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あるいは現在のアダム、あるいは最後のイブ  作者: 山の下馳夫


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第3話 世田谷(駐屯地跡)・昼頃

 渋谷の街で、一定時間の呼びかけを終えた。私は銅像に手を振ったあと、ヘルメットを装着し幾つかの薬局やコンビニ、病院等に立ち入った。食料品や医薬品を厳選し、背嚢一杯に詰める。生活物資はすぐに確保できたので、生活の拠点へと戻る準備は早々に整った。


 足取りは重いが、帰る場所は一つしかない、「彼女」を一人にはできなかった。


 生活拠点として1年以上利用している、世田谷区の自衛隊駐屯地の跡地へと向かう。帰路においても危険な箇所がなかったのを確認できたので、次回は車を使うのもアリかもしれないと思った。


 拠点に帰還すると、もう一人の生き残りは、二人で整備した簡易墓地の前にうなだれていた。


「戻ったよ、絵理沙」


 彼女の非生産的な行動に多少のイラつきを覚えながらも、きわめて柔らかい声を作って呼びかける。スカートを履いた180㎝近い人物がゆっくり顔を上げた。ともに持ち上がった長髪は、この状況下にあっても色つやは悪くなかった。


「……おかえり、幸人」


 その人は、低い声で、私が家庭裁判所に掛け合い、やっとの思いで手にいれた男性としての名「幸人」を呼称した。彼女の名は後藤絵理沙ごとうえりさと言った。


「私たちの記念の地は、まあ、建物はそのままだったよ。あの様子だと物資もかなり残ってそう。清掃装置やロックダウンのおかげで死体が残ってないから、おススメの移転先かも」


 彼女、後藤と知り合ったのは、今から6年前、大流行以前のことだった。お互い大学時代渋谷という土地に縁が深く、区が主催したトランスジェンダーの集まりで顔を合わせたのが契機となり、その際に連絡先を交換していたのである。


 当時は心身の不一致に悩みながらも、お互い学問を究められるようにと励ましあう程度の関係だった。知人以上友人未満といったところだろうか、まさか混乱の中で再会し、ついには人類最後の生き残った二人(推定だが)になろうとは露とも思ってなかった。


「そう、死体が少ないのは良かったけど、死体が少ないってことは……もしかして」


 名前こそ華やかであるが、彼女の声は辛気臭く、含みのある言葉がこちらの気を滅入らせた。


「まあ当然といえば、当然だけど、通信機器は嘘をつかないね。生存者は確認できなったよ」


 私がそう告げると、彼女は静かにまた俯いた。双眸に玻璃を思わせる涙が光っていた。


 この壊滅的な状況にあって、彼女がストレートに感情を表すのを躊躇わないことに辟易した。だが、私はその不満を飲み込んで、何も言わないことにした。


 後藤は、私と反対で、私と同じ種類の人間だった。


 つまり、男性の肉体をもって生まれた女性で、学究の都合上、まだ性別適合手術を受けていない存在だった。


「――シャワーを浴びてくるよ、宿主を失ったウイルスが残っているとは思えないけど、一応ね」


 私はそれだけ言い残し、シャワー室へと向かった。発電機や燃料、水に関してはかなりの余裕があり、後藤の工学の知識により水回りに関しては快適な生活を送っていた。


 彼女の尽力なくしてはこの快適な環境はなかっただろう。だが、彼女は常に後ろ向きというか、悲観的で(人類の大半が死滅した現在では、当然といえば当然ではあるのだが)、こちらの気力を削ぐ言動が多かった。


 給湯器を起動させ、服を脱ぐ。持ち帰った生活必需品から、必要になるものをいくつか取り出しておいた。


 むしゃくしゃしているせいか、短い髪を洗う際には必要以上の力が入ってしまった。髪の毛に関しては、大流行の前は、自分が男性であることを主張するため、必要以上に短くしていたが、今は実用性を重視し短くしている。そんな些細な事柄からも、今だに自己を曲げず、長髪にしている後藤との価値観の違いを感じたものの、あまり気にしないように身を清めていった。


「あ……」


 シャワー室の床に血が垂れた。暦に関しての意識が希薄になっているとはいえ、考えてみればその時期だ。二日前から感じていた腰部の鈍痛は、忙しさゆえに忘却していた。普段なら、いくら精神が男であっても、月経を予測して生理用品を装着する程度のことはしている。


 それにしても、月経がはじまる瞬間というのは、やはりにどうにも慣れるものではない。この感覚は、私の精神が元来男のものであるからだと常々考えていたのだが、事実を冷静に鑑みれば、本来その能力を有する女性たちとて、周期的な出血には多大な不自由を感じるものである。


 この事実に気づいたとき、私は自分の浅はかさに呆れるとともに、かつて初潮が起きた際、自分の肉体に起きた変化を受け入れられず、こちらの気も知らず陽気なままだった妹を怒鳴りつけ、意に添わない肉体に産んだ母に恨み言を放ったことを悔やんだ。


 そして、人間の世界が滅びゆく今、この苦痛伴う肉体の仕組みを、昔のように単純に忌むことはできなくなっていた。


「もう、私しかできないんだ」


 水の音に自分の呟きがかき消されるのがわかったが、確かに私はそう言った。


 シャワー室に備え付けられた鏡を見ると、そこには亡くなった母と妹によく似た顔が映っていた。女性が有する貴い能力を二度駆使した母と、早世により活用が叶わなかった妹の在りし日の記憶が蘇る。生前、妹は自分の子どもが欲しいと、家庭を作りたいとよく語っていた。


 鏡の曇りを拭い、しっかりとその姿を見つめた。ホルモン剤による治療は体調不良を誘発するため、この過酷な環境下で生き残ることを優先し、早々と止めていた。今の私は、他人から見たら――そんなものが、今も彼女以外生き残っているのなら今すぐ会いたいが――もうどう見ても女にしか見えないだろう。


 私は視線を自分の胸へと下げた。かつては、自身が性的興奮を催す対象である乳房が自らの肉体についていることに拒否反応があったが、今自分の肉体を冷静に観察してみると、嫌悪感はなくなり、授乳のため、次なる世代を育てるために創造された器官は、神々しくさえ映った。


 私の体には、唯一この破滅的な状況に抗しうる能力が残っている。


 5年前に新型ウイルスをばらまいた人間、もしくは、かつて冷戦時に、核ミサイルのボタンを持った首脳たち、彼らが人類を左右できたのと同様に、いや反対に、今の私は人類を変革できる立場にあった。

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