第二十七話
ギルドマスターの執務室を出た後、ラトちゃんの足音は普段よりも重く石廊下に響いていた。
夕刻の光が窓から差し込み、長い影が足元を追いかけるように伸びている。
白金等級の徽章が胸元で小さく揺れ、その金属音だけが静寂を破っていた。
部屋に戻ってからの日々、羽ペンを持つ手がしばしば宙で止まる。
文書の文字が視界に入っても、その意味が頭に入ってこない。
窓の外を眺める時間が長くなり、雲の流れや鳥の飛行を無意識に追っている。
夜が更けても寝床に横たわったまま天井を見つめ、時計の針音が耳の奥で反響し続けた。
朝食の席で、スープを掬う手が微かに震える。
パンを千切る音が妙に大きく聞こえ、咀嚼のリズムが普段とは異なっている。
アンドラの視線がラトちゃんの横顔を捉える瞬間、兎耳がぴくりと動いた。
彼の琥珀色の瞳に宿る気遣いが、空気の密度を変えていく。
「最近、様子がおかしいぞ」
そのアンドラの一言が食堂の静寂を破った時、フォークが皿に触れる音が止まる。
カントが咀嚼を中断し、ベリーが本から視線を上げる。
四人の呼吸が一瞬で同調し、朝の光が差し込む食堂に緊張が漂った。
「え?そんなことないよ?ラトちゃんは、いつも通りだよ?」
「いつも通り?いや~俺はそうは思わないっすね。な、ベリー?」
「そうね。ラト、私たちは仲間でしょう?何でも話し合える関係だと思っていたけれど、違うの?あなたが苦しんでいるのを見ていると、気分が良くないのよ」
「良く言ってくれました!そうっすよ、ラトちゃん。俺たちは家族みたいなもんじゃないっすか。一人で抱え込まないで、頼ってくださいよ」
カントの大きな手が、テーブルの上でそっと拳を作る。
その仕草に込められた優しさが、部屋の空気を温かく包んだ。
ラトちゃんの指先が膝の上で絡み合い、唇が小刻みに震え始める。
暖炉の炎が彼女の蜂蜜色の髪を照らし、その光と影が表情の複雑さを際立たせていた。
「……実は」
父親の最期について語る間、ラトちゃんの声は次第に小さくなっていく。
リエルのダンジョンという名前が告げられた時、ベリーの持っていた茶碗がかすかに震えた。
カントの大きな手が拳を作り、アンドラの眉間に深い皺が刻まれる。
四人を包む空気が重くなり、暖炉の炎さえも小さく揺れているようだった。
話し合いが続く中、外の光が次第に傾いていく。
窓に映る影が長くなり、談話室の雰囲気も夕暮れの色合いに変化していた。
様々な意見が交わされ、時には沈黙が長く続く。
その度にラトちゃんの兎耳が小さく動き、内なる葛藤を無言で表現していた。
「ラト、お前はどうしたいんだ?」
アンドラの低い声が静寂を破った時、ラトちゃんの呼吸が一瞬止まる。
窓の外で風が木々を揺らし、葉の擦れる音が遠くから聞こえてくる。
暖炉の炎が一際大きく揺れ、壁の影が踊るように動いた。
立ち上がったラトちゃんの足音が、絨毯の上で小さく響く。
窓辺に歩み寄り、外の景色を見つめながら、その背中が微かに震えていた。
夕陽が横顔を照らし、琥珀色の瞳に決意の光が宿っていく。
「……リエルのダンジョンに、挑みたい」
ラトちゃんはなんで、そう思ったのだろ?
そう考えると、今でもはっきりしないな~。
リエルのダンジョンでは攻略者にどんな願いでも一つ、リエルが叶えてくれるのだと言う話は既に知ってた。
世界でもトップクラスに有名なダンジョンだもんね。
けどその願いのために、このダンジョンに行きたいと思わったわけではないんだと思う。
だって叶えたい願いなんて、このときは思いついてもなかったし。
けれど多分、いや間違いなく、父親が原因だよね。
ラトちゃんのパパがどんな存在なのか、ラトちゃんはよく知らない。
色々ギルドマスターに教えてもらったし、ママにもいっぱい語られた。
それでも実感がない。
いまいち掴み切れない。
うん、よく分かんないんだ。
けどね、知りたいって思った。
パパがどんな思いでそのダンジョンに挑み、敗れたのか。
パパが最後に見た景色がどんなものだったのか。
もしかしたらまだ生きててダンジョンの中に……
いや、それは夢を見すぎかな。
それでもパパの仇は取ってあげたいじゃん。
危険だとか、困難だとか、そんなこと分かってた。
けどママがあれほど愛した相手がどんな人だったのか。
ラトちゃんのパパがどんな人物だったのか。
このダンジョンに挑めばすべて理解できる……
何故かそんな気がした。
「ラトちゃんたちって、今や大陸最強の冒険者パーティでしょ?王国の依頼も、魔王軍との戦いも、どんな困難な任務だって完璧にこなしてきたじゃない。ラトちゃんたちの実力なら、きっとリエルのダンジョンだって攻略できるよ。他の誰にもできなかったことを、ラトちゃんたちならできるんだよ」
当時のラトちゃんも、何となくそんな意思が分かってた。
自分の思いが、心がどの先を示しているのか理解してた。、
だから指先でテーブルを軽く叩きながら、語調に自信が戻ってくる。
「だから……お願い。ラトちゃんの我儘を聞いてくれない?」
そんな滅茶苦茶な我儘。
未だかつて、誰しもが攻略できていないダンジョン。
生還者は0。命を投げうった片道切符。
その発言はまるで、皆に一緒に死んでほしい――
そういっているのと同じだった。
だってのに――
「何言ってるんだ、ラト。お前が行きたいなら行く。当たり前だろ」
「そうっすよ!ラトにこれまでどれだけ、支えられてきたか分かんないっすもん」
「ええ。あなたの願いを叶えるのは、私たちの義務よ」
三人は当然のように、受け入れてくれた。
ギルドマスターの執務室に向かう廊下で、四人の足音が石床に響く。
扉をノックする音が二回、静寂を破った。
執務室に入った時、赤髪のギルドマスターは書類に目を落としたまま、羽ペンを走らせていた。
「リエルのダンジョン攻略を――」
その言葉が告げられた瞬間、羽ペンが止まる。
ギルドマスターの鋭い視線が四人を見回し、特にラトちゃんの表情を注意深く観察していた。
机上の書類が風もないのに僅かに震え、魔力の波動が室内に漂う。
「正気か」
最初の反応は予想通りだった。
しかし四人が引き下がる気配を見せないことを察すると、ギルドマスターの表情が次第に変化していく。
アンドラの静かな説得、カントの力強い決意表明、ベリーの論理的な分析――
それらが重なり合い、室内の空気を徐々に変えていった。
結果的に――
「……分かりました。あなたたちの絆と実力なら、もしかしたら……。正式な依頼として、リエルのダンジョンの攻略を許可します」
★
数日後の朝、四人は竜車に揺られて王都を発った。
秋の風が頬を撫で、車輪が石畳を叩く音が規則正しく響いている。
三日の道程を経て、深緑に息づく太古の森へと足を踏み入れた時、空気の密度が変わるのを全員が感じ取った。
苔むした石畳に足音が響く中、ラトちゃんの兎耳がぴょこんと立ち上がる。
「あ……ここ」
森の奥に現れた円形の神殿のような遺跡を見つめ、蜂蜜色の髪が風に揺れた。
古代文字で刻まれた魔法陣が地面に広がり、青白い光が仄かに脈動している。
「いよいよっすね」
「……準備は万全よ。魔術の準備も、装備の点検も、全て完璧。あとは私たちの実力を信じるだけ」
「俺たちなら大丈夫だ。これまでだって、どんな困難も乗り越えてきただろ?」
「そうだよ!ラトちゃんたちは最強なんだから!」
自分でそう言いながら、胸の奥で小さく震えるものがあった。
希望と不安が入り交じって、なんだかふわふわした気分。
辞めるならきっとこれが最後だった。
けど―――
「みんな、行くよ」
アンドラの深緑の髪が朝日を受けて輝き、琥珀色の瞳に鋭い光が宿る。
四人が魔法陣の中央に足を踏み入れた瞬間、世界が万華鏡のように歪み始めた。
青白い光が視界を完全に染め上げ、足元の感覚が消失していく。
時間と空間が混濁し、意識が宙に浮いているような感覚に包まれた。
転移完了――
気がつくと、四人は石造りの廊下に立っていた。
天井は高く、壁面には複雑な彫刻が施されている。
松明の炎が規則正しく並び、廊下の奥へと続く道を薄暗く照らしていた。
「ここが……リエルのダンジョンか」
「思ったより……普通?」
石の匂いと古い魔力の残り香が鼻腔を満たし、靴音が廊下に反響していく。
その時――
――!――!――!
廊下の奥から、鋭い風切り音が響いた。
「何か来るっす!」
カントの声が廊下に響くと同時に、暗闇の向こうから光る軌跡が一直線に迫ってくる。
それは魔力で形成された槍――
透明な刃先が空気を裂きながら、恐るべき速度で四人に向かっていた。
「俺が受けるっす!」
カントが前方に躍り出る。
巨大な大盾を構え、全身に防御魔術を纏わせていく。
竜人族特有の頑強な鱗が魔力の光を帯び、鉄壁の防御態勢を築き上げた。
これまで数々の戦場で、どんな攻撃も跳ね返してきた絶対的な自信。
彼がいれば、この槍は問題ない。
とりあえずこの後カントを縦に前に行進すれば――
――!!!
「が……あ……っ」
……え?
槍はカントの盾を、まるで紙を破るように貫通していた。
そしてそのまま彼の胸部を貫き、石の床まで突き刺さっている。
盾に込められた魔力の膜なんて、最初からなかったみたいに。
カントの口から血飛沫が噴き出し、巨体がゆっくりと後方に傾いていく。
胸に空いた穴から鮮血が溢れ出し、石畳を赤く染めていった。
「カント!カント―――ッ!」
ベリーの悲鳴が廊下に木霊する。
ラトちゃんたちは甘かった。
飛んでくる槍がただの槍だと……。
そう考えていたのが浅はかだった。
あの槍が纏っている邪悪なほどに、濃密な魔力を把握できていなかった。
しかし――
――!――!――!
槍の雨は止むことなく続いた。
廊下の暗闇から次から次へと光る軌跡が迫り来る。
一本、また一本と、まるで呼吸をするように規則正しく、しかし容赦なく。
カントの血が石畳に広がる音が、槍の風切り音に混じって響いている。
なんなの、この威力。
透明な刃先が魔力の光を纏い、空気を裂きながら一直線に迫ってくる。
その威力はカントを貫いたものと同様――
否、それ以上の濃密な魔力が渦巻いていた。
「みんな!ラトちゃんについて来て!固有魔術があるラトちゃんなら、この攻撃を何とかできる!信じて、ラトちゃんの後ろを走って!」
ラトちゃんは廊下の奥へと駆け出した。
足音が石畳を叩く音と共に、背後でアンドラとベリーの息遣いが聞こえてくる。
二人が着いてきてくれている――
その確信が、ラトちゃんの足取りを軽やかにした。
――!
また槍が迫る。
今度は三本同時。
それぞれが異なる角度から、まるで獲物を追い詰める狩人のように襲いかかってきた。
「止針ノ兎刻――」
琥珀色の瞳に時計の針のような模様が浮かび上がる。
これで如何なる怪我も負わない。
カントを殺すほどの一撃でも、ラトちゃんには効かない。
しかし――衝撃までは消せない。
槍が纏う魔力の余波が、止まった時間の中でもラトちゃんの小さな体を激しく揺さぶった。
胸の奥で何かが軋み、呼吸が浅くなる。
それでも足は止めない。前へ、前へと進み続けた。
石畳を蹴る音、荒い息遣い、松明の炎が揺れる音――
廊下に響くそれらの音が、次第に単調になっていく。
ラトちゃんの足音だけが、やけに大きく聞こえ始めた。
「もう少し……もう少しで抜けられる……!」
呟きながら振り返ろうとして、しかし槍の雨がまた降り注ぐ。
今度は五本。空気を震わせる轟音と共に、廊下を埋め尽くすように飛来した。
固有魔術を発動し、時を止めて躱す。
また衝撃が全身を貫き、膝が震えそうになる。
それでも進む。仲間が着いてきてくれていると信じて。
やがて――廊下の先に温かな光が見えてきた。
松明の薄暗い明かりとは違う、暖炉の琥珀色の炎。
ラトちゃんは安堵の息を漏らしながら、その光に向かって最後の力を振り絞った。
明るい居間。
足元には柔らかな絨毯が敷き詰められ、暖炉では薪が勢いよく燃え盛っている。
壁面には雅やかな絵画が飾られ、本棚には革装丁の書物が整然と並んでいた。
先ほどの殺伐とした廊下が嘘のような、心安らぐ聖域。
「やっと……着いた……みんな!」
荒い呼吸を整えながら、ラトちゃんは振り返った。
二人の無事を確認し、共に安堵の笑みを交わすために――
しかし、そこには誰もいなかった。
廊下の入口は暗闇に沈み、静寂が支配している。
アンドラの足音も、ベリーの息遣いも、もう聞こえてこない。
ラトちゃんの兎耳がぴょこんと立ち上がり、小刻みに震え始めた。
暗闇の奥を凝視すると――
そこに見えたのは。
槍に貫かれたベリーの姿だった。
長い銀髪が血に染まり、緑の瞳は既に光を失っている。
その傍らには、彼女を庇うように倒れたアンドラの姿も見えた。
深緑の髪が石畳に散らばり、琥珀色の瞳が天井を見つめている。
「あ……あぁ……」
か細い声が喉の奥から漏れた。
まただ。またこの感じだ。
幸せが絶望に変わる、この感じだ。
アンドラ――
厳しくも優しい師であり、共に数々の死線を越えた仲間。
そしてラトちゃんが、今現在一番信頼していた相手。
その彼の命も、この冷酷なダンジョンに奪われてしまった。
もしかして――パパも、このようにして……。
「仲間が死んだか。愚かしいな。しかしここに来れたと言うのは、称賛すべきことだ。久しぶりに楽しめそうだな」
乾いた声が居間に響いた。
振り返ると、暖炉の向こう側に血相の悪いマントを被った男性が立っている。
その手には長い槍が握られ、刃先から禍々しい魔力が立ち上っていた。
フードの奥で光る瞳が、ラトちゃんを値踏みするように見据えている。
「ようこそリエルのダンジョンへ。歓迎する」
男性の乾いた笑い声が居間に響く中、ラトちゃんの兎耳が警戒するように立ち上がった。
暖炉の炎が彼のマントを照らし出し、その輪郭が不気味に揺れている。
「愚昧なる小兎よ、このダンジョンの摂理を教授してやろう」
そうして彼はこのダンジョンの説明をした。
けれどこの時はよく覚えていなかった。
そんな悠々と他人の話を聞くほどの、精神的余裕はなかった。
大事な仲間を失い、ラトちゃんは再び道しるべを失っていた。
けれど彼は説明が終わった途端に、襲って来る。
そうなれば――
戦うしかなかった。
その後の戦闘はよく覚えていない。
とにかくラトちゃんは必死に生にしがみ付き、全力で敵と戦った。
そうしたことは覚えているが、その過程は覚えていない。
けど結果として――
「まさか……こんな小娘に……」
息絶える男性の傍らで、階下への石段が姿を現す。
勝負あり――されど勝利の余韻など微塵もない。
振り返れば、廊下の彼方にアンドラとベリーの骸が横たわっている。
カントもまた、既に息絶えているであろう。
もう失われた絆は二度と戻ることはない。
「あーあ。また一人になっちゃった」
言葉が虚空に消える。
仲間を死地に誘った責は、紛れもなくラトちゃんにある。
父への想慕が招いた惨劇、私淑の果てに散った尊い命。
申し訳なさという生温い語彙では到底表現し得ぬ、魂を抉る懺悔が胸奥を蝕んでいく。
虚無――
久しぶりに感じる虚無だった。
またも幸せを手放した感覚。
心にぽっかりと穴が空いた感覚。
何も得られず、残るのはラトちゃん1人。
どれだけ神様はラトちゃんを苦しませたいのだろうか……。
来なければ良かった。
我儘なんて言わなければ良かった。
こんな思いをするなら、普通に生きていた方が幸せだった。
幸せだった……のか?
けどあのときとラトちゃんが違うのは……
「止まるわけにはいかないよね」
立ち上がる足に迷いがないことだ。
虚無、絶望、何度感じても辛いものだ。
それでも2度目と3度目は違う。
もう分かってる。死ぬなんて許されない。
なら進むしかない。
階段に向かって歩み始める。
一歩、また一歩と、薄暗い石段を下っていく。
そうして2階層に向かった……
2階層では……えっと何があったんだっけ?
なんだろう。思い出せない。
本当に何かあったっけ?
深い霧に包まれた如く曖昧模糊としている。
ラトちゃん、2階層に行ったことは覚えてるんだけど……
それ以降のことは思い出せないな。
誰と対峙したのか、どんな攻防を繰り広げたのか、一切思い出せない。
いやけど、負けた。敗北した。屈した。
不思議だけどラトちゃん、それだけは覚えてる。
ラトちゃんたちなら攻略できるなんて言って、二階層を超えることすら出来なかった。
どんな相手と戦い敗れたのか知らないけど、負けたことは知ってる。
単純に戦闘で負けたのか、殺されたのか、屈服したのか、戦意を喪失したのか……
どんな形でリタイアしたのか分からないけれど、ラトちゃんは確かに二階層
その敗北の深淵。
敗北の形態すら朧気なる中、意識の彼方で響いたのは……
蒼穹より降り注ぐが如き透徹した声音であった。
「我の名は魔女リエル。第一階層を突破せし汝の力量、誠に見事であったと賞賛しよう。二階層で敗れど、その勇士、賞賛に値する。故に汝を、空席となりし第一階層の階層主兼、案内役――その座を汝に託そう」
一階層の階層主……?
「このダンジョンは斯くの如くして成立している。敗者が新たな番人となり、挑戦者を迎え撃つ。永劫回帰の理に従い、汝も階層主となる資格がある。無論、利なき契約ではない」
どこから聞こえているのか、何故ラトちゃんは聞くことが出来ているのか……
何疑問が疑問を呼べど、その声は明確に聞こえてくる。
「汝もまた、このダンジョンに願いを叶えにもらいに来たのだろう?しかし隠して敗れた。されど汝にもう一度、機会を与えよう。この階層を、千年の永きに亘り守護し続けてみよ。さすれば、必ずやこの魔女リエルが森羅万象、如何なる願いでも叶えて進ぜよう」
千年も……?
それは途方もない歳月だ。
けど守り抜けば、願いが叶えられる。
このまま諦めて死に絶えるより、その方がずっといい。
けどあれ……ラトちゃんの願いってなんだっけ。
父への憧憬か?過去への復讐心か?仲間と成し遂げる成果か?
いや、違う。違うはずだ。
ラトちゃんはそうだ、願いなんて考えてなどいなかった。
願いを叶えてもらいたいと切望し、このダンジョンに挑んだ訳ではなかった。
なら……千年も耐える言われもない。
この人生にだって一片の悔いもないんだから。
あっ――
あるじゃん!ラトちゃんあるじゃん!
叶えてない夢。そして叶えなければならない呪い。
心の奥底で蠢く真の渇望に、ようやく気づいた。
運命の相手。
紅白の縞模様なる靴下を脱がしてくれる、ラトちゃんの王子様。
母が病床で語った兎人族の宿命。その成就。
冒険者としての栄達、仲間との絆、白金等級の威名
――それらはすべて水泡に帰した。
けどラトちゃん、それらに後悔はないんだ。
ラトちゃんの心残りはただ一つ。
ママの細い指が靴下を履かせてくれた、あの夜の記憶。
「この靴下があなたを守ってくれる」と囁かれた愛の呪縛。
それは同時に、未来への道標でもあったんだ。
兎人族の娘として、1人の女として――
いつか現れる白馬の王子を待ち侘びる心。
それこそが、どれほど絶望の淵に沈もうとも、決して諦めることのできぬ希望の光。
その光だけは絶対に逃したくない。
叶えられるなら、その赤い糸に繋がれた相手に出会えるなら――
千年なんて何の苦でもない。
「ラトちゃん、そのリエルちゃんの提案。受ける」
聞こえるだけの声に、ラトちゃんはそう返答した。




