07.メルヴィン・キャトレット
子爵家へ移る前日。
私は鏡の中の自分の姿に惚れ惚れしていた。美人は3日で飽きるって、あれは嘘だよ。
ミーシャに髪をきれいに切りそろえてもらったおかげでどこからどう見ても美少年だ。
おまけにカサドゥス子爵が用意してくれたシャツにはボウタイがついているし、シャツもズボンもつるつるで、孤児院で着ているものとは手触りがまるで違った。
私は孤児院の女の子たちを捕まえては壁ドン、足ドン、顎クイ、バックハグ、ひざまずいて手の甲にキス…と、ありとあらゆる少女漫画キュン死にシチュエーションを繰り広げて遊び倒した。
「僕だけを見てよ」
「姫、どうぞ貴女とダンスをする栄誉をこの私に」
「どこにも行かせない」
まずい、これは楽しすぎる。
調子に乗った私は女子だけでは飽き足らず、リュリにも壁ドンをかましてみせた。まだギリギリ同じくらいの背丈だけど、すぐに抜かされてしまうんだろうなと黒い瞳を見つめながら思う。
少しは照れたり焦ったりしてもいいのに、リュリは静かにため息をつくと、逃げ場を奪われたままで私の顎を片手で掴んだ。
「えっ…?」
「お前な。誰にでもこういうことしてると、そのうち痛い目見るぞ」
唇が触れそうになる距離でそう言い捨てると、リュリは私の肩をぐっと押して去っていった。
さすがリュリ…本物はサマになるなと固まっていると、背後にいた年長の少女たちから今日一番の黄色い悲鳴が上がった。
これは…開けてはいけない扉を開けてしまったかもしれない。
ごめんみんな。内心あやまりつつ、私はカサドゥス子爵家遠縁の貴族子弟としての自分のイメージをかためていく。
完全に貴族のふりをするのはさすがに無理がある。設定には細心の注意を払わないとね。私はノートにまだ見ぬ少年について覚書を記していく。
『メルヴィン・キャトレット。カサドゥス家の遠縁にあたる没落貴族の遺児。平民に近い生活をしてきたからマナーや教養に偏りがある。非常に賢かったために子爵の目にとまり引き取られてきた。とにかく野心家で、カサドゥス家を継げるならなんでもやろうと心に決めている。そのためどんな雑事でも働くことを嫌がらない』
こんなところかな。
もとの粗末な麻のワンピースに着替えて、寝台の上に明日持っていく荷物をまとめておいた。といっても服は向こうで用意してもらえるから持っていくのはノートと鉛筆、毎年誕生日に司祭からもらったカードとリボンだけ。
同室のみんなは、まだ談話室で寝る前のお喋りを楽しんでいるからこの部屋には私ひとりだ。
なんとなく、もうここには戻ってこないのだろうなという予感がして鼻をすんと鳴らした。
物心ついたときから、ずっと寝心地の悪い寝台だったな。
ささくれだったサイドボードをそっとなでていると「ここにいましたか」とエクレール司祭が入ってきた。
「メリッサ、ちょっと執務室まできてもらえますか?」
子爵家でやらかさないようお小言でも始まるのかと、黙って司祭のあとについて行った。
司祭は引き出しから一本の万年筆とインクを取り出すと、私の前に差し出した。
「これをあなたに渡しておこうと思って」
「これは司祭の…」
神学校の卒業祝いに父親から贈られたと聞いたことがある。
とても大切なものだから誰にもあげられないのだと、ペンを欲しがった子に説明していたはずなのに。
「メリッサ。あなたに持っていて欲しいのです」
司祭はもう司祭じゃなく、お父さんみたいな顔をしていた。
「子爵家でも事務仕事を手伝うつもりなら、ちゃんとしたペンを一本は持っていて損はないでしょう。もし辛くなることがあったら、これを見て思い出してください。あなたには応援している人間がいて、帰れる場所があるということを」
エクレール司祭は、私がどんな気持ちでここを出ていくのかちゃんと分かっていたんだ。その上で、司祭なりに送り出そうとしてくれている。その姿に、泣きそうになったけど、絶対泣くもんかと拳をぎゅっと握りしめた。
「こんな立派な万年筆もらわなくたって、大事に育ててもらったんです、それくらいわかってますよ。だいたい、これを私がもらったら司祭が困るじゃないですか。」
「あなたはこの孤児院を立て直して私を生臭坊主にするのだと言いましたね。裕福になったら、その時は私に似合う豪奢なペンを買ってください」
そんなペン、いらないくせに。泣きそうな顔を見られたくなくて、エクレール司祭に抱きついた。
「豪奢な金ピカペンなんて、貧乏性の司祭には使いこなせないですよ。私がお金持ちになったら、目もくらむような高価な万年筆を買うので、その時はこのペンをお返しします」
「楽しみに待っていますよ。さ、明日の朝は早いからもう寝なさい。」
司祭は私を優しく抱きしめ返してくれた。腕も肩も骨ばっていた。
司祭が自分の食べ物を子どもたちにゆずらなくてすむように、子どもたちがお腹いっぱい食べられるように。死ぬ気で頑張ろうと思いながら、私は孤児院での最後の夜をすごした。
翌朝の別れはあっさりしたものだった。
みんな、私がそのうち帰ってくるのだろうと思っている。司祭とリュリだけが、覚悟を決めて送り出す人の顔をしていた。
待っててね。今にカゴに山盛りのパンと、鍋いっぱいのかたまり肉がはいったスープが食べられるようになるから…!
私は小さく頷くと、馬車に乗り込んだ。この瞬間、ただの孤児のメリッサは消えた。
ここにいるのはメルヴィン・キャトレット。没落貴族で野心ある少年だ。
孤児院が遠くなっていく。
馬車にゆられながら、そういえば買い出し以外で孤児院を出るのはこれが初めてだな、なんてことを考えた。




