7話
105日前
4月12日
そして僕は、三日ぶりに佳耶さんの病室を訪れることにした。
正面玄関をくぐるまでに、三、四回は引き返しかけた。それでも結局、僕は三日前と同じように受付を済ませた。
「田村佳耶さんのお見舞いに来たんですけど」
そう告げると、受付の職員は「少々お待ちください」と、以前よりもずっと厳格な口調で答えた。
前回とは、明らかに応対が違っていた。
言われるがままに待っていると、白衣を着た初老の男性がやって来た。柳のように細い身体をしていたその人は僕を見つけると、小さく手招きをした。
「えーっと、ちょっとこっちに来てくれる?」
言われるがまま、「主任医事長室」と書かれた部屋に入る。中は、ごくありふれた診察室のようだった。医者用の机があり、椅子があり、患者用の椅子がある。白く清潔なベッドまで置かれていた。
ただ一つ、普通の診察室とは違うところがあった。
壁に貼られた資料のすべてに、佳耶さんの名前が付いていたのだ。
佳耶さんの写真。治療経過らしき記録。検査結果。CTスキャンの画像に、レントゲン写真。
おそらく、そのどれもが佳耶さんのものなのだろう。
この部屋は、まるで佳耶さんの展示室だった。
写真の中の佳耶さんは、少しも笑わず、まっすぐにこちらを見つめていた。
僕はその視線から逃れるように顔を背け、目の前の男性に向き直った。
「えーと、私は田村佳耶さんを担当している原田といいます。君が田村さんのところに来た子?」
「……森川樹です」
「森川くんね。なるほど。そこの中学校に通ってるの?」
「そうですけど……」
原田先生は、僕のことをしげしげと眺めていた。まるで値踏みでもされているようで、どうにも居心地が悪い。
「佳耶さんの体調が悪いようなら、帰りますけど」
「ああ、いや、そういうことじゃないんだ。田村さんは基本的には普通の女の子と変わらないからね。体調も安定しているし、しばらくは大丈夫」
原田先生はそこで言葉を切った。
「まあ、そういう話じゃなくてね。――単刀直入に聞くけど、君、田村さんに何を言われた?」
柔和な笑顔を浮かべたまま、原田先生ははっきりと尋ねた。
「……あの、自分を相続しないか、って」
「なるほどね。やりそうなことだわな」
原田先生は、小さく笑った。
「本当なんですか?」
「何が? 彼女が病人だってこと?」
「あの人が……いや、佳耶さんの身体が、十億円になるって……」
人間の身体が十億円で売れる。そんな悪趣味な冗談を、信じろというほうが無理な話だ。笑い飛ばされるかもしれない。そう思っていた。
けれど、原田先生は真面目な顔で頷いた。
「件のパンフレットには載っていない話だからね。信じられないのも無理はないか」
原田先生は、壁に掛かったレントゲン写真へ横目を向けた。
「最初は……いや、今もそうなのかな。ある種の誤認から始まったんだよ」
「誤認?」
「あの病気の患者は、身体の組織が異常な変質を起こす。まあ、言うなれば、鉱物と同じ組成を持つ物質に変わるわけだ。国はこれを類を見ない病気として、死後の献体を求めていた。ここまでは、まあ、分かるだろう?」
僕は頷いた。
「でも、そこで問題が起きた。鉱物と同じ組成を持つ物質を、それも人間一人分に相当する量を、無償で国に引き渡すのはどうなんだ、って話になったんだよ」
原田先生は困ったように笑った。
「最初の患者の身体が鉱物に変わったときには、まだ問題にならなかった。ところが、誰かが言い出したんだろうね。人間の身体が変質したものなら、それは人間なのか。それとも、鉱物と同じ組成をしているのなら、やはり鉱物なのか。死体なのか、資源なのか。人間は、こんな問題に取り組む準備なんてできていなかったんだ」
僕は、病室で僕を試すように話していた佳耶さんを思い出した。あのときの佳耶さんは、どこからどう見ても人間だった。物質かどうかなんて議論を差し挟む余地もないくらいに。
そんな佳耶さんが、死んだら冷たい塊になってしまう。
その瞬間、彼女の身体は議論の的になる。人間と物体の境界に放り込まれ、田村佳耶という一人の人間が、その狭間を漂うことになる。
「医者も科学者も政治家も、あるいは哲学者も、この病気に夢中になった。神学者まで口を挟んできたよ。魂が失われた後に残るものが、あまりにも価値ある物質だったとしたら、値段を付けるのと、付けないのと、どちらが冒涜になるのか……ってね」
「そんなの、分かりません」
僕には、それ以外の答えが思いつかなかった。
「結局、鉱物と同じ組成の物質に変わるのなら、それに見合う金銭を支払うべきなんじゃないか、ってことになったんだよね。遺族だって、もらえるものならもらいたいだろうし。そもそも、入院だって無料じゃなかったんだから」
「……おかしくないですか? 人間なのに」
「あるいは、人間だからこそ」
原田先生は、確信に満ちた口調でそう言った。
「尊重しているって気持ちは、目に見えないからね。お金にすることで見えるようになるんなら、受け取る側の人間が決めればいい。そういう話でしょ」
僕には、原田先生の言っていることが正しいのかどうか、判断できなかった。
ただ、佳耶さんの身体に十億円という値段が付けられている。その事実だけが、妙にはっきりと頭に残った。
「佳耶さんに、相続人がいないっていうのは本当ですか?」
佳耶さんの死によって大金が手に入る。それが本当なら、次に気になるのはそこだった。
原田先生は、あっさりと答えた。
「本当だよ」
次回未定




