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第二十二話

――さらに一週間が過ぎ去った。


俺は書庫の奥深くで静かに古書を閉じた。

革装丁の重厚な表紙が微かな音を立て、羊皮紙に記された魔導理論の文字が視界から消えていく。

指先に残る古い革の質感と、鼻腔に漂う知の芳香が、長時間の読書の余韻を静かに告げていた。


「ふぅ……ねみぃな」


深いため息と共に、俺は背もたれに身体を預けた。

木製の椅子が軋む音が書庫の静寂に響き、天井近くまで積み上げられた書物たちが俺を見下ろしている。

魔法の明かりが放つ柔らかな光が、無数の書籍の背表紙を夕日のように染めていた。


ぐぅ~と背伸びを一つ。

そして立ち上がると、居間へと視線を向ける。


「ラト、眠いからそろそろ寝るぞー」


俺は書庫から居間へと声をかけた。

もはや何の躊躇いもない、当たり前の呼びかけ。

妹にでも声をかけるような自然さで、俺はその言葉を口に出していた。


「はーい!ラトちゃんも眠いって思ってたよ~!すぐ行く~すぐ行く~」


ラトの変わらず明るい、弾んだ声。

その声を受けて居間へと歩みを進めると……

入ると同時に、ラトが目の前まで迫って来た。


「リオちゃん、お疲れ様!今日も難しい本読んでたの?リオちゃんってホント、本読むの好きだよね~。文字を読めること自体、凄いことなのに!」


嬉しそうに細める琥珀色の瞳。

兎耳がぴょこんと立ち上がり、薔薇色の頬には微かな紅潮が浮かんでいる。


「ああ、ありがとう。文字の読み書きは、妹に教えてもらったんだよ。それにこのダンジョンのこと知るために、どれだけ本を読んだことか……」


「おぉ!さすがリオちゃんの妹さんだね!本を読むのは良いよね~、ラトちゃんも好きだよ!だからまあ、書庫の部屋をリエルちゃんに頼んで用意してもらったんだけどね!」


「やっぱりこの魔導書は、魔女リエルのものなのか」


「そうそう!すごいよねざっくり千年前の本だよ!すごくない!?おかげで魔術理論が少し古かったり、読めない古代文字で書かれた本があったりするんだけどね~……。けどけど~、結構ためになるよね!聞いたことない理論とか!昔の魔法の捉え方とか!」


「確かに、そうだな。本当にためになってる。こんな高価な本を何時間も読めること自体、すごく貴重なものだからな」


本の価値はピンからキリまであるが、斉しく魔導書の価値は高い。

基本的に本屋では売っておらず、どこかの高名な図書館に行かなければお目にかかれない代物。

さらに基本的に貸し借り禁止。

高名なものであれば、読むことさえ許されない。

そしてこの書庫にある魔導書はどれも一般人じゃ読めないような高価なものばかり。

こうして毎日読めるのは、幸運と言って差し支えないだろう。


「本が読めるくらい勉強熱心で、読書も好きだなんてラトちゃんと気が合いすぎだよね。ラトちゃんも文字読めるようになるために勉強したし、読書も大好きだもん。ここでの百年間はほとんど読書に費やされたぐらいだもん!」


「まあ確かに、そういう趣味は似ているかもな」


「そうだよね!そうだよね!もうこんな相思相愛なら、結婚してもいいと思うんだよね!ラトちゃんそう提案しまーす!」


「却下」


「ええ~、もぉ~。けどそういうリオちゃんも好き~。リオちゃんもラトちゃんのこういうところ、好きでしょ~」


「はいはい、好き好き」


俺は寝室の扉を開けながら、何の気なしにそう答えた。

天蓋付きのベッドが薄紫のカーテンに包まれて佇み、魔法の明かりが室内を柔らかく照らしている。

いつも一緒に寝ている、清潔で変わらないベッド。

嗅ぎ慣れた暖かなラベンダーの香りが鼻腔を満たしていく。


「わぁ~リオちゃん!いつにも増して大胆!リオちゃんが、ラトちゃんのこと好きって……!もう、もう、ラトちゃんったら幸せすぎて死んじゃいそう!リオちゃん大好き!大好き大好き大好き!」


「分かった。分かったから、おい、抱き着いてくるな。もう寝るぞ~」


「また照れちゃって~。は~い」


俺は慣れた様子でラトの興奮を宣撫しながら、ベッドへと向かった。

この二週間で、彼女のこうした反応にもすっかり慣れてしまっていた。

ラトに対して好きと気兼ねなく言えるくらいには、俺の精神も成長したらしい。


ベッドに横になり、柔らかなシーツの感触に身を委ねる。

隣でラトも嬉しそうに身を横たえ、幸福そうな吐息を漏らしていた。

暖炉の余韻が室内を温かく包み込み、安らかな眠りが俺を誘っていく。


って――


いや、いくら何でも順応しすぎだろ!!


何この癒し空間。

和やかな日常。


空腹も感じず、勉強にも困らない。

こんな環境に二週間いただけなのに、それが当たり前のように謳歌してる自分がいる。

なんてことだ……。


妹を助けるために死ぬほど努力して、空腹にも貧乏にも耐えて……

そうしてこのダンジョンに挑んだのに、ここには全部ある。

だからこそこの環境がどれだけ恵まれているか頭では理解している。

そのはずなのに……心が追いつかない。

心は既に、この場所に染まり切っているのだ。

安心で安全で安堵できる状況を受け入れてしまっているのだ。


横で幸せそうに寝ているラト。

俺コイツと殺し合ってたんだよな?

なのに今やまるで妹のリリィと一緒にいるときのような、深い安らぎと信頼感。

あんなに疑っていたのに、今やこの少女に懐疑心は一切ない。

背後を刺されるとか、いきなり銃で発砲されるとか、頭の片隅にも置いてない。

むしろ普通に可愛いと思っているし、好きと言われてむしろ嬉しさすら覚えている自分がいる。


どうしたんだ……俺?


「なんかどんどん駄目になっている気がする」


俺はベッドから上体を起こし、そう呟いていた。

安心感も信頼感も……

この二週間で培われた日常が、俺の心に根深く染み付いている。


人間の適応能力とは、かくも恐ろしいものなのか。

環境に順応し、相手を受け入れ、新たな関係性を築き上げていく――

その能力の高さに、俺は自分自身に対する畏怖すら覚えていた。


「リオちゃん……?どうしたの?急に飛び起きちゃって……」


気付けば横になっていたラトが、こっちを見ていた。


「ラト……俺このままここで生活してたら、本当にこのダンジョンを攻略できるのか心配になって来た」


「いきなりどうしたの~?そんなことないよ〜。リオちゃんは心配しすぎだよ〜。リオちゃんはすっごく強いし、ラトちゃんもすっごく強い。加えてリオちゃんは頭も切れるからね~。魔力の感知能力の低さはラトちゃんがカバーできるからね~。二人なら怖いものなしだよ〜」


ラトが眠そうに目を擦りながら、のんびりとした口調で俺を慰めようとする。

その楽観的すぎる態度に、俺は思わずジト目を向けた。


「そんな単純に攻略できるダンジョンだったら、もうとっくに攻略されてるだろ」


「ん~、それはそうかも?千年だもん。ラトちゃんちょっと、安易すぎか~」


「そうだ。だから攻略できるように、明日から戦闘訓練を始めるぞ」


「え!?戦闘訓練?わぁ~面白そうだね。確かに連携は大事だよね〜。それに血液の貯蓄も、もう十分すぎるくらい溜まったしね〜。ラトちゃんも最近、のんびりしすぎちゃってたかも〜」


そうだ――

もちろん俺は、闇雲にこの贅沢な暮らしを謳歌していたわけではない。

この二週間の日々には、確固たる目的と計画があったのだ。


左腕の傷の完治、体力と魔力の完全回復、そして何より――

血液の貯蓄。

既に貯蔵は進み、小瓶一つ残すくらいには進んでいる。

この貯蓄のためにこそ、俺たちは長期間の回復期間を設け、この快適な共同生活を営んできたのだ。

むしろこの血の貯蓄が十分に溜まったからこそ、次のステップに進めるのだ。

だから断じてダラダラしていたわけではない。


「んじゃ決定な」


「ラジャ~!」


ラトが兎耳をぴょこんと立てながら、嬉しそうに頷いた。



――そして次の日。

いや、正確な時間は分からないが、俺とラトが目を覚ました時を便宜上朝と呼ぼう。

俺たちは運動場にいた。


「んー……」


俺は運動場の中央で、ゆっくりと腕を回しながら身体をほぐしていた。

左腕の痛みも無くなり、動きに支障はない。

二週間の休養で体力は完全に回復し、血液の貯蓄も十分だ。


遠目に見える運動場の端では、ラトもまた同様にストレッチを行っていた。

逆立ちしたり、バク転したり……

あれってストレッチなのか?

俺に分からん。


「そう言えば……」


俺は腰の剣帯に手を当てながら、ふと思い出した。

ラトとの激戦で折れてしまった愛剣のことを。

ラトの強力な蹴りを受け止めた際、剣は無残にも粉々になった。

彼女の圧倒的な身体能力の前に、あの剣は役目を終えた。

それ以来、俺は丸腰の状態で過ごしていたのである。


血の魔術があるとはいえ、やはり武器は必要だ。

血を固めるのと、剣に血を纏わせるのでは、同じ硬度を得るのに必要な労力が違う。

次の階層主との戦いを考慮すれば、新たな得物を見つけなければならない。


立ち上がって運動場を見回すと、壁という壁に数え切れないほどの武器が整然と掛けられているのが目に入った。

剣、槍、斧、そして俺には名前も分からない異国の武具まで――

それらが兵器庫の展示品のように、規則正しく配列されている。

こんなにあれば新しい相棒が見つかりそうだが……


「ラト、なんでこんなに多くの武器がここにあるんだ?」


何となく疑問を口にする。

冷静に思えば、これほど大量の武装が一箇所に集められているのは明らかに異常である。


「あー、それ?今までの挑戦者が残していった武器だよ〜。持ち主が死んで、残った武器たち。もったいないからさ~飾ってるの。これでも厳選したもんだよ〜。ボロボロに錆びちゃったのとか、折れてるのとか、そういうのは全部捨てちゃったもん。だから今ここにあるのは、まあまあ使えるやつばかりなんだよ〜」


今までの挑戦者が残していった武器――

つまり、この武器たちの元の持ち主は、全員この階層で命を落としたということか。


剣の柄を握りながら、俺は黙考した。

この武器を握っていた人物も、きっと俺と同じように妹や家族、大切な人を救うためにダンジョンに挑んだのかもしれない。

それなのに、ここで力尽きた。

目の前で愛らしく振る舞う少女の手によって――

その無念さを思うと、何だか心が重くなる。


「そういえばさ〜、弱っちい挑戦者ちゃんの時はね〜、ラトちゃんも特別なサービスをしてあげてたんだよ〜。この運動場で好きな武器を選ばせてあげて、ラトちゃんは素手で決闘してあげるっていう〜、すっごく親切なことをしてたんだ〜。だって武器を持った挑戦者ちゃんと、素手のラトちゃんなら、どう考えても挑戦者ちゃんの方が有利でしょ〜?」


ラトの声が再び響く。

しかし今度は、その口調に微かな変化があった。


「でもね〜、そこでボコボコにして、武器を持ってても素手のラトちゃんに叶わないんだ〜って屈服させて、絶望に落として〜。そのまま失意の状況の挑戦者を嬲り殺すの〜。あの時の快感と言ったら、もうたまらないものがあるんだ〜!あはははははは!」


狂気に満ちた高笑いが運動場に響き渡る。

俺は手にした剣の重みを感じながら、深いため息をついた。


「やっぱお前はラトだな。変わんないな」


「えぇ~それどういう意味?」


「いやそういうラトを見ると安心するって意味だよ」


「えへへ~そう?なら嬉しいな~あははは」


ラトが無邪気に笑いながら、再びストレッチを続けていた。


うん。やっぱりラトは頭がおかしい。

人をいたぶって殺すのを楽しいだとか言っている奴が、普通の精神状態な訳がない。

けれどもはや驚きも恐怖もない。

これがラトの本性だと、既に受け入れているからだ。

狂気的で残酷な一面も含めて、彼女はラトなのだ。

寧ろ狂ってなきゃ、ラトじゃない。


そんな感想を胸の内で反芻しながら、俺は再び武器の選定に意識を戻した。

壁に掛けられた数多の武器を一つ一つ検分していく中で、ふと俺の視線がある剣に釘付けになった。


「これは……」


他の武器とは明らかに異なる、気品に満ちた輝きを放つ一振り。

鞘に収められたその剣は、柄の装飾から鞘の細工に至るまで、職人の最高峰の技術が惜しげもなく注ぎ込まれていることが一目で分かった。

金糸の象嵌が複雑な幾何学模様を描き、宝石が埋め込まれた柄頭が魔法の明かりを受けて虹色に煌めいている。


俺は思わず手を伸ばし、その剣を壁から取り外した。

手に取った瞬間、その重量感と完璧なバランスが腕に伝わってくる。

鞘から刀身を僅かに抜いてみると――


「オリハルコン……!」


青白く光る刀身が露わになった。

この金属光沢、この重量感、そしてこの魔力伝導性――

間違いなくオリハルコン製!

俺の心臓が勢いよく高鳴る。


オリハルコンとは、この世で最も貴重な金属の一つ。

その硬度は他の追随を許さず、魔力の伝導性も抜群。

武器に魔力を流し込む際の効率は通常の鉄の数十倍に達し、魔力で強化した際の耐久性も桁違いだ。

こんな高価な武器、俺のお金ではどれだけ欲しいくても買えない一品。


「あ〜それね〜、数年前にここに挑んできた白金等級の冒険者ちゃんの武器なんだよ〜」


「え!?白金等級!?」


俺の声が運動場に響いた。

白金等級――その名前だけで、俺の背筋に戦慄が走る。

冒険者の等級制度において、白金等級とは文字通りの頂点。

最下位の銅等級から始まり、銀等級、金等級、そして最高位である白金等級――この階段を登り詰めることができるのは、冒険者の中でも選ばれし者のみ。現在でも白金等級の冒険者は両手で足りるほどしか存在せず、彼らは冒険者のみならず多くの人々の憧れの象徴でもあった。


王都の酒場で語られる武勇伝、吟遊詩人が歌う英雄譚――

その主人公は決まって白金等級の冒険者たち。

一人で軍隊に匹敵する戦闘力を持ち、古代竜すら単身で討伐する超人的な存在。

そんな雲の上の存在が、このダンジョンに挑戦していたというのか。


「すっごくなつかし〜。百年は前の話だよ~。あの人は結構強かったな~、さすが白金等級冒険者って感じだった」


「ラトは……白金等級の冒険者に勝ったのか?」


「そりゃもちろん!そうじゃないと、ラトちゃんここにいないよ~」


もちろんって……。

白金等級冒険者にそんな簡単に勝てるもんなのだろうか。


「強かったと言えば強かったけど~、ラトちゃんの相手じゃないよ~。だってラトちゃんの固有魔術は、常時無敵だよ~。リオちゃんみたいな勝ち方でもしない限り、普通に勝てないよ~。どんな強者だとしてもね」


「それも、そうか」


「うん!確かに他の挑戦者ちゃんたちと比べると強かったけど、ラトちゃんには全然及ばなかったから。最後まで諦めなかった姿勢は評価できるけど、結局最後はおもらしして命乞いしてた。あはっ、あはははっ、あの光景は本当に愉悦ってやつだったよ!体がゾクゾクってくる感じ!リオちゃんにも、見せたかったなぁ~」


見たくなすぎるな。

殺しに対して何も思わないとは言え、そこに快楽を感じているわけじゃない。

俺をラトのようなサイコパスと一緒の扱いにして欲しくはないな。


「ラトちゃんにボコボコにされたことを考えると~、白金等級冒険者って言ってもその程度なんだよ!寧ろラトちゃんを降参させた、リオちゃんの方が優秀だよ。こうしてリオちゃんは一階層を突破したわけだしさ~」


「白金等級冒険者より優秀ってのは、さすがに恐縮だな」


「え~、ラトちゃんは本気でそう思ってるけどな~、リオちゃんの方が優秀だし、格好いい!最後はさ~結果がすべてなんだよ!どれだけの名誉を受けようが、階級が高いだろうがさ、一階層を突破できなかったって事実がすべてなわけなのです。その事実が上回っているだけで、リオちゃんがあの冒険者に比べて優秀じゃないなんて言う人はいないと思うけどな~。もっとリオちゃんは自信を持ちなよ?」


「そう言ってくれるのは嬉しいが、一概にそうとは言えないだろ」


ラトが言っている結果がすべてと言う話も、正しいとは思う。

確かにこの一階層を突破できたという点では、俺の方が秀でている面もあったのだろう。

しかしその冒険者はここに至るまで、多くの人を助けたはずだ。

多くの命を救い、多くの困難に苦しむ人々を救済した。

だからこそ得た、等級なのだ。


「俺がたまたまラトの能力に対する対処法を、思いついた。ただそれだけさ……」


そんな相手と、片や何もしておらず妹も救えていない俺。

どちらが優秀かなど、語らずともわかることだろう。

この世界への善行で言えば、その冒険者の方が圧倒的だ。

だからやはり、そのたった一欠けらの結果だけを引き合いに出して優秀と一辺倒に答えるのは適切ではないと思う。

故に恐縮だと、感じてしまうのだ。

しかしラトは不満なようだ。


「なにそれ~つまりこの無敵能力が無かったら、ラトちゃんがそいつに負けてたみたいな言い方~」


「違うのか?」


「違うよ~それはラトちゃん、勘違いしないで欲しいな~。無敵能力が無くても、ラトちゃんなら勝てたよ、うん」


「本当かよ」


「本当だよ、本当っ!ラトちゃんて、結構強いんだよ!銃の扱いも、魔法の扱いも、体術だって負けてないよ!ただの新人の白金等級冒険者になんて負けるわけがないんだよ~」


白金等級冒険者に新人とかあんのか。


「それにさ~ラトちゃんも元々、白金等級冒険者だからね~。負ける道理はないんだよ」


「そうなのか……って、え!?」


コイツ今、とんでもないこと言わなかったか?


「ラトって、白金等級冒険者だったのか?」


「うん、そうだよ~。昔の話だけどね~」


「――!!」


あの英雄的な白金等級冒険者。

それがまさか、目の前にいたなんて……。


俺の思考が完全に停止した。


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