綱ヶ背橋の伝説
「祐樹君は綱ヶ背橋の伝説って信じる?」
「え?」
祐樹は思わず素っ頓狂な声を上げた。4年前と全く一緒だった。まるでいきなりその日にタイムスリップさせされてしまったような。
「どうしたの?」
唯は笑顔を崩さず少しだけ首をかしげた。祐樹はちょっとためらい、やがて意を決したように口を開く。
「つながせばしの伝説?何それ?」
唯は目を丸くした。よもやそんな応えが返ってくるとは思っていなかった、そんな驚きの表情だ。
「え、知らないの?」
―知らないの?高田町に住んで何年になるのよ?―
「愛宕山の麓に小さな祠があるでしょ?」
「初めて唯ちゃんの私服を見た場所だ」
「そうそう、あそこ。何だ、知ってるんじゃないの?」
今更やっぱり知ってますとは言えないか。白を切りとおすことにした。
「まああの山の祠くらいは知ってるよ。高田町に住んでちょうど16年目なわけだし」
「何に対する“ちょうど”よ?」
夕日に照らされる唯からはいつもと違う魅力を感じる。自分の笑顔は多分不自然に見えるだろう、そう感じた。だが幸い唯は気付かない。
「てかほんとに知らないんだ。有名な話かと思ったけど」
「誰かに聞いた話?」
「近所のおばちゃんに聞いたんだけど」と前置きをして、唯は講義をする教授よろしく堂々とした態度で話し始めた。
「むかーし昔から言い伝わっている伝説。愛宕山のあの祠の前には小さな小川が流れているでしょ?その川には石造りの古―い橋が架かっているんだって。それが、今言った綱ヶ背橋ね」
そこで一度言葉を区切った。祐樹はこくりと頷き続きを促す。同じく満足気に頷く唯。
「その綱ヶ背橋の伝説ね。満月の夜、男女が手を繋いで月明かりに照らされるその橋を渡れば、その二人は永遠に結ばれる」
月明かりに照らされ、なんて件はあっただろうか?まぁ所詮は口伝いの伝説だ、多少の変化はあるだろう。
「綺麗な伝説だね」
「だよね!」
窓の外に目線を移せば、11月も半ばを過ぎようというのに半袖短パンで、寒そうな素振りも見せず部活に勤しんでいる学生たちの姿が見える。結局祐樹も唯も何の部活動にも参加していない。
「何が言いたいか分かるかい?」
目線を唯に戻す。笑顔で小首をかしげている。とても可愛かった。思わず顔が綻んでしまう。
「一緒に行こうよ、と」
祐樹の言葉で唯は更に嬉しそうに笑う。
「冴えてるね」
「つまり、唯ちゃんはその伝説を信じるってこと?」
応えはすぐに返っては来なかった。そしてぺろっと舌を出す。
「聞いといて自分がすぐに答えられなかったら世話ないね」
祐樹の隣の席に座る。そこは今や唯の席ではない。2学期に入ってすぐに席替えがあり二人は離れ離れになってしまったのだ。祐樹は相変わらず窓際の席だったが。だから今でも授業中にこっそり窓の外を見る。
「信じたいって言うのが正直な気持ちかな?さすがに完全に信じるとは言えないけどさ。まあ色んな所に似た話はあるかもしれないけど、満月の夜限定でとかすごいロマンチックな話だと思うし。他の縁結びの話と違って、有名などこどこ神社とか何々岬とかじゃないじゃん。地元だけでこっそり伝わってるって言うのもいいよね」
鞄に筆記具や教科書を放り込む。目線は唯を向いてはいなかった。
「そろそろ出ようか」
唯の不満気な顔が目に浮かぶ。そちらは向かず、室内を軽く見渡す。
教室には二人を含め10人満たない程度学生が残っている。あまりこの手の話は人前でしたくはない。冷やかされるのも嫌だし、小学、中学来の同級生の耳に入るのは最も避けたいことだった。祐樹の目線に気付いてか、唯も立ち上がり鞄を手に取る。
「OK。じゃあ帰りながら話そうか」
教室を出るとひんやりとした空気が全身を包む。思わず身をちぢこませてしまう。廊下には教室以上に人影がない。それがここの寒さを引き立たせているようだ。
「まるで恋人同士だ」
その言葉に他意はなかった。少なくともその時だけは。
9月の半ばのことだった。唯から付き合ってくれと頼まれたのだ。もちろん、それは彼氏彼女の関係になってくれということではなく、ありがちな“買い物に”付き合ってくれとの頼みだった。
「何の買い物に?」
「来週お父さんの誕生日なの。そのプレゼントを探しにね」
喜びと同時に疑問も浮かぶ。
「いいけど、なんで僕に?」
「だって、お父さんの顔を知っているのは祐樹君だけだし」
祐樹はぼんやりと思い出した。たしか4ヶ月ほど前の夕刻時だった。愛宕山の麓、あの橋の近くで唯と両親に会った。
「優しそうなお父さんだったね」
祐樹の言葉に、唯は嬉しそうに微笑んだ。ああ、この子は父が大好きなのだな、そう思った。そういえば最近祐樹の父は仕事が忙しく、夕食を共にすることが少なくなった。いつからか一緒に風呂に入ることもなくなり、それを当然に受け入れている自分がいた。幼い頃はずっと一緒に入りたいと思っていたのに。
「伝説は所詮伝説だよ」
夢がない、とか言って怒られそうだな。そう思いながらも祐樹はそう口にした。意外にも唯は不機嫌な顔を見せなかった。
「ただの伝説でも本当のことでもいいのよ」
「何の意味があるのさ?」
「こういうのって信じる信じないじゃないんじゃないかな。そういう伝説がある場所へ行こうって気持ちが重要なんだと思わない?」
―分かってないなあ。たとえただの伝説でも、そんな伝説のあるところに二人で行く、ってのが大事なんじゃない―
「そんなもんかい?」
「そんなもんよ。夢がないなぁ、祐樹君は」
あ、時間差で怒られた。思わずふふっと笑ってしまった。
「なんで笑うのよ?ねえ、それより結局どうする?」
祐樹はふと真顔に戻り、落ち着いたトーンで切り出した。
「そうだな、一つだけ言えることは、」
唯がこちらを注目し固唾を呑む。
「唯ちゃんの家に着いたよ」
何だそりゃ!ってね。唯はむっとしていた。
「祐樹君て意外とそういうの信じないタイプなのね。分かった。じゃあまた日を改めてね」
手を振り唯を見送る。玄関に吸い込まれるように入っていく唯を見届けた後、祐樹は再び歩き出した。嫌でも先ほどのやりとりを思い返す。自分でも驚くほど戸惑っていた。綱ヶ背橋に誘われたことに対してではない。それはむしろ嬉しいことだと思う。しかし、この戸惑いは何だろう。
4年前のあの日を思い出す。今でも完璧に思い出すことが出来る。あの日交わした一語一句を一つとて零さずに。薄暗い夜空からは満月が明々と二人を照らしていた。自分の左手を見る。幼稚園以来お互い恥ずかしくてほとんど繋がなくなった手と手。数年ぶりに握り締めた優衣の手は、柔らかく、暖かく、幼稚園時代のイメージより若干小さく感じた。その頃は身長も祐樹の方が大きくなっていたのだから当たり前だろうが。その手の感触だってはっきり覚えている。この温もりを留めたまま、唯と橋を渡ることなどできるだろうか。最近は日が落ちるのが早い。辺りは唯と別れる以前と比べてずっと暗く、寒く感じた。
「何それ?何の冗談?」
響子の語気はいつもより刺々しかった。
「どこかで聞いたらしくて」
「それはともかく、尾藤君は何て答えたの?」
「はっきりとは何も」
響子が信じられないという表情を見せた。思わず目を逸らす。
「何で答えなかったの?」
「何でって・・」
「尾藤君言ったよね?付き合い始めたって。もう一ヶ月以上経つかな」
頷く動作もぎこちなかった。間違ってはいないし、しかしここで堂々と頷くのもおかしい。
「誰と?」
「え?」
「尾藤君は誰と付き合ってんの?」
「・・唯、ちゃん」
「私は苗字を聞きたいのだけど」
響子の言いたいことが分かってきた。でも、言われなくとも自分はちゃんと理解していたつもりだ。しかしこの気持ちは・・
「そのゆいちゃんてのは何て苗字?」
「・・大野だよ、大野唯。分かってるさ、小林優衣じゃない!」
思わず語気が強くなってしまった。分かっていることを回りくどく言うな、という怒りではなかった。自分に対する苛立ちだ。
「でも尾藤君は綱ヶ背橋の話を聞いて何も言えなかったんでしょ?本当に大野唯さんが好きなら一緒に橋を渡りたいって気持ちは出てくるんじゃないかな?」
何も言い返せなかった。そうだ、自分はいつの間にか、いや、もしくは初めから、分かっているつもりで、しかし実際は唯に優衣の影を見ていたのかもしれない。だから自分はこれほどまでに戸惑ったのだ。共に綱ヶ背橋を渡った優衣が再びそんなことを言うわけがない。この子は唯であって優衣ではないのだ、そう現実を突きつけられたような衝撃を受けたせいなのかもしれない。だから自分は戸惑い、何も答えられなかったのだ。
「尾藤君、実はね・・」
しばらく間を置いて響子が口を開いた。
「智弘と付き合ってる、でしょ」
響子が目を丸くするのが分かった。何故それを知っているのだ、そんな表情。
「どうせ僕は鈍いから気付かないだろう、そう思ったんでしょ」
「違、そういうつもりじゃ・・」
「恋人を失って可哀相だから黙っておこうと。それは友達としての気遣いなのかな?同情のようにも感じれるよ」
自分でも困惑するほど、とめどなく言葉が溢れる。
「止めてよ。そんなつもりじゃないってば。第一関係ないじゃない」
「関係ない?何だ、友達と思ってたのは僕だけの勘違いだったってわけだ」
「違うよ、それと今の話は関係ないって意味よ」
お門違いは分かっている。話をすり替えて、自分への苛立ちのはけ口を作っているだけだ。でも自制ができなかった。
「川島さん、彼氏によろしく伝えといて。友達じゃない僕はもうあのメンバーで集まるのは止めるよ」
「ちょっと・・」
捨て台詞のように、荒々しく吐き捨ててその場を後にした。自分がどうしようもなくちっぽけな人間に思えて、涙が溢れそうだった。優衣の死に対してこれっぽっちも流れなかったくせに。そのことにまた腹が立った。
「どうかしたの?」
唯が机の前にしゃがみ、顔だけ机の上に出している。祐樹は、巣穴から顔だけ覗かせている小動物を連想した。
「なんで?」
出来るだけ笑顔を取り繕った。
「なんとなくね。ちょっといつもと違う感じがしただけ」
唯はそれ以上聞くのをやめた。どうせ自然な笑みなど出来てはいまい。唯の気遣いに感謝した。
「それで、どうするの?」
綱ヶ背橋のことだろう。まだ気持ちの整理がついていない。しかしこれ以上応えを引き伸ばすことも、まして断ることなど出来ない。
「次の満月はいつかな?」
「13日後よ。再来週の水曜ね」
唯は笑顔で即答した。その顔が見れただけで、自分は間違っていないと思える。唯が笑ってくれるなら自分がどう思っていようがいいんじゃないか?
「月末だね。そうなればあと一ヶ月で今年も終わるんだ」
話を変えたかった、そんな考えはなかったが意識下ではそんな気持ちがあったかもしれない。
「早いね。付き合い始めたころはTシャツでよかったのに」
「ああ、あの頃ね」
唯の言葉であの日に戻った。夕焼けに紅く染まった教室で、二人きりだった。
「お父さん喜んでくれたよ。ありがとね、付き合ってくれて」
唯が切り出した。父の誕生日プレゼントを一緒に探した礼だ。
「気に入ってくれたならよかった」
いつもと同じだった。放課後に教室に二人になることは少なくなかった。ただ、唯の様子だけが違った。でも祐樹は気にしなかった、というより鈍いせいであまり気にならなかったというべきだろうか。
「祐樹君、」
今度はどんな話題を出すのだろう、その程度の気持ちだった。
「あの、私と付き合ってくれないかな?」
「今度はお母さんのプレゼント探し?」
「いや、そういう意味じゃなくてね」
「え?・・あ、買い物じゃないんだ。えと、じゃあ何に?」
「何にって言うか、だから私と」
「・・・あ、あ~」
と言ってから後悔した。何て間抜けな返事だ。気付くまでもなんとも間の抜けた返しをしていた。付き合って→何の買い物に?→買い物じゃなくて→じゃあ何に?って。
「に、鈍いにもほどがある」
恥ずかしいことこの上ない。夕日に負けないくらい顔を赤らめた。
「まあまあ、私の言い方も悪かったよ」
「ごめん、感動的な場面のつもりだっただろうに」
「まあ、この3ヶ月で祐樹君の性格は大体分かってたつもりだから」
「・・それ、もしかしてこうなるかもって予想はあったってこと?」
唯はぺろっと舌を出した。
「なんか残念な始まりだね」
「そんなことないよ。なんて言うか、らしくていいんじゃない?」
そう言って唯はふふふと笑った。祐樹も、唯に倣ってふふふと笑った。
今思い出しても可笑しくなる。ふと気付けば口元が少しばかり弧を描いている。
「いつの間にかってのは僕らの定番か」
「え?」
「優衣ちゃんとはそんなやりとり自体なかっ・・」
はっとして口を噤む。ほぼ無意識に口から出ていた。唯がきょとんとしている。
「私とは、何?」
「あ、いや。ぼーっとして何か変なこと考えてた」
「何それ?『あの頃ね』って言うからてっきり思い出に浸っているのかと思いきや」
祐樹は若干大袈裟に笑ってごまかしたが、唯はいまいち腑に落ちていない様子だった。そしてふと気付く。こんなに優衣のことを口にしまいとしているのは何故だ?今はいない元彼女。話したって問題はなさそうではあるのに、自分は頑なにそれを拒んでいる。唯に知れたらどうなる?その子にそっくりな私は、つまりその子の代わりとして見られているのではないか、と?そんな考えが浮かぶのはやはり自分自身が心のどこかでそう思っているからではないのか?少なくとも全くその考えがないということはないのだろう。ショックだった。自分の気持ちが信じられない。自分は唯のことが好きだ。しかしその真意は何だ?100%唯だけに惹かれているのか?それとも優衣に外見も性格もそっくりだから惹かれているのか?
―ま、とはいえあの優衣ちゃんとは別人なわけだし、だろ?―
ファミレスでの智弘の声が蘇る。分かってるよ、吐き捨てるように呟く。僕だって分かってるさ。でもこれほどまでに似ていたら・・
―本人かと思ったって?彼女は大野唯本人だよ。そうだろ?―
隼人が冷めた口調で言う。その一瞬だけだったろうか?セミの鳴き声は聞こえなかった。急に黙り込んだせいだろう、唯が訝しげにこちらを見ている。そんな眼で見ないでよ、ユイちゃん。
優衣と二人の空間と同じくらい、自分の部屋で一人きりになるのが好きだった。そこでぼんやりと音楽を聴くのだ。窓の下の棚においてあるミニコンポは何の音も発しない。上面にはうっすら埃を被っていた。1年半くらい動いていない。そう、優衣が遠くへ行ってしまったあの日以来だ。今日もやはり、それを起動させる気は起こらなかった。階下では母が夕飯の支度をしているだろうがその音も一切聞こえてこない。ここにあるのは静寂だった。椅子に座り、その静寂を享受する。突っ伏してしまいたかったが体がそれを許さない。机に肘を突いたまま空を見つめていた。ふと目線を感じて頭を上げる。卓上の本棚に腰掛けた天使と目が合った。天使は楽しそうに微笑んでいる。少しだけ気に障る。僕がこんなに落ち込んでるのにお前は何も言葉を掛けないで笑っているだけか。手を伸ばし、抱きかかえる。天使にもコンポ同様うっすらと埃がかかっていた。優衣がせっせとこれを縫っている姿が脳裏に浮かんだ。それだけでこの少し不恰好な天使がすごく愛おしくなる。僕はやっぱり間違ってるのかな?唯ちゃんを唯ちゃんとして見ていなかったのかな?お前はどう思う?天使は依然として微笑みを浮かべている。そっと、天使を元の場所に返す。バランスを崩して倒れた。この置き方も悪くないな、そう思った次の瞬間、優衣の姿とダブった。真新しい木造りの箱の中で眠る優衣と。慌てて置き直す。鼓動が早くなっていた。今はここにいられない。駆けるように階下へと急いだ。
「女を泣かすのは最低だって聞いたことないかい?」
「それも本からの知識?」
顔を上げて相手の顔を見上げる。そして驚いた。
「隼人のそんな険しい顔初めて見たよ」
「川島さんに聞いた。何八つ当たりしてるんだ」
目線を窓に映す。ばつの悪さを感じたせいか、隼人の方を向いていられなかった。
「八つ当たりってつもりじゃなかったんだけど」
「君がどういう考えで彼女と付き合ってるかなんて僕にはどうでもいいけどさ。友達を傷つけるのは黙ってるわけにもいかないだろ」
「悪いことしたとは思ってるよ」
「彼女だって何も君を批難しようとして言ったんじゃない。君のことを思っての行為だ」
隼人の芝居がかった言い回しが可笑しかった。
「小説の一節でありそうな言葉だね」
「だけど本当のことだ」
分かってる、窓を向いたまま頷いて呟いた。
「僕はどうすればいいんだろ?」
唯はトイレだろうか、教室には不在だった。そのおかげでこんな話も出来る。多分隼人が配慮してその時に来てくれたのだろう。
「綱ヶ背橋のことなら川島さんから聞いたよ。あと言伝も預かった」
「言伝?」
そこでようやく、隼人に目線を戻した。
「彼女は、誰から綱ヶ背橋の伝説を聞いたって言ってた?」
「えっと・・たしか近所のおばさんとか」
「覚えてる?彼女の近所に、川島さんの親戚が住んでるって言ってたろ」
「ああ、だからいち早く唯ちゃんのことを聞けたんだよね。え?もしかしてそのおばさんが?」
こくりと頷く。
「彼女に綱ヶ背橋の伝説を聞かせたのが川島さんの叔母さんなんだって」
「それは、また、奇遇なことで」
「奇遇だと思うかい?わざわざそれだけを知らせてどうするんだ。ちゃんと続きがある」
つまり、響子の叔母が唯にその伝説を話したのはただの世間話の一つのつもりではなかったと?
「川島さんが叔母さんに頼んだんだ。彼女に綱ヶ背橋の伝説を話してくれって」
周りの雑音が一瞬にして消えた。しばらく声を発せなかった。
「・・か、え?川島さんが、頼んだ?」
隼人がゆっくりと頷く。
「何それ?意味が分からないんだけど」
響子が叔母を介して唯に綱ヶ背橋の話を教えた。そのことを頭の中で反芻していると、じわじわと怒りが湧いてきた。
「川島さんはどういうつもりなの?僕に嫌がらせをしようと?」
「そんなわけないだろ。彼女なりの考えでそうしたんだ」
「どう考えたらそうなるんだよ!」
勢いよく立ち上がった。椅子が軋みながら後方へ倒れた。教室内の数人がこちらを見ている。そんなことは気にならなかった。隼人の表情は依然として冷静さを保ったままだ。一度深呼吸してから開口した。
「現にこうして僕は悩んでる。川島さんならこうなることは簡単に予想できただろ」
「だったらきっと君に悩ませようとしたんだろうね」
「悩ませて、その姿を見てほくそ笑むって?最低だよ、そんなの」
倒れた椅子を立て直し、今度はそっと座った。
「そのつもりならわざわざバラす必要があるとは思えないけど」
「え?」
「自分が大野さんに綱ヶ背橋のことを教えさせたってことをさ。わざわざ君に言って何の得になる?嫌がらせのつもりなら黙っていた方がいいだろ」
「じゃあ何でこんなことを・・?」
「それは自分で考えるべきだね。もしくは本人に直接聞いてみれば?ともかく今は時間切れだ。じゃあね」
そう言い残し去って行った。隼人が教室を出ると、入れ違いに唯が入ってきた。何となくばつが悪く、思わず眼を逸らしてしまった。
結局、響子の言わんとしている事が分からぬまま数日が過ぎた。満月が近づく。いまだはっきりと気持ちを決められないでいた。唯は自分と綱ヶ背橋を渡りたいと言ってくれているのだ。そんな彼女を悲しませる道理はない。しかし一方でこうも考える。そんな後ろ向きな考えで渡っていいのか?もちろん、橋の伝説が真実かどうかなど分からない。優衣も、唯も言っていた。これは気持ちの問題だ。100%唯のことだけを考えていられない以上、彼女と橋を渡ることは何の意味もない。むしろなおさら、自分の心の中で彼女を傷つけていることになるのではないか?だったらいっそ、悲しませてでも今回は見送るべきなのではないのか。しかし彼女の悲しそうな顔は見たくない・・
堂々巡りだ。周りが急にざわつき始めた。何事かと辺りを窺う。数学教師の武田が教室を出て行く。いつの間にか午前の授業が終わっていたようだ。チャイムすら聞こえなかった。ため息をつきつつ両手で顔を擦る。
「お疲れ?」
声を聞いただけで幸せな気分になれる。笑顔で顔を上げる。いつものように机越しに微笑みをくれる彼女を、天使の様だと思った。お弁当を手にした天使。
「勉強は苦手でね」
「私も。肩凝るよね」
「年寄りみたいなこと言うね」
「失敬な!まだまだピチピチよ」
「今度はおじさんみたいな発言だ」
二人して笑った。いつものようにふふふ、と。
「もうすぐ満月だよ」
優しげな微笑だった。まるで何かを諭す母のような。いや愁いを帯びた、大人びた表情。
「・・うん」
力強く頷いた。これでいいんだ。僕は唯ちゃんが好きだ、それでいい。
「行こう」
唯も頷いた。しかし先ほどの笑顔ではない。もっと嬉しそうに、というわけではなく、その逆だった。真剣な顔つきだった。内心戸惑った。何故はっきりと返事をしたのによろこんでくれないんだ?
「ひとつ、聞いてもいいかな?」
「・・もちろん。何?」
唯は思案するように少しだけ目を泳がせ、そしてまっすぐこちらを見据えた。
「天使の縫いぐるみは今も大事に飾ってある?」




