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第三十二話

薄紫色の大理石と金の装飾が施された大広間に、静寂が漂っていた。

天井は遥か高くまで伸び、深い青色の絨毯が足音を優しく吸収している。

そして部屋の中央には天蓋付きの豪奢なベッドが鎮座し……

その上に座り直す少女――二階層の階層主ベール。

無数の羊のぬいぐるみに囲まれながら俺たちを見つめていた。


俺の麻袋には血液の瓶が入ったままで、いつでも魔術を発動できる状態を保っている。

ラトもまた、白い手袋に包まれた手を腰のリボルバーの近くに置き、警戒を怠っていない。

ベールは羊のぬいぐるみを抱きしめ直しながら、薄紫色の瞳で俺たちを見つめ続けている。


「なあベール。ずっといつ聞くか気になってたんだが……あの羊たちは一体何なんだ?俺たちがここまで辿り着くまで、無数の部屋で延々と襲い続けてきた。明らかに普通の生物ではないはずだが……」


俺の問いかけに、ベールは小さく首を傾げた。

薄桃色の髪が肩で揺れ、視線が斜め上を向く。


「あ~、もしかしてめぇ太郎のことですか~?」


「めぇ太郎?」


あんな凶悪な羊に、名前なんてついてたんだな。

それもこんな可愛らしい名前……。


「それが羊の名前か?もしかしてあの羊たち、それぞれに名前があるのか?」


「いえいえ~全部めぇ太郎ですよ~。みんな同じ名前なんです~」


ベールは満面の笑みを浮かべながら、まるで自慢するかのように説明した。

その無邪気な様子に、俺は言葉を失った。

まさかあの羊の種族名がめぇ太郎?そんなことあるか?


「全員同じ名前って不思議だね~。そんな名前って感じの名前なのに、全員同じ名前だなんて~。ラトちゃんだったら、一匹一匹……可愛い名前をいっぱい考えちゃうんだけどな~。モコモコちゃんとか、ふわりんちゃんとか、ぽんぽんちゃんとか……」


ラトが小さく呟きながら、振り返って入り口の方を見やった。

その瞬間――


「あれ!?」


ラトの声が、広間の天井に響いた。

兎耳がぴんと立ち上がり、琥珀色の瞳が大きく見開かれる。

白い手袋に包まれた手が、驚きのあまり口元を覆った。


「リオちゃん、ちょっと見て!めぇ太郎ちゃんたちが……」


俺も慌てて振り返る。

そして――愕然とした。


先ほどまで扉の向こうでひしめき合っていた羊たちが、一匹残らず姿を消していたのだ。

あれほど大挙して押し寄せ、「めぇ~」「めぇ~」と鳴き続けていた数百匹の羊たちが、まるで最初から存在していなかったかのように完全に消失している。

扉の向こうには、見覚えのある純白の部屋だけが静寂に包まれて広がっていた。


「嘘だろ……あれだけいた羊が……」


俺の声が、驚愕のあまり掠れた。

まるで蜃気楼かのような、現実感の欠如した光景。

つい数分前まで……

俺たちを執拗に追い続けていた大軍が、音もなく消え去っている。


「あ~、めぇ太郎たちも飽きて帰っちゃったんですね~。あの子たちはすぐに興味を失くしちゃうんです。ここにめぇ太郎たちは来れないですから~、遊べないとなれば帰ってっちゃうんですよ~」


ベールだけが、相変わらずにこやかな笑みを浮かべていた。

まるで何の不思議もない、当然のことのように。


遊べないって……

あれはあの羊たちにとって遊んでるって感覚なのか?

レーザー攻撃も、タックルも、俺たちを殺す気でいたのは明らかだった。

それなのにこの少女は遊んでいると済ましている。

このベールという少女は、どこまで本気で言っているのだろうか……。


「ベールちゃん、結局最初の問いに答えてないよ~。あのめぇ太郎ちゃんたちって何なの?ラトちゃんにはさっぱり理解できないよ~。あんなに沢山いて……光線いっぱい撃ってきて、攻撃は全然効かなくて~……もしかしてベールちゃんが魔法で生み出した生物なの?」


ラトが首を傾げながら、純粋な疑問を口にした。

その疑問は俺が抱いていた疑問と全く同じもの。

あの羊たちの正体――

それは二階層攻略の鍵になるかもしれない重要な情報のはずだ。


しかしベールは、首を小さく横に振った。


「違いますよ~。めぇ太郎はめぇ太郎です~。それ以上でもそれ以下でもありません~。私が作ったとか、魔法で生み出したとか、そういうことではないんです~。めぇ太郎はず~と私の傍に居るんです。私がいれば、めぇ太郎もいる。そういうことなんです~」


「えっと……だからつまり~あのめぇ太郎ちゃんはなんなの?」


「めぇ太郎は、めぇ太郎です~」


「……むぅ」


ベールの答えは何の説明にもなっていない。

ラトは顔を見合わせ、困惑を深めた。

しかしその表情には、嘘をついているような様子は見受けられない。

彼女は本気で、めぇ太郎をめぇ太郎だと説明しているのだ。

本心からそう言っているように見えるのが、かえって不気味である。


「じゃあ他のことを聞くぞ、ベール。金色の羊とは何だ?どこにいるんだ?この階層の入口に『金色の羊を捕まえよ』ってあったが、あれは何だ?」


これこそが、この階層における真の目的のはずだ。

すると――

ベールの表情が、ぱあっと明るくなった。


「わぁ~驚きました。あの文字を読めたんですね~、中々あの文字読める方少ないんですよ~。せっかく分からない方のために絵まで用意したんですが、全然で~。伝わって嬉しいです~感激ですね~」


彼女は羊のぬいぐるみを胸に抱きしめながら、小さく身体を揺らした。


「ですが~残念ながら答えは教えれないんですよ~。でもそこまで理解してくださったなら、ちょっとくらいヒントを差し上げてもいいかもしれませんね~」


「ヒント?」


「はい~。ではある童話の話をさせて頂きますね~」


ベールは満足そうに微笑むと、ゆっくりと話し始めた。

薄桃色の髪が魔法の明かりに照らされ、まるで絵本の中の語り部のような幻想的な雰囲気を醸し出している。深い青色の絨毯の上で、彼女の声だけが静寂の広間に響いていく。



遥か昔、ある所に一人の少年が住んでいた。

入り江に暮らす若者、カリオン。

彼はある日、港の酒場で老いた船乗りの話を聞いた。

「西の果ての島に、黄金に輝く羊が棲んでいる。その羊毛一房で、国ひとつを買えるほどの価値があるという」と。

やがて青年になったカリオンは、自らの船を作る決意をした。

流木を集め、帆を縫い、言葉を交わすことすら少なかった鍛冶師に頼んで、舵を取りつけた。

そして港で仲間を募った。

最初に名乗りを上げたのは、怪力で知られる石工であった。次に、風の声を聞くという船乗りが加わり、薬草に詳しい賢者、そして弓の名手である狩人が続いた。

こうして五人の仲間が集まり、小さな帆船「風の船〈ノルゼア〉」は、希望に胸を膨らませて港を出航した。


しかし、海は彼らに試練を与えた。

風を飲み込む渦の谷を越え、話す石の精霊たちと知恵比べをし、空鯨に乗った風盗賊から逃げのびた。

風に飛ばされ仲間がちりぢりになりそうなときも、霧の中で互いの存在を見失いかけたときもあった。

しかし仲間と手を取り合い、囲んで語り合い、絆を深めた。


そして、ついに三つの季節が巡ったある日。

気づけば彼らの船は、かつて出航した入り江に戻ってきていた。

帆は擦り切れ、舵はひび割れ、地図はぼろぼろ。

金色の羊は見つからなかった。

だが、誰も「失敗だった」とは言わなかった。


金色の羊を、彼らは見なかった。だが、それが幻だったとは誰も思わなかった。

求めたものは目に見える毛や富ではなく、時間と経験のなかに育った、名のない光だった。

それは失われた名誉を癒し、孤独を手放し、言葉に頼らずとも理解しあえる何かだった。

我々は既に金色の羊を手に入れていたのだと。

風が帆をなで、船がかすかにきしんだ。

旅は終わりではなく、ただ形を変えて静かに続いていた。

歩いた者の足あとにだけ残るのだと、彼らは知っていた。



しばらくの時間が流れ――


「……結構省略しちゃいましたけど、大体こんな感じのストーリーなんです~」


ベールは話を終えると、羊のぬいぐるみの頭を優しく撫でながら俺たちの反応を窺った。

俺はその童話の内容を頭の中で整理しようとしていたが――

そのときラトの兎耳がぴょこんと跳ね上がった。


「やっと思い出した!ラトちゃんその童話聞いたことあるかも!?」


ラトは両手を合わせ、嬉しそうに身体を揺らした。


「確か……『軌跡の羊』って名前だった気がする。子供の時、ママから読み聞かせてもらった気がするよ~。けっこう長い話だったよね?懐かしいな~」


そういえば最初に廊下で絵を見た時……

ラトが童話が云々と、何か言いかけていたような気がする。

どうやらラトが知っていたのは確かなようだ。


「わぁ~お知りになってたんですねぇ~。その通り『軌跡の羊』って童話です。今回は旅の冒険の部分をかな~り省略しました。あまりそこは重要じゃないと思うんですよ~私は~」


「そう?ラトちゃんあのハチャメチャで、右足がもう一本生える話好きだったけどな~」


右足がもう一本生える話?

どんな話なんだそれは……?


「リオちゃんは聞いたことない?子供の頃とか、誰かに読んでもらったりしなかった~?」


「いや……まったく」


そもそもラトがダンジョンに挑んだのが、百年前と言うことになる。

さらに子供の頃となると少なくとも百二十年以上前の童話。

そんな昔の童話、もう語られなくなっていてもおかしくない。

知らないのは寧ろ当然な気もする。


「え~知らないの~」


だからこんな俺を馬鹿にしているラトは、今すぐに黙らせたい。

ラトは俺に対して愛を囁くことは多分にあるが、マウントをとって悔しがる俺を見るのも好んでいる傾向がある。

古書を多く読んだこともあったが、流石に童話は把握外……。

そもそも田舎の農村に住んでいた俺からすると、知ってる方だと思うんだけど……。

くそっ、ここじゃなきゃあの頭に粉砕血漿爆弾をするのに。


「んで……結局、その童話は何が言いたいんだ?金色の羊は確かに出てきたが、見つからなかったんだろ?その話通りって言うなら、金色の羊は見つからないってことになるじゃないか?」


俺は話をそらすように、そう質問した。

あの『軌跡の羊』という童話――

確かに金色の羊を求めて旅に出る話だったが、最終的にその羊は見つからない。

求めていたものは目に見える毛や富ではなく、時間と経験の中に育った何かだった……と。

それじゃあ俺らの課された目標は達成できないことになる。


「はい~確かにそうですね~。ふふっ、さてでもどうでしょうね~。確かにヒントとは言いましたが、ヒントと言っただけですよ~。私はただ、この童話を知って欲しかっただけなのかもしれません」


「けれどヒントではあるんだろ?」


「なるほど~中々鋭いですね~。そうですね~ヒントではありますよ~。例え関連性が少なくとも金色の羊の話ではあります~。そこに関連性がないとは否定できませんね~。そのまま当てはめて考えちゃだめなのかもしれませんし、あてはめた方がいいのかもしれません~」


あまりにも曖昧な解答。

肯定もせず、否定もしない。

とりとめのない会話だ。

その返答に、隣のラトが首を傾げていた。


「う~ん、じゃあさじゃあさ、ベールちゃん!その童話に乗っ取ってるならさ、最後に『苦難を超えた先に、金色の羊がいる』みたいなオチはないよね~?だってこの物語がヒントってことは、その童話の主人公みたいに多くの苦難を乗り越え、それを乗り越えたら金色の羊の代わりとなる、かけがいのない友情を得たって話でしょ~。なら金色の羊を得るためには、そういう苦難を乗り越えるって話になるじゃん。どうどう?この予測、あってる?」


ラトの素朴で率直な疑問。

ふむ……中々鋭い質問だ。

これから多くの試練を与えられ、それを超えた先に金色の羊がいる。

そう予測できてもおかしくはない。

しかしベールは変わらず、羊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていているのみ。


「そうですね~中々手厳しい意見ですね~。それに対してはある種正しくて、ある種正しくありませんね~」


「え~どいういうこと?」


「その考えは完全に間違ってはいないと言う話ですよ~。あくまで完全に~ですけど~。つまり正しくはあっても、間違っていると言う話です~。正解であり不正解です。肯定も否定もできない質問ですね~」


「もぉ~そんなこと言わないで、ちゃんと教えてよ~。回りくどいのラトちゃんきら~い。童話とか言われても、よく分かんないよ~」


「そう言われてしまうと、申し訳ないですが、これでもかなり譲歩しているんですよ~。残念ながらこれ以上伝えては、ヒントの境界を超えてしまいますから~。それにこの二階層は二百年は突破されてない、強固な階層ですから。これが私の全力の善意ですよ~」」


「え~ラトちゃんざんね~ん。んじゃあよく分かんないから~、一番簡単な方法で行こうかな~。ベールちゃん、面白い会話ありがとね~。じゃあさ……」


――!


銃声が大広間に響いた。


「死んで~」


ラトの手が電光石火の速さでリボルバーを抜き放ち、引き金を引いた。

愛用のエンフィールド・Mk2リボルバーが火を噴き、銃声が天井の高い広間に響く。

弾丸がベール目がけて一直線に飛んでいった。

黒光りする鉛の塊が空気を切り裂き、確実に標的を捉えようとしている。

その速度、威力、更に奇襲に近い唐突な発砲。

避けられるはずがない。

確実に当たる。


しかし――


「めぇ〜」


どこからともなく現れた白い毛玉が、弾丸の軌道に割り込んだ。

それは羊であった。つまりめぇ太郎であった。

その一匹のめぇ太郎は銃弾の軌道に唐突に割り込み、その不思議な柔らかな毛並みで銃弾を受け止める。

弾丸は毛玉の中に吸い込まれるように威力を失い、大理石の床にころりと転がり落ちた。


「そうやっていきなり攻撃してくるなんて思いませんでした、驚きましたよ~。いきなり奇襲のように発砲するだなんて、少々卑怯じゃありませんか~?ラトさんは変わったのかと思いましたが、そういう突発的に仕掛けてくる貪欲さは百年前と変わりませんね~」


その余裕に満ちた態度に、俺は内心で舌を巻いていた。

正直に言えば――

俺もラトがいきなり攻撃を仕掛けるとは思っていなかった。

あれほど会話の自然な流れ、唐突の発砲。

俺なら間違いなく、一発攻撃を受けている。

それほどまでにラトの判断は迅速で、戦闘への切り替えが鋭い。

その姿は確かに姑息にも見えるが、とてもラトらしい。


きっとラトにとは、会話に飽きたから殺すことにしただけ。

金色の羊云々あるが、階層主を倒せば解決するから殺すことにしただけ。

なんとなく殺したいと思ったから、殺すことにしただけ。

ラトとはそういう人だ。


それをいなしたベールは、驚きを超えて異常だ。

あれほど読みようのない奇襲を、いとも簡単に防いで見せた。

読んでいたのか?それとも反射的に行ったのか?

いやあの羊に何か秘密でもあるのだろうか?


「物語とかよく分かんないけど、階層主倒した方が単純で簡単じゃ~ん。けどあれれ~ベールちゃんおかしいよ?、さっきめぇ太郎たちはここに入れないって言ってたのに~嘘だったの~?なんでいきなり現れたのか全然分かんないよ~。もしかしてベールちゃん、嘘ついたの?」


ラトは首を傾げながら、可愛らしい表情を浮かべる。

まるで攻撃なんてしていないかのような、仕草と表情。

こういう奇妙なラトこそ、安心する。


「ベールちゃんひどいな~。ラトちゃんに嘘ついたんだ~。ラトちゃん噓つきは、大っ嫌いだけど?」


「いえいえ、ラトさん。嘘なんか私ついてませんよ~。めぇ太郎は入って来れないと、私は言ったんです。現にラトさんたちを追いかけて来た、めぇ太郎たちは入ってきてませんよ~。このめぇ太郎は、違うめぇ太郎さんです」


ベールもまた、狼狽えていない。

まるでラトに攻撃されていないように。

この図太さは、俺も見習わないといけないのかもしれない。


「何を言ってるのか、ラトちゃんはさっぱりだよ。そのめぇ太郎ちゃんは、なんでいきなり現れたの~?さっきまでここに居なかったのに~」


「え~?でも私、さっき言いましたよね~?私がいれば、めぇ太郎もいるって~。だからここにいるんですよ~。だからそういうことです。そもそもあんな奇襲をしておいて、丁寧に教えてもらえると思っているんですか~?」


「それを教えるのが、階層主としてもプライドじゃないの~?ベールちゃん、もしかして余裕ない?すっごく器小さいんだね」


「突破された身で階層主の矜持について問われても、説得力ありませんよ~?」


「あはははラトちゃん、ベールちゃん嫌~い」


――!――!


ラトは満面の笑みを浮かべて、再びリボルバーの引き金を引いた。

二発の銃弾が、先ほどと同じ軌道でベールに向かって飛ぶ。

しかし――

先ほどと同様、めぇ太郎が軌道に割り込んだ。

まるでベールのしもべのように、盾として弾丸の前に立ち塞がる。


「めぇ太郎ちゃん、面倒だね~。けどその一匹で守れきるの?さっきみたいにいっぱいめぇ太郎呼んできた方が、ラトちゃん良いと思うけどな~?」


「ご心配無用ですよ~。もしかしてめぇ太郎が防御に専念して攻撃してこないから、安全だと思ってるんですかね~?けれどそれは私のこと、甘く見積もりすぎですね~」


ベールは手を僕らに掲げると、魔法陣を展開した。

白い光の線が浮かび上がり、激しい魔力の流動が魔法陣を包む。

めぇ太郎こと羊が展開した魔法陣に比べ、一回り大きな魔法陣。

激しく回転し始め薄紫色の瞳に宿った光が一層強くなり、魔力の収束音が広間に響いた。


そして次の瞬間――


「羊の福音」


―――!!


眩い光の奔流が、ラトに向けて一直線に発射された。

空気そのものが震え、広間の薄紫色の大理石が光に照らされて神々しく輝く。

その威力は先ほどのめぇ太郎たちのレーザーを遥かに凌駕し、まるで雷鳴のような轟音を伴いながら一直線に迫っていく。


不味いか――


俺は咄嗟にラトの前に飛び出した。

麻袋から先ほど使用した血液の瓶を取り出し、魔力を注ぎ込む。

深紅の液体が空中で渦を巻き、瞬時に円形の防護壁へと再構成された。


「藤布!」


血の盾が光の奔流を受け止めた瞬間、凄まじい衝撃が俺の全身を貫いた。

思わず体ごと吹き飛ばされそうなほどの衝撃。

体の血液を魔力として消費し、何とか防。

魔力と魔力がぶつかり合う激突音が広間を震わせ、血液の表面で無数の光の粒子が爆発的に散っていく。

しかし盾は持ちこたえ、ベールの攻撃を完全に無効化した。


「あれれ~、私の攻撃を防いだんですか~?すごいですね~、なんですかその魔法?見たことないですね~血を利用しているんですか?けれど魔法が使える魔力量に見えないのに~驚きました」


ベールの薄紫色の瞳が大きく見開かれ、羊のぬいぐるみを抱きしめる手に力が入った。

どうやら素直に驚いてくれてるらしい。


ほんと俺自身も、驚いてはいるのだが……。

我ながら――この血の盾の防御能力には感心する。

リリィから受け継いだ朱脈操術は、想像以上に応用が利く。

あれほどの威力の攻撃を無事防げるのは、俺の努力ももちろんあるが前提としてこの固有魔術の特性に他ならない。

妹には感謝しないと……。


――!


俺へと攻撃したことで隙が生まれた、ベールに向けラトが再度発砲する。

攻撃の隙を突いた完璧なタイミング。

攻撃したとなれば防御は薄くなるのが、戦闘の基本原則。

魔石の弾丸がベール目がけて放たれ、またしてもめぇ太郎が軌道に割り込む。

あの防御能力と反応には困ってしまうが……


「めぇぇぇ!?」


今度は様子が違った。

めぇ太郎の身体が弾丸の勢いに押し負け、視界から消える。

ふわふわとした毛並みが空中で乱れ、愛らしい鳴き声を上げながら広間の奥へと吹き飛ばされていったのだ。


「……!?」


「ラトちゃんは何度も同じ手は食らわないよ~。覚悟して欲しいな~ベールちゃんには。この愛の弾丸の前にね」


愛の弾丸……ねぇ。


あれは愛の弾丸などではないが、よく見れば弾丸の色が違うのである。

赤色……それもどす黒い赤。

まるで血のような……いやそう。

俺の血なのである。


「あれ~めぇ太郎!?めぇ太郎が吹き飛ばされてしまいました~!?そんなことあるんですね~」


めぇ太郎が銃の威力を受けきれず飛ばされる光景を目の当たりにして、ベールの薄紫色の瞳が驚愕に見開かれた。


やはり――あの羊は無敵というわけではない。

無敵に見えるだけで球体の体や、魔力の行き届いた羊毛で威力を逃がしているに過ぎない。先ほどまでの道のりで、俺の血の魔術を避けていたのも、逃がすのが難しいからだったんだろう。

俺の血は鋭いし、付着するからな。


だからこそラトの銃弾に対しても、これまでの攻撃をブラフとして受け取り、魔力を纏った羊毛で十分防げると判断してまともに受けてしまった――

結果、威力を逃がしきれずに吹き飛んだというわけだ。

何と言ってもあの銃弾は今までと違うから。


一階層での共同生活の中で、俺とラトが話し合って発明した特殊仕様。

ラトの弾丸に俺の血液を混ぜ込み、彼女の魔力で強化する。

俺の血液そのものが持つ魔力増幅の性質と、ラトの魔力が組み合わさることで、威力としては倍以上。

通常の弾丸では太刀打ちできない相手にも有効な攻撃となる。

しかし原理としては簡単なようだが、その実非常に面倒なものである。


そもそも……ラトの銃について軽く説明するのだが――

あの銃の機構は火の魔石を火薬として、土の魔石を発射体とする基本構造。

しかしそれだけでは勇者サトウが残した設計図通り、やはり火力不足となる。

そこでラトは火の魔石に少量ずつ異なる魔石を混ぜ合わせ、属性同士の相互作用で威力を向上させている。さらにラトの魔力と銃身内部の魔法陣を弾丸が通過することで、段階的に威力が増幅される構造になっているのだ。


これは魔石の魔力とラトの魔力を絶妙な波長で合わせる、最高練度の技術によって成り立っている。そこに俺の血という新たな魔力が加わると、普通ならノイズとなってしまう。その魔力の波長をラトの魔力と同化させるには、相当な練度が求められるのである。


これが実現できたのは――

俺たちが一ヶ月という長い時間を共に過ごし、心を打ち解け合い、深い信頼関係を築いているからこそ。互いの魔力の波長を理解し、呼吸を合わせ、意図を汲み取る。それを長期間行えたからこそ生まれた技術と信頼の結晶。

ラトのいう所の愛の弾丸である。


「リオちゃ~ん、あの邪魔なめぇ太郎はいなくなったよ~!やっちゃって~!」


「もちろん、この好機は逃さない」


この銃弾により羊がいなくなったとなれば――

盾が無くなったも同然。

俺は血の盾を見つめ、深紅の液体に意識を集中させた。

円形の防護壁が流動的に形を変え、鋭い穂先を持つ槍へと変貌していく。


「悪いなベール。弓浜絣!」


深紅の槍がベール目がけて一直線に射出された。

空気を切り裂く鋭い音と共に、血の軌跡が薄紫色の大理石を貫いていく――

しかしその瞬間、ベールの薄紫色の瞳に鋭い光が宿った。


「そう簡単には効きませんよ~。展開します、沈黙せるタルシシ」


彼女の白い手が宙に舞い、複雑な魔法陣が瞬時に展開される。

半透明の防護壁が空中に浮かび上がり、まるで水晶のように美しい盾。

深紅の槍がその光の壁に激突した瞬間――

激しい火花が散り、轟音が大広間に響いた。


どうやら防がれた――。

血液が四方へ飛び散り、薄紫色の大理石の床に深紅の飛沫が無数に踊る。

しかしその結論など、何度もシュミレーションした結果の一つに過ぎない。


俺の視線がラトを捉えたときには既に、彼女は既に駆け出していた。

純白と深紅の衣装が宙を舞い、紅白の縞模様の靴下が美しい軌跡を描く。

兎人族特有の爆発的な脚力で、瞬く間にベールとの距離を詰めていく。

防御魔法を展開した直後の隙――

そこを狙い澄ましたタイミング。


「ベールちゃん、それは悪手だよ~。受け身の行動をしちゃうなんてさ~」


ラトの愛らしい声が響くと同時に、彼女の身体が宙に舞い上がった。

先ほど血の槍が当たった箇所、まさにその一点を狙い澄まして。

兎耳がぴんと立ち上がり、琥珀色の瞳に戦闘時特有の鋭い光が宿る。


「ライラックショット!」


右足が魔力の光を纏いながら、防御魔法の同じ箇所へと叩き込まれた。

魔力を纏いし足は、輝き空気を捻じ曲げながら盾と衝突する。


――!


盾とは、同一箇所への連続攻撃に脆いものだ。

どれほど強固であっても、集中的な攻撃を受ければ必ず綻びが生まれる。

血の槍による第一撃で生まれた微細な亀裂に、ラトの蹴りが正確に打ち込まれた。


―!――!


氷が割れるような音。

美しく輝いていた光の壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、次の瞬間には粉々に砕け散る。光の破片が宙に舞い踊り、まるで雪のように舞い散っていった。


「――!?私の防御魔法を――」


ベールの薄紫色の瞳が驚愕に見開かれる。

羊のぬいぐるみを抱きしめる手に力が入り、小さな口がぽかんと開いた。

まさか破られるとは思わなかったであろう、防御魔法の瓦解。

きっと彼女はこの防御で多くの魔法を防いできただろう。

俺の血の盾のように、何度も何度も……。

この階層を守り続けて何年も……。


だからこそこの状況に対する理解が追いつかない。

それは戦闘の中の一瞬、刹那の思考の停滞。

動揺と狼狽の微細な揺らぎ。


その隙を――ラトが見逃すはずがなかった。

ラトは空中の姿勢のまま身体を捻り、体を一回転させる。

そして見事な体制維持と共に、今度は左足を振り上げて回し蹴りの構えを取った。


「もう一発だよ~、ライラックショット!」


魔力を纏った左足がベールの身体を捉えた。

空気を震わせ、閃光纏う再来の一撃。

しかし先ほどの高威力を示すように空間が湾曲し、俺の視界から見れば足が曲がっているようにさえ見えた。激しい閃光が一瞬一切の光を発さなくなり、魔力のうねりが視界で捉えられるほどに薄緑の魔法陣がその足を掩う。


「くっ――」


ベールは咄嗟に魔力を腕に流し込み、受け止める。

階層主として無限の魔力供給があるであろう彼女。

それでも反射的な一瞬の防御には限界がある。

蹴りの威力を完全には殺しきれはしない。


―――!!!


激しい突風が生じ、自分の体が吹き飛びそうとさえ思う。

それほどの風と衝撃波を生み出し、ベールは蹴り飛ばされた。

天蓋付きのベッドから転がるように落下し、そのまま壁に背中を打ち付ける。薄桃色の髪が乱れ、純白のドレスが床に広がった。


「ふぅ~けっこう気持ちいい一撃入ったんじゃないかな~?ベールちゃん大丈夫~?ベッドの上でぬいぐるみ抱っこしてたんじゃ、まともに受け身とれなかったでしょ~。もしかして首の骨でも折れて死んじゃった?」


ラトは着地すると同時に、満面の笑みを浮かべてベールに視線を送っていた。

あれほどの攻撃してぴんぴんしているラトは、やはり異常だ。

俺であれば息切れの一つはしていそうなものである。

元々の魔力量が本当に彼女は潤沢だ。


「それに〜、めぇ太郎ちゃんに頼りきりで〜、自分では何もできないんだもん〜。案外弱いんだね。そんなんじゃあ〜、ラトちゃんたちに勝てるわけないよ〜?その程度だったら、肩透かしにもほどがあると思うな~」


純白の手袋に包まれた手をひらひらと振りながら、ラトは無邪気な笑い声を響かせる。その表情には一片の悪意も感じられず、まるで子供が遊んでいるような無垢さを湛えていた。

こういう精神攻撃は、戦闘には非常に有効だ。

その効果を示すように――


「あ~、ちょっと私イライラしてきたかもしれないですね~。ここまで傲慢な挑戦者は久しぶりですよ~。うふふっ」


ベールがゆっくりと立ち上がった。

体に擦り傷は多く見えるが、どうやら無事なようだ。

あれほどの攻撃を受けたのに、この程度しかダメージを受けていないのか……。


「楽しい話合いは、これぐらいにいておきましょうか~」


乱れた薄桃色の髪を手で整えながら、顔をゆっくりと見上げる。

これまでの柔和で温和な表情は消え失せ――

薄紫色の瞳に、恨めしそうな光が宿っていた。


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