第二十話
―――それから、1週間の日々が静寂の中を流れ去った。
1週間と言う期間は短いようで、長いようで非日常が日常へと移り変わるには十分な時間であった。
石造りの廊下に響く足音、書庫に漂う古き革装丁の香り、居間を満たすラベンダーの芳香――
いつの間にかそれら全てが日常の一部になりつつある。
その変革ぶりに、自身でも驚くほどの順応性の高さに、人間の適応力とは凄まじいものだと感心せざるお得ない。
この一週間色々なことがあったが、予想を遥かに超えて、この奇妙な共同生活は驚くほど快適なものであった。
それに学ぶべきことは数多く、毎日が新たな発見に満ちていた。
何より喜ばしいのは、左腕の傷がほぼ完治したことだった。
あの戦闘で負った深い裂傷は、今では薄っすらとした痕跡を残すのみとなっている。
肩を回し、腕を振り上げても、もはや痛みは走らない。
指先まで血の巡りが良好で、握力も完全に戻っていた。
これもひとえに、ラトの献身的な治療の賜物である。
彼女は必ず朝起きると、蜂蜜色の髪を丁寧に梳かす。
その後、白いドレスの襟元を整えた清楚な姿で、回復魔法の詠唱に取り組んでくれた。
それも毎日、欠かすことなく……である。
彼女自身の魔力回復も必要だが、無理ない範囲で俺の回復に尽力してくれた。
時には―――
「あっ、間違っちゃった!」
……と呪文を間違えて頬を赤らめることもあった。
魔力の制御に手間取り、額に薄っすらと汗を浮かべることもよくあった。
それでも――彼女は決して諦めることなく、俺の傷を癒し続けてくれたのだ。
治療だけではない。
食事の世話から始まり、退屈しのぎのために書庫から興味深い書物を選んで持参してくれることまで――彼女の気配りは実に細やかだった。
朝には野菜の甘みが際立つスープ、昼には香草を効かせたパン、夜には滋養に富んだ煮込み料理。
どれも素朴ながら愛情の込もった味わいで、癖になる美味さ。
書物に至っては……
古代魔術の理論書、大陸各地の地理誌、そして冒険譚の数々――
退屈な療養生活を彩る知的な娯楽を、彼女は絶妙な選択眼で提供してくれたのである。
何を頼んでも嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに応じてくれる。
俺の些細な変化にも敏感に気づき、体調を気遣う言葉をかけてくれる。
時には俺が気づかないような小さな不便も、彼女が先回りして解決してくれていた。
そして何より――俺の苦悩を理解し、共に歩もうとしてくれる。
まさに男性の理想を体現したかのような、完璧な精神性の持ち主。
これほどまでに献身的で、思いやりに満ちた女性が存在するとは――
しか~し、騙されてはならない。
ラトがどんな人物か。もうすでに知っている。
光があれば影もまた存在する。まさに表裏一体の精神性。
ラトとはそういう人物だ。
彼女が俺の使った包帯を洗濯している時―――
「ふふふ……リオちゃんの匂い……もっと嗅いでいたいな……」
と……そんな独り言が、風に乗って俺の耳に届くこともあった。
あるいは料理を作っている最中―――
「これでリオちゃんの胃袋を掴んで、そのまま好きにさせて――えへへ、そしたら結婚だね。へへ、あはは、あはははははは」
と……笑い声が聞こえてくることも多々あった。
治療しているときも―――
「この塗り薬に惚れ薬でも足したら、どうなるんだろ。……え?いや、なんでもないよ!」
と……必死に誤魔化しているときもあった。
そんなときはいつでも、ラトの表情は決まって――
どこか恍惚とした色を帯びていた。
それらは一瞬の出来事で、すぐにいつもの愛らしい表情に戻る。
けれど確かに存在していた。
あの戦闘時に見せた狂気の残滓が。
あの戦闘時に感じた狂気。恐ろしいほど邪悪な顔。猟奇的な笑み。悪辣な声色。
戦闘時のラトを思い出させるには、十分な表情だった。
まるで深い湖の底に潜む何かが、時折水面に顔を覗かせるかのように。
それでも――俺は認めざるを得なかった。
ラトはとても……いい奴だ。
そしてとても、魅力的な女性だ。
俺はラトという女性に惹かれている自分を、否定できなかった。
例え結婚することになっても――
果たして不幸なことなのだろうか?
と本気で思っちゃうくらいには、彼女のことを信頼し始めている。
狂気の片鱗を垣間見せることはあっても、俺に向けられる愛情や信頼は純粋で一途だった。
妹を救うという俺の使命を理解し、共に歩もうとしてくれる彼女との未来は――
もしかすると、想像以上に幸福なものかもしれない。
本当に――惚れ薬を飲まされたんじゃないだろうな?
既に俺は、彼女の掌の上で踊らされているのかもしれない。
この居心地の良さも、安らぎも、全て計算され尽くした彼女の策略なのかもしれない。
そう考えると……無性に怖くなってくるわけなのだが――
少なくとも彼女との生活はまだ続けてもいいと、前向きに思えている。
そう言えば……彼女の料理の献身性について触れたついでに、一つの課題についても触れさせてもらう。
それは――食料問題である。
当初、俺は持参した保存食に頼る生活を覚悟していた。
魔法の布袋に詰め込んだ乾燥肉や固いパンの塊――それらが俺とラトの生命線……
になるはずだった。
しかし実際のところ、その懸念は杞憂に終わった。
ラトが居間の奥に蓄えていた食料の豊富さは、俺の予想を遥かに上回るものだったのだ。
塩漬けにされた上質な魚類、樽詰めの穀物、そして何より俺を驚愕させたのは――
普通なら王侯貴族の食卓にしか上らないような高級香辛料の数々。
サフランの金色に輝く花弁、胡椒の芳醇な香り、そして名前も知らぬ異国の調味料まで――
まるで高級商店の倉庫を覗いているかのような充実ぶりだった。
「こんなに食料があるのに、お前はなんで食料の備蓄はあまりないだとか――言っていたんだ?」
「……え!?これで足りるの?人間の男性って、とってもいっぱい食べるんじゃないの?ラトちゃんが知ってる限り、人間の男性は一週間でこれ全部食べるんだけど……」
「どんな化け物と比べてるんだ?」
どうやらラトは、人間という種族を途方もない大食らいだと思い込んでいたらしい。
思い出せば……俺にスープを食べさせた後、またスープを作ろうとしていた。
どうやら俺が体調が万全じゃないために食欲がないのだと、本気で思っていたらしい。
兎人族の食事量を基準にして、人間はその数倍の食料を必要とするのだと、真剣に信じ込んでいたのである。
そもそも俺は常にひもじい生活を送り続け、お腹いっぱいに食べたことなんて人生でない。
つまりそこに順応し、食は人間でも細い方である。
そのため、その食糧で一カ月以上、余裕で持つのだ。
この誤解が解けた時の彼女の驚きぶりと言ったら――
尻もちをつくくらいには驚いていた。
ただし――1つだけ、俺を困惑させる事実があった。
それはニンジンだ。
意味がわからないかもしれないが、本当にニンジンだ。
乾燥させたもの、塩漬けにしたもの、粉末状にしたもの――
とにかくあらゆる形態のニンジンが、居間の貯蔵庫を埋め尽くしていた。
その量たるや、食料の半分を占めるほどだった。
オレンジ色の根菜が山と積まれた光景は、もはや異様とすら言えるレベルである。
「なんでこんなにニンジンがあるんだ?」
「……え?リオちゃんこそなんでそんな意味のわからない質問をしてくるのか、理解に苦しむよ〜。毎日三食、ニンジンを食べるのが普通だよね?」
「まじかよ……。道理で毎回ニンジンが入ってると思ったよ」
そのとき初めて、俺は種族間の文化の差を感じた。
兎人族にとって主食は当然のようにニンジン。
ご飯よりもパンよりも麵よりもニンジン。
種族間の常識の違いとは、かくも深いものなのか……。
まあその程度といえばその程度の問題。
ニンジンなど些細なものだ。
結論として、食料の問題は皆無に等しかった。
携帯食の出番など、当分の間は訪れそうにない。
この先にはまだ四つもの階層が待ち受けている。
もしラトの説明通り、各階層で同様のシステムが採用されているとすれば、毎回の攻略後には相当な期間を休憩に充てることになるだろう。
傷の治癒、魔力の回復、そして次なる戦いへの準備――
これらを考慮すれば、長期戦は避けられない。
そうした状況下で、食料の心配をせずに済むのは何物にも代え難い安心感をもたらす。
食料の潤沢な蓄えは、まさに天佑とも言うべき幸運だ。
そして――もう一つ触れなければいけないのは、魔石の貯蓄だ。
ラトが事前に語っていた通り、魔石の備蓄もまた、食料と同様に目を見張るものがあった。
武器庫に隠されるように設えられた保管庫には、様々な種類の魔石が宝石箱の中身のように整然と並んでいる。
火の魔石は暖炉に温かな炎を宿らせ続け、水の魔石は清潔な水を絶えることなく供給してくれた。
夜毎に体を清める湯浴みも、日々の生活に欠かせない火の恵みも、何一つ不自由することがない。
この贅沢さは、俺の日常とは雲泥の差だった。
通常、魔石は品質によって価格が大きく左右される。
上質な魔石は一つで農民の月収に匹敵するほど高価で、日常生活で使用するなど夢のまた夢である。
俺のような身分の者が普段使うのは、大量にまとめて安く売られている低品質の魔石ばかりだった。
それらは魔力の純度が低く、すぐに効力を失ってしまうため、頻繁な交換を余儀なくされる代物だった。
しかし今、俺の手にあるのは明らかに最上級の品質を誇る魔石ばかりである。
透明度の高い結晶体は陽光を受けて虹色に煌めき、内包された魔力の濃密さは触れただけでも肌に伝わってくる。
これほどの上質な魔石を惜しげもなく使用できるとは――
まるで王侯貴族の生活を垣間見ているかのような感覚だ。
食料といい魔石といい、この奇妙な共同生活は俺の想像を遥かに超えた快適さ。
むしろ故郷での質素な農村生活を、遥かに凌駕する快適さと贅沢さを提供していた。
高級食材に溢れた食卓、上質な魔石による完璧な生活環境。
ダンジョンという危険極まりない場所で、俺は人生で最も豊かな暮らしを享受してるとかどんな皮肉だ。
一切不満のない生活――
いや、それは些か言い過ぎか。
強いて挙げるなら、俺にも二つばかりの不満がある。
その一つは――時間の把握が困難なこと。
ここはダンジョンの中だ。
正確にどこにあるのかは知らんが……太陽の恵みも月の導きも届かぬ閉ざされた世界。
魔法の明かりが放つ一定の光量は、時の流れを感じさせることなく室内を照らし続けている。
そんな常に屋内に籠もりきりの生活では、昼夜の区別すらつかなくなってしまうのだ。
体内時計は狂い、今が朝なのか夜なのか、まるで見当がつかない有様だった。
あれほど大量の時計が飾られていた時計の間の存在も、何の助けにもならない。
それらの時計は全て狂った時を刻んでおり、正確な時刻を示すものなど一つとしてなかった。
カチカチと響く針音は確かに時の流れを告げているものの、それが現実の時間と合致しているかは甚だ疑わしい。
ラトに時間について尋ねても――
「眠くなったら寝て、起きたくなったら起きればいいんだよ」
なんと自然で、野性的な解答だろうか。
彼女もまた時間感覚を完全に失っているようだった。
百年もの長きにわたってダンジョンの歪んだ時間の中で生活してきた彼女にとって、規則正しい時間割など無意味な概念なのかもしれない。
昼夜の区別のない世界で、生物としての本能に従って生活する――それが彼女なりの処世術だったのだろう。
結局のところ―――
俺はラトの生活リズムに合わせて起床と就寝を繰り返すことに決めた。
彼女が眠そうに目を擦り始めれば夜であり、兎耳をぴょこんと立てて活動的になれば朝である。
もう……そういうことにした。これ以上悩むのも、面倒くさい。
二つ目の不満だが――ベッドが一つしかないことだ。
寝室は一つ、そしてベッドが一つ。
となれば毎夜、ラトと同じベッドで眠らなければならないことは必至である。
寝室に設えられた天蓋付きの豪奢なベッドは、王侯貴族が愛用するような豪奢な代物。
羽毛を贅沢に詰め込んだマットレスは雲のような柔らかさを誇り、絹のシーツは肌に触れると蕩けるような滑らかさで身体を包み込んでくれる。
幅も奥行きも充分すぎるほど広く、二人が横になっても窮屈さを感じることはない。
密着するほど接近して眠る必要はなく、物理的な問題は何もない。
それは良かったのだが――
精神的な負担は別問題である。
寝るときラトは普段着を着替えて、白いネグリジェに身を包んで眠りにつく。
薄い絹の生地は彼女の肢体の美しい輪郭を仄かに透かし、蜂蜜色の髪は枕の上で絹糸のように広がっていた。
規則正しい寝息が小さな唇から漏れ、琥珀色の瞳は長い睫毛に縁取られて静かに閉じられている。
その寝顔は騙されそうなほどの無垢さを湛え、同時に女性としての妖艶な魅力を秘めていた。
そんな彼女を見ていると――
「……寝れない」
どれほど大人ぶろうとも、俺は紛れもなく普通の思春期の男である。
ラトほどの美少女と毎夜同じベッドで眠るとなれば、何も感じないはずがない。
心臓の高鳴りを抑えようと努めるほど、かえって意識は彼女の存在に集中してしまう。
枕に顔を埋めて深呼吸を繰り返し、ようやく眠りに就けるという具合だった。
我ながら――言いたくもないが、童貞すぎる。
まあ、不満と呼べるのはこの程度のものだ。
時間感覚の混乱も、夜の動揺も、この快適な共同生活の前では些細な問題に過ぎない。
基本的には何の不自由もなく、むしろ贅沢すぎるほどに恵まれた日々を送ることができていた。
そんな快適な暮らしをしてきた俺な訳だが―――
今日―――
俺は一つの重要なタスクに取り組まなければならなかった。
「行くよ……」
ラトの囁くような声が、静寂に包まれた居間に響いた。
琥珀色の瞳に宿る真剣な光、薔薇色の唇が小さく震えている――
彼女もまた、この重要な儀式の意味を深く理解していた。
蜂蜜色の髪が肩で揺れ、白いドレスの襟元が微かに開かれている。
その美しい容貌には、神聖な務めを前にしたかのような厳粛さが漂っていた。
「来い」
俺もまた覚悟を決めて応じる。
この瞬間を迎えるため、二人で入念な準備を重ねてきたのだ。
今更躊躇している場合ではない。
ラトの小さな身体が俺に向かって歩み寄ってくる。
白の縞模様の靴下に包まれた足が絨毯を無音で踏みしめ、刺繍の施された白い裾が優雅に揺れていた。
彼女の甘い体香が混じり合い、室内の空気を蠱惑的に彩っていく。
そしてついに、俺たちの距離は数センチにまで縮まった。
彼女の温かな吐息が俺の肌を撫で、琥珀色の瞳が間近から俺を見つめている。
長い睫毛が影を落とし、薔薇色の頬がほんのりと紅潮していた。
その美しい面立ちが俺の視界を埋め尽くし、時間が止まったかのような静寂が二人を包み込む。
彼女の小さな唇が微かに震え、まるで何かを囁こうとするかのように開かれていく――
「えい!」
「いたああああああい!!!」
俺の絶叫が居間に響き渡った。




