4話
108日前
4月9日
結局、僕はマフラーに負けた。
中学校が終わると、僕は再びあの道を通った。もちろん、今日は塀の上から変な女性が話しかけてくる こともない。
特別病院の塀沿いに歩いていくと、城門を思わせるような巨大な入口が現れた。城と違うのは、そこを守っているのが衛兵ではなく、監視カメラだということくらいだ。
じっとこちらを見つめるカメラを睨み返し、格子門を開ける。
一歩、敷地の中に足を踏み入れると、太陽の光を反射する巨大な建物が目に入った。小さな立方体をいくつも組み合わせ、それらをガラスと柱で繋いだような建物だった。塀とは違い、外壁はまだ建設当時の白さを保っている。
それなのに、僕はもう帰りたくなっていた。
「あの、田村佳耶さんのお見舞いに来たんですが」
受付でそう告げると、真面目そうな職員は一瞬、面食らったような顔をして言った。
「三階です」
返ってきたのは、それだけだった。まるで、誰かが見舞いに来ることなど、初めから想定していなかったかのようだった。
広々としたエレベーターに乗り、三階へ向かう。
そういえば、病室の番号を聞いていなかった。
そう気づいたのも束の間、階に着いた僕は、その疑問の答えを目の当たりにした。
三階には、病室が一つしかなかった。
残りの部屋には検査室があった。
この階は、丸ごと田村佳耶のために用意されているのだ。
おそらく、この階で最も眺めのいい場所の廊下の奥、窓から遠くの景色を眺める部屋の扉には、「田村」と書かれたプレートが掛かっていた。
僕は小さくノックをしてから、スライド式の扉を開けた。
そこには、昨日出会った女性ーー佳耶さんがいた。
佳耶さんは広々とした病室の出窓に腰掛け、長い髪を揺らしていた。さすがに室内ではマフラーも手袋も身につけていない。
ワンピースにも似た入院着から覗く腕や首はひどく細く、肌には光が当たるたび、どこか硬質な輝きが浮かんだ。
僕が面倒くさそうにマフラーを掲げてみせると、佳耶さんはにんまりと笑った。
「ご苦労」
その一言に妙な貫禄があって、僕は思わず気圧された。それでも病室の中へ入り、マフラーを彼女の手にしっかりと握らせた。
「これで、ちゃんと役割は果たしましたからね」
「いやあ、君が来てくれると思ってたから、朝からずっと出窓にいたんだよ。結構、絵になってただろ?」
佳耶さんは悪びれる様子もなく笑った。それから、ふと思い出したように僕を見る。
「ねえ、君の名前は?」
「森川樹です」
「樹ね。改めて、私は田村佳耶。学年でいうと大学一年生かな。大学では史学を専攻していたんだけど、もう半年も通っていないから、何を勉強していたのかも忘れちゃったよ」
そこで一度言葉を切り、彼女はいつものように、にっこりと笑った。
「鉱化病を発症して、半年くらい前からここに入院している。日本で確認されている、唯一の患者だよ」
まるで、今日の天気でも教えるような口調だった。
建設されたばかりの特別病院には、当初、三人の入院患者がいた。それから一人か二人、新たに患者がやって来たはずだ。
そして、半年前。
目の前にいるこの女性が、ここへやって来た。
ここに入院しているのは、今ではこの人一人だけらしい。
それが意味するところは、嫌でも理解できた。
「……鉱化病じゃなくて、『進行性全身鉱物化組織症候群』でしょう」
何を言えばいいのか分からず、とりあえず口にしたのは病気の正式名称だった。
それに合わせるように、佳耶さんはにんまりと笑った。
「さては君、そこそこ詳しいな?」
進行性全身鉱物化組織症候群。通称、鉱化病。
国が研究を推し進め、急遽この特別病院を建設するほどの、特殊な難病だ。
この病気の最大の特徴は、患者の身体が最終的に、文字どおり「鉱物」へと変質することにある。
発症すると、筋肉をはじめとする身体の組織が少しずつ変化し、やがて骨や血管、内臓にまで鉱化が及んでいく。変質した組織は、金や鉄、銅といった金属から、ダイヤモンドをはじめとする宝石まで、さまざまな鉱物に酷似した物質へと変わる。
そして、病状が進行するほど、元の身体は失われていく。
ただし、生きている間に身体のすべてが鉱物になるわけではない。患者は鉱化の進行によって少しずつ身体の機能を奪われ、やがて命を落とす。死後、その身体は残された組織も含めて鉱物へと変質するのだという。
いや、酷似しているという表現は正確ではないのかもしれない。
天然の鉱物と、鉱化病の患者の身体から生じた物質。それらを二つ並べたところで、どちらが自然に産出されたものなのか、どちらが人間の身体から生まれたものなのか、判別することはできないだろう。
現代の科学には、その二つを区別する術がない。
人間の身体が、価値ある鉱物へと変わる。
それだけ聞けば、夢のような話に思えるのかもしれない。けれど、その鉱物を生み出すために、そこにいた人間がどんな時間を過ごしたのか。それを考えれば、とてもそんなふうには思えなかった。
「新田町に住んでいる人なら、大体知っていると思いますよ。新田町は、この病院の恩恵で成り立っているようなところですから」
そう答えた僕の知識だって、新田町の集会所に置いてあるパンフレットを読めば分かる程度のものだ。
次回未定




