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第二十四話

あの頃の記憶を辿ると――

まず最初に浮かぶのは、小さな兎人族の集落の光景だった。

緑豊かな丘陵地帯に点在する、のどかな村落。

木造の小さな家屋は皆一様に質素で、しかし丁寧に手入れされた花壇や菜園が、住人たちの慎ましやかな暮らしぶりを物語っていた。

村の中央を流れる小川のせせらぎが、朝から晩まで優しい音色を奏で続けている。

そんな穏やかで牧歌的な風景の中に、ラトちゃんの小さな家があった。


一軒家と呼ぶには些か手狭な、木造の平屋建て。

壁には蔦が這い、小さな窓辺には母親が育てているラベンダーの鉢植えが並んでいた。

家の周りには小さな庭があり、そこで毎日のように跳び回って遊んでいたものだった。

蹴ってできた穴でどれだけ深いものが出来るかとか、蔦にぶら下がって妖精ごっこしたりとか……

今思えば随分と無謀な遊びをしていたものだ。


その家で、ラトちゃんは母親と二人きりで暮らしていた。

父親は――ずっと帰ってきていない。

村一番に強くて、有名なギルドの冒険者で、数々の功績をあげていたらしい。

ラトちゃんの記憶に残る父親の姿は、出発前に抱きしめてくれた温かな腕の感触と、「必ず帰ってくるからな」という優しい声だけ。

それ以来、もう何年も音沙汰がない。

きっと――恐らく、もうこの世にはいないのだろう。

母親もそう思っていたし、ラトちゃんもなんとなく分かっていたから、帰りを待つというよりは、思い出の中の人という感じだった。


それでも母親と二人で、決して裕福ではないけれど、不自由なく暮らしていた。

不自由はなかった。

けれど母親は――


体がとても弱かった。


一日中ベッドの上で過ごすことも多くて、季節の変わり目には必ず熱を出してしまうし、少し無理をするとすぐに倒れてしまう人だった。

それでもラトちゃんのことを心から愛してくれて、どんなに体調が悪くても、ラトちゃんが甘えたいって言えば……


「ラト、おいで」


ベッドから母親の弱々しい声が響き、ラトちゃんは小さな足音を立てながら駆け寄った。

薄い毛布にくるまった母親の隣に潜り込み、その温かな胸に頭を預ける。

母親の細い腕がラトちゃんの小さな体を優しく包み込み、蜂蜜色の髪を愛情深く撫でてくれる。


「ラトがママの側にいてくれるだけで、どんな病気も治っちゃいそうよ」


いつも母親は笑いかけてくれた。

そんな母親のことが好きで好きで好きで……たまらなかった。

大好きな母親の心臓の音を聞きながら眠りにつく――

それがラトちゃんの一番大好きな時間。


母親の細い指がラトちゃんの髪を優しく撫でてくれる感触。

熱に浮かされている時でも、ラトちゃんが「ママ」って呼びかけると、必ず微笑んで応えてくれた。

その笑顔はラトちゃんにとって、世界で一番美しいもの。


そんな幸せな日々――

その日々を語る上で、お兄ちゃんの存在はとても大きかった。


――コンコン。

玄関の扉を叩く軽やかな音と共に、いつものように彼がやって来る。


「ラトちゃーん、叔母さーん、お邪魔しまーす」


明るい声と共に現れるのは、ラトちゃんよりも一回り年上の兎人族の青年。

栗色の髪に、琥珀色の瞳。背は高く、体格もがっしり。

そしてラトちゃんと同じような兎の耳をぴょこんと立てた、とても人懐っこい笑顔。

両手には籠いっぱいの果物や野菜、時には焼きたてのパンの香りを漂わせながら、彼はいつも我が家を訪れてくれた。


「あら、また沢山持ってきてくれたのね。いつもありがとう」


ベッドから身を起こした母親が、申し訳なさそうに微笑みかける。


「いえいえ。叔母さん、体調はいかがですか?」


「ありがとう。おかげさまで今日は調子がいいわ」


「良かったです!ほら、ラトちゃん、今日は甘い林檎を持ってきたよ。一緒に食べよう」


「わーい!ハイデお兄ちゃん大好き!」


幼いラトちゃんが彼に飛びつくと、彼は優しくラトちゃんを抱き上げてくれる。

そんなラトちゃんたちを見つめる母親の表情は、いつもとても穏やかで幸せそうだった。


実は――ハイデお兄ちゃんと呼んでいる青年は母親の姉……

つまりラトちゃんの叔母さんの息子だった。

血縁関係で言えば従兄弟ということになるが、ラトちゃんにとっては本当のお兄ちゃんのような存在だった。


母親が働けない我が家は、当然ながらお金に困っていた。

父親の残した僅かな蓄えも、母親の治療費や日々の生活費で底を尽きかけていた頃――

そんな状況を見かねて、叔母さんの家が面倒を見ると申し出てくれたのだ。


叔母さんは商人と結婚して、村でも指折りの裕福な家庭を築いていた。

使用人を何人も雇っていて、身に着けている服も素材からして違う豪華なもの。

それでも、病気の妹と姪っ子を見捨てるなんてことは一度もなくて……

母親の治療費からラトちゃんの食費、着る物、全部全部面倒を見てくれていた。


そんな叔母さん夫婦は本当に人格者で、決して恩着せがましいことは言わず、まるで当然のことのように母親とラトちゃんを支えてくれた。

それでいて、決して恩着せがましいことは言わず、むしろラトちゃんたちの方が気を遣わないよう、いつも気さくに接してくる。


母親と叔母さんの関係もとても良好で、姉妹で支え合って生きている感じだった。

ラトちゃんも叔母さん夫婦のことが大好きだった。

本当に優しくて、温かくて……

あの頃のラトちゃんにとって、叔母さん夫婦とハイデお兄ちゃんは家族同然の存在だったのだ。


そんな叔母さん一家との関係もあって、ことある事にハイデお兄ちゃんは母親の様子を見に、我が家を訪れてくれていた。

そしてラトちゃんの遊び相手にもなってくれたのだ。


「ラトちゃん、今日は何して遊ぼうか?」


母親が体調を崩してベッドに伏せっている日は特に、ハイデお兄ちゃんが長い時間をラトちゃんと過ごしてくれた。

小さな庭先で追いかけっこをしたり、村の外れまで散歩に出かけたり。時には小川のほとりに座って、彼が持参した絵本を一緒に読んだりもした。

栗色の髪が風に揺れながら、優しい声で物語を読み聞かせてくれる彼の横顔を、ラトちゃんはいつも見上げていた。


そんなハイデお兄ちゃんからは、本当に多くのことを教えてもらった。


「ラトちゃん、こうやって魔力を指先に集中させるんだよ。ほら、感じるでしょう?温かくなってきたでしょう?」


「うん!すごい!指先がぽかぽかする!」


「そうそうさすがだねラトちゃん。やっぱりラトちゃんは戦士の血を引く一族だね。こんなにも早く魔力の感覚を覚えてしまうんだから」


「戦士の一族……?」


「そうさ。兎人族とは戦士の一族。僕らの先祖は戦闘で勝利を掴み、一族を守り続けて来た。戦闘の才能に恵まれ、どんな困難にも誇り高く立ち向かい続ける。それが僕らなのさ」


「かっこいい!」


「あはは、そうだろう。今の生活からはあんまり考えられないけどな。けれどそれでも誇りは決して忘れてはいけない。そのための努力は怠ってはいけないよ」


「分かった!ラトちゃんもっと強くなりたい!」


「いい心意気だ。けど戦士とは強いだけじゃない。頭も使えるようにならないと」


「頭も~?あ、それならラトちゃん、早くも字が読めるようになりたい!そしたらラトちゃんもお兄ちゃんみたいに読み聞かせができるようになるでしょ!ママにしてあげたいの!」


「はははっ、そうかそうか。ラトちゃんは勉強熱心だね。じゃあね……」


彼が木の棒で地面に描いた文字を、ラトちゃんは一生懸命真似して書こうとする。

最初はぐちゃぐちゃだった文字も、彼の根気強い指導のおかげで次第に形になっていった。


基本的な体術から始まって、文字の読み書き、魔術の基礎理論まで――

今身についている戦闘技術のほとんどは、ハイデお兄ちゃんから教えてもらったと言っていい。

読み書きができるようになったのも、魔術が使えるようになったのも、全て彼のおかげだった。

教育機関のない田舎の村で暮らしていたラトちゃんにとって、彼は兄であり、同時に先生でもあった。


そんな兄の教えの中でも、特に印象深かったのが――

銃という武器との出会いだった。


「ラトちゃん、これを見てごらん」


ある日、お兄ちゃんが小さな黒い金属の塊を取り出した時のことを、今でも鮮明に覚えている。

それは見たこともない不思議な形をした道具で、まるで短い筒のような形状をしていた。


「これは銃って言うんだ。少ない動作で魔力も使わず、遠くの敵を奇襲できるすごい武器なんだよ。勇者サトウっていう偉大な英雄が伝えた武器でね……実用性には欠けるんだけど、見てよこのフォルム!格好いいだろ?」


彼の琥珀色の瞳が興奮に輝きながら、銃の魅力を存分に語ってくれる。

どうやら彼は勇者サトウの大ファンで、その英雄について調べているうちに、この武器のことを知ったらしい。

部品の一つ一つから、火薬の調合方法、弾丸の作り方まで、彼の知識は驚くほど詳細だった。


正直ラトちゃんはその銃とか言う武器に対して興味はなかった。

けれど……恐ろしいものだ。

毎日のように魅力を語られているうちに、いつの間にか好きになっていた。

お兄ちゃんの熱っぽい説明を聞いているうちに、ラトちゃんの中でも銃という武器への憧れが芽生えていったのだ。


もしかしていたらそう仕向けるために、ハイデお兄ちゃんはいつも話していたのかもしれない。

刷り込みって恐ろしい。

なんて今なら思うけれど、そんな銃が今や一番の愛武器なんだから人生分からないものだ。


結局その刷り込みのせいと言うべきかおかげというべきか……

ラトちゃんは幼少期にも関わらず、簡単な銃の作成ができるほどにのめり込んでいた。

村の鍛冶屋に頼み込んで金属の加工を教わり、ハイデお兄ちゃんと一緒に魔石の調合を研究し、試行錯誤を重ねながら自分だけの銃を作り上げていく。

小さな手で部品を組み立てながら、完成した時の達成感は何物にも代え難いものだった。


そんなハイデお兄ちゃんに多くの教えを受けながら成長していく日々。

その時間は本当に貴重で、ラトちゃんにとってかけがえのない宝物だった。


きっとそう、この日々が充実していたのは……

隣に居たのがハイデお兄ちゃんだからなのだ。

きっと他の他人であったらこんなことにはなっていない。


ハイデお兄ちゃんが優しくて、賢くて、何でも知っていて……

厳しい中にも愛情があり、楽しい中にも学びがある。

お兄ちゃんほど賢い人を、ラトちゃんは見たことがない。

充実した日々を送ることができたのも、すべて彼のおかげだった。


けれど――

そんな幸せな日々に、やがて暗い影が差し始めた。


「ラト……ママ、もうあまり長くないかもしれないの」


母親の体調が、目に見えて悪化し始めたのだ。

これまでも体が弱いとは言われていたけれど、今度は明らかに違った。

一日中起き上がることができず、食事もほとんど喉を通らない。

ラトちゃんとお兄ちゃん、そして叔母さん夫婦が総出で看病に当たったけれど、母親の体調は悪化するばかりだった。


それでも母親は、最後の力を振り絞って、あの紅白の縞模様の靴下を完成させてくれた。


「ラト、覚えておいて。兎人族は戦士の一族よ。どんなに困難な状況でも、決して屈服してはいけない。だから決して諦めないで、生き続けるのよ。ママは分かる、ラトちゃんなら負けないわ。それにこの靴下があなたを守ってくれるから……」


か細い声でラトちゃんに語りかける母親の手は、もう震えていた。

それでも愛情を込めて編み上げられた靴下を、大切そうにラトちゃんの足に履かせてくれる。

その靴下は今でもラトちゃんの足を包んでいる、母親からの最後の愛の証。


そして、その数日後。

母親は静かに息を引き取った。

最後の言葉がなんだとか、そんなこと覚えてもいない。

今でも覚えているのは、さっきの靴下をくれたときの言葉だけだ。

遺言を残して死ぬだなんて、物語だけの話。

実際は死とは、生命の最後とは……喋る気力もなく、ただただ静かに息を引き取るのだ。


「ママ!ママ!起きて!起きてよ!」


何度呼びかけても、もう返事は返ってこない。

母親の胸に顔を埋めて、もう動くことのない体に縋りついた。

涙が止まらなくて、鼻水も止まらなくて、でもそんなことはどうでもよかった。

ただ起きて欲しいと、また喋りたいと、あの幸せな日常に戻りたいと叫び続けた。

けれどどれだけ揺さぶっても、どれだけ呼びかけても、母親は二度と目を開けてくれなかった。


「ママ……ママぁ……ああああああああ」


世界が真っ暗になったような、何もかもが無意味に思えるような、そんな絶望感に包まれていた。


あの時は本当に悲しくて、人生で一番泣いた。

今でも思い出したら泣きそうになるくらい。

それくらい辛くて、とても悲しかった。


母親の温もりも、優しい声も、もう二度と感じることができない。

そう思うと、涙が枯れることはなかった。

ハイデお兄ちゃんの胸に顔を埋めて、声が枯れるまで泣き続けた。

あのときのハイデお兄ちゃんも、顔がぐしゃぐしゃだったな……。


なんだか思い出すとやっぱり、悲しくなってきた。

今でも会えたら、今だからこそ会えたら、きっと色んなことを話せるのに。

それが叶わないのは、今でも悲しい。

やばいやばい、なんかしんみりしてきた。


と、とにかく……

それからは、母親の姉――

つまり叔母さんの家で、ラトちゃんは暮らすことになった。


叔母さんも叔父さんも、そしてもちろんハイデお兄ちゃんも、快くラトちゃんを受け入れてくれた。

血の繋がった家族として、何の躊躇いもなくラトちゃんを迎え入れ、愛情を注いでくれる。

母親を失った悲しみで塞ぎ込んでいたラトちゃんを、優しく包み込んでくれたのだった。


「ラトは私たちの大切な娘よ。遠慮なんてしないで、ここが本当の家だと思ってちょうだい」


叔母さんは母親にそっくりの蜂蜜色の髪を持つ女性だった。

その優しい微笑みを向けてくれる度に、亡き母親の面影を感じて胸が温かくなったのを思い出す。

叔父さんも同様に、まるで実の娘を迎えるかのような温かさでラトちゃんを包み込んでくれた。


ハイデお兄ちゃんは今度は本当の家族として、毎日接してくれるようになった。

母親を失った悲しみで塞ぎ込みがちなラトちゃんを気遣い、いつも以上に優しく接してくれていた。

そんな新たな家族のおかげで、少しずつ前を向けるようになったのを覚えている。


それからはハイデお兄ちゃんの指導の下、ラトちゃんは商人としての基礎知識を一から学び始めた。

算術や文字の読み書きは既に習得していたけれど、今度は帳簿の付け方、商品の目利き、交渉術といった実践的な技能を身につけていく。


「ラト、商売っていうのはな、相手の気持ちを理解することから始まるんだよ。この商品を求めているお客様は、なぜそれを欲しがっているのか。その理由が分かれば、自然と売り方も見えてくるものだ」


叔父さんの商人としての哲学は深く、ラトちゃんにとって人生の指針となるような言葉ばかりだった。

最初は難しく感じていた商談も、次第に楽しくなっていく。

お客様の笑顔を見ることができた時の喜びは、何物にも代え難いものだった。

朝は叔父さんの仕事場でこうして商売の基本を学び、午後はお兄ちゃんと一緒に戦闘訓練に励む――

そんな充実した日々が続いた。


兎人族特有の身体能力を活かした跳躍技術、俊敏性を武器にした回避術。

ラトちゃんは体術を、この期間に完全に形にした。

村ではトップクラスになるまで戦闘能力は向上したし、最終的にはハイデお兄ちゃんと渡り合えるほどに強くなった。

それに附属的なおまけとして、銃という武器の扱い方もマスターした。

訓練用の動かない的を相手に射撃の練習を重ね、気付けば高速で動く的にも遠い的にも当てられるようになった。

こっちは完全に、ハイデお兄ちゃんを抜かしたっけな……。


「まさか銃の技術で、ラトちゃんに負ける日が来るとはね……。くっそ~悔しいな~!」


お兄ちゃんが悔しがるほど、技術は日に日に向上していった。

商人としても戦士としても、めきめきと実力をつけていく自分を実感できるのは、何物にも代え難い喜びだった。

その充実感は、母親を失った悲しみを癒してくれる薬のようであったように思う。


そうして数年が過ぎ――


ラトちゃんはすっかり、成長していた。


「この取引は品質と納期を最優先に考慮する方針でいったの!価格は~、長期的なお付き合いを前面に出して低くして~こんくらい」


「この交渉術は流石だな。叔父さんも見習いたいくらいさ。あの商人は気難しいからね、トラブルなく簡潔に対応できたのは凄いことだよ」


「えへへ~そうでしょ!けどまだ勉強したいことたくさんあるの!もっと色んなことを覚えて、このお店にもっと貢献したいの!」


「まぁ~、嬉しいわラトちゃん。ラトちゃんがいれば、このお店も安泰ね」


「ラトちゃんは戦闘技術も目を見張るものがあるからね。兎人族の星になるかもしれないね」


「え~それを言ったらお兄ちゃんでしょ!お兄ちゃんには全然勝てないし、商談だって前に大きいのまとめあげたじゃ~ん」


「ラトちゃんなら、すぐ僕を越せるさ。銃の技術で追いついたみたいにね」


夕食の食卓を囲みながら、その日の商売について家族で語り合う時間。

叔母さんの手料理を味わいながら、お兄ちゃんと他愛もない話をして笑い合う。

時には遠方への商談で数日家を空けることもあったけれど、必ず温かな家庭がラトちゃんを迎えてくれていた。

そんな何気ない日常が、ラトちゃんにとってかけがえのない新たな宝物になったのは言うまでもない。


けれど――


うん。


神様は意地悪だ。

だってきっと神様は、ラトちゃんに幸せになって欲しくないのだ。

幸せな日々は長かったけど、その幸せには必ず終わりが来る。

それがラトちゃんの人生において、特に顕著だったって感じる。

だって……


新たに得た幸せで充実した日々にも……


暗雲が立ち込め始めることになったんだもん。


それは、王都での商談のために数日間家を空けていた時のこと。

大口の取引先との交渉を進めるため、ラトちゃんは一人で初めて王都の街を訪れていた。

石畳の大通りを行き交う人々の数、高くそびえ立つ石造りの建物群、そして何より活気に満ち溢れた商業地区の喧騒――

村の静寂とは対照的な都市の躍動感に、目を輝かせていたものだった。


商談の合間、王都の商業ギルドで開かれていた情報交換会に参加した時――

ラトちゃんは、ある噂話を小耳に挟むことになった。


「最近、兎人族の毛皮が随分と値上がりしているらしいな」

「ああ、聞いている。東方の大貴族が兎人族の毛皮を好んでいるとかで、需要が急激に高まっているそうだ」

「毛皮商たちも血眼になって仕入れ先を探し回っているという話だ」


商人たちの雑談に混じって聞こえてきた、その何気ない会話。

その時のラトちゃんは――

今思えば本当に愚かだったと思うのだが――

この話を聞いて、むしろ絶好の商機だと感じていた。


貴族の趣味や流行の移り変わりで毛皮の価値が大きく変動するのは珍しいことではなかった。

去年はドラゴンの鱗が人気を博し、その前年は狼人族の毛皮が流行していた。

来年にはまた別の何かが貴族たちの心を捉えることだろう。

そうした市場の変動は商人にとって当然の知識であり、特定の種族の毛皮が高騰するという話も、よくある商売の機会の一つに過ぎないと思っていた。


胸の奥で小さな興奮が芽生えていくのを感じながら、ラトちゃんは頭の中で計算を始める。

兎人族の集落は、決して大きくはないものの、それでも数百を超える人口を擁していた。

そして何より――この世界では奴隷制度が当たり前に存在していた。


兎人族には古くからの掟があった。

戦士としての才能を示すことができず、戦闘能力が低いと判断された者は、一族の足手まといにならないよう人権を剥奪され、奴隷としての身分に落とされるのだ。

彼らは共同体の財産として扱われ、必要に応じて売買の対象とされる。

それは残酷に聞こえるかもしれないが、限られた資源の中で一族全体が生き残るための、やむを得ない選択だったのだ。


そうした奴隷たちの毛皮を市場に出せば、相当な収益が見込める。

それに――もし意図的に子供を増やし、戦闘能力の低い個体を量産すれば、さらなる利益の拡大も可能だろう。


そんな冷酷な計算を頭の中で巡らせながら、村への帰路に着いた。

馬車に揺られながら、王都で得た情報を叔母さん一家に報告することを楽しみにしていた。

きっと叔父さんも、この商機に目を輝かせてくれることだろう。


しかし――


村が見える丘の上に差し掛かった時、ラトちゃんの視界に飛び込んできた光景は―――


馬車の窓から顔を出した瞳に映ったのは――


「え……?」


燃えている集落だった


炎に包まれた、我が故郷の無残な姿。


黒煙が立ち上り、家々が崩れ落ち、そこかしこに散乱する無数の影。

あの温かな我が家も、叔母さんの豪華な屋敷も、村の中央を流れていた美しい小川も――

全てが炎と煙と血の海に沈んでいた。


「ぅえ……!?」


喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れた。

幸せな構想と真逆の目の前の惨状。

理解が追いつかず、けれど精神を絶望が蝕み始める。


気がつけばラトちゃんは馬車から飛び降り、炎と煙に包まれた集落に向かって駆け出していた。

足音が石畳を叩く音も、胸の奥で響く心臓の鼓動も、全てが遠くに感じられる。

視界の端で揺れる炎が、幼い頃から見慣れた風景を歪めていく。

村長さんの立派な石造りの家は屋根が崩れ落ち、黒煙を吐き出している。

農家のおじいさんが丹精込めて育てていた畑は、汚され血に染まっていた。

友達の家があった場所には、もはや焼け焦げた木材の残骸しか残されていない。


走りながら、ラトちゃんの鼻腔に生臭い匂いが流れ込んできた。

鉄錆のような、それでいて甘ったるい腐敗の香り。

そして焼けた肉の臭気が、煙と混じり合って立ち込めている。


そして――視界の隅に映り込んだものに、足が止まった。


地面に転がる、何か。

黒くて、無残な何か。

魔物の死体のような、家畜の死体のような何か。

けどそれは確かに……


人型なのだ。

それに耳がついてて……


そう。それは兎人族の死体だった。

しかし知っていた兎人族の姿とは、あまりにもかけ離れた無残な姿。

体の表面が赤黒く変色し、所々に深い切り傷が刻まれている。

そして何より――毛皮が乱暴に剥ぎ取られた痕跡が、生々しく残されていた。


一体、また一体。

駆けながら目にする死体の全てが、同じような状態だった。

まるで動物の解体作業を人間に施したかのような、冷酷で機械的な処理の痕跡。

ラトちゃんの足は震えながらも、叔母さんたちの無事を信じて家へと向かい続けた。


そして――我が家の前に辿り着く。

扉が壊され、内部からは黒煙が立ち上っている。

震える手で扉を押し開けた瞬間、眼前に広がったのは――


叔母さんと叔父さんの姿だった。

いや、正確にはそれらしき何かがあった。


居間の絨毯の上に折り重なるように倒れた二人。

あの優しい笑顔も、温かな声も、もうそこにはない。

ただ肉と骨の塊が地面に横たわり、彼らもまた全身の毛皮を剥ぎ取られて、見るも無惨な死体と化していた。

叔母さんの美しい蜂蜜色の髪は血に染まり、叔父さんの逞しい腕は不自然な角度に捻じ曲がっている。


その瞬間、胃の中のものが一気に込み上げてきた。


「ぅおえええええええええ」


体を二つに折り曲げ、激しく嘔吐した。

胃液が喉を焼き、涙が頬を伝って落ちていく。

何度も何度も吐き続け、もう何も出なくなるまで体が痙攣し続けた。


―――初めて


死体を気持ち悪いと思った。


この世界は残酷だった。

飢餓や疫病によって命を落とす者は珍しくなく、道端に転がる死体を目にすることも日常茶飯事だった。

商人として各地を回る中で、ラトちゃんは数多の死を見てきたつもりでいた。

死体など、もはや見慣れたものでしかないはずだった。


それなのに――

なぜ今回だけは、こんなにも気持ち悪いのだろう。

この時初めて、死体を見て気持ち悪いと思ったのだ。

理屈なんて知らない。今でも分からない。

けれど家族の無残な姿が、心の奥底にある何かを激しく揺さぶったのは確かだった。


その時――風に乗って、笑い声が聞こえてきた。


顔を上げ、音の方向に視線を向ける。

集落の中央付近、村の広場があった場所。

そこに見慣れない人影が見えた。

十人ほどの集団で、彼らの周りだけは炎の被害を免れているようだった。


山賊だろうか?しかしその装いは明らかに違っていた。

全身を覆う鎧は金属光沢を放ち、月明かりを受けて美しく輝いている。

安物ではない、高価な装備品であることは一目瞭然。

腰に身に着けた装備も、所々に点在するアクセサリーも、明らかに庶民の物とは違う。


結局のことを言えば、それは貴族の私兵であった。

そして彼らの足元には――

大量の毛皮が積み上げられていた。


言うまでもない彼らが、この村を襲撃し兎人族を皆殺しにした。

理由なんて当然、その毛皮が狙いなのはいうまでもない。

どこかの貴族が兎人族の毛皮を欲し、だから襲い毛皮を剥いだ。


これほど残酷な話があるものか。

どこかに知らぬ貴族がその私腹を肥やすためだけに、村を皆殺しにするなんて……。

許されることではない。


しかし気配から分かる。

強い。彼らは間違いなく強い。


気配だけが根拠じゃない。

兎人族は皆が戦士だった。

村の大人たちは皆、それぞれに武術の心得があり、集団戦においても一定の実力を発揮できるはずだった。

それなのに――これほど一方的に、無惨に殺戮されてしまったという事実が全てを物語っていた。


それでも……

それでも――

戦わなければならない。

仇を取らなければならない。


叔母さんも叔父さんも、そして村の皆も、ラトちゃんを愛してくれた大切な人たちだった。

その人たちの無念を晴らさずに、このまま逃げ出すことなどできるはずがない。

兎人族の誇りにかけて、立ち向かわなければならない。


しかし――足がすくんで動かない。


膝が震え、足首に力が入らない。

立ち上がろうとするたび、叔母さんと叔父さんの無残な姿が脳裏に焼きついて離れない。

あの温かな笑顔が、今は血に染まった肉塊と化している現実が、ラトちゃんの勇気を根こそぎ奪い去っていた。


その時――

集団の中でもひときわ大きな影が、ラトちゃんの方を振り返った。


狼の獣人。

灰色の毛に覆われた逞しい体躯は、ラトちゃんの倍以上はあろうかという威圧的な大きさ。

鋭い牙が月光を反射してきらめき、琥珀色の瞳がこちらを見据えている。

そして何より――彼の全身から発せられる魔力の密度が、尋常ではなかった。

まるで嵐の前の重苦しい大気のような、圧迫感に満ちた気配が距離を隔てても肌に突き刺さってくる。


獣人の口元が、ゆっくりと弧を描いた。

ニヤリと浮かんだその笑みは、獲物を見つけた肉食獣のものだった。


次の瞬間――

ラトちゃんの視界から、その巨体が消失した。


風を切る音と共に、獣人がこちらに向かって駆けてくる。

数十メートルはあった距離が、瞬く間に縮まっていく。

ラトちゃんは反射的に兎人族の跳躍力を活かした蹴りを繰り出したが、その攻撃は空を切るだけだった。

獣人は軽やかに身を翻し、ラトちゃんの動きを完全に読み切っていた。


そして――重い衝撃がラトちゃんの身体を襲った。

獣人の太い腕がラトちゃんの腰に回り、そのまま地面に押し倒される。

背中が石畳に打ち付けられ、肺から空気が一気に押し出された。

獣人の重量がのしかかり、身動きが取れない。


「ぎぃ……離して!」


「あぁ?はは、こんなもんか。子ウサギがまだいたとはなぁ」


「がぁぁ」


必死に暴れた。

両手で獣人の腕を掴み、足をばたつかせて抵抗する。

しかし圧倒的な力の差は覆しようがなく、抵抗は虚しく空を切るばかり。

獣人の重い体重が小さな体を完全に組み伏せ、身動きを封じていた。


「おいおい、それに見ろよコイツ」


狼の獣人がラトちゃんの顔を覗き込みながら、仲間たちに向かって声を上げた。

その口元から白い牙が覗き、生臭い息が顔にかかってくる。


「それになかなかの上物じゃないか。毛皮も上質だが、それ以外の価値も色々とありそうだな」


獣人の口元から透明な涎が糸を引いて垂れ落ち、ラトちゃんの頬に落ちた。

その粘つく感触に吐き気を催しながら、ラトちゃんは必死に顔を逸らそうとする。


気がつけば、周りに他の山賊のメンバーたちも寄ってきていた。

それぞれが武器を手にしたまま、ラトちゃんを囲むように円を作っている。

彼らの目には欲望と残酷さが宿り、まるで獲物を前にした肉食獣のような表情を浮かべていた。


「おい、これは良い獲物を見つけたじゃないか」

「まだ若いし、傷もついていない」

「売り物としてもそうだが、それ以前に楽しめそうだ」


嘲笑混じりの言動が次々と飛び交い、ラトちゃんの視界を絶望が支配していく。

炎に照らされた彼らの顔は悪鬼のように歪み、その声が耳の奥で不協和音を奏でている。

逃げ場はない。助けも来ない。


初めて――死を悟った。


何もできなくて、無力で、ちっぽけで……

必死に学んできた戦闘技術が、すべて無駄だったかのようにさえ思えた。

このまま何もできずに、良いようにされ死んでいく。

その未来が手に取るように見えた。


けれど―――死にたくない。

こんな形で、こんな奴らの手にかかって死ぬなんて嫌だった。

こんなくそったれな未来を否定したかった。

だからラトちゃんは……


助けを願うしかなかった。


「お兄ちゃん、助けて……」


か細い声で呟いた言葉が、夜の闇に吸い込まれていく。

その瞬間――森の中から颯爽と人影が現れた。


栗色の髪を風になびかせ、琥珀色の瞳を怒りに燃やした青年が、一直線にラトちゃんに組み伏さっている獣人へと向かってくる。

そして躊躇することなく、強烈な蹴りを獣人の横腹に叩き込んだ。

鈍い音と共に、狼の獣人の巨体が宙に舞った。

周囲の山賊たちが一斉に身を竦ませ、突然の乱入者の出現に慄いている。


炎の光に照らされたハイデお兄ちゃんの姿は―――


まさに救世主そのものだった。


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