語っていた。様子を確かめようと駆け寄るルークの後ろで、女は呆然と立ち尽くし、呟くばかりだった。
「駄目。駄目……」
次回「サンライトリゾート編 第17話」は、2026年10月10日(土)21:00(日本時間)に公開予定です。




