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綱ヶ背橋  作者: 伊東歩
8/8

天使と手紙


「祐君は天使って信じる?」

 優衣の声だろうか?それとも唯?そんな判断もつかないの?やっぱりあなたは二人を別々に見てはいなかったのよ。咎めるような響子の声。智弘と隼人の声は聞こえなかった。

 唯に天使の縫いぐるみのことを聞かれて、どうやってここに来たか覚えていない。唯に何と答えたかも。校庭の、一番大きな木の下。隼人がいつも読書をしている場所だ。まだ食事中なのか、いまは誰もいない。何故自分はここに来たのか、きっと誰かに説明して欲しかったのだ。一体どうなっているのか、自分はどうすればいいのか。

「探したよ」

後ろから声を掛けられた。唯の声でも隼人の声でもない。振り返る。

「安藤君」

 義信は無表情でこちらを見ていた。4年前以来、あまり彼の笑顔を見ることはなくなった。

「彼女、聞いてきたか?」

 何の話か分からず黙っていると、義信は浅くため息をついて再び口を開いた。

「天使の縫いぐるみの話だ」

 口を開くが声は出ない。なぜ義信が縫いぐるみのことを知っているのだ?

「驚いたか?大野唯には俺が喋ったんだ」

「な、なんで・・」

「お前が煮え切らない態度だったから気になったんだろ、彼女は彼女なりに調べてたんだよ。全部話した、小林優衣の存在も、お前と二人で綱ヶ背橋を渡ったことも」

 首を振る。声どころか呼吸すら難しかった。

「驚いて声も出ない、か。悪いとは思ったけど、お前だけ秘密を持っているのは不公平だと思ってね」

「それも、驚きだけど・・」

 ようやく声が出た。

「安藤君はなんで縫いぐるみのことを知ってるの?」

 義信はじっと祐樹を見据えた。黙ってはいるが覚悟は出来ているようだ。祐樹は逸る気持ちを抑え、急かさずに待つことにした。やがて、口を開いた。「俺だけ秘密を持っているのは不公平だな」と前置きして、話し始めた。あの悲劇の夜の出来事を。


 その日、義信は夜道を一人歩いていた。塾の帰りだった。7時過ぎ。何気なく空を見上げた。星はいつもより見えなかった。雲が掛かっているわけではない。月は丸々と太って、円に近かった。満月、か。満月を見るといつも切ない気持ちに襲われる。原因は分かっている。仕方のないことだとも分かっている。でも、理屈だけでこの気持ちを抑えるには自分は幼い、ということも分かっている、つもりだ。右手に公園が見えてきた。いつもなら何も考えず素通りしてしまう、小さな公園。小さい頃はよく母と遊びに来ていた。ちょっとだけ寄ってみることにした。小さな街灯は、自らの足元を照らすほどの力しか持っていない。しかし今夜は月が明るい。いつもなら入るのを躊躇う小さく薄暗い公園も、今夜はすんなり義信を受け入れてくれた。その時だった。キィッ、キィッ。左手から金具の軋む音。背中にひやりとしたものを感じた。もしかして、幽霊の類か、目を凝らす。二つあるブランコのひとつが揺れている。二つ揺れていないということは風ではない。公園の暗さに目が慣れてきた。人の姿が見える。女の子だ。女の子の霊か?おっかなびっくり近づいていく。だんだんと姿がはっきりしていく。

「優衣ちゃん?」

「わ、びっくりした。あら、義信君。どうしたの?こんな時間に」

「塾の帰り。優衣ちゃんこそこんなとこで何してんのさ?」

「受験勉強してるとお腹空いて来ちゃうよね。で、これ」

 そう言って傍らのビニール袋を掲げて見せた。コンビニのロゴが描かれている。照れ隠しだろう、ペロッと舌を出し首を竦める。とても可愛い仕草だった。それが余計に義信の虚しさを誘う。

「月が綺麗だからついでに見てたの」

「夜に一人でいると危ないよ」

「大丈夫よ。ちゃんと防犯ベルも持ってるし、こう見えて武術の達人なのよ。とりゃ!」

 ブランコから飛び降り、それらしいポーズをとる。「なんちゃって」と、またペロリと舌を出した。思わず吹き出した。優衣も一緒に笑う。

「俺は満月が嫌いだよ」

 ひとしきり笑い、そして言った。

「あら、どうして?」

 真剣な表情で優衣を見つめた。

「前にも言ったけどさ。俺は今でも優衣ちゃんが好きなんだ」

 前回この台詞を口にしたのは中学に上がる前だった。そのときよりも緊張もせず、スマートに言えた。

「ごめんね。私も前にも言ったけど、約束した人がいるの」

「何なんだよ、約束したって。所詮はただの伝説だろ。科学的根拠も何もありゃしない」

 つい語気が荒々しくなってしまった。

「分かってるよ」

 義信とは違い、優衣の声は冷静そのものだった。諭すように言葉を紡ぐ。

「私だってそこまで子供じゃないんだし。伝説は伝説でいいの。その願いが叶おうが叶うまいが、少なくとも二人の気持ちは強くなることは確かでしょ。その思いがなければ伝説を信じようなんて思いもしないでしょ」

 優衣に言われずとも、そんなことは分かっているつもりだった。でも黙っていられないのだ。それだけ自分は優衣のことが好きだという証でもあった。

「祐樹と俺と何が違うんだ?」

「違うところはたくさんあるわね。義信君は頭いいし、スポーツは万能だし」

「じゃあいいじゃないか」

「あ、でも長距離走は祐君の方が早いか」

「早い男が好きってんなら祐樹より早くなってやる」

 優衣が笑った、と言っても微笑む程度だった。

「勉強もスポーツも関係ないよ」

「祐樹の方が俺よりも優しい?」

「義信君も十分に優しいと思うよ?そういう、言葉に出来るものじゃないのよね」

「言葉に出来ないって・・」

「義信君はどうして私のことが好きなの?」

「それは、」

 少し照れくさかったが、躊躇うわけにはいかなかった。

「皆に優しいし、勉強だって運動だって出来る。可愛くて、それでいてそれを鼻に掛けない。それから、」

「じゃあさ、その条件に合う人がいたらその人たち皆を好きになっちゃう?」

「それは、理屈はそうかもしれないけど、でも何か違うと思う」

「でしょ。理屈じゃないのよ、きっと。私だって偉そうなこと言えないよ、分かってる風なこと言ってるけど何で祐君が好きなのかなんて自分でも100%説明することはできないし」

 沈黙が訪れた。何も言えなかった。ここで引き下がりたくない、その気持ちは大きいはずなのに、優衣の言っていることが分かる。だからこそ言葉が出てこなかった。

「最近ひとつ気付いたのはね、」

 一呼吸置いてまた話し始めた。

「天使の縫いぐるみを作ったの」

 唐突な始まりだ。何の話だろう?

「私しか知らない祐君だけの天使。誰かに何かをプレゼントするって自分も嬉しくなるよね。その喜びが大きいのは、それだけその人が好きってことなんだなって気付いた」

 相槌すら打てなかった。自分は、欠片ほども優衣の心の中にいないのか。

「さて、そろそろ帰ろうかな。じゃあまた明日ね」

 優衣が歩き始めた。ついていこうとするが足が動かなかった。自分はやはり優衣を繋ぎとめることはできないのだ。ここで素直に引き下がるのが男らしいのだと思う。でも負けたくない。祐樹に、弱気になっている今の自分に。歯を食いしばり、ようやく一歩を踏み出した。公園の入り口まで辿り着く頃には、優衣は既に目の前の横断歩道を渡っているところだった。情けないと思われようとも構うものか。

「優衣ちゃん!」

 立ち止まり振り替える優衣。笑みを湛えたその姿はとても明るく見えた。錯覚ではない。それは、トラックのヘッドランプだった。


 話し終わった義信の顔は苦しみに耐えているかのように歪んでいた。当時の光景を思い出したのだろう。

「何それ?なんで今まで」

「もちろん警察には言ったさ。でも結局は居眠りした挙句信号無視したトラックの運転手の責任だ。それが原因で責め立てられたり、最悪いじめに繋がるとでも思ったのかな、これは誰にも喋らない方がいいと言われて、実際そうしてた。そのことは優衣ちゃんの両親にも伝わってないらしい」

「それでも、僕には教えて欲しかった」

 自分は優衣の彼氏だったのだから。

「もちろんお門違いなのは分かってるけど、それを承知であえて言うと俺はお前が好きじゃない。好きな子を取られたわけだし」

「逃げの口実じゃないの?」

 そういえば義信は優衣の葬儀に参加していなかったな、そんなことを思い出した。

「誰かに言いたいなら言えばいい。俺は今までずっとこのことを一人で抱えてきた。俺のせいで優衣ちゃんが死んだのだと責められた方がずっと気が楽だと思ってたよ」

 祐樹は義信から目を逸らした。この感情は怒りか、悲しみか、自分でも分からない。

「確かに言い訳に聞こえるかもしれないけどさ、俺は自分が優衣ちゃんを殺したようなもんだと思ってる、今でもな。だからあえて黙っておくことを選んだんだ」

 義信は今まですっと自分を責め続けてきたのだろう。そのことは伝わった。でもやはり納得できなかった。義信のせいというわけではない。それでも責めたくなる。責めたところで気が済むわけでもない、ということも分かってはいるのに。

「僕が嫌いだろうが何だろうが黙ってるのはおかしいでしょ。自分を苦しめるとか言って結局皆に責められるのが怖かったんだ。卑怯者だ」

「俺は多分一生あの時の光景を忘れられないんだろうな。心底笑えることなんてないかもしれない。卑怯者か。お前に言えるのかよ?」

「え?」

 突然矛先を向けられて戸惑った。

「何が?」

「お前、大野唯を何だと思ってるんだ?小林優衣の生まれ変わりか?それとも、ただの代わりか?」

「何言ってんの?大野唯ちゃんは大野唯ちゃんでしょ」

「橋を渡るんだって?」

 ぐっと息を呑んだ。別にいいでしょ、と言うその声は擦れていた。

「いいな、数年前を思い出すだろ?彼女と渡った時の思い出をさ」

「何が言いたいの?」

「俺は小林優衣の影を一生見ていくかもしれない。しょうがないさ、それくらいの報いは当然だと俺は思ってる。彼女を死なせたようなもんだからな。でもお前は、彼女を忘れて前へ進んでいくんだな。ほんと強い奴だよ」

 義信は寂しげに、うっすらと笑った。その自虐的な態度が気に障った。

「優衣ちゃんを忘れるなんて出来るはずないだろ」

 そっか、と呟いて、義信は一歩踏み出した。そっと、しかし力強く祐樹の胸倉を掴む。

「ふざけるなよ。そんな気持ちで橋を渡るってのか。それはつまり小林優衣の心も大野唯の心も軽んじてるってことだろうが」

「そんなつもりじゃ・・」

「じゃあどんなつもりだ?」

 義信の気迫に圧されたこともあり、祐樹は何も言えなかった。

「ちゃんと考えろ。生半可な気持ちのせいで二人の心を踏みにじるようなことになれば許さねえぞ」

 義信はそう言って手を離し、祐樹の襟元を正した。そして、祐樹を残しその場を後にした。


『前略 お元気ですか?

 というのも変かな?僕は元気でやってます。手紙なんて書いたことないから何を書けばいいのか。(笑)似合わないかな?これでも僕なりに考えてみたんだ。』


 あれから唯とはまともに会話をしていない。2日が過ぎ、気付けば満月は今日だ。

休み時間の度に廊下に出た。3時限目が終わり3度目の廊下での休み時間。目の前を通る生徒や教師を何気なく眺めていた。

「尾藤君」

 声の方を向く。響子だった。ぎこちなく笑みを作った。響子も同じだった。

「あの・・この前は、ごめん」

「いいのよ。私も悪かったわ」

「いや、川島さんの言う通りだったんだ。多分僕は大野唯を大野唯と見ていないところがあったと思う」

 そう、と言う響子の口調は、幾分優しかった。

「それで、どうするの?」

「天使はさ、色んなところを飛び回って皆に幸せをくれると思うんだ」

 響子が首を傾げる。構わずに続けた。

「僕は憧れていたんだろうな、そんな天使が羨ましいと思ってたんだ。自分も天使になりたい。それと同時に、天使にずっと自分を見ていてほしいと思った」

「・・だけどそれは叶わない願いね」

 こくりと頷いた。

「皆の天使だからね。独り占めはできない。例え始めは僕だけの天使だったとしても、それを抱えたまま更に幸せをもらうことは出来ないんだ」

「新たな幸せをもらうために、あなたはどうするの?」

 その問いには、笑顔だけで答えた。

「祐樹君」

 教室に入るなり唯から声を掛けられた。

「今日だよ」

 唯の声はそれほど嬉しそうではない。優衣のことを知った今、彼女の思いもまた複雑なのだろう。

「うん。分かってる」

「私、放課後まっすぐ橋のところに行くね」

「うん」

「じゃあ、またそのときにね」

 それだけ伝えると唯はさっと踵を返し自分の席に戻っていった。

 昼休み、例の大木へ向かった。隼人が読書をしている。祐樹に気づいて目線を手元からこちらへ向けた。

「邪魔してもいい?」

「こう見えて僕は友達には優しいのさ」

 少し横にずれ、スペースを作ってくれる。隣に並んで座った。

「今までの人生で一番悩んだ一週間だったよ」

「『前に進むも留まるも、どちらも過ちではない。自らの決断でないのが過ちだ』。僕の今のお気に入りの言葉だ」

「いい言葉だね。結果じゃなく行程が重要だと」

 隼人がおもむろに文庫本を開いた。目線を落とす。反対に祐樹は空を仰いだ。

「今日はいい天気だよ。満月もよく見えるだろうね」

「月光浴とはいい趣味だ」

 隼人も今夜のことは知っているはずだ。敢えてそれに触れないでくれるのはちょっと嬉しかった。


『自分では成長してるつもりではいるよ。君が見たら大したことないって言うかもしれないけどさ。確かに、君がいなかったら今の僕はないと思う。一人じゃ何も出来ない小さな子供だった。今でも大差無いかもしれないけど(汗)』


 午後の授業は早かった。期末試験も近い今日、教師も生徒たちも黒板に、ノートにせっせとペンを走らせる。祐樹もその一人だった。ルーズリーフなんて風情の欠片も無いな、でも僕らしくていいかな。そんなことを考えながら。一文字一文字丁寧に綴っていく。文を書くのは苦手だった。何度も何度も書き直した。自分はやり遂げなければならないのだ、そんな大袈裟な妄想を抱きつつ。斜め前に座っている唯の横顔を見る。教師の話を真剣に聞くその表情はやはり優衣とそっくりだった。そんなことを考えている自分に気付いて、しかし祐樹は動じなかった。この数日で自分は大きく変わったと思う。優衣と唯は違う人間だ。そんなことは誰が見ても明らかだ。そのことに固執するあまり逆に自分を誤らせていたのだろう。素直に事実を受け入れれば無駄に苦しむこともなかった。それに気付くのに時間がかかった。でももう大丈夫だ。自分で書いた文を読み直し、また消しゴムを手に取った。


『全部覚えてる。小さい頃からずっと一緒だった。何もかもが初めてで不安だった僕をいつも支えてくれてた。大きいことも小さいことも僕の胸は全部抱えてくれてる。天使は僕の中では今でもあのままの姿なんだ。キューピーちゃんって言ったらまた怒られるかな?(笑)』


 放課後、クラスメイトたちは慌ただしく部活や帰宅の準備をしている。唯はいつもどおり、教材を一つ一つ丁寧に鞄に収めていく。

「唯ちゃん」

 ゆっくりと振り返ったその顔は、心持ち緊張しているようにも見える。

「すぐ出る?」

 首を振る。綺麗に切りそろえられた前髪が左右に揺れ、それをすごく可愛いと思った。

「もう少し残ってる」

「僕は一度帰るよ」

 その言葉は、自分の気持ちを表しているつもりだった。しかし唯は少しだけ微笑み、「うん、待ってる」と呟いただけだった。

 吐く息が白い。しかし体は全く寒さを感じなかった。祐樹は息を切らしながら自転車を漕いだ。唯がいつ教室を出るか分からないが、この寒い中ちょっとでも待たせたくない。焦りにも似た気持ちだった。何を考えているのだろう?あの日のように唐突に、大事なものを失ってしまうような不安?とにかく急いだ。一秒でも早く唯の下へ辿り着きたい、そして安心したかった。家に着くなり鞄を放り投げた。押入れから手袋と長年愛用のリュックを取り出す。無造作に財布を放り込む。机から便箋を一枚取り出した。金魚が泳いでいる、季節はずれの絵柄の便箋。そして、机の上に腰掛けた天使と目が合った。

 もう大分薄暗くなった空を見上げる。うっすらとではあるが月の姿も見える。自転車は冷たい空気を切り裂きながら祐樹を前へ前へと急がせる。顔の感覚が麻痺してきた。きっと鼻は真っ赤になっていることだろう。少しでも時間が惜しかったので、着替えずに学生服にマフラーだけ首に巻いて飛び出してきた。それに顔を潜り込ませる。風に当たらないだけでも幾分温かく感じた。もう何分としないうちに唐橋中学校が見えてくる。祐樹が、響子や智弘、隼人、そして優衣とともに過ごした中学校。一緒に卒業したかった。一緒に卒業できると信じて疑わなかった。義信のことを恨んでいないといったら嘘になるかもしれない。だが義信のおかげで気付いたことだってある。感謝するかといえば即答は出来ない。でもきっといつか・・

 中学校を通り過ぎると両手に民家が連なる比較的細い路。ここまでくればすぐだ。じきに愛宕山の麓が見えてくる。唯が待っている。急がなきゃ。

―ゆうくーん―

 毎朝僕を待ってそう叫ぶ。いや、今のは持久走大会の記憶かな?空は星が広がり始めた。満月のせいでその数はいつもより少ない。遠くに人の姿が見えた。学生服を着た女の子だ。寒そうに両手を摩っている。

「唯ちゃん」

 自転車を降り乱暴にスタンドを立てる。

「待たせてごめん、寒かったね」

 俯き首を振る。祐樹はマフラーを解き唯の首にそっと巻いてあげた。

「温かい」

 唯の顔がちょっと綻ぶ。それから、ようやく顔を上げてくれた。

「今更こんなこというのも都合のいい人間と思われるかもしれないけど、無理はしてほしくないよ」

 祐樹は微笑み、頷いた。

「無理してるわけじゃないよ。ちゃんと考えた。僕こそ勝手だったんだ。都合のいいように唯ちゃんを見ていたんだと思う。ごめん」

 時に唯として、そして時に優衣として。

「暗くなったね。満月がはっきり見えてきた」

 唯が少し嬉しそうに、少し不安げに見つめる。

「一緒に渡ってくれるの?」

「そのために来た。自分の意思で。唯ちゃんとこの橋を渡りたいと思ったから来たんだ」

 ありがと、と呟くのが聞こえた。唯の表情はもはやはっきりとは見えない。でも声は先ほどより柔らかかった。

 綱ヶ背橋に目を馳せて驚いた。月の光が照らし、あの古びた橋は神秘的なほどに綺麗に輝いていた。あの日の橋は思い出だからあれほど綺麗に感じていたのではないのか。唯も目を丸くしていた。

「すごい。さっきまで普通の古い橋だったのに。きっと満月のときだけこんなに綺麗になるから綱ヶ背橋の伝説ができたのね」

 手袋を外した。ここぞとばかりに冷たい空気がそこを責める。手がぴりぴりと痛んだ。照れて躊躇ってしまわないよう、一気に唯の右手を掴んだ。冷たかった、でも痛みは止んだ。

「行こう」


『改めて思い返した。君はいつも僕の前にいた。どんなときでも僕を引っ張ってくれた。こんな情けない男をよく飽きないでくれたなと今更ながら思うよ(笑)

ようやく気付いたんだ。そんな君は、今だって僕の後ろにはいない。君はやっぱり僕の前にいる。きっと笑顔でこっちを見てくれてる。毎朝僕を迎えてくれたように。』


 せーので一歩踏み出した。お互いの体も月明かりに照らされる。唯の笑顔はまぶしいほどだった。目で促し、二人はまた進み始めた。一歩進むごとに鼓動が早まる気がした。新しい世界へ。そんな大袈裟な気持ちにはならなかったが、しかし確かに橋を渡っているという認識は、祐樹の心を暖かくしてくれた。

橋を渡り終えると周りの木々の陰になる。徐々に目を慣らし奥へと進む。橋同様古ぼけた祠。そこで一旦唯から手を離した。

「ちょっと待ってね」

背中のリュックを下ろしチャックを開ける。

「何をするの?」

 中から取り出したもの、それは縫いぐるみだった。優衣がくれた、あの天使の縫いぐるみ。

「これって」

「3日前に唯ちゃんが聞いてきた例の縫いぐるみだよ」

 祠の正面にそっと座らせる。

「まさか、ここに?」

 頷いた。続いて便箋を取り出す。薄明かりで見る金魚の絵はなかなか風情があった。抱えさせるように天使の膝の上に乗せた。

「それは?」

「ラブレター、みたいなものかな」

 唯はそれ以上問わず、じっと祐樹と天使に目を馳せていた。祐樹が立ち上がり、唯の隣に並んだ。

「手でも合わせようか?」

「それお寺とか神社でしょ。こんな祠でもするのかな?」

「さあ?でもまあいいじゃない」

 祐樹に促され、唯も手を合わせ目を瞑った。心で願いを紡ぐ。願わくは祐樹と同じ願いを。

「さ、行こうか」

 しばらくの後祐樹が動き出した。リュックを背負い、祠に背を向けた。そしてそっと手を差し出す。唯は頷き、祐樹の手を取った。小さかったあの頃とは逆だ、祐樹はそう思った。


『いろんな人に支えられた。その時は気付かないんだけどね。しゃがみ込んで空を眺めるだけの日々は卒業するべきだって、自分でもようやく理解できた。決別じゃなく整理。僕は前を向くことにするよ。君もきっとそれを望んでくれてると思う。だから僕は今日橋を渡るよ。これが、優衣ちゃんが僕にくれる最後の道しるべだと思う。』


 橋を渡りきって立ち止まった。唯と一緒に振り返る。ふと昔の光景が蘇ってきた。幼稚園の遠足のときの記憶だ。

―神様がいなくても天使はいるかもしれないでしょ。あいさつしとこうかなって―

あのとき僕がお辞儀をした天使は君だったのかな?祐樹は姿勢を正し、あの時のようにぺこりと頭を下げた。

「それも儀式の一連?何だか合わないね」

 唯が隣でふふふと笑いながら、祐樹に倣って頭を下げた。


『満月の度に空を見上げるんだ。今夜もあの橋は綺麗に照らされてるのかなって。そこから月は見える?きっとこっちから見るよりずっと綺麗なんだろうな。』


「なにぼーっとしてんだ?」

 智弘の声にはっとする。窓の外の景色から目を戻す。正面には智弘と響子、そして隼人が並んでいる。いつものファミレスだった。だが今日はいつもとは違う。いや、今日からは、というべきか。

「得意の妄想の世界に浸ってたんでしょ」

祐樹の隣では唯が楽しそうに笑っている。

「まあ、ちょっとね。でもこうやって5人で集まると昔に戻った気がする」

「ちょっと尾藤君」

 祐樹の言葉に敏感に反応し目くじらを立てる響子。

「まあまあ、いいじゃない。私も小林優衣さんの話聞きたいし」

 唯がなだめる。しかし響子は腑に落ちないようで咎めるような目つきで祐樹を見ている。

「思い出もさ、」

「え?」

「想いも、思い出も、結局はその人を思うことだと思うんだ。誰かを好きだったことはずっと忘れないし、そのときの気持ちも忘れることは出来ない。それは変わらないよ。でも今はちゃんと言葉に出来る」

「でも・・」

「二人がいいってんならそれでいいんじゃないか?それより早く頼もうぜ、俺腹減ったよ」

「普通この場面でそんなこと言う?」

 智弘と響子のやりとりに隼人は呆れ顔でため息をついた。隣を見ると唯がふふふと笑っている。目が合った。祐樹もつられて、ふふふと笑った。



・   ・   ・

「良君は綱ヶ背橋の伝説って知ってる?」

「綱ヶ背橋の?ああ、満月の夜に手を繋いでその橋を渡った二人は永遠に結ばれるとか」

 女の子が首を振る。前髪が規則的に左右に揺れ、男の子はそれを可愛いと思った。

「違うよ、それはもう古いの」

「伝説に古いも新しいもないでしょ。っていうか新しい伝説ってそれ伝説じゃないでしょ」

「揚げ足を取らないの。私が言っているのは、綱ヶ背橋の天使の伝説」

「天使?」

「そ。あるときからあそこの祠に天使の縫いぐるみが置かれるようになったんだって。でね、お互いに宛てたラブレターをその天使に抱かせるの。そうすれば天使が永遠に二人の仲を繋いでいてくれるの」

「胡散臭いよ。だいたい元の伝説はどこ行ったのさ?」

 男の子の言葉を遮るように、女の子は片手を突き出した。

「分かってないなあ。大事なのは気持ちなのよ」

「気持ちね。それで、なんで僕にその話を?」

「・・良君て相変わらず鈍いね。でもまあ、そこが良君らしくていいとこなんだけどね」

女の子がふふふと笑う。男の子も「何だよ」と言いながらも、女の子につられてふふふと笑った。

・   ・   ・


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