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あるいは現在のアダム、あるいは最後のイブ  作者: 山の下馳夫


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第2話 渋谷・早朝(回想)

 今思い起こせば、あれは今回の大流行が始まりかけていた時期であったが、まだ病院の対応は緩やかで、危機感に欠けた対応をしていた。私は、消毒液が切れていたこともあって、入口付近の多機能トイレで自主的に手洗いをしてから、祖父の病室を目指した。


 


「――あの時は、まあ本当よくこんなに悪い手が打てるなって関心したもんだがねえ」


 昔気質であるものの、祖父は素直な人で、孫の来訪を素直に喜んでくれた。


「今回、あの時似てるなあ……、平成末、いや、実際には令和元年か。前よりやばい生物兵器だったら、これアウトかもね」


 矍鑠とした老人、という表現がよく似合っていた祖父、前川幸太郎は、大病院の個室でまたもキナ臭いことを言った。この時はそれほど深刻に受け止めなかったが、振り返ってみれば祖父の指摘は当たっていた。いや、被害の規模を考えれば、祖父のその指摘ですら楽観的だったのかもしれない。


「おじいちゃん、またそういうの? この前お母さんに怒られてたでしょ?」


 軽く窘めるように言うと、祖父は眼鏡の奥の瞳を細めて、にこやかに笑った。


 普段は努めて男らしい喋り方をしていたが、祖父の前では、つい子供の時、すなわち男女の境界線が曖昧だったころの話し方をしてしまう。


「悪い悪い、どうしても平成一桁生まれは、『陰謀論』が好きでなあ、そもそもあの平成の時代、カルト教団による化学兵器の使用とか、ノストラダムスの大予言とか、終末思想が生活から切り離せなくてな……」


 平成一桁どころか、平成元年生まれの祖父が語る、遠い時代「平成」には不思議な魅力があった。魔力と言い換えても良いだろう。未発達で混沌とし、倫理に欠けるそのあり様は、現代人からすれば未開の世界を想起させた。


 私は幼い頃から祖父の昔語りが好きだった。しかしながら、大学の史学科への入学を機に本格的に歴史や文化の勉強を始めてからは、祖父の話をそのまま鵜呑みにすることは無くなっていた。お見舞の品を整理しつつも、祖父が調子にのって子供のころは日本がアメリカと戦争していて、竹やりでB29を迎撃しようとしたと悪ノリしはじめたところで、言葉を遮った。


「おじいちゃん、私史学科なんだから、さすがにその嘘じゃだまされないよ。幸乃ゆきのだったら信じそうで怖いけど……」


 実際は私の高祖父、つまり昭和三年生まれの祖父の祖父でさえ、ギリギリのタイミングで第二次世界大戦のへの出征を免れたと伝え聞いている。祖父の冗談であるのは明白であった。


「ははっ、いやあコロナの時みたいに面会謝絶になったら、幸ちゃんと喋れるのもこれが最期になっちまうと思ってなあ……、つい」


 珍しく弱気を見せた祖父だったが、声の調子はいつも通りで、この時特に不安を抱くことはなかった。


「いつになく心配性だね。大丈夫、別に入院していても、50年前の時点で顔を見る手段はいくらでもあったんだし……」


 祖父の言葉は、そういう意味ではないと知りながらも、私は話を逸らすように、平然と慰めの言葉を紡いだ。この時点では兆しはあれど、祖父の死も、大流行も全く確信できることではなかった。


「まあ、そりゃいくらでも映像通信の手段はあるけど、そういうSFっぽいのじゃなくて、あ、SFっぽいなんて死語だよなあ。これだけ科学が進歩しちゃうと――」


 祖父もまた、自分の言葉に躓き、これより話は妙な方向へと逸れていった。古今東西のSFの名著で登場した技術が、どれだけ現代にあって再現されているかを孫と子で語り合う、奇妙なものとなったのである。


「――ある意味じゃあアンシブルとかもそうかもなあ、レッドハットが作った。あれの名前の由来『エンダーのゲーム』らしいけど、元をたどれば『ロカノンの世界』だろう? ほら、幸ちゃんも好きな、ル=グウィンのさ」


 祖父はIBMの子会社が作ったIT自動化ツールの名前の由来が、SF小説内の技術にあるという豆知識を披露した。


「へえ、そうか、元を辿ればル=グウィンだよね。『闇の左手』はおじいちゃんに教えてもらって何度も読んだよ」


 考えてみれば、読書の傾向なども含めて、祖父からは多大な影響を受けていた。この時私は、脳裡に巡る様々な感情を噛みしめ次の言葉を紡いだ。


「……そういえばそれで思い出したけど、性別適合手術、あと一年足らずで受けられそうなんだ」


 祖父と孫の奇妙な会話をきっかけに、私は、我が身に起こる予定の変化に触れることになった。アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』に話が及んだ時に、話の起点を得たと思い告白したのである。


 この名著では、生殖の際に雌雄が変化する両性具有の人々が描かれる。さすがに作中に登場するゲセン人のように、性別が変化するのが当然になったわけではないが、現実においても、性別適合手術の技術の進歩は目覚ましかった。2070年代には、万能細胞の技術を活用することで性転換したあとの新しい性別の生殖機能を獲得できるとまで言われていた。


 その技術革新を待つのも一応考えはしたが、己の子孫を残すことにそれほど興味を持てなかった身としては、より早く心身の統一を果たしたかったのである。


「お、それは良かった。昔から、体も男の子になりたがっていたものな」


 祖父もあっけらかんと、私の選択を肯定してくれた。まあ、そもそも、今まで祖父が私の生き方を否定したことなどなかった。肉体と心の性の不一致の他にも、史学への興味を見出してくれたのも大本を辿れば彼であったし、医者も気づかなかった食品アレルギーを発見し命を救ってくれたことや、胃腸炎になった両親の代わりに授業参観に駆けつけてくれたことさえあった、彼は私の最大の理解者で味方だった。


「うん、大学卒業のタイミングで、国内でやろうかなと、いま就活前でも、そういう猶予措置もあるし」


「うっ……、就活か。平成元年生まれの一番のトラウマワードだな」


 祖父は薄くなった胸を抑えて。苦しむふりをした。危うい冗談にこちらも破顔する。祖父が大学を卒業した平成24年は、就職率が最低であったそうで、祖父自身もまた酷い労苦を負ったと、今まで散々と聞かされていた。 


 こうして祖父と最後の面会は、悲愴な場面もほとんどなく、明るい雰囲気で幕を閉じることになった。祖父と日常会話の範疇で永訣したことに一抹の寂しさを感じなくもないが、祖父の命を奪ったのが流行り病でなかったこと、そして、祖父に自らの決意を伝えられたことは幸福だったと言えよう。




 己の性別とウイルス、まさに今の最大の懊悩を、最大の理解者と語った記憶を思い返してみたが、眼前の風景を見るとやはり途方に暮れてしまう。忠犬の像は主人どころか、私がここから去ればもう二度と人間に会うことがなくなるだろう。


「どうしようかおじいちゃん」


 社会が継続していれば、初志貫徹は美徳であったのは間違いない。己の理解者に自らの思うところを伝え、それが肯定されたのは素晴らしいことだっただろう。


 祖父の病状が急変し、亡くなったのは入院から2か月後のことだったが、その時には既に遺体との面会がかなわないほど、新型ウイルスの感染状況は悪化していた。その後、怒涛の勢いで世の中は変化、というか端的に言えば、破滅していった。


 急激な社会の崩壊は、言うまでもなく私の人生設計にも大きな影響を与えた。


 感染症のため、都内の博物館の学芸員に枠が空き、嘱託であるが、大学3年次に異例の若さで学芸員として採用されたのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。少なくとも人類が滅びる前に憧れの職に就けたのは、終末を迎えた世界では幸福な部類に入るだろう。


 採用から2か月後に勤務先の博物館が休館、大学も続けざまに休校となったとはいえ、私のように束の間の夢が許された人間がどれほど存在したことか……、


 妹の幸乃は、初めてできた彼氏とともに出かけたテーマパークにおいて、大流行を遠因としたテロに巻き込まれ、その若い命を散らすことになった。模試の判定に喜び、記念のデートを企画したのが思わぬ結果を招いた。なお、このテーマパークも感染状況から厳戒態勢を敷いており、かなりの入場制限を行って運営されていたのだが、テロの標的となったことで、その長い歴史に幕を閉じた。


 愛娘を失った両親は悲嘆に暮れていたが、精神の衰弱が彼らの命を奪う前に、順当に新型ウイルスによって死去することになった。この段階になると、すでに緊急病棟に入院ができるとかできないどころの話ではなくなっており、簡易的な葬儀の手続きすら難しくなっていた。


 私が天涯孤独となる頃には、行政、いや日本という国家はほぼ崩壊していたのである。


 それから先のことは、あまり思い出したくはない。


 ただ、面識のない死体をかき分けて自分の命を繋ぐことは、肉親を看取ることに比べてそれほど辛くなかったこと、文化財を扱うよりは、神経質にならなかったことくらいは『他者』に語ることができる。


 とはいえ、今となっては、私の世界に存在するその『他者』というのが、もはや一人しかいないというのが、最大の問題だった。

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