表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/40

第二十五話

―――!


鈍い音が空気を震わせ、狼の獣人の巨体が弧を描いて宙に舞う。

石畳に激突した衝撃で砂埃が舞い上がり、炎の光が舞い散る粒子を赤く染めていた。

ラトちゃんを囲む山賊たちの顔に、困惑と警戒の色が浮かぶ。

手にした武器を握り直し、円陣を組んでいた隊形が一瞬にして崩れた。


「ラトちゃん!」


ハイデお兄ちゃんの声が、炎の爆ぜる音に混じって響いた。

彼はためらうことなく、地面に這いつくばっているラトちゃんの元へと駆け寄る。

そして強い腕がラトちゃんの肩を支え、優しく抱き寄せてくれた。

その瞬間の安心感と言ったら、言葉では表せない。

張り詰めていた何かが一気に解放される。

膝の力が抜け、体重を兄の胸に預けた。

心臓の鼓動が激しく響き、それがハイデお兄ちゃんの胸板に伝わっていく。


「お兄ちゃん、よかったぁ……」


「大丈夫だ、ラトちゃん。もう、大丈夫だ。怪我はないか?どこか痛むところは?」


「大丈夫……大丈夫だよ」


彼の手が頭を優しく撫で、蜂蜜色の髪に血や汚れが付着していないか確認していた。

細い指先が頬に触れ、怪我がないことを確かめる。

その仕草の一つ一つが、言葉以上の安堵を伝えていた。

このときラトちゃんは泣いていたのかもしれない。

それも覚えていないくらいラトちゃんはこのとき安堵して、嬉しかった。

彼の手が背中を支えてくれる感触が、何よりも頼もしかった。


しかし――


周囲の空気が次第に重苦しさを増していく。

山賊たちの視線が、二人を取り囲むように集中していた。

彼らの手にする武器が炎の光を反射し、不気味な輝きを放っている。

靴底が石畳を擦る音が聞こえ、じりじりと包囲網が狭まっていく気配。


「お兄ちゃん……あの人たち、すごく強いよ。特に、今蹴り飛ばした獣人」


「あぁ分かってる。あれで倒したなんて思ってないさ」


その時、石畳を擦る音が響いた。


蹴り飛ばされた狼の獣人が、ゆっくりと立ち上がる。

火の明りが彼の灰色の毛皮を照らし出し、その筋肉の隆起が影となって浮かび上がった。首を左右に振りながら、まるで何事もなかったかのように体勢を整える。


「これはこれは、いきなり蹴ってくるとはなぁ。兎人族は挨拶もできないかぁ?人と人が会ったら、先ず挨拶。これが基本じゃねぇか?それも守れねぇとは、飛んだ蛮族ときたものだな」


琥珀色の瞳がハイデお兄ちゃんを見据え、口元に獰猛な笑みが浮かんでいた。

白い牙が月光を反射してきらめき、琥珀色の瞳に闘志の炎が宿っている。

彼の全身から立ち上る魔力の波動が、周囲の空気を振動させていた。


「挨拶も礼儀も知らず、僕らの村を襲ったのは君たちだと思うが?礼儀も知らぬ蛮族とは、まさに君たちのことだろ?」


「蛮族ぅ?ははっ、ばんってのは教養や文明がないこと、つまり魔術の知識もろくになく、戦闘能力もない愚か者に与えるべき勲章だ。まさに、お前らのことじゃねえか。だってお前ら、俺らにこんなにも簡単に殺されているんだからなぁ!はははっ!」


ハイデお兄ちゃんの表情が変わる。眉間に刻まれた皺が深くなり、唇が一文字に結ばれた。

相手の異常な頑健さを目の当たりにし、この戦いが容易なものではないことを悟る。


「それによぉ、俺は挨拶をしたぜ!お前らの悲鳴で、だけどなぁ!ほんとぴぃぴぃ泣いてよぉ!なのに立ち向かってくんだから、ほんと飛んだ馬鹿の集団だよなぁ!そこに死んでる二人もだっけなぁ?特に弱くて愚かだったけどな!」


ハイデお兄ちゃんの懐に手を伸ばす動作が、流れるような一連の動きで完成された。

黒い金属の光沢が月光を反射し、銃口が獣人の胸部を正確に狙う。引き金を引く指に力が込められ、火薬が炸裂する瞬間まで時間が凍りついたかのようだった。


――!


轟音が静寂を引き裂いた。火花、硝煙。

弾丸が空気を切り裂きながら、獣人に向かって一直線に飛んでいく。

その軌跡が魔力の光の中で銀色に輝き、必中の軌道を描いていた。


しかし――


「なんだぁそのおもちゃは?そんなんで俺を傷つけられるとでも思ったのか?」


狼の獣人の右手が、まるで虫を払うかのように軽やかに動いた。

その瞬間、空中で弾丸の軌道が歪み、明後日の方向へと逸れていく。

石畳に弾け飛んだ弾丸が火花を散らし、魔力が空間に飛び散り霧散した。


彼が手に纏った魔力。

その魔力で、銃を完全に無効化した。


ラトちゃんの喉が、乾いた音を立てる。

たしかに銃の威力は、サトウの手記で語られていたように威力は不十分だ。

けれど改良に改良を重ね、その威力は生成する魔弾の魔法に匹敵、いや超えるほどに達していた。それが片手で一振り……。

その実力は未知数に等しい。


「まさに愚かじゃないか。蛮族の称号をやはり、お前に送ろう。この程度でこの俺を傷つけれると思ったとは、片腹痛い。そのおもちゃがなんなのか知らんが、宝石魔法の類か?珍しい魔術をわざわざ見せてくれるとは、なんかのサービスか?」


「……」


ハイデお兄ちゃんは答えることなく、再び銃を構えた。

火薬の匂いが鼻腔を刺激する中、指が再び引き金を引いた。

轟音が夜の静寂を破り、硝煙が立ち上る。


――!――!――!


装填された弾丸が次々と放たれ、それぞれ異なる角度から獣人を狙い撃つ。

銃口から立ち上る硝煙が白い霧となって宙に舞い、火薬の刺激臭が鼻腔を刺した。

それでも――


「おいおい、会話もできねぇのか?あ?」


獣人の口元に、嘲笑が浮かんでいた。

右手を軽やかに振るう度に、弾丸が虫を払うかのように逸れていく。


「愚かであれど、会話も成り立たないとは驚いた。いや対話が通じると期待していた俺が馬鹿だったのかもな?経験は愚か者の師と言う。お前にも痛みと死を以て、学んだ方がいいのだろうな」


四発目、五発目――

その全てが同じ運命を辿り、石畳に弾け飛んで火花を散らした。


「……っ、これほどか」


ハイデお兄ちゃんの手が一瞬止まる。

空になった銃身から薄い煙が立ち上り、その白い筋が風に流されて消えた。

琥珀色の瞳が鋭く細められ、山賊たちの配置を素早く確認する。

圧倒的な数的不利、そして相手の異常な実力――

その全てが、この戦いの結末を暗示していた。


ハイデお兄ちゃんはこの時……


全てを察したのだ。


「ラトちゃん、君だけでも逃げるんだ。いいね?」


ハイデお兄ちゃんが振り返り、低い声で呼びかけた。

その声は静かで、しかし有無を言わさぬ強さを含んでいた。

けどラトちゃんの手が反射的に兄の袖を掴み、その指先に力が込める。


「嫌!そんなの嫌!じゃあハイデお兄ちゃんはどうなるの?そんなの……そんなの嫌だよ!ラトちゃんも戦う!ラトちゃんだって強いんだよ!二人なら……二人ならきっと……!」


小さな手がハイデお兄ちゃんの袖を掴み、離そうとしない。

必死の訴えが、炎の爆ぜる音に混じって響いた。

兎耳が震え、琥珀色の瞳に涙が浮かぶ。


しかし、ハイデお兄ちゃんは穏やかな笑みを浮かべた。

それは、これまでラトちゃんを慰めてくれた時と同じ、優しさに満ちた表情。


「ラトちゃん、分かったね?」


ハイデお兄ちゃんはそれだけ言った。

それだけに……


全てが込められていた。


ハイデお兄ちゃんが足元に魔法陣を展開し始めた。

青白い光が石畳の上に複雑な幾何学模様を描き、魔力が渦を巻くように収束していく。

その輝きが彼の足を包み込み、筋肉に爆発的な力を注入していく。

纏う魔力が空気をぴりつかせ、空間を歪ませた。


「獣人君、浅瀬に仇波。この意味が、君に分かるかい?」


「なんだ~?おもちゃ遊びの次は、言葉遊びか?そんな言葉が分かって、これからどうなるっていうんだ?」


「僕を蛮族と称する割には、君はこの僕より学がないようだね?」


「あぁ?」


「そう喚くな。さっきの言葉の意味はな、愚か者ほど、騒がしいと言う意味だ。まさに君にふさわしい諺だろう?」


そして――


大地を蹴る音が、雷鳴のように響いた。

砂埃が舞い上がり、視界を炎の光すら遮られていく。

その煙幕の中を、栗色の髪が風を切って駆け抜けていく。

ハイデお兄ちゃんの影が宙に舞い、狼の獣人へと一直線に向かっていった。


その魔力の波と、視界を遮るほどの砂埃。

それに乗じてラトちゃんの足が、後ろ向きに歩み始める。

一歩、また一歩と、森の暗がりへと後退し――

そして走り出す。


胸の奥で何かが軋むような音を立て、喉の奥に苦い味が広がった。

不満と無力感が胸の奥で渦巻いていた。

なぜ自分はこんなにも弱いのか。

なぜ大切な人を守ることができないのか。

その答えのない問いが、頭の中で何度も反響していた。


それでもただただ振り返らずに済むよう視線を地面に落とし、走り続けた。

足音が石畳から土の上へと変わり、木々の間を縫うように進んでいく。

いつの間にか日は沈み、森は暗闇に包まれている。

その中で枝葉が頬を撫で、夜露が肌を濡らしていく。

それでも足は止まることなく、森の奥へ奥へと向かっていた。


このときは……正直訳も分からなかった。


けど、うん。やっぱり

やはり――ハイデお兄ちゃんは賢い人だった。


今振り返っても、あの時の彼の判断は完璧だったと思う。

瞬時に敵の実力を見抜き、全滅という最悪の結末を避けるため、せめてラトちゃんだけでも逃がそうとした。

感情に流されることなく、冷静に状況を分析し、最善の策を選択する――

それができるのは、本当に優秀な戦士だけだった。


それに今なら分かる。

このダンジョンで百年間、数多の挑戦者を見てきた経験から言えば、あの狼の獣人は間違いなく指折りの実力者だった。

彼を取り巻いていた山賊たちも、決して格下の相手ではない。

相当な手練が揃った集団だったのだ。

もしかすると、今のリオちゃんでも勝てるかどうか怪しいほどの強者たち――

そんな相手に、当時のラトちゃんやハイデお兄ちゃんが勝てるはずもなかった。


けれど、その時のラトちゃんにはそんな冷静な分析などできるはずもない。

ただただ訳も分からず、兄の命令に従って走り続けるしかなかった。


根っこに足を取られそうになりながらも、兎人族の跳躍力を活かして森の奥へと駆けていく。

月光が木々の隙間から差し込み、足元の落ち葉を銀色に染めていた。

呼吸が荒くなり、心臓の音が耳の奥で響いている。


その心臓の音を邪魔するように、銃声が聞こえる。

金属同士がぶつかり合う澄んだ響き。魔力と魔力が激突する際の轟音。

大気が振動し、樹木が軋む音が森全体を震わせる。

突風が背中を押し、その余波だけでラトちゃんの小さな体がよろめいた。

まるで嵐の中にいるかのような凄まじい魔力の奔流が、遥か後方で渦巻いているのが分かった。


その音が聞こえなくなるまで、ラトちゃんは走り続けた。

足が棒のようになり、肺が焼けるように痛んでも、止まることはできなかった。

木の根に躓き、膝を地面に打ち付けても立ち上がり、再び走り続けた。


しかし――

ふと、足が止まった。


大きな樫の木の根元で、ラトちゃんは立ち尽くしていた。

月光が木漏れ日となって地面に斑模様を描き、夜露が肌を冷たく濡らしていく。

逃げろと言われたが、一体どこに逃げればいいのか。

その疑問が、ようやく意識の表面に浮かび上がってきた。


帰るべき家は炎に包まれて消え去り、愛する家族も友人たちも皆殺しにされた。

叔母さんも叔父さんも、もうこの世にはいない。

そして恐らく――ハイデお兄ちゃんも。


行く場所もなく、行くあてもない。

頼れる人も、助けてくれる人も、もう誰もいない。

そんなラトちゃんは、一体どこに逃げればいいのだろうか。

生きる場所も、生きる理由も、全てを失ってしまった。

樫の木に背を預け、膝から崩れ落ちる。

冷たい土の感触が頬に触れ、涙が地面に染み込んでいく。


どれだけそこにいたのか、自分でも分からなかった。

時間の感覚が曖昧になり、現実と悪夢の境界が曖昧になっていく。

ただ月が少しずつ位置を変えていくのを、ぼんやりと眺めていた。


そんな時――

後ろから足音が聞こえてきた。


月光が樫の葉を縫って地面に落ち、斑模様を作る中に、複数の足音が次第に明瞭となった。枝を踏み折る音、湿った落ち葉を蹴散らす音。

ゆっくりと振り返ると――そこに立っていたのは、あの狼の獣人だった。


月光に照らされた灰色の毛皮が銀色に輝き、琥珀色の瞳がラトちゃんを見据えている。

その口元には勝利者の余裕を物語る、獰猛な笑みが浮かんでいた。

彼の周囲には他の山賊たちも控えており、松明の炎が木々の間で不気味に揺れている。


「ったく、こんな森の奥まで逃げやがって。どれだけ俺に手間をかけさせるつもりだぁ?たった一匹の小さな兎ごときによぉ。けど――ははっ、貴重な金になる実を、俺が逃すわけねぇだろ?」


獣人の声が夜の静寂を破り、木々の間に不気味に反響した。

彼の白い牙が月光を反射してきらめき、涎が糸を引いて顎から垂れ落ちる。

ラトちゃんの膝が震え、樫の木の粗い樹皮に爪が食い込んだ。


「あ、あっ……」


か細い声が喉の奥から漏れる。

言葉を紡ごうとするが、恐怖で舌が上手く回らない。


「あぁ?なんだ?驚いて声も出ねぇのか?まさか追いつくとは思わなかったのか?ははっ、愚かだなぁ……やっぱりお前ら兎人族は。俺は狼の獣人だぞ?気配探知は誰にも負けねぇ自信があるんだよ。お前がどこまで逃げようが、魔力の残り香から追うことが出来る」


「あの……お兄ちゃんは!ハイデお兄ちゃんはどうしたの?まだ戦ってるの?それとも……逃げられた?」


「え?お兄ちゃん?ははっ、はははっ!逃げられた、だと?滑稽っ、滑稽すぎるだろ。俺を笑わせたいのか?あははははははははっ、そうか。ふふっそうかそうか。会いたいのか?ならほら、会わせてやるよ」


狼の獣人がゆっくりと腰の袋に手を伸ばし、何かを取り出した。

月光に照らされたそれは――


栗色の髪を湛えた、見慣れた横顔。

閉じられた瞼、蒼白になった頬、そして首から下が無残にも失われた――

ハイデお兄ちゃんの生首が、獣人の手の中にぶら下がっていた。


「ぇ……」


世界が音を失った。


風の音も、虫の鳴き声も、自分の心臓の鼓動さえも、全てが沈黙の中に沈んでいく。

視界の端が歪み、まるで水中にいるかのような感覚に包まれた。

胸の奥で、何かが乾いた音を立てて砕け散る。

心の支柱が、理性の糸が、生きる意味そのものが――

ぽきり、と音を立てて折れていく。


「どうした?大好きなお兄ちゃんに合えたんだぞ?もっと嬉しい表情でも浮かべたらどうだ?なぁ?なぁ!あはははははははははは!」


獣人の声が遠くから聞こえてくるようだった。

彼の言葉が耳に入っても、その意味を理解することができない。

頭の中が真っ白になり、思考が停止している。

風が葉を揺らす音、獣人たちの嘲笑、松明の爆ぜる音――

全てが水の底に沈むように聞こえなくなる。


「いい面してるじゃねえか。絶望に歪んだ顔ってのは、見てて飽きねえもんだ。涙も言葉も出ない、分かる、分かるぞ俺は。俺はそういう奴の顔をいっぱい見て来た。けどよぉ、何度見てもその顔を見たときの興奮ってのは、たまんねぇな。ははっ」


言葉が頭上を素通りしていく。

獣人の嘲笑も、仲間たちの野卑な笑い声も、全てが意味を持たない。

いやこの命自体に、何の意味があるのか。

この苦痛に、何の意味があるのか。

この悲しみに、何の価値があるのか。


愛する人がこんなにも簡単に殺され、幸せだった日々がこんなにも呆気なく奪われて――

母親の温かな手も、叔母さんと叔父さんの優しい笑顔も、ハイデお兄ちゃんの頼もしい背中も、もうこの世界には存在しない。

愛した全てが失われ、残されたのは絶望と苦痛だけ。


あ、死にたい。


今すぐ死にたい。

死にたい。死にたい。死にたい。


その言葉が、ラトの意識の中で無限に反響した。

鐘の音のように、波紋のように、血管を流れる血液のように、絶え間なく繰り返される。

樫の幹に背を預けた小さな体が、微細に震え始めた。

爪が樹皮に食い込み、十本の指先が白くなるまで力を込める。


死にたい、死にたい、死にたい。


生きている意味がない。この苦痛に満ちた現実に留まる理由がない。

愛する全てを失い、帰るべき場所も守るべき人ももういない。

それなのになぜ、心臓は動き続けるのか。なぜ肺は空気を求め続けるのか。


その時――


月光が雲間を縫って差し込み、ラトの足元を照らし出した。

そこに見えたのは、紅白の縞模様をした靴下だった。

母親が最後の力を振り絞って編み上げた、愛の証。

その繊維の一本一本に込められた祈りが、夜露に濡れて月光を反射している。

風が梢を揺らし、落ち葉が舞い散る中で、記憶の扉が静かに開いた。


「決して諦めないで、生き続けるのよ。ママは分かる、ラトちゃんなら負けないわ。それにこの靴下があなたを守ってくれるから」


母親の声が、遥か昔の温もりと共に蘇る。病床で語られた最後の言葉。

か細い指先が靴下を履かせてくれた時の、震える手の感触。

その記憶が唐突に頭を駆け抜ける。


こんなに死にたいのに……ママは生きろと言うの。

靴下が守ってくれるなんて、なに。

守んなくていい。なのに守るだなんて……。

あ~、そうか。この靴下がある限り、ラトちゃんって死ねないんだ。


だってこの靴下を脱がしてくれる相手が見つけるのが、ラトちゃんの使命だもんね。

この靴下の意義だもんね。兎人族の宿命だもんね。

種を残すための、一番大事なことだもんね。

それって……まるで呪いみたい。


ラトの呼吸が浅く、早くなった。

胸が上下に細かく動き、喉の奥で小さな音が漏れる。

死にたい、でも死ねない。

絶望したい、でも諦められない。

苦しみから逃れたい、でもこの靴下が決してそれを許さない。

母親の愛が、今は鎖となって彼女を現実に繋ぎ止めている。


愛がとか靴下がとか、そこまで言うならこの現実を変えて欲しいものだ。

けれど全てが夢のように遠くありながら、そして残酷なまでに現実だった。

あ~苦しい。

苦しい苦しい苦しい。

苦しすぎて……


――笑えてきた。


「あは」


おかしい。何もかもが、おかしい。


「あはははは」


こんなにも苦しいのに死ねない現実が……

こんなにも絶望しているのに生き続けなければならない運命が……

滑稽で……

本当に滑稽で滑稽で滑稽で滑稽で……

たまらなく可笑しかった。


「あはははははははははははははははははは」


なんて馬鹿らしい人生なのだろう。

全てが無意味で、全てが理不尽で、それでも生き続けなければならないだなんて。


「おいおい、頭がおかしくなったんじゃねぇか?」


彼らの顔に困惑の色が浮かんだ。

松明を持つ手が微かに震え、一歩、また一歩と後ずさりしている。

狼の獣人でさえも、眉をひそめてラトちゃんを見つめていた。


「ったく、怯える顔は好きだが、ここまで行くと醜悪だな。ちっ、もう殺すか。こんなんになったら、毛皮以外の価値はねぇ。そのまま笑いながら、死ね」


獣人がゆっくりと腰の剣を抜き放った。

月光を受けて銀色に輝く刀身が、夜の闇を鋭く切り裂いている。

彼の足音が落ち葉を踏み締めながら、一歩、また一歩とラトちゃんに近づいていく。

剣を頭上高く振り上げ、魔力を刀身に纏わせていく。


「じゃあな、哀れな子ウサギ!」


剣が風を切って振り下ろされた。

だというのに―――


「……!?」


金属が何かに激突したような、鋭い音が森に響いた。

剣の刀身がラトちゃんの首筋に触れた瞬間――停止した。

まるで目に見えない盾に阻まれたかのように、透明な壁に阻まれたかのように、剣は一ミリたりとも進まない。


「……なんだ?」


獣人の瞳が細くなる。

より強く魔力を込め、剣に体重をかけて押し込もうとする。筋肉が盛り上がり、腕の血管が浮き出るほどの力を込めても、刀身は一ミリたりとも動かない。まるで時間が止まったかのように、剣先がラトちゃんの肌から数ミリの位置で固定されていた。

これ以上近づけず、肌には傷一つつかない。

まるで時間の流れそのものが、彼女を守る盾となっているかのように。


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」


狂気の笑い声が木々の間に反響し、夜の静寂を完全に破り尽くす。

小さな体が震え、涙が頬を伝い落ちながらも、口元は歪んだ笑みを浮かべ続けた。

兎耳が異常なほど激しく震え、琥珀色の瞳に宿った光が狂気そのものへと変貌していく。

微細な時計の針のような模様。

まるで懐中時計の文字盤を映し込んだかのように、十二の刻みと二本の針。

そして唇から、言葉が零れ落ちた。


「固有魔術――止針ノ兎刻」



それから先の記憶は――曖昧だ。

今でも良く思い出せない

深い霧の中を歩いているような、輪郭のぼやけた断片的な映像だけが残っている。

なぜその言葉を口にしたのか、なぜその力を手にしたのか、それすらも分からない。

ただその瞬間から、ラトちゃんはその能力を認識し、扱えるようになったのだ。

まるで生まれた時から身についていたかのように、自然に、当然のことのように。


次に意識がはっきりした時――

ラトちゃんの足元は、血の海に染まっていた。


死体。死体。死体。

狼の獣人の巨体が地面に横たわり、その顔は原形を留めないほどに潰れている。

他の山賊たちも同様に、それぞれが無残な死体となって森の中に散らばっていた。

逃げようとした者もいたのだろう。泣き叫んだ人もいただろう。

木々の間に血痕が点々と続き、その先には引きずられたような跡と共に、息絶えた死体が転がっている。


そんな惨状だと言うのに―――


自分の口角は常に上がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ