サンライトリゾート編 第14話
「先にノックしたほうがよくない?」
フィリップは、半分開いた四〇三号室の扉を、中指の関節で軽く叩いた。その言葉が静電気のように走り、メリーはドアノブを握った腕を、思わず体に引き寄せた。
「あっ! すっかり忘れていました。失礼なことを……。あ、あの、どなたかいらっしゃいますか?」
足は外に残し、顔だけを戸口からそっと差し入れた。片腕をフィリップに預けて傾いた姿は、ピサの斜塔を思わせた。
「失礼します。どなたもいらっしゃいませんか?」
「鍵がかかっていないなら、誰もいないということだろう。ぐずぐずせずに入ろうじゃないか」
ハロルドは、ふざけているようにしか見えないメリーに業を煮やし、扉を大きく開けた。せっかちな中年の入室で足を踏まれたメリーだったが、「うっ」という声は、胸の中だけに留めた。
「お待ちしておりました」
部屋の奥から、老人の声がした。ゆっくりと近づいてきた小柄な紳士は、チャーリー・チャップリンのような口髭を生やし、葬儀にでも来たような黒ずくめの服を着ていた。ペリーと名乗った。
黎明が力をつけて間もない頃、労組との法廷闘争があった。勝訴に導いたペリーは、アーノルドに能力を認められ、社内弁護士として働き、着実に信頼を積み重ねてきた。二十年にわたる忠誠に、アーノルドが実の子どもたち以上の寵愛を注いだ、事実上のナンバー・ツー。知らぬ者はいないので、一斉に丁重な挨拶が交わされた。メリーとフィリップを除いては。
(あのプライドの高い人たちが、揃って頭を下げてる。すごい人なのかな?)
フィリップも空気に合わせ、頭を下げた。メリーは老人と頭の高さが同じになるよう膝を曲げ、自分とフィリップを紹介した。
「ところでペリーさん、どうしてこちらに……。ご来賓には、別にお部屋を……」
ハロルドは、自分より先に宝へ辿り着いた者の存在を受け入れ難かった。ペリーは、ゆっくりと事情を語った。
「私は会長から、あの謎を解いた方が賞品を利用するうえで、法的な障害が生じないよう手助けするよう、仰せつかっております。皆様が大広間でお話しされているのを聞き、今日は謎が解かれそうだと思って、ここで待っておりましたが、予想どおりでしたね。賞品の内容は、私も存じません」
「ああ、そうでしたか! 父さんは、こうして決まった会長の座を巡って争いが起きないよう、ペリーさんに伝えておいたに違いない! 天井に、父さんの意思があるはずだ。どこかに、手紙のようなものが……」
ハロルドは目をぎらつかせ、頭上を探した。少し前まで、クイズで後継者を決めるなど荒唐無稽だと指摘していた教養人とは、とても思えない。自分の役目は終わったと思ったメリーは、秘密の部屋を探検する気分で、四〇三号室を歩き回った。三一二号室と同じ間取りだったが、妙に長い物が目に留まった。
「このパイプは何だろう?」
台所には不似合いな、途中で切れた管が床から突き出していた。ペリーは孫ほどの年齢のメリーに、丁寧な言葉で説明してくれた。弁護士よりも、執事の趣を感じさせる人物だった。
「雨水を流すための配管だったのですが、工事中に会長のお気持ちが変わり、リゾートの構造が大きく変更されたため、使われなくなりました。この配管は、大広間の柱の中に隠す予定だったそうです。ところが、その部分を装飾用の空間に変更することになったと聞いております。あまりに急な変更で、シャンデリアを吊る部分の設置に苦労したそうです」
「その工事について、もう少し詳しく伺えますか?」
「天井と一体になった形をご希望だったのですが、それは無理なので、面積の広い木材で接合部分を固定したそうです。あとで知人から聞いた話では、建設業者と揉めるほど、頻繁にお考えを変えられたとか」
(単なる気まぐれ。従業員が部屋番号の変更を変だと思わないのも、無理はないか。横断幕を大きくしたのは、シャンデリアの雑な接合部分を隠すためだったんだ)
メリーはそう納得しながら、話を続けた。
「ありがとうございます。パイプが途中で切れている理由は、ご存じですか?」
「使い道がなくなったので撤去しようとしたところ、途中で折れてしまい、安全上の問題から、それ以上は触らずにいると聞いております。見栄えもよくありませんので、四〇三号室にお客様をお泊めすることはありません」
気になってパイプを覗き込むと、狭く暗い視界の先に、大広間のシャンデリアが見えた。正確には、落下したシャンデリアが。メリーが嫌な気分になって目を離すと、一方から社長の声が聞こえてきた。
「これは……」
ソファに上がり、居間を荒っぽく探していたハロルドが、天井と同じ色の四角い金属が、頭上に埋め込まれているのを見つけた。両手の親指と人差し指で作ったL字を合わせた、写真のフレームほどの大きさだ。その部分を押すと、保護色の蓋が開き、詩集ほどの箱が手の中へ落ちてきた。
「やっと……いや、また暗証番号か? こんなくだらない遊びに、いつまで付き合わなければならないんだ?」
五桁の数字を合わせる錠前が、最後の難関として立ちはだかった。怒りに震える指が、自家用車のナンバー、家族の誕生日、電話番号、そのほか思いつくものを片っ端から入力したが、無駄だった。
「壊そう。おい、社員に頼んで、道具を持ってきてもらってくれ」
「え、ええ、わかりました」
歯をぎりぎりと噛み締める夫に、ヒルダ夫人は萎縮しながら外へ出ようとした。その瞬間、メリーが、冷え切った空気をひっくり返すひと言を、力強く放った。
「その必要はありません!」
離れた場所からの宣言に、ヒルダは足を止めた。父の醜態を間近で見たくなかったジェリリンが、小さな声で、おそるおそる話しかけた。
「メリー。あんた、まさかこれも?」
「はい。もう解けていました。最後くらいは、社長ご自身に解いていただきたかったのですが、仕方ありません。皆さん、碑文の前の箱に入っていた文章を覚えていますか?」
謎は終わったと思っていた三きょうだいは、うんざりする文章を、とっくに頭の中のごみ箱へ捨てていた。ハロルドは『お前は覚えているだろう』という目でジェリリンを見たが、彼女は顔を背けた。いくつかの言葉が、雲のようにふわふわ浮かぶだけだった。時計の針の音がかすかに聞こえ始めた頃、カレンが兄を見上げた。メリーが謎を解く姿を見るのが、どんなバラエティー番組より面白かった彼女は、甘える仕草でドナルドに答えをせがんだ。
「何だっけえ? お兄ちゃん、覚えてるでしょ?」
「『最後には結局、雨が降る世界。濡れていない地の四つの光。逆行がその鍵。だが、どうしようもない。目的地に着いたというのに、道路の上のバスは、すでに通り過ぎてしまった』。解釈は、ジェリリンのボディーガードから聞いたよ。過ぎ去った年月を嘆く意味だろう? 会長も、年を取ってつらいとおっしゃっていた」
ドナルドは妹の願いに勝てなかった。淀みない口調から、箱の中の文章を完璧に覚えていたのに、メリーの頼みに応じる形になるのが嫌だったのだと、容易に察せられた。ドナルドに続いて、サニーも「それがどうしたというの?」と相槌を打った。いつでもメリーの味方をしてやりたいフィリップでさえ、ドナルドの言葉を否定し難かった。だが、メリーには予想どおりの反応だった。
「残念ですが、引っかけでした。春夏秋冬に巧妙に当てはまるので、私たちはみんな、惑わされたんです」
ルークの背に悪寒が走った。その鋭い感覚は、大男さえ恐怖に震えさせるほどだった。
「申し訳ございません! 死んでお詫びするほかありません! たかがボディーガードの私が、出しゃばるべきではなかったのに……」
「あっ、おじさんを責めているように聞こえてしまいましたね。すみません。でも、ルークさん以外に、それらしい解釈を示せた人がいなかったのも事実です」
メリーが取りなそうとしても、謝罪は止まらなかった。フィリップは、仕える少女の横暴が、彼をこんなふうにしたのだろうと見当をつけた。ジェリリンは、ルークが人前で何度も頭を下げるのが、かえって恥ずかしかった。「もういいから、部屋に戻っていて」と背中を戸口へ押す。ルークは、謝ったことをさらに謝りながら、力なく階段を下りていった。怯えた男を見てけらけら笑っていたカレンの言葉を最後に、騒ぎは収まった。
「ふふっ。電柱のおじさんが空振りしたことには、私も別に言うことないよお。それより、何なの? メリーはわかるんでしょ?」
「『最後には結局、雨が降る世界』は、人生にたとえたものじゃないの。この謎を出した頃に会長が好きだった、ゴーストップというゲームを意味しているんだよ」
「何だって?」
ペリーを除く全員が、一斉に呆れたような声を上げた。メリーは箱へ向かいながら説明した。
「単純なことです。花札の札は十二種類。それぞれ一月から十二月を表しています。そのうち、最後の月、十二月の呼び名は――」
言い終わらないうちに、ヘンリーが感嘆の声を上げた。そのひと言だけで、突拍子もないという印象を拭い去るには十分だった。
「雨!」
「ご存じの方がいてよかったです。本来は柳で十一月を表しますが、ゴーストップをする国では、十二月の『雨』と呼びます。ここまで来れば、文章に出てきた『光』にも、見当がつくはずです」
メリーは箱を手に取り、数字を一つずつ合わせながら、説明を続けた。
「ゴーストップの花札で、『光』の字がある五枚は、一月、三月、八月、十一月、そして十二月です。『濡れていない地の四つの光。逆行がその鍵』とは、雨の光札を除いた残りの札を、逆の順に並べた数字が、最後の箱を開ける暗証番号だという意味だったんです」
一、一、八、三、一と合わせると、長い手紙が現れた。メリーが読もうとすると、ハロルドが乱暴に紙を奪い取った。
「ありがとう、助かったよ。さあ、こちらに!」
年月の滲む筆跡で綴られた手紙。右下に押された会長の赤い印が、真意に辿り着いた者たちへ拍手を送るアーノルドの代わりをしていた。ハロルドが、実の子どもたちに宛てた書き出しを読み上げると、サニーとヘンリーも身を寄せ、それぞれの速さで、大切なものを読み進めた。
サニー、ハロルド、ヘンリーへ。
愛する子どもたちよ。わしの謎を解いたようだな。お前たちは大切な家族であり、目に入れても痛くない。世の中のどんな者でも、親であれば同じ思いだろう。お前たちへの限りない愛は、時が流れ、わしが砂に還り、世紀が変わっても、永遠に胸に残る。だが、会社の仕事を任せ、わしが一から築き上げた黎明の権力を一任するのは、血が繋がっているというだけで決められることではない。それは理解してほしい。
サニーは、男に目がない放蕩な女になった。ハロルドは、権力を前にすると野蛮に変わるところがあり、指導者にするには徳が足りない。ヘンリーは新薬の臨床試験で事故を起こし、会社の評判に傷をつけてしまった。
会長の椅子に座れば、長になれるわけではない。周りの者を惹きつける人柄と、この人のためなら人生を捧げて働きたいと思わせる、聖人のような資質を備えた人間が、黎明を継ぐべきなのだ。いつからか、お前たちがわしを重荷のように思い、遠ざけるようになったとき、そばで気楽に話をしてくれた者に、遺産と会長の座を譲りたい。
謎が解かれる日、わしが生きているか、死んでいるかはわからん。遺言状に代えて、この手紙を残す。わしはアダムに、黎明のすべての権力を託す。寵愛する弁護士ペリーは、わしの意思を汲み、彼を陥れようとするあらゆる勢力を阻止せよ。
愛する子どもたちよ。煮え立つ胸の内を鎮め、老人の願いが叶うことを願っておくれ。それが、わしへの親孝行であり、会社への愛でもあるのだから。
二〇XX年X月X日 アーノルド・サンライト記す。
「何だ、これは?」
怒りよりも呆れの滲むハロルドの言葉に、ヘンリーが同調した。
「相変わらず、父さんは悪ふざけが過ぎる。遺言状で暇つぶしとは、よほど退屈だったんだろうな」
ヘンリーはアダムをちらりと見て、肩をすくめた。アダムも笑ってやり過ごそうとした。
「そうですね。会長なりの、お茶目な冗談だと思いますよ。俺のような、ただのゴルファーに何がわかって、会社を動かせるというんです? そうでしょう? はは」
「そうとも限りません」
ペリーのきっぱりとしたひと言は、呆れしか浮かんでいなかったハロルドの顔を、強張らせるのに十分だった。
「会長は、こうおっしゃいました。『この箱の中身を使うことには、黎明を大切に思う者ほど反発するだろう。製菓会社を任せているハロルドが、いちばん激しく反対するはずだ。だが、何があっても、中身が絵空事になることだけは、君が防いでくれ。難しい謎を解いた者には、これくらいの贈り物が必要だと思うのでね』と」
「だから、何だというんです? この謎を解いたのは私です。この紙を、私の好きにして構わないのではありませんか?」
「単なる物であれば、どうなさろうと社長のご自由でしょう。しかし、遺言状だとわかった以上、話は変わります。私は黎明の弁護士として、会長のご意思を貫く必要があります」
「馬鹿な。こんな内容が、正式な遺言状として認められるはずがないでしょう!」
「申し上げにくいのですが、法律上、何の問題もございません。会長を悼むためにも、故人のご意思に従うのが道理と存じますが……」
法律は遊びではないと、ハロルドは抗議を続けた。老人を敬う心の柵が、次第に崩れ、罵声が飛び出しかけていた。
ハロルドが投げ捨てた、アーノルドの最後の言葉を読み込んでいたメリーは、碑文や演説と食い違う内容に、背筋が寒くなった。
(この遺言状は、細工されている……!)
メリーの疑念に火花が散ったとき、ドナルドも同じ疑いを口にした。
「おかしいですね。おじいさまは、謎を解いた人に賞品を与えるとおっしゃいました。ところが、遺言状では、解いた人はそっちのけで、会長の座をアダムさんに譲ると決めてある。辻褄が合いません」
「そうだ! ドナルド君の言うとおりだ! ペリーさん、あなたもおかしいとは思いませんか?」
ハロルドは勢い込んで賛同し、小柄な弁護士を説き伏せようとした。アダムも後頭部をかき、自分が会長になることを否定した。
「細工ではなくても、会長が謎に興味を持たせようと、気を引く話をしただけかもしれません。ご自身が事故に遭うなんて、想像もしなかったでしょうから、冗談だったと言う機会を失ったんでしょう」
「いいえ。会長は、遺言状を冗談でお書きになる方ではありません。仮に冗談だったとしても、それを証明する方法はございませんし、私はただ、会長のご意思に従うのみです」
忍耐という名の導火線は、縮むだけ縮み、ついに爆弾が破裂した。怒りの矛先は、ペリーではなく、アーノルドに向いていた。
「父さんに認められるために、私は死に物狂いで働いてきたんだ! こんな謎で人を弄ぶなんて、ふざけるな。絶対に認めない。あのくそじじい、年を食って脳まで腐ったんだ! せいぜい接待ゴルフの相手をしているだけの人間に、跡を継がせるだと? 引きこもって暮らして、仕事のことなど考えもせず……」
ヒルダはハロルドを押さえたが、理性の糸が切れた社長は、妻の制止も構わず、アルツハイマーにまで言及した。それでも、忠実な老練の弁護士の頑なな態度は変わらなかった。そして、その様子を見て、心が変わった者がいた。
「ペリーさん。本当に、俺が会長になれるんですか?」
「はい。自筆証書遺言に必要な要件をすべて満たしておりますし、私個人の見解ですが、筆跡も会長のものだと思います。会長がこの世に残された事柄を取り計らうことこそ、私の務めです」
アダムは、ごくりと唾を飲み込んだ。
次回「サンライトリゾート編 第15話」は、2026年10月8日(木)21:00(日本時間)に公開予定です。




