第二十一話
「えい!」
「いたああああああい!!!」
俺の絶叫が居間に響き渡った。
状況を説明しよう。
ラトは運動場から持参した鋭利な短剣を手にしており、その刃先で俺の右腕に浅い切り傷を作っていたのである。
銀色に輝く刃が皮膚を裂き、深紅の血液が傷口から滲み出している。
ラトが呆れたような表情を浮かべながら、手にした短剣を軽やかに振った。
「こんな傷、ラトちゃんに銃で撃たれた時より全然痛くないでしょ」
ラトが呆れたような表情で言い放つ。
何を言ってるんだコイツは?
確かに戦闘時に負った傷と比べれば些細なものかもしれないが―――
「痛いもんは痛いんだよ」
どれだけ痛い思いをしようと、痛みに慣れは存在しない。
ラトの銃弾も痛かったが、こうして刃で傷つけられるのも痛いのだ。
しかしラトは、小さくクスクスと笑うだけ。
そのまま―――
傷口から垂れる血液を、用意していた空の小瓶に丁寧に注いでいく。
深紅の液体が透明な瓶の底に静かに落ちていく。
一滴、また一滴と規則正しく響く微かな音が、静寂に包まれた居間に奇妙なリズムを刻んでいた。
この奇妙な儀式じみた行為。
こんなことをするのは、もちろん理由があるのだ。
先の戦闘――
ラトとの激戦において、俺は事前に準備していた血液の瓶を六本全てを消費してしまったのだ。
血の防壁、血の拘束、そして血の弾丸――
それらの魔術を駆使するために、貯蓄は使い果たした。
だからこそ補充がいるのだ。
この血の瓶は、俺にとっての武器であり魔力であり生命線でもある。
この瓶が無ければ防御や遠距離攻撃と言った、戦闘の幅が無くなってしまう。
そして攻撃自体も、当然ながらその威力は著しく減退する。
次の階層主との戦いを考慮すれば、可能な限り多くの血液を事前に蓄えておく必要があった。
そのために俺はわざわざラトに短剣で傷をつけてもらい、、この不可解な自傷行為に及んでいるのである。
「この瓶の量貯めるってなったら、ラトちゃんが思いに一日じゃ足りないと思うよ~?」
「当然だ。少なくとも今日は中くらいの瓶が埋まるくらい出来たら、御の字って所だ」
「ええ!?それじゃあ、すっごい時間かかっちゃうよ!?」
「それでいいんだ。一回で大量に出したら、次の階層に行くまでに死んじゃうだろ。ゆっくり血を集めるためにも、長期間の休息をとるんだ。少しずつ、計画的に血液の貯蓄を増やしていく。ラトにはその……迷惑をかけるかもしれないけど――」
「そんなことは、どうでもいいよ~。え~リオちゃん、ラトちゃんのこと心配してるの?そんな気使わなくていいのに~。そのくらい全然いいよ~」
「……そうか。ありがとう。その瓶いっぱいになったら、出血を止めるから回復魔法頼むぞ。」
「らじゃー!ラトちゃん、この一週間で回復魔法どんどんうまくなってるからね!このくらいの傷、余裕だよ~」
ラトちゃんはニコニコと、笑みをこぼす。
確かに彼女の回復魔法の腕は、みるみる向上していた。
俺も正直びっくりしてるくらいだ。
しっかしこの行為……
考えてみればみるほど、矛盾である。
わざわざラトの献身的な治療によって傷を癒やしたにもかかわらず、再び自らの身体に刃を向ける――
この矛盾した行為の滑稽さは、俺自身も充分に理解していた。
治療と負傷を繰り返すなど、常識的に考えれば正気の沙汰ではない。
しかし戦術的観点から見れば、これは避けて通れない準備作業だ。
「リオちゃんの能力って、本当にすごいよね――血液をまるで魔力のように扱えるなんて、ラトちゃんには想像もつかないよ」
瓶の中で徐々に液面が上昇していく様を眺めながら、ラトは感嘆の息を漏らした。
彼女にとって俺の能力は、依然として神秘的で理解し難い現象なのだろう。
血液を意のままに操り、物理法則を超越した攻撃を繰り出す――
その光景は、百年もの間ダンジョンで過ごしてきた彼女にとってさえ、驚異的なものとして映るのかもしれない。
そう言えば――
俺は以前、ラトに対して自分の能力について包み隠すことなく説明したことがあった。
朱脈操術の詳細な仕組み、血液を魔力として代用する理論、そして戦闘における具体的な活用方法まで――
すべてを彼女に打ち明けたのである。
これから一緒に戦っていくにあたり、俺の能力は正確に把握してもらった方が色々と都合がよい。
それにここまで自分のことを信頼し、共に歩もうとしてくれる彼女に、自らの秘密を余すことなく明かしたのは当然のことだった。
「血液が全部魔力ってことは、体中の血液が全部魔力として使えるってことだよね?それってすごいだと思うな~、ラトちゃんは。だってそれって、血液が無くならない限り魔力があるってことじゃん!それってほとんど無限の魔力と同じみたいなもんだよね!」
――コイツはとんでもない解釈違いを言っているな……。
確かにラトみたいな優秀な人にとっては自分の魔力にプラスして、血液を魔力として使えるっていうんだから、魔力量が大量に感じるのかもしれない。
実際、魔法の才能があり自前の魔力量が多かった妹は、そういう風に使っていたことだろう。
けれど俺にはご存じの通り、魔力はからっきし。
血液が無ければ、魔法などまともに使えもしない。
逆に血液しか魔力量を補う手段が無い……それが俺だ。
そのことはラトも分かっているはずなんだが……
それに―――
「ラト、全身の血液を全て魔力として使用できるわけじゃないぞ」
「えぇ!?なんでぇ?」
「人間の身体の構造というものは、思っているよりも遥かに繊細で脆弱なものなんだよ。血液を二リットル程度消失するだけで、生命に関わる深刻な危険が生じる。それどころか、短時間で一リットルほど消費するだけでも、意識を失ったり、最悪の場合は命を落とす可能性すらある」
俺はこの能力を授かるにあたり、医学的文献も読み漁った。
人間の体には体重のおよそ8%、薬4~5Lの血液があってその約20%を失うと、出血性ショックってのが起こる可能性があるらしい。
また一般的に、血液の30%以上を短時間で失うと血圧が低下し、40%――つまり約1,600mL以上失うと意識を失うのだと言う。
つまり俺はラトとの戦いで、40%くらい失ったと言うことになる。
よく生きてたな……あらためて治療してくれたラトには感謝しなくては。
「ええ~てっきり血液、全部使えるんだと思ってたよ~。意外と不便なんだね~リオちゃんの固有魔術も……。ラトちゃん、よく分かんないけど!」
よく分かんなかったらしい。
しかし――よく分からないという感想も、間違ってはいない。
なぜなら俺もこの能力を、よく分かってなどいない。
そもそも血液と魔力の変換効率について、俺自身も正確な数値を把握しているわけではない。
戦闘の中で培った経験則と直感に頼る部分が多く、血液一滴あたりの魔力変換量、持続時間と効果の相関関係、そして身体への負荷の詳細な数値――
それらは全て未知である。
「ん~けどさ」
その時、ラトの表情が一変した。
「リオちゃんの能力は、血を魔力として扱えるという効果自体が、本質じゃないよね~?」
本質じゃない……?
どういうことだろうか?文字通りそういう能力なのだが……。
血を好きに操作できること、それはつまり血液を魔力として扱うことが出来ると言うことにもつながる。
その俺の思っていた本質が、本質じゃない……?
「どういう意味だ?」
「え~?リオちゃんの固有魔術の特異性は~、魔力を介さずに魔法を成立させることにあるのラトちゃんは思うのです。つまり魔力を一切消費することなく、魔力と同等の力を得ることができるということだと思うんだよね」
ラトは呟くように、そんなことを言う。
けどやはり、理解は追いつかない。
「……?それはそうかもしれないが……」
確かに血液を魔力の代替として使用している。
それは魔力を介さない魔法の成立が出来ているとも言える。
それは分かるのだが――
「だって~、リオちゃんってとっても弱そうなのに、予想を裏切るくらい魔法使えて強いんだもん。この予想ってのが、すっごく大事なの。そもそもね、リオちゃんは持っている魔力の量が少なすぎる」
「……えっといきなり、悪口か?」
魔力とは生まれた時の才能で決まるもの。
保有する魔力量は生命の誕生と共に決まり、修練によって向上できるものではない。
つまり魔力量というものは努力や、出生に関わらず、生まれた時の天賦の才によって決定される。
よってあまりにも格差社会なのである……。
悲しい。
「違う違う、悪口じゃないよ~。リオちゃんの強さの本質は、そこにあるんだよ」
「それは……気配が読み辛いとか、そういう話か?魔力が元来少ないから、いるかいないか気配だけじゃわからないとかそういう……」
「それもあるけど、それ以上に動きが読み辛いんだよ~」
「動きが読み辛い……?」
「そうなの!ラトちゃんみたいに魔力の扱いに慣れてる人はね、魔力の流れや分布にもすっごく敏感なんだよ。だからこそ相手が殴ろうとすれば、腕に魔力が多く流れていることを感じ取れるの。逃げようとしているなら、足に魔力が流れることを敏感に察知できる」
ふむ……。
確かに魔力を身体強化に使用する際、特定の部位に魔力を集中させるのは戦闘の基本中の基本だった。
筋力の向上、反射神経の強化、跳躍力の増大――
それらは全て、該当する身体部位への魔力注入によって実現される。
「でもリオちゃんは魔力じゃなくて、血液を使用してるでしょ?だからこそ、その魔力の流れや分布が感じ取れないの」
「俺の魔力分布を……か?」
「そうそう!だからこそリオちゃんの次の行動は予測し辛くて、目的や作戦も分かり辛いの。攻撃は避け辛いし、決まったと思っても決まってないことが多々あるんだよ。だって本来ならラトちゃんなら、目をつぶっていても、魔力の流れを感じるだけで戦えるもん。世の実力者はみんなそうなの。その本能的な魔力を感じることで得られる予測や行動を、ぜ~んぶ封じられちゃうの。その戦い辛さったら、もう凄いものだよ!」
魔力感覚に鋭くない俺には、そんな高度な戦闘技術など思いもよらないこと。
相手の魔力分布を把握するとか、なにそれ?おいしいの?
よほどの大技や膨大な魔力量であればこそ感じ取れるが、そんなことしたことがない。
しかしラトほどの実力者であれば、相手の魔力の流れを読み取って先手を打つなど、呼吸をするのと同じくらい自然な行為なのだろう。
それが俺の特異な能力によって完全に封じられてしまう。
なるほど面白い。
「もしかして……ラトも俺との戦闘に困っていたのか?」
「そうだよ~!そうじゃないと、あんなに奇襲されて、地面に倒されたりしないよ~」
ラトが手をひらひらと振りながら、あっけらかんとした様子で笑い飛ばした。
俺の作戦があれほど計画通りに進んだのは全て、こんな副次的効果のおかげだったのか。
そんなこと全然思わなかった。
しっかし、なんだろう。
なんというか……。悲しい。
てっきり俺の戦術的才能による完全な勝利かと思っていたんだけどな……。
ラトを地面に叩きつけ、血液で拘束し、最終的に降参へと追い込んだあの一連の流れ――
単に相手の予測能力を封じていただけだったとは。
「だからリオちゃんの固有能力も、ラトちゃんのぐらい、いや、それ以上に強くて強力なんだ~」
「それは言いすぎだろ」
どう考えても、無敵とか言う明らかなチート能力の方強いだろ。
どんな攻撃も無効化する絶対的な防御力と、魔力の流れを読み取れないという副次的な効果。
どちらが戦術的に優位かなど、論じるまでもない。
「でもでも、すっごい能力だよね~惚れ惚れしちゃう」
けれど、どうやらラト的にはこっちの能力の方が良いらしい。
「あ、けどこの能力は元々、妹さんからもらったんだよね?」
「ああ、そうだ」
「血で能力をあげれるってのも、すごい能力だよね!やったのは妹さんだっけ?すごい発想だよね!普通思いつかないよ!だってそれって、好きな人に自分の能力を譲渡できるってことでしょ?それってすごくない!?」
ラトが両手を胸の前で組み合わせながら、さらに身を乗り出してきた。
相変わらず距離感がおかしいのかと思うくらい近すぎる。
「なんだ?もしかして俺の能力が欲しいのか?」
俺の問いかけに、ラトは慌てたように首を左右に振った。
「違うよ!だってリオちゃんとダーリンハニーの関係になって、子供が出来たら、その子供はラトちゃんの秀でた能力と、血の能力も得られるってことでしょ?それってすっごいことじゃない!?」
「どんだけ未来の話をしているんだ」
俺は深いため息をつきながら呟いた。
子供……ね。童貞では分からない次元の話である。
「あとその夢は叶わないぞ。妹が復活したら、能力は妹に返すつもりだからな」
その時―――
小瓶に滴り落ちる血液の音が一瞬止まったかのような静寂が訪れる。
そして……
「ええ!?」
ラトの兎耳がぴょこんと跳ね上がった。
「そんなの勿体ないよ!だってリオちゃん、絶対妹さんより上手に能力使ってるよ!」
「そんなことはない。妹には才能があったんだよ。王都の魔術学園に入れるなんて、選りすぐりの魔術師しか無理なんだぞ」
「そうかもだけど……。魔術の才能と固有魔術の才能は別だよ~」
「いいや、妹は天才なんだ。この固有魔術も使いこなしてた。村に来たハイウルフの群れを、この血の魔術で瞬殺したこともあったし……」
俺は首を振りながら、リリィの偉業を誇らしげに語った。
あの日の光景が脳裏に鮮明に蘇る――
圧倒的な魔力の奔流、一瞬で消し去られた狼の群れ、そして勝利の後に微笑む妹の美しい横顔。
しかし――
「あはははははははは!ハイウルフなんて瞬殺だよ~。なんでそんな誇らしげに言ってるの?ラトちゃんなんか、固有魔術使わなくても余裕だよ~」
……あれ?そうなの?
ハイウルフによる被害は村では深刻な問題だった。
鋭い牙と爪、そして人間を遥かに上回る俊敏性――
遭遇すれば即座に逃げろと、幼い頃から口を酸っぱくして教え込まれてきた存在だった。
実際、ハイウルフの襲撃によって命を落とした村人も少なくない。
けど……もしかして俺でも、この能力があれば勝てるのか?
逃避の精神が骨身に染みついていて、戦ったことなど一度もなかった。
「まあまあ妹ちゃんが才能があったのは分かるけどさ~、持ってる魔力量がないからこそ、リオちゃんが上手に使えてるんだよ。その利点は妹ちゃんに引けは取らないと思うけどな~。それにその能力が無くなったら、リオちゃんはすっごく弱いただの一般人に戻っちゃうんだよ?」
ラトは片手に短剣を持ったまま、そう問いかけてくる。
普通に剣が近いので怖い。
それに……
「それでも――それでいい。能力の持ち主は妹だ。この能力は、あるべき場所に帰るだけなんだ。それでいいんだ」
俺は弱いただの一般人でいいのだ。
それ以上を俺は望まないし、そういう姿こそ俺らしい。
この血の能力自体、俺にはふさわしいものではないのだ。
「そっか~。ラトちゃんは賛成しないけどな~。けどけど~、その決断もリオちゃんがそういうなら、良いのかも!まあ、弱くなったら、ラトちゃんが守らないとね~。ラトちゃんがリオちゃんの代わりに戦って、色んな脅威から守ってあげるよ~。そしたらもっとラトちゃんに依存して……ぐへへ……」
ラトの薔薇色の唇の端から、透明な涎が糸を引いて垂れ落ちた。
そして現れる――歪んだ笑顔。
ああ……もうこの狂気すら、日常の一部に思えてきた。
むしろその歪んだ笑みを見て、奇妙な安堵を覚えている自分に気づく。
いつもあの甘ったるく可愛らしい少女を演じられても、居心地が悪い。
これこそが、本当のラトなのだから。
この奇怪な少女の本性を受け入れた時、俺の中で何かが変わったのかもしれない。
恐怖ではなく、理解。
拒絶ではなく、受容。
そして――その安堵感から、つい口が動いていた。
「ああ、ラト。俺が弱くなったら頼んだよ」
優しい声色で紡がれた俺の言葉が、ラベンダーの芳香漂う居間に響いた。
それはついつい、心の奥底から自然に溢れ出た率直な思いだった。
自分が能力を失ったら、ラトに守ってもらう。
それも悪くないと、そう思いこぼした言葉。
その瞬間――ラトの全身が石像のように硬直した。
琥珀色の瞳が驚愕に見開かれ、兎耳がぴたりと動きを止める。
薔薇色の唇から垂れていた涎も、まるで時が止まったかのように空中で静止していた。
彼女の体が小さく、小刻みに震えていることが分かる。
俺の予想外の言葉に衝撃を受けている様子。
やがて――彼女の表情が徐々に変化し始めた。
狂気に満ちていた琥珀色の瞳が、まるで春の陽だまりのような温かな光を宿していく。
薔薇色の頬が夕焼け空のように紅潮し、兎耳がぴょこんぴょこんと恥じらうように動き始めた。
それは照れるような、それでいて深い感動に打ち震えるような、複雑で美しい表情の変遷だった。
そして次の瞬間、彼女の全身が興奮に包まれる。
「もちろんだよ!ラトちゃんに任せてね!」
ラトの力強い返答が居間に響き渡った。
その声には揺るぎない決意と、深い愛情が込められている。
しかし――
「あ……」
ラトの手から、銀色に光る短剣がするりと滑り落ちた。
感極まった彼女の指先から力が抜け、鋭利な刃を持つ凶器が重力に従って落下していく。
その刃はそのまま――
俺の腕へと――
「ぎゃあああああああ!」
結果として――
そんな予期せぬ事件のおかげで……
小瓶の三分の一ほどの血液貯蔵が一気に完了したのである。




