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第三十六話 

廊下の向こうに立つベール。

純白の石壁が左右に延び、天井の魔法灯が冷たく均一な光を放つ廊下。

その奥で振り返った少女の姿は、俺たちが今しがた殺したばかりのベールと寸分違わない。

薄桃色の髪が肩で揺れ、薄紫色の瞳が穏やかな光を湛え、純白のドレスが魔法灯の明かりを受けて微かに輝いている。

まるで時間が巻き戻されたかのように、全てが完璧に一致していた。


空気が重く澱み、俺の喉が再び乾いていく。

背後の居間には確実にベールの死体があり、その血の匂いがまだ鼻腔に残っている。

それなのに目の前には、生きて息づく同一人物が立っているのだ。


「きゃああああ、また出たぁああああ!」


「そんな幽霊を見たような反応されても、困りますよ~」


「幽霊みたいなもんだよ~!何回出てくるのさ~!もういい加減にしてよ!」


「そう言われましても~私はいるんですからどうしようもありませんよ」


ベールの声が廊下に響く。

まるで何事もなかったかのような、あの温和で不気味な口調。

俺の全身に鳥肌が立ち、息が詰まりそうになった。


「お前は分身なのか?どこかに本体がいて、お前は分身ってことなのか?」


「そう思いますか~?ではなぜそこの私は血を流しながら、死んでいるのでしょうか~?」


「それは人間に模した分身だとしか……」


「ふふっ、そう思うのでしたら隅々まで私の死体を見てみてください~。それもまた私ですから。あっ……けど、服を脱がすのはちょっと……」


「ベールちゃん、そういう羞恥心はあるんだね~」


「死体でも私は私ですから~」


ベールの死体を見ても、確かにそれは人の死体だ。

魔法で作る分身であれば、死んだ瞬間に光になって消えたり、何か核となる魔石や藁人形が残るものである。

俺が血で作った分身と同じように、人とは違う残滓になるに違いない。

けどその死体は、どう見ようとしても死体だ。


「分身じゃないなら、兄弟とかじゃないとおかしいんだよ!もしかしてベールちゃんって、五つ子?百人くらい姉妹がいるだとか?」


「ふふふっ、面白い冗談ですね~。残念ながら私は一人っ子ですよ~」


「じゃあこんなのやっぱりおかしいよ~……説明してよ~」


「だから私もまたベールであるということです~」


「それ以上は説明してくれないのか?」


「はい~。でもまあ、真実を知りたいと仰るなら、ひとつだけ方法がありますよ~」


ベールが振り返り、廊下の奥を指差した。


「あまりおススメしないですが、あそこの扉をくぐれば、きっと知りたいことが分かると思います~。ただし……それなりの覚悟は必要ですけどね~」


俺の視線がその方向に向かった瞬間――

背筋に氷のような冷気が走った。

これまでと同じ白い扉だが――

そこから溢れ出る魔力の気配が、明らかに異常だった。


尋常ではない魔力の波動。

空気が重く歪み、皮膚がぴりぴりと刺すような感覚。

本能的な危険信号が全身を駆け巡り、その扉だけは開けてはならないという警告が脳裏に響いていた。


「ベールちゃん!そう言っておいて、そこしかこれ以上進むための扉がないじゃ~ん!どっちにしてもその扉を進めって言ってるんでしょ~!」


「え~そうとは言ってませんよ。ここで一生過ごす。それもまた、いいじゃないですか~」


「良くないよ!けどあの扉も嫌だよ~、すっごく嫌な予感がする……」


「ならここで一生を過ごす覚悟を持ちましょう~。私は歓迎しますよ~」


「ぎぃ……」


ラトが押し黙る……。

彼女の言う通り、これより奥に進むならあの扉をくぐるしか無さそうだ。

このままベールとめぇ太郎たちの相手を続けていても、何の解決にもならない。

無限に現れ続ける敵を相手に、俺たちの体力と精神力が先に尽きてしまうだろう。


「ラト、行くぞ」


「え~本当に行くの~?うぅ……でもでも、ラトちゃん、リオちゃんについていくよ~。このままここにいても仕方ないもんね~……」


俺たちはベールの脇を通り過ぎ、廊下の奥へと向かった。ベールは相変わらずの穏やかな笑みを浮かべ、俺たちを見送っている。

扉の前に立った時――

魔力の圧迫感がさらに強くなった。

俺は覚悟を決めて取っ手に手をかけ、静かに扉を押し開いた。


――……


扉を開いた瞬間、俺の視界は奇妙な光景に包まれた。

そこは部屋というよりも、霞がかった無限の空間だった。

足元には石造りの床が続いているが、数メートル先からは薄い靄がゆらゆらと立ち込め、壁も天井も見えない。まるで雲海の中に佇んでいるかのような、現実感の乏しい世界。空気は湿り気を帯び、肌にまとわりつくような重さがあった。


「なんだ……ここは?」


「うわぁ~気持ち悪い部屋。リオちゃん、警戒した方が良いよ~」


「ああ……」


俺は慎重に数歩前進してみたが、やはり空間の全貌は掴めない。

広いのは確かなようだが、その広さがどの程度なのか……

この薄い霧のせいで判断できずにいた。


その時だった――

突如として、濃密な霧が俺たちを襲った。

先ほどまでの薄い靄とは比較にならないほどの濃さで、一瞬にして視界が完全に奪われる。白い霧の壁が眼前に立ちはだかり、自分の手さえ見えなくなった。足元も、天井も、何もかもが真っ白な世界に呑み込まれてしまう。


「くそ……ラト、離れるなよ」


俺は咄嗟に隣にいたはずのラトに声をかけた。

しかし――返事がない。


「あれ……ラト?」


やはり返事がない。


「おい、ラト!いるなら返事をしろ!」


再び声をかけるが、応答はなかった。

声が霧に吸い込まれ、不気味な静寂だけが戻ってくる。

喉が渇き、心臓が嫌な音を立て始める。

慌てて手を伸ばし、先ほどまでラトがいたはずの場所を探るが、そこには何もない。慌てて振り返ろうとするが、入ってきたはずの扉も霧に飲み込まれて見えない。空虚な空間があるだけだった。

白い闇が全てを覆い隠し、方向感覚すら奪い去っていく。


「くそ……どういうことだ?ラト!ラトー!」


血液を魔力に変え、ラトの気配を感じようとするもまるで見つからない。

さっきまで傍に居たというのに、いきなり居なくなるなんてあるのか。

だが――立ち止まっているわけにはいかない。

ラトを見つけなければならない。


俺は手探りで前方に向かって歩き始めた。

足音だけが霧の中に響き、自分の呼吸音が異常に大きく聞こえる。

一歩、また一歩と慎重に進みながら、ラトの名前を呼び続けた。

空間の感覚も曖昧になり、どのくらい歩いているのかも分からない。


その時――

霧の向こうに、ぼんやりとした人影が浮かび上がった。


「ラト!」


俺は安堵の息を吐きながら、その人影に向かって駆け寄った。

足音が石床に響き、霧が自分の動きに合わせて渦を巻く。

影は動かず、まるで俺を待っているかのようにそこに佇んでいた。

しかし近づくにつれて、その輪郭が次第に明確になっていく。

しかし――

その人影に近づいた瞬間、俺の足が完全に止まった。

そこにいたのは、ラトではなかった。


「お兄ちゃん!」


そこに立っていたのは妹――

リリィだった。


「……え?」


俺は本当に夢でも見ているのだろうか?

目の前にいるのは、紛れもなく俺の妹リリィ。

漆黒の髪を風に揺らし、あの懐かしい微笑みを浮かべて、妹が俺に向かって駆け寄ってくる。純白のワンピースが霧の中で舞い踊り、素足が石床を軽やかに蹴った。

その表情は生前と変わらず穏やかで、頬には健康的な薔薇色が宿っている。

あの穏やかな微笑み、透明感のある瞳、そして俺を見つめる優しい眼差し。

全てが記憶の中の妹と完全に一致している。


「やっと会えた……やっとお兄ちゃんに会えたよ……」


リリィは俺の胸に飛び込んできた。

温かい体温が伝わり、懐かしい石鹸の香りが鼻腔を刺激する。

細い腕が俺の背中に回され、まるで離すまいとするかのように強く抱きしめられた。その感触は確かに人間のもので、冷たい石の感触など微塵もない。


「お兄ちゃん久しぶり……会えてよかった」


その熱も感触も気配も雰囲気も、それは間違いなくリリィだった。

しかし――それは絶対にありえない。

リリィは今も故郷で、石化した状態で俺の帰りを待っているはずだ。

動くことも、話すことも、微笑むことさえできない冷たい石の彫像となって。

彼女はリリィにしか見えないが……

リリィであるはずがないのだ。


「お前は……誰だ?」


震え声でそう問いかけた俺に、少女は首を小さく傾げた。

漆黒の髪が肩で揺れている。


「え……?もぉ~お兄ちゃん、私のこと忘れちゃったの?ショックだな~。私に会うの三年ぶりだししょうがないのかな?信じられないかもしれないけど、リリィだよ?お兄ちゃんの妹!」


当然のように、自然に、まるで疑う余地などないかのように――

目の前の少女はそう答えた。

その声は間違いなく、俺の記憶に刻まれた妹の声だった。

透明感のある優しい響き、少し甘えるような口調、そして俺を見つめる時の特別な温もり。

三年前に失った、あの愛おしい声。


「リリィ……?」


「そうだよ!リリィだよ!はぁ~お兄ちゃん、生きててよかった~。もう死んでるんじゃないかって、ひやひやしてたんだよっ!もうっ!けど、へへ、三年ぶりにこうして話せて良かった!」


――ああ、そうだ。

こうして妹と話すのは、本当に久しぶりだ。

三年間、俺は冷たい石の彫像に向かって一人語りを続けてきた。

返事のない会話、聞こえない声、触れても伝わらない温もり。

それがどれほど俺の心を蝕んでいたか……


このまま抱きしめて、全てを忘れてしまいたい。

三年間の孤独も、絶望も、全部――


「……いや、違う」


俺は必死に理性を保った。

手を引き離し、一歩後ろに下がる。

甘い誘惑が心を支配しそうになるのを、歯を食いしばって振り払った。


目の前にいるのはリリィではない。

リリィであるはずがない。

リリィは今も故郷で、冷たい石の彫像となって俺の帰りを待っているのだ。

ここにいるのは――何かの罠だ。

あのベールが仕掛けた、巧妙な罠だ。


「お、お兄ちゃん、何で離れるの?もしかしてお兄ちゃん、私のこと怖がってる?」


「なぜ……なぜここにいる?リリィはまだ、石化したままのはずだろ?」


俺の声が掠れていた。

喉の奥が焼けるように熱く、呼吸が浅くなる。


「え?あぁ……迎えに来たんだよ!お兄ちゃん、私のためにリエルのダンジョンに行くって言ってたでしょ?だから居ても立っても居られなくなって、それで来たの!はぁ~良かったよ、お兄ちゃんが死んでなくてさ!」


「石化の呪病は……治ったのか?」


「うん……気がついたら、体が動くようになってた。三年間お兄ちゃんが私のために泣いてくれて、必死に治療法を探してくれて……その気持ちが、きっと奇跡を起こしてくれた……みたいな?へへ、まだ私もよく分かんないんだけどね」


なんだそれ……。

本当にそうだったら、どれだけ良かったか。

何度そうなったらと思ったか。

何度そうなって欲しいと思ったか。

それが実際になったと言われ……思わず信じたくなる。


けど嘘だ――

頭の片隅で、冷静な声が警告を発している。

このダンジョンは挑戦者が入った後、入れなくなる。

それは俺が一カ月間一階層に居たのに、誰も来なかったことから確かだ。

リリィが俺を迎えに来るだなんてあり得ないのだ。


「リリィ……いや違う、お前は誰だ?誰なんだ?」


「もぉ~まだ信じられないの?そうだな~どう言えば信じてもらえるかな……あっ、私ねお兄ちゃんの秘密知ってるよ!えっと~いっつも畑仕事終わったらリビングで寝てることとか~、近所の猫ちゃんに朝はいつも餌を上げてることとか~エロ本をさぞ農薬の本みたいに一緒の場所に部屋に並べてることとか」


「ちょっと待て……なんでそれを知ってるんだ?」


「え~お兄ちゃん、私に知られてないとでも思ってたの?バレバレだよ~、私お兄ちゃんのこと色々知ってるんだから。あとお兄ちゃんのエロ本って、だいたい男性が受け身なんだよねMっていうか……」


「いや……え?おま、読んだのか?」


「そんな恥ずかしがらなくていいよ、私お兄ちゃんの妹だよ?家族だよ?お兄ちゃんがそういうことを考えるのも、変なことじゃないって……学院で、お友達から色々聞いたもん。男の人って、そういうものなんでしょう?だから別に、恥ずかしがることないよ」


「ちょっと待て、なんで妹に気を使われなきゃいけないんだよ……。お前妹じゃないだろ!なのに何で知ってんだよ!おかしいだろ!」


「おかしくないよ!もぉなんでそんな、こと言うの!私はリリィだよ!何で信じてくれないのよ!じゃあ、あれだよ。もっとお兄ちゃんの暴露話しちゃうからね!お兄ちゃんの好きなシチュエーションはね、無理矢理……」


「待て待て待て!なんで本当に知ってるんだよ!?本当にリリィなのか!?そうなのか!?」


「そうだよ!もぉ……やっと信じてくれたの?」


これは――本当にリリィなのだろうか?

妹以外に知るはずのない、極めて個人的な秘密まで知っている。

それに、この話し方。恥ずかしがりながらも俺を受け入れてくれる優しさ。

これは確かに、俺の知っている妹の人柄そのものだった。


心の奥で、理性と感情が激しく拮抗している。

嘘だ、偽物だと頭では分かっている。

しかし――

これほどまでに妹らしい存在が、果たして偽物であり得るのだろうか?


「あ~もうっ!こんな話してる場合じゃないんだよ!お兄ちゃん、もう帰ろう?」


「帰る……?」


「そうだよ!だって私の石化はもう治ったんだもん!だから……もうこんな危険な場所にいる必要はないんだよ。二人で、あの家に帰って……また昔みたいに暮らそう?お兄ちゃんが畑を耕して、私がお料理を作って……今度は焦がしたりしないから、本当に美味しいパンケーキを作ってあげる。だから……帰ろ?」


「でも……どうやって帰るんだ?ここはダンジョンの中だぞ?それも生還者が一人もいない、リエルのダンジョンの……」


「それは大丈夫!私、抜け道を見つけて来たの!あの扉!」


リリィが振り返ると、霧の向こうに扉が浮かび上がった。

温かな光に包まれた、木製の優しい扉。

まるで我が家の扉のような、懐かしい雰囲気を湛えている。


「あそこから帰れるの。私が来た道だから、大丈夫。きっと、お兄ちゃんを案内してくれるために現れたんだよ。だから……一緒に行こう?」


リリィの手が俺を引く。

その力は優しく、しかし確実に俺を扉の方向へと導いていく。

けど違う……そんなうまい話はない。

これは罠だ。幻覚だ。

残った理性が警鐘を鳴らしていた。

甘い誘惑に違いないと……。


しかし――

目の前にいるのは、確かにリリィだ。

知っていることも、仕草も、声も、全てが妹そのものだ。

もしかしたら……

もしかしたら本当に、奇跡が起こったのかもしれない。

リリィが石化から回復し、俺を迎えに来てくれたのかもしれない。


「帰ろっか。またお兄ちゃんと生活できるって思うと、へへ。嬉しいなぁ」


もしそうなら……妹との平穏な日々が戻ってくる。

ああ、そうだ。俺が本当に望んでいたのは、これだった。

危険なダンジョンで命を賭けた戦いなど、本当は望んでいなかった。


「あ、ああ……そうだな」


ただ妹と一緒に、静かに暮らしていければそれだけでいい。

それだけでいいのだ。

俺はそれ以上望まない。

その幸せがあるなら、俺は……


それだけで――


「リオちゃん、行っちゃだめええええ!」


突如として、聞き慣れた声が霧を突き破って響いた。

純白と深紅の衣装を纏った小さな影が、霧の中から俺に向かって駆けてくる。

そう……ラトだった。


「リオちゃん、だめ!その人についていっちゃだめだよ!」


ラトは俺の腕を強引に掴み、リリィの手から引き離した。

小さな身体とは思えないほどの力で、俺を妹から引きはがしていく。

純白と深紅の衣装が霧の中で激しく揺れ、兎耳が緊張で立ち上がっていた。


「あれ……ラト?」


俺の意識が急激に現実に引き戻された。

甘い夢から叩き起こされたような感覚に、頭が混乱する。

そうだ――俺はダンジョンにいるのだ。

ラトと一緒に二階層を攻略している最中で……

何故か全て……どうでもよくなる所だった。


「もう~リオちゃん大丈夫?気をしっかり持って!」


「ご、ごめん。俺どうかしてたよ」


「はぁ~ギリギリ間に合ってよかったよ~。にしても……これがリオちゃんの妹さんか~、確かにリオちゃんに似てるかも……」


ラトは妹を見て、小さく呟いた。

俺を背中に庇いながら、警戒の眼差しでリリィを見ている。

どうやらいつでも戦闘できるように態勢を整えているようだ。


「ちょっと、誰?お兄ちゃん、その人誰なの?お兄ちゃんと私の邪魔しないでよ!」


リリィが再び俺に向かって手を伸ばした。

その仕草は切なく美しく、俺の心を激しく揺さぶる。

しかし――その手がラトによって激しく払いのけられた。


「触らないで!リオちゃんに近づいちゃだめだよ〜!リオちゃんはラトちゃんのものだもん。気安く触れないで!この偽物!」


ラトの声色に、珍しく怒りの感情が込められていた。

兎耳が逆立ち、纏う魔力が揺らめいている。

その瞬間、彼女の本性――

狂気的で残酷な所有欲が、仮面の下から顔を覗かせた。

あ、これはラトだ。本物だ。


「偽物……?なんで見ず知らずのあなたなんかに、そんなこと言われないといけないよ!あなたこそ、誰よ!お兄ちゃんに気安く触らないで!お兄ちゃんもはやく、その女から離れて!」


「離れないよ~。ラトちゃんが、リオちゃんのこと離すわけないじゃん!リオちゃんは世界で一番、大事な存在だもん!そうやってリオちゃんを罠にはめようとして……絶対に許さないよ~」


するとラトの細い腕が俺の胸に回され、まるで俺を守るように抱き寄せられた。温かい体温とラトの香りが鼻腔を刺激し、ラトの存在感が俺の意識をさらに現実へと引き戻していく。


「はぁ?罠にはめる?あんたこそ、お兄ちゃんを罠にはめようとしてるんでしょ!お兄ちゃんは私と故郷に帰るの!それを妨害してるのが、あなたじゃないの!お兄ちゃん、正気を戻して!そんな変な女の口車になんて、乗っちゃ駄目!」


「リオちゃんは正常だよ~、正常だからラトちゃんについていくんだよ~。偽物が何言っても意味ないよ~。リオちゃん、さっさとこんな所離れよ~」


「ああ、そうだな……」


ここにいるとこれ以上に、精神が惑わせられる。

ラトのいう通りさっさとここから、離れた方が良い。


「偽物偽物って……私がリリィなのに……。この女……お兄ちゃんを誘惑しようとするなんて許さない。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだよ!あなたみたいな得体の知れない化け物に、渡すもんか!この泥棒猫!」


「ラトちゃん猫じゃないも~ん。兎だもん」


「じゃあ泥棒兎!ってそんなこと言いたいんじゃないの!何でお兄ちゃん、こんな意味の分からない女に懐柔されてるの!?そうかっ……そうだお兄ちゃん、女性経験ほとんどないんだった……。だからこんな最低な女に、騙されちゃうんだ!このビッチ!あばずれ!きっと普段から男の人をたぶらかして生きてるような、そんな汚らわしい女に決まってるわ!」


「は?はぁ~!?ラトちゃん、流石にそこまで言われたら、許せないんですけど~。ラトちゃんは純粋無垢な少女だよ!男をたぶらかしたことなんてないもん!リオちゃんだけが、運命の相手だもん!」


「運命の相手~!?このお兄ちゃんが!?そんなわけないでしょ!こんな冴えなくて、イケメンでも無くて、背も高くないし、魔力の才能もない。そんなお兄ちゃんを好きな人、いる訳ないじゃん!」


「おい、妹。言いすぎだろ」


なんで俺は偽物の妹にまで……

こんなことを言われなければならないのだろう。


「へ~妹さんは、リオちゃんの格好良さ分かんないだね!ラトちゃんはすっごく、分かるんだよけどな~」


「いや?私は分かるけど?けど私以外に、お兄ちゃんの良さがわかるだなんて思えないんだけど。絶対あれでしょ?聞こえのいいことを言って、お兄ちゃんを騙そうとしているとしか思えないんだけど!お兄ちゃん騙されないで!そんな都合のいい女、いる訳ないでしょ?」


「酷い言いようだな……」


「残念だけど、妹の偽物さん。ラトちゃんは、リオちゃんのこと好きだもん。その言葉に嘘偽りなんてないもん!だからそんなたぶらかしてる~だとか、騙してる~だとか、そういう人聞きの悪いことはやめて!」


「人聞きが悪い?そうだとしか思えない!お兄ちゃんのこと、騙してるのだけは確かだもん!あぁ、もう許せない!このクソ兎!お兄ちゃんを私利私欲で誘惑して……早く離れて!お兄ちゃんから、さっさと離れて!」


リリィは怒りを露わにし、ラトの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

純白のドレスの襟を掴もうとする手が、怒りに震えている。

けれど――


「黙ってね~、偽物さん」


ラトは素早く身を翻し、華麗な蹴りをリリィの腹部に叩き込んだ。

兎人族特有の爆発的な脚力により、妹の身体が霧の中に吹き飛ばされる。

純白のワンピースが翻り、漆黒の髪が宙を舞った。


「り、リリィ……ラト、それは……」


思わずそう声が出る。

ついつい駆け寄りたくなってしまう。

偽物だとしても、妹が蹴り飛ばさているのを見て何かを言わずにはいられなかった。


「あれは本物じゃないの~!どうせ分かり合えないんだも~ん。行くよ、リオちゃん」


ラトの手が俺の腕を強く掴んだ。

その力は意外なほど強く、俺を霧の奥へと引きずっていく。

俺は振り返った。

霧の向こうで、リリィが俺に向かって手を伸ばしている。


「お、お兄ちゃん……」


その表情は寂しげで、まるで見捨てられた子犬のように切ない。

涙が頬を伝い、唇が俺の名前を呼んでいるのが見えた。

心が――引き裂かれそうだった。

たとえ偽物だとしても、あの顔は俺が愛した妹の顔そのものだった。

寂しそうに俺を見つめる瞳、助けを求めるように伸ばされた手。

それらが俺の胸を激しく締め付け、足を止めたい衝動に駆られる。


しかし――

ラトの手に引かれるまま、俺は霧の奥へと歩み続けた。

妹の悲しい呼び声が背後から聞こえてくるが、それでも足を止めることはできない。


ラトが来た方向へ――

霧の中を歩きながら、俺はラトに問いかけた。

足音が石床に響き、湿った空気が肌にまとわりつく。

彼女の小さな手が俺の腕を強く掴み、その温もりだけが現実感を与えてくれていた。


「ラト……さっきのは一体何だったんだ?あれは本当にリリィじゃないのか?」


「あ〜それはね〜、この空間の罠なんだよ〜。リオちゃんにとって一番大切な人を見せて、心を乱そうとしてるの。そうやって油断させて、変な場所に誘導しようとしてるんだよ〜。ラトちゃんも同じ目に遭ったから、よく分かるの」


「ラトも……誰かに会ったのか?」


「うん……ラトちゃんも、ハイデお兄ちゃんに会ったよ~。リオちゃんとはぐれた後、霧の中をさまよってたら……突然現れたんだ〜。懐かしい声で『ラト』って呼んでくれて、『迎えに来たよ』って言ってくれて……ホントビックリしちゃった」


ラトの声が震えていた。

白い手袋に包まれた手が、俺の腕を強く握りしめる。


「でもでも、ラトちゃんはハイドお兄ちゃんの死体を見たことがあるから……あの生首が転がってる光景が、どうしても頭から離れなくて。だから目の前にいるハイドお兄ちゃんが偽物だって、すぐに分かったの。だから……ひと思いに殺しちゃった」


「殺しちゃったって……」


しかしラトがこれほど冷静でなかったら、俺と同じように騙されていたかもしれない。

いや――俺は完全に騙されかけていた。

それに俺には偽物でも、妹を殺すのは無理だ。


「そしたらね〜、偽物のハイドお兄ちゃんが消えた後に、違う扉が現れたの。さっきリオちゃんが向かおうとしてた扉とは、全然雰囲気の違う扉。きっとそこから出るのが、この場所の正解なんだと思うよ〜。そこに向かおうとしたら、リオちゃんの声が聞こえてきて……急いで駆けつけたの」


霧が次第に薄くなり、前方に扉の輪郭が浮かび上がった。

確かに――先ほどリリィが示した扉とは全く異なる雰囲気だった。

あちらは温かな木製の扉だったが、こちらは冷たい石造りの重厚な扉。

そこから放たれる魔力の気配も、先ほどの甘い誘惑とは正反対の、厳格で冷たい印象を与えていた。


このラトが偽物である可能性も、一瞬頭をよぎった。

しかし――この扉のは正解だろう。そんな気がする。

あちらが甘い罠だとすれば、こちらは真実への道を示しているような、そんな感覚があった。


「多分~ここから出れば大丈夫なんだと思うよ~。行こうリオちゃん」


ラトが扉の取っ手に手をかけた。

石の冷たさが指先に伝わり、魔法陣が微かに光を放つ。

そして――重い音と共に、扉がゆっくりと開かれた。


その先に広がっていたのは——

純白の空間だった。

見覚えのある純白の、何もない空間。


そして――

そこには三人のベールが立っていた。


休暇を頂きありがとうございます。

再び投稿を再開しますので、楽しんで頂ければ幸いです。

モチベーションに繋がるので、評価、感想頂ければ幸いです。泣きます。

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