第二十九話
この奇妙なラトとの共同生活。
そんな月日が――とうとう一カ月が経とうとしていた。
当初は奇妙で居心地の悪かった一階層での日々が、今やすっかり日常となっていた。
この一ヶ月間を振り返れば、様々な出来事があった。
運動場での戦闘訓練は日課となり、ラトの指導の下で俺の剣技は格段に向上した。読書もいっぱいしたし、魔術の知識は格段に増えている。互いに固有魔術の連携は確実なものとなり、理解も深まった。今やラトと一緒のベッドで寝る日々にも違和感は感じないし、ラトの料理を食べることに何の違和感も感じない。
時には意味分からないことも多く言われたが――
「リオちゃん、逆立ち人参早食い勝負しようよ~」
「やるわけないだろ」
とか……
「見て見て!この魔導書の文字!リオちゃんが書く字にそっくりじゃない?」
「お、おう……」
とか……
「リオちゃん、今日の料理すごくない!?ウルトラ冥王星の牛若丸って感じじゃない」
「何か表現しているはずなのに、欠片も意味が分からないんだが……」
とか……
うん、今思い出しても意味が分からない。
意図が分からないし、俺の返答も間違っていた気がする。
それすらも――今となっては懐かしい記憶となっている。
そして――
――!――!
今日もまた、運動場に響く金属音が空間を満たしていた。
「リオちゃん!」
「あぁ」
背後からラトの声が響くと同時に、俺は膝を折って身を低くした。
頭上を兎人族特有の跳躍力を活かしたドロップキックが通り過ぎ、俺が狙えなかった藁人形の頭部を粉砕する。
着地したラトが振り返ることなく次の標的に向かう中、俺も立ち上がりながら血液を操作して残りの人形を一掃した。
呼吸を整えながら、俺はラトとの連携を振り返っていた。
この完璧とも言える阿吽の呼吸――
ここ数週間の連携力の向上は、自分でも信じられないほどだ。
「――っ!最高だよ、リオちゃん!お茶会も熱狂するくらいの興奮だよ!不思議な国のアリスも美しすぎて、兎を見失うくらいだよ!こんなにスムーズに連携出来て、リオちゃんの動きも手に取るように分かる!すごすぎるよ!」
「ああ、俺も驚いてる」
「そうだよね!ラトちゃん、興奮してきた!同じパーティを組んでいた仲間よりも優れた、ピカイチの連携力だよ!以心伝心だよ!やっぱりリオちゃんは運命の相方!そうでもないと、こんなの説明付かないよ」
「そういう訳ではないと思うが……」
しかしラトの興奮も理解できる。
それは単純な努力の積み重ねだけでは決して到達できない領域。
仲間の動きを見ずとも理解し、気配を感じるだけで意図を把握、そして次の行動を先読みする。そんな高度な連携が今の俺たちには可能になっている。
なぜこれほどまでに息が合うようになったのか。
別に運命の関係だから、これほど連携がうまくいっているのかと言うと……
おそらく違う。この連携力の変化は……あのラトの過去を知ってからだ。
互いの過去を知り、痛みを理解し、心の奥底にある想いを共有した。
ラトの兎人族としての誇り、白金等級冒険者として培った技術、そして挫折と苦悩の日々、それを知ってからラトの本質を何となく理解出来た気がした。そしてラトもまた、俺の妹への想いや背景を知ったからこそ、その行動の背景を理解している。
片方だけじゃない駄目なのだ。
ラトが俺のことを知ったから成り立つものではない。
俺もまたラトを知り、理解し、信頼したからこそ、この連携力を手に入れたのだ。
心が通じ合えば、自然と体も連動する。
それは理屈ではなく、もっと根源的な信頼関係によるものなのだと……
そう思うのだ。
その日の夜――
俺はラトと向かい合っていた。
ラベンダーの香りが静かに漂う中、互いの瞳を見つめ合う。
琥珀色の瞳に宿る時計の針の模様が、魔法の明かりに照らされて微かに揺らめいていた。
そして俺は深く息を吸い込み、そして静かに口を開いた。
「明日、二階層に挑むぞ」
「……そっか。とうとう、この時が来たんだね」
俺たちはこの一カ月――
二階層に挑むため、多くの準備を行ってきた。
左腕の傷は完全に治癒し、血液の瓶も無事六本全ての貯蔵を完了した。
新たに手に入れた短剣の扱いにも慣れ、朱脈操術の精度も格段に向上している。
実を言うとあらたな魔術も覚えたし、武器にも工夫の一手を加えた。
食料や水の魔石といった基本的な物資も十分に確保済みだ。
そしてもちろん連携や信頼関係まで……
物理的にも精神的にも、二階層に挑む準備は万端となった。
こう振り返るとこの一階層で一カ月もの準備期間を得られたのは、本当に幸運であった。
すぐに挑んでいたとしたら、今の何倍も弱かったことだろう。
しかし、ひとつ気になることがあった。
「そういえば、ラト。お前は以前、二階層に挑んだ時のことをあまり覚えていないと言っていたな。そう言うが……こう、ちょっとくらいどんな小さなことでも良いから、何か思い出せることはないか?少しでも情報があれば、攻略の手がかりになるかもしれない」
その質問を受けて、ラトの表情が曇った。
琥珀色の瞳に困惑の色が浮かび、兎耳がしょんと垂れ下がる。
「うーん……ラトちゃんも、そのことずっと気になってるんだけどね」
彼女は薔薇色の唇を軽く噛み、首を横に振った。
「ごめんリオちゃん。な~んにも思い出せないんだよ!ほんとなんでか、不思議なくらい!一階層の階段を上って、二階層に足を踏み入れたところまでは覚えてるんだけど、それから先のことが全然思い出せないんだ!不思議だよね~」
ラトの声には申し訳なさそうな響きが混じっていた。
自分でも歯がゆく思っているのだろう。
「気がついたら、リエルちゃんの声が聞こえて、一階層の階層主になってたの。その間に何があったのか、どんな敵と戦ったのか、なぜ負けたのか……全部、全部分からないんだ。ん~ラトちゃんを倒したんだから、すっごく強かったんだと思うんだけどな~」
記憶の欠落――
あまりにも不自然な話だ。
何らかの外的な要因が働いているのか?
魔女リエルが意図的に記憶を消去したのか?それとも二階層に存在する何らかの特殊な能力によるものなのか?あるいは、ラト自身の精神的な防衛機制が働いたのだろうか?あまりに衝撃的な体験だったために、心が自動的にその記憶を封印してしまったとか……。
いずれにせよ、これは看過できない事実だ。
ラトの言う通り、二階層の主はラトを倒したのだ。
それにラトの過去の話を思い出すと、突破した挑戦者が空席となった階層の主になっている。そして自身の願いのため、千年守り抜こうと努力しているのだ。
それがこのダンジョンの仕組みなのだと。
――となれば二階層の主は、一階層、そして二階層を突破した存在となる。
加えて魔女リエルから無限の魔力の供給となれば、生半可な敵ではない。
無敵以上にでたらめな固有魔術が出て来るなんて考えたくもないが、それほど強力な敵が来てもおかしくないのだ。
「まあ分からない以上、慎重に挑まないとな。勝つと言う自信はあるが、より集中して明日は挑もう」
「うん、そうだね~。頑張ろう~」
そうして俺たちは最後の確認作業を始めた。
連携の動きを寝室の狭いスペースで再確認し、持ち物を一つ一つ点検していく。
血液の瓶、剣の切れ味、魔石の補充――
全て問題ない。
ラトのリボルバーも手入れが行き届いており、弾丸の補充も完璧だった。
準備は万端。
これ以上できることはないだろう。
しかし――
「……とても、心配」
ラトの小さな呟きが、寝室の静寂を破った。
その表情を見て、俺は息を呑んだ。
いつもの愛らしい笑顔ではない。
琥珀色の瞳には深い影が差し、兎耳も力なく垂れ下がっている。
薔薇色の唇は固く結ばれ、白い手袋に包まれた手が膝の上で小刻みに震えていた。
珍しく――いや、初めて見る暗い表情だった。
「ごめん、今言うべきじゃなかったよね。けどね……ラトちゃんね……すっごく怖いんだ」
彼女の声は、いつもの元気な調子とはまるで違っていた。
搾り出すような、か細い響き。
「ラトちゃんの人生ってね、大切な人をずっと失い続けてきたんだ。ママも、義理の家族も、冒険者の仲間たちも……みんな、みんな、ラトちゃんの前からいなくなっちゃった。そして今度は……今度はリオちゃんの番なんじゃないかって、そんな恐ろしいことを考えちゃうんだよ〜」
白い手袋に包まれた手が、膝の上で小さく握りしめられている。
その震えが、彼女の内心の動揺を如実に物語っていた。
「二階層に挑んで、もしもリオちゃんに何かあったら……もしもラトちゃんがまた一人ぼっちになっちゃったら……そう思うと、怖くて、怖くて仕方がなくなってきちゃった。あはは、今更だよね。ごめんね」
俺は――
その言葉を聞いて、驚いた。
ラトがこれほどまでにネガティブな思いを口にするのを、俺は初めて聞いた。
いつも前向きで、ポジティブなことしか言わないラトがそんなことを言うとは思わなかった。
けれど……
ラトがそう思うのも無理はない。
ラトの人生からすれば、そう思うのはむしろ自然だ。
大切な相手を失い続ける日々。
その大切な人に俺が該当するならば、失うと思うだろう。
しかし――
俺はその言葉を聞いて――静かに首を振った。
「ラト、それは違う」
「え……?」
「俺は妹を救うまでは死ねない。絶対に死なない。それに――これまでラトが失ってきた大切な人たちと、俺とでは明確な違いがある」
「違い……?」
兎耳が不安そうにぴくぴくと動き、彼女の内心の動揺を物語っていた。
蜂蜜色の髪が肩に流れ落ち、不思議そうに顔を傾ける。
「俺は、お前の靴下を脱がした人間だ」
「……へ?」
「もしラトの言う通り、運命の相手が俺であるなら――俺とラトは結ばれるはずなんだろう?兎人族の仕来りで、靴下を脱がす相手が運命の相手で、その相手と必ず結ばれるんだと。そう言っていたよな?」
ラトが小さく頷く。
「けど俺は、まだお前のことを恋人だと認めていない。だったら――運命の相手と結ばれるというラトの言葉が正しければ、結ばれる前に俺が命を失うなんてありえないんだ。だからこのダンジョンを攻略し、魔女リエルに会うその日まで……俺とラトは絶対に死なない」
「……っ」
その瞬間――
ラトの表情が、ぱあっと明るくなった。
「確かに……そっか!だからリオちゃんは、頑なにラトちゃんのプロポーズを受け入れなかったんだね!」
いや……
それは違うんだけど……
と言うかこの理論自体、自分で言ってて結構滅茶苦茶である。
だって俺、自分がラトの運命の相手だと未だに確信してないし……。
しかしラトがそう信じているのだ。
それに、ラトが自信を持つなら……
「えっと、まあ……そういうことだ」
そういうことにした。
「わぁ~、リオちゃんやっぱり策士だね!そっか!そうだよね!靴下を脱がしたリオちゃんだけは、これまでの人たちと違う。明確に運命的に、特別なんだもん!なら大丈夫だよね!」
「あ、ああ……。けどだからと言って、油断していいと言ってるわけじゃないからな。ここで油断すれば、望まない形で一緒になる可能性だってある」
「望まない形……?」
「例えば、俺が重傷を負って動けなくなり、お前が俺を看病し続けるという形で結ばれるかもしれない。あるいは俺が記憶を失い、全く別の人間になった状態で結ばれるという可能性もある。運命とは、必ずしも俺たちが望む形で成就するとは限らないってことだ」
「うわあ、それは嫌だ!ラトちゃん、絶対全力で守るからね!二人で絶対、最高の幸せを掴もうね!」
ラトが握りこぶしを作り、兎耳がぴんと立ち上がった。
どうやらもう覚悟は十分なようだ。
「よし、じゃあ寝るか」
「うん!あ、リオちゃんに抱き着いて寝た~い」
「勘弁してくれ……」
そうして俺たちは、変わらずふたりでベッドに潜り込んだ。
薄紫色の天蓋が頭上に垂れ下がり、ラベンダーの香りが静かに漂っている。
ラトの体温が隣で小さく感じられ、規則正しい寝息が暗闇の中に響いていた。
これが――人生最後の夜になるかもしれない。
そんな考えが、頭の片隅をよぎる。
妹を救えないまま命を落とすなんて、絶対に嫌だが……
それでも、そんな可能性がゼロではないことも理解していた。
それでも……今は一人じゃない。
ラトがいるのだ。俺よりも強くて、頼りになるラトが。
だから……大丈夫だ。
そう言い聞かせて、俺は目をつむった。
―――翌朝。
「ラト、準備は大丈夫か?」
「うん!問題ないよ~」
腰に携えた剣の重み、血液の瓶が入った麻袋の感触――
保存食と水の魔石、それに応急処置用の包帯や薬草。
全てが完璧に準備されている。
ラトもまた、愛用のリボルバーを腰に下げ、純白と深紅の衣装に身を包んでいる。
彼女は見慣れるポーチを身に着け、弾丸や魔石、それに様々な道具が整然と収納されていた。
「えへへ~このポーチ使うの、冒険者のとき以来だよ~」
ラトは振り返ると、いつもの無邪気な笑顔を浮かべた。
しかしその瞳の奥には、昨夜の真剣さがしっかりと宿っている。
「よし、じゃあ……行くぞ!」
「おー!」
俺たちは互いに顔を見合わせ――
そして、地図の間へ。
天井から降りてきた階段が、上層階への道を静かに示している。
一段一段、慎重に足を運びながら、俺たちは二階層へと歩みを進めた。




