第三十八話
天井に届かんばかりの巨躯を誇る二足歩行の化け物。
その太い腕に握られているのは、人間の身長ほどもある長大な戦斧。
刃の部分には魔法陣が幾重にも刻まれており、どす黒い魔力を纏っていた。
「ふふふ~やはりこの姿が気分が良いですね~。やはり私の本性は化け物だったのかもしれません~。忌まわしき誰からも望まれぬ不幸を運ぶ化け物。それでも、ええ……結構です。こうして心からめぇ太郎と融合し圧倒的な力で、弱者を葬る~ふふっ、これほどの愉悦はありませんから~」
その声は低く歪み、まるで地の底から響いてくるような重低音を伴う。
それでいて語尾の上がり方、言い回し、間の取り方――
全てがあの温和で不気味なベールそのもの。
人間の姿を失った今でも、彼女の本質は何一つ変わっていないのだ。
それでいて纏う魔力は倍以上。
階層主は魔女リエルから、無限の魔力が供給されるとラトが語っていた。
その圧倒的な魔力量という暴力を、そのままの形で顕現させたかのような化け物。
「ベールちゃんが、本当に羊になっちゃった~。ベールちゃんって羊の獣人っぽいし、めぇ太郎も羊みたいだったけど……本当に巨大な羊になっちゃったよ!」
「普通の羊は二足歩行でもなければ、戦斧なんて持ってないだろ。あれは羊でもなんでもない、ミノタウロスみたいな化け物だろ!」
「そっか~ラトちゃんには二足歩行の羊に見えるんだけどな~。けどけど~ミノタウロスの羊版か~、それしっくりくるねぇ~」
こいつはなんであれだけの化け物を目の前にして、呑気でいられるのだろう。
やはり戦闘でハイになってるからこそ、もうどうでもよくなっているのかもしれない。強敵と戦えるのならなんでもいいバーサーカー状態。
しかしそうだとしても、これほどの敵だと話は別だ。
「さてさて~たのしいお喋りしているところ恐縮ですけど~、ここでさよならしてくださ~い」
次の瞬間――
巨大な斧が俺たちの頭上に振り上げられた。
空気が唸りを上げ、魔力の奔流が刃に宿る。
斧身に刻まれた魔法陣が青白く発光し、まるで雷鳴のような轟音。
空間を歪ませるほどの魔力の塊が、熱風をも生み出していた。
俺は咄嗟に中瓶を取り出し、血液を防護壁へと変換する。
少ない血液だが、ここで使わなきゃ殺される。
「ラト、俺の後ろに隠れろ!藤布!」
深紅の液体が螺旋を描きながら俺たちの頭上に立ち上がり……
円形の防護壁を形成した。
そしてその盾と斧が衝突した瞬間――
――!!!
激震が全身を貫いた。
地面が震え、空気が爆発し、耳の奥で金属が軋むような音が響く。
魔力の衝突によって生じた衝撃波が、俺の内臓を激しく揺さぶった。
魔力が際限なく消費され、視界が一瞬白く染まる。
「リオちゃん、それやばい!」
そのラトの本能が示した答えは、間違っていなかった。
血の盾に激突した斧の威力は、これまで経験した攻撃とは次元が違っていたのだ。
ベールの「羊の福音」すら傷一つつけることなく防いできた血の防護壁に、無数の亀裂が走る。
メキメキと不吉な音を立てながら、盾の表面が砕け散ろうとしていた。
――不味い。
このまま壊れれば、俺はあの斧に真っ二つにされる。
そしたら俺は――
「ぺしゃんこになる前に、ラトちゃん動くよ~!」
その時、ラトが自分の背後から飛び出した。
血の盾と、斧が拮抗している瞬間。
その戦闘における空白の硬直を利用し、ラトが軽やかに化け物の足元へと向かっていく。
俺の視界ではとらえられないほどに速く、その足は魔力と光を纏っていた。
「ベールちゃんこっちだよ~、ライラックショット!」
魔力を纏った蹴りが、羊の化け物の足首に叩き込まれる。
巨躯がわずかによろめき、俺への圧迫が一瞬緩んだ。
「小賢しい兎ですね~、そんなところをちょろちょろと~、まるで害虫のようですよ~」
羊の化け物は斧を俺から離し、今度はラトに向けて振り下ろした。
空気を切り裂く轟音。大きな刃が空気を裂きながら彼女を狙う。
しかしラトは軽やかに避けて、斧が石床を砕く轟音を背に俺の元へと舞い戻った。
「危なかった~、リオちゃん大丈夫?」
「大丈夫だ、ギリギリ助かった」
後少しでも押し合いをしていれば、俺の血の盾は粉砕していた。
ラトの機転により、助かったと言っても過言ではない。
それでも中瓶の血液は、ほとんどが魔力の余波と衝撃に耐えきれず霧散してしまった。
「よかった~、リオちゃんミンチになる所だったもん。けどけど~、あのベールちゃん、体がすっごい羊毛で覆われてるの!めぇ太郎の羊毛をさらに厚く纏ってる感じ!全然攻撃の手ごたえがないよ!」
「ラトの攻撃でもか……」
「うん!だから~う~ん、結構ヤバ目かもしれないよ~」
「小賢しいとはまさにこのことですね~、無力とは何か思い知ってください~」
羊の化け物は即座に体勢を立て直した。
再度魔法陣を展開し、大量の魔法陣を武器に纏わせる。
そして巨大な戦斧を水平に構え直し、今度は横薙ぎに振るってきた。
その軌道は俺とラト、二人を同時に薙ぎ払う必至の一撃。
この部屋は狭く、羊の化け物が半分を埋め尽くすほど。
横薙ぎの攻撃となれば、避けることはしゃがむか飛び越えるか。
しかし巻き起こる突風と魔力の衝撃波がそれを許さない。
けれど守ると言っても、ボロボロになった血の盾では、もう対抗できない。
俺は大瓶のコルクを勢いよく引き抜いた。
「血織!」
最後の血の瓶。
最後の血液が螺旋状に回転しながら俺たちを包み込み、厚い防護壁――
血の繭を形成する。
俺とラトを包み込む厚い繭、深紅の防護壁。
それが完成すると同時に――
―――!!!
世界が揺れた。
何が起こったか分からなかった。
体を包み込むような熱と風、衝撃。
平衡感覚も血の感覚も失い、その刹那立っているのか寝ているのかも分からなくなった。
体が潰れたような、それでいて膨張したような、自分でも今どこに居て何をしていたのか体の感覚が消し飛んだような気がした。
そして気付けば――空中に居た。
そこで気付いたのだ。
俺の体が吹き飛ばされていることに……
俺の血の繭が破壊され、斧が直撃したことに……
「リオちゃん!」
傍から聞こえる声、そして遅れてくる衝撃。
息が詰まり、全身に激痛が走る。
それでもどうやら生きていたようで……
俺はラトに抱きしめられていた。
確かな体温。確かな息遣い。
柔らかな腕が俺の背中に回され、蜂蜜色の髪が頬に触れている。
琥珀色の瞳が俺を見下ろし、兎耳がほっとしたように垂れ下がっている。
「危なかった~、リオちゃん受け止めてなかったら、壁に叩きつけられて気絶してたよ!そんなに無理しなくても、ラトちゃんの能力に頼ってよ!ラトちゃん流石に怒ったよ!」
「ご、ごめん。威力を見誤ってた……。もう大丈夫だ」
ラトに初めて怒られた気がする。
けど彼女の言う通りだ。
やっと冷静になり、状況を理解する。
ベールの一撃を受け血の繭は崩壊。
その衝撃で俺はラトと一緒に吹き飛ばされた。
しかしラトが空中で俺を受け止め、着地の衝撃を無くしてくれたのだ。
まさか俺の最強の防御魔法が、壊れるだなんて思わなかった。
あんな攻撃あって良いのか?想像を絶する威力……。
あんなの受け止めること自体、浅はかだったのかもしれない。
逆に血織ほどの防御性能が無かったら、俺はあの場で上半身と下半身が分離していた。最強の防御魔法で守ったからこそ、今致命傷を負わずに生きていると言えるのかもしれない。
しかし――
「凄いですね~まさか生きているとは!けど私、手加減しませんよ~、今度こそ、綺麗に潰して差し上げましょう~」
俺たちの、一瞬たりとて隙も余裕もない。
巨大な羊の化け物が、驚くべき素早さで俺たちに迫ってきたのだ。
あれほど巨大なのに、瞬間移動かと思うほどに俊敏な動き。
戦斧が再び振り上げられ、死の刃が俺たちを捉えようと迫った。
血液の貯蔵はもうない。
散らばった血の破片を集めて盾を作り直すには時間が足りない。
俺は咄嗟に体内の血液を魔力に変換し、筋肉と骨格に流し込んだ。
爆発的な身体能力の向上が全身を駆け巡り、ラトの手を強く握る。
「走るぞ!」
斧が到達するよりも早く、俺とラトは動き出した。
斧という武器は小回りが難しく、いきなり距離を詰められると対応できない。
斧身が石床を叩く轟音が背後で響き、激しい火花が散った。
それを横目に俺たちは羊の化け物の足元へと一直線に走った。
「くらえ一刀、朱子織!」
「ラトちゃんいっくよ~ライラックショット!」
二つの攻撃が同時に命中し、羊の化け物の巨体がぐらりと揺れた。
あまり手ごたえはないが、威力は確か。
片足に力が入らなくなったのか、大きくよろめいて壁に手をついて体勢を支えている。
「小癪ですね~あなたたち!」
「化け物になったベールちゃんに言われたくない!リオちゃんこのまま追撃――」
よろけているベール。
それを狙う好機はそこしかない。
だが、その瞬間――
「ラト、落ち着け!」
咄嗟にラトの腕を掴み、その場に立ち止まった。
俺の視界は、化け物の口元が青白く光り始めたのを捉えていた。
あれはめぇ太郎の発射する光に似ている。
その予想通り――
――!!
眩い光の奔流が、俺たちがいた場所の目の前を一直線に貫いた。
石が溶け、空気が焼け焦げ、耳を劈く轟音が空間を震わせる。
もし一歩でも前に出ていれば、間違いなく蒸発していただろう。
「助かったよ~リオちゃん!ちょっと焦ってたかも~」
「もう一回、仕掛けるぞ!」
「らじゃ~」
俺は咄嗟に体内の血液を魔力に変換し、全身の筋肉と骨格に流し込んだ。
爆発的な身体能力の向上が血管を駆け巡り、人間の限界を遥かに超えた速度でラトと共に羊の化け物へと駆け出す。
石床を蹴る足音が空間に響き、風が頬を撫でていく。
あの光線攻撃の隙――今しかない。
羊の化け物の足元まで到達した俺は、迷わず剣を振り上げた。
刃には鞘から供給された血液が薄く塗られ、微かに赤い光を帯びている。
全力で振り下ろした一撃が、化け物のすねを捉えた。
――しかし。
剣が羊毛に触れた瞬間、まるで分厚い綿の塊に吸い込まれるような感触が手に伝わった。
鋭い刃は確かに毛に食い込んでいるが、その奥にある肉まで到達していない。
あまりにも厚い羊毛の層が、攻撃の威力を殺してしまっているのだ。
「厄介だな、この毛深さ」
「ラトちゃんの蹴りでも、全然手応えがないよ〜!」
ラトの蹴りもあまり有効ではないらしい。
先ほどの攻撃も手ごたえが無かったし、やはりこの羊毛厄介だ。
ベールの気を引いたり、無理矢理バランスを崩したり。
それくらいはできるが、逆にそれ以外はできない。
有効な攻撃手段としては、どうしても成りえないのだ。
こうなると一点集中の攻撃を与えるか、羊毛のない場所を狙うか……
そう思案するその時――
突如として、俺の視界に巨大な影が迫った。
それは斧でも光線でもなく――
羊の化け物の太い足だった。
「小賢しい虫けらは、ただ蹴り上げるだけで十分です~」
あまりにも唐突な近距離攻撃に、反応が間に合わない。
そもそもベールが肉弾戦をするというのが、頭に入ってなかった。
斧の攻撃と、口からの咆哮。
それだけと踏んでいた俺が愚かだった。
ベールがラトを殴ったのを見て、学ぶべきだったのだ。
しかし体勢を崩している俺には、回避する余裕も受け止める準備もなかった。
―――!!!
世界が一瞬で逆転した。
俺の身体が宙に舞い、背後の壁に向かって吹き飛ばされていく。
空気が肺から押し出され、息ができない。
視界が回転し、上下の感覚が消し飛んだ。
そして――
――!
背中が石壁に激突した瞬間、激痛が全身を貫いた。
頭が揺れ、視界が白く染まる。
石の冷たさと衝撃が全身に伝わり、骨が軋むような音が聞こえた。
痛みが体を貫き、内臓が圧迫され、頭の中で鐘が鳴ったような耳鳴りが響く。
だが――意識は飛んでいない。
斯界が揺らめき、脳の思考が止まる。
それでも唇を噛み、何とか意識を保とうとする。
血液で瞬間的に体を強化していたから、この程度で済んだのだろう。
でなければとっくに意識は飛び、肺は潰れている。
しかし――予測を超える身体的負荷。
体がまるで動かない。
「リオちゃん!大丈夫!?」
ラトの声が遠くから聞こえる。
小さな足音が石床を駆け、俺に向かって一直線に走ってくる音が耳に届いた。
しかし意識が朦朧として、彼女の姿がぼんやりとしか見えない。
彼女が駆け寄り、俺の体に触れていることだけ微かに分かった。
その時――
ラトの後方から、巨大な影が映り込んだ。
「先ずはお一人ですね~、お疲れ様です~挑戦者さん」
羊の化け物が戦斧を高々と振り上げ、俺を目がけて接近してくる。
刃に宿る魔力が青白く輝き、空間を震わせるほどの殺気を放っていた。
動けない俺を、完全に息の根を止めるつもりだ。
分かってる、危機的な状況なことは。
けど体が言うことを効かない。
意識を繋ぎ止めることで精一杯で、体が言うことを効かない。
視界は揺れ、体の感覚は消え、どこに力が入っているかさえ分からない。
まるで脳と体がばらばらになったかのように、いくら危険だと、逃げろと、動けと信号を送っても、ピクリとも筋肉が反応しない。
魔力さえどこかに霧散してしまったような感覚がした。
あぁ――死ぬのか。
初めてそう思った。
これまで生にしがみ付き、妹を救うまで死ねないと心に刻んで来た。
どれだけの逆境でも、苦痛でも、必死に足掻いてきた。
なのにこんなにも無力で、どうしようもないなんて……
「ラト、逃げ……」
「ラトちゃんに任せてよ、リオちゃん。固有魔術――止針ノ兎刻!」
ラトが俺の身体を強く抱きしめた。
温かい体温が胸に伝わり、蜂蜜色の髪が頬に触れる。
琥珀色の瞳に時計の針模様が浮かび上がり、見えない壁がラトを包み込んだ。
次の瞬間――
―――!!!
轟音と共に戦斧が振り下ろされた。
俺の防御魔法でさえ太刀打ちできない、絶望の一撃。
それを真正面から受けるも、俺たちには傷一つなかった。
ラトが完全に俺の代わりに、受けてくれたのだ。
「だ、大丈夫だよ、リオちゃん……ラトちゃんが、ラトちゃんが守るから……」
ラトの震え声が耳元で響く。
その腕は俺を離そうとしない。
――!!!――!!!――!!!
轟音が連続して響き渡る。
巨大な戦斧がラトの頭上に何度も何度も振り下ろされ、見えない防壁が激しい火花を散らしながら衝撃を弾き返していた。空気が震え、石床が割れ、耳の奥で金属が軋むような音が絶え間なく響く。しかしラトは俺から一歩も離れようとしない。
小さな身体が激しい衝撃波に揺さぶられ、兎耳が震えている。
無敵能力は傷を防ぐが、衝撃までは完全に無効化できない。
それでも――ラトは歯を食いしばって俺を抱きしめ続けていた。
「だ、だいじょうぶ……リオちゃん、だいじょうぶだから……ラトちゃんが、ラトちゃんが守るから……絶対に、絶対に傷つけさせないから……」
――!――!――!
再び、再び、また再び。
羊の化け物は執拗に斧を振り下ろし続けた。
息も絶え絶えになりながら、それでも俺を守り続けようとする意志が、その小さな身体から伝わってくる。
――クソ。
俺は何をやってるんだ。
ラトに守られて、ただ抱かれているだけなんて。
意識が徐々に鮮明になり、状況を把握し始める。
背中の痛み、頭の重さ、それでも思考は動いている。
ラトの無敵能力――最大でも三十秒が限界だ。
そして俺の血の盾も、あの一撃の前では役に立たない。
このままではじり貧になってしまう。
俺は朦朧とする意識の中で、周囲に散らばった深紅の液体を感知した。
先ほどの攻撃で飛び散った血液の残滓が、石床に無数の飛沫となって散らばっている。
まだ固まっていない。まだ操作できる。
あの羊毛の防御――しかし完璧ではないはずだ。
俺は意識を集中し、散らばった血液に魔力を注ぎ込んだ。
深紅の液体が床を這うように集まり始め、一つの塊へと収束していく。
そして――尖鋭な槍の形へと成形された。
狙うべき場所は一つしかない。
あの厚い羊毛に覆われていない、唯一の急所。
羊の化け物の瞳――そこだけは防御されていない。
「綴織――」
深紅の槍が一直線に射出された。
空気を切り裂く鋭い音と共に、血の軌跡が化け物の左眼を正確に捉える。
激しい魔力の余波と共に、深紅の軌跡が化け物の瞳を貫いた。
「ぎぃいいいい!!目があああああ!」
凄まじい絶叫が空間を震わせた。
羊の化け物は攻撃を止め、両手で顔を押さえてのたうち回る。
左眼からはどす黒い血が滴り落ち、石床に不気味な染みを作っていた。
巨大な戦斧が手から離れ、金属音を立てて床に転がった。
化け物は痛みに狂ったように暴れ回り、壁に体をぶつけながら苦悶の声を上げ続けている。
どうにかベールの攻撃を辞めさせることが出来た。
その瞬間――
ラトの身体が力なく、俺に寄りかかってきた。
「はぁ……はぁ……はぁ……リオちゃん……大丈夫……?」
彼女の呼吸は激しく乱れ、額には汗が浮かんでいる。
琥珀色の瞳から時計の針模様が消え、兎耳がぐったりと垂れ下がった。
俺はこれほど疲労したラトを見るのは初めてだった。
「ごめん、ラト。無理させたな」
「んん~大丈夫。ラトちゃんにもっと……頼ってよ……」
「そうだよな。本当にラトには、迷惑をかけてる」
俺はラトの小さな身体を支えながら、苦悶に暴れる化け物を見つめていた。
左眼に突き刺さった血の槍が、どす黒い体液と共に石床に滴り落ちている。
しかし――この隙も長くは続かないだろう。
冷静に戦況を分析する。
これまでの戦闘で明らかになったのは、あの厚い羊毛への物理攻撃はほとんど無意味だということだ。
俺の剣もラトの蹴りも、決定的なダメージを与えることは難しい。
唯一有効なのは、羊毛に覆われていない瞳や口元への攻撃のみ。
だが問題はそれ以上に深刻だった。
俺の血液の貯蔵は既に底を尽きかけている。
石床に散らばった血を回収しても、中瓶の三分の一程度しか残っていない。
そして何より――ラトの疲労が想像以上に厳しい。
「はぁ……はぁ……あれ?ラトちゃんこんなに魔力なかったっけ?参ったな~あはは……」
三十秒ほぼ限界まで固有魔術を使わせてしまった。
小さな身体が規則正しく上下し、汗が頬を伝って顎から滴り落ちていた。
兎耳がぐったりと垂れ下がり、琥珀色の瞳にはまだ疲労の影が宿っている。
魔力の大幅な消耗――ラトの戦力ダウンは戦闘において致命的だ。
状況としてはかなり厳しい。
それでも……諦める時じゃない。
接近戦は危険だが、遠距離攻撃の手段として、ラトの愛用のリボルバーがある。
それに剣の投擲――友禅染も可能だ。
鞘に内蔵された血液を使えば、まだ一度は……
その時だった。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
激しい咆哮が空間を震わせた。
野太く、低く、まるで地の底から響いてくるような絶叫。
それは獣の雄叫びとも人間の絶叫とも違う、地の底から響いてくるような野太く低い大音量。
突然の大音量に床が震え、空気が振動し、俺とラトの身体が硬直した。
石造りの床が振動し、壁が軋むような音を立てる。
耳鳴りが頭を襲い、平衡感覚が狂う。
鼓膜が破れそうなほどの轟音に、思わず両手で耳を押さえた。
ラトもまた、苦痛に顔を歪めて俺の胸にしがみついている。
そして――その咆哮が止んだ時、俺は戦慄した。
羊の化け物の瞳が、血のように赤く光っていた。
傷ついた左目だけでなく、右目も同じく真紅に染まり、まるで炎のような光を放っている。
口元からは煙のように魔力が立ち昇り、巨大な身体全体から殺気が溢れ出していた。
空気が重く歪み、皮膚がぴりぴりと刺すような感覚。
魔力が激しく流動し、まるで嵐の前触れのように大気が震えている。
その様子は――人間だろうと化け物だろうと、誰の目にも明らかだった。
それは純粋で、原始的で、理性を失った――明確な怒りだった。
「まだあれで、本気じゃなかったのかよ……」
羊の化け物が戦斧を振り上げた。
しかし今度は違う。
オーラのように溢れる魔力が斧身を包み込み、その軌道が空間そのものを歪ませている。激しく大量の魔力が武器を纏い、死の刃が俺たちを狙っていた。
「くそっ……!」
羊の化け物の戦斧が突風と共に振り下ろされる瞬間――
俺は咄嗟にラトの手を強く握り、横に跳躍した。
疲労で足元がふらつくラトの小さな身体を支えながらの、必死の回避行動。
いつもに比べ体の重いラトを、何とか引っ張る。
もう少しでも長く怯んでいたら――
――――!!!
間違いなく俺たちは真っ二つにされていただろう。
しかし斧が床に衝突し、激しい突風と魔力の爆発。
轟音が空間を震わせ、石が粉砕される音が耳の奥で響く。
まるで嵐の中に放り込まれたかのような暴風が吹き荒れた。
風が頬を打ち、髪を乱し、服を激しく翻らせる。
地面が揺れた。足元の石床が波打つように振動し、平衡感覚が完全に狂った。
まるで地震のような揺れが全身を貫き、内臓が激しく揺さぶられる。
バランスを崩した俺の身体がよろめき、ラトと共に床に倒れそうになった。
舞い上がる石の粉塵が視界を遮り、思わず目を閉じる。
細かい石屑が肌を刺し、鼻腔に入り込んで呼吸を妨げた。
口の中がざらつき、喉が乾ききって痛い。
風の唸り声と石の軋む音、そして羊の化け物の野太い呻き声が混じり合い、耳の奥で不協和音を奏でている。
衝撃波が体を包み込む。
見えない巨大な手に押されるような圧迫感が全身を襲い、呼吸が浅くなった。
魔力の余波が皮膚をぴりぴりと刺激し、まるで無数の針で刺されているような痛みが走る。
やがて――風が止んだ。
耳鳴りが頭を支配し、世界が静寂に包まれたような錯覚に陥る。
ゆっくりと目を開けた俺の視界に映ったのは――
膝だった。
巨大な、羊毛に覆われた膝が、目の前にあった。
「……は?」
意味が分からなかった。
なんでそこにあるのか。なんで目の前にあるのか。
時間がスローモーションのように流れ、しかし思考だけは数ミリよりも短い刹那で高速回転する。
――そうか。
羊の化け物は攻撃の途中で斧から手を放したのだ。
最初から斧での攻撃はブラフで、こっちが本命。
衝撃で揺らいだ僕らを、狙い撃ちにしていたのだ。
故にこれほどに速く、俺たちに接近してきたに違いない。
そして今――蹴りを放とうとしていた。
しかし既に避ける余裕はなく、時間的猶予もない。
血液の貯蔵は底を尽き、ラトは疲労で満足に動けない。
守る準備をしようにも遅すぎ、体内の血液で筋肉を強化しようとしても――
この一撃は、ぐしゃりと潰れる威力がある。
ああ――死ぬのか。
今度こそ、本当に。




