3話
七時を過ぎた頃、母が帰ってきた。
その気配を感じた途端、俄かに緊張が走った。
マフラーはクローゼットの奥深くに隠してある。
まず見つかることはないはずだ。それでも、用心するに越したことはない。
僕は自分から一階へ降りていくことにした。母が二階に上がってきて、部屋に踏み込んでくるのを防ぐためだ。
僕の姿を見た母は、不快そうにこちらを睨みつけた。そして、吐き捨てるように尋ねた。
「お父さんは?」
「まだ帰ってない……みたいです」
そう答えると、母は不満げに鼻を鳴らし、食卓に着いた。
それに合わせて、僕は台所に入り、母の分の冷凍うどんを作り始めた。
父がいる時は父が食事を用意してくれるのだけれど、今日ばかりは仕方がない。
うどんを茹でるのと並行して、自分の分の冷凍パンを解凍していると、父がのっそりと台所に入ってきた。
まだ四十代だというのに、その姿はすっかり老け込んでしまっている。
痩せこけた体に、ぎらついた目。
手負いの獣のようだった。
きっと、僕も似たような顔をしているのだろう。
僕ら二人が並んでいると、台所は小さな飼育小屋のように見えた。
「……ああ、樹。これ」
父は手に持った紙袋を持ち上げ、申し訳なさそうに笑った。
「中島さんのところの畑を手伝ってきたんだ。その代わりに、ほら。米と野菜も貰った」
「ありがとう」
「いいや、こんなの大したことじゃない」
父はそう言いながら、形の歪んだ冷蔵庫に野菜をしまった。
僕はうどん作りを再開した。
母の機嫌を取るために入れた卵は、この薄暗い家には似つかわしくないほど鮮やかな黄色をしていた。
うどんを母の前に運び、自分の分の冷凍パンを電子レンジから取り出す。そして、僕らは食卓に着いた。
母は僕に不平不満をぶつけながら、うどんをすすっていた。
昔の父は、今のような獣じみた顔つきではなかった。
理知的で、きちんとした大人だった。いつも優しく、楽しそうに笑っていた。僕に本を買い与えては、嬉しそうに目を細めていたことを覚えている。
父は、新田町の過疎化や経済問題を心底憂いていた。
家族が暮らすこの町を、どうにか活気のある場所に変えたい。そう考えた父は、勤めていた有名企業を辞め、新田町を拠点とした地域振興事業を始めた。
僕も母も、そんな父を応援していた。
それだけで、すべてがうまくいけばよかったのに。
結論から言えば、父の事業は思うようにはいかなかった。
新田町独自の地酒を造る。町で採れる農作物を県外へ広める。
言ってしまえば、ありふれた施策だった。
それでも、父は本気で新田町を盛り上げようとしていたのだと思う。
父が築こうとした「新田町ブランド」は根付かなかった。
やがて新田町は、山向こうにある越町に吸収されようとしていた。町の人々はその流れを受け入れ、これまでと変わらない日常を送っていた。
結果的に、新田町に最も大きな活気をもたらしたのは、新田特別病院の建設だった。
父は、それまでに広げた風呂敷のほとんどを畳まされた。
それでも、まだ諦めてはいなかった。
貯蓄が底をついても、父は折れなかった。
国内初となる新田特別病院の建設が決まるその時まで、父は新田町を諦めていなかったのだ。
そして、新田特別病院の建設説明会の日。
父は、ぽっきりと折れた。
「もう駄目みたいだね」
その言葉を最後に、父はすっぱりと働くのをやめた。
部屋に閉じこもり、ほとんど出てこなくなった。
それから僕たちの家計を支えるものは、生活保護費とNPOから支給される冷凍パンになった。
そのわずかなお金も、母が一身に担う「活動費」へと消えていった。
母はうどんを食べ終えたらしく、立ち上がってソファへ向かい、テレビを見始めた。
僕は食器を片付けるために台所へ向かった。
父は自分の食事を用意していた。
「樹も、もっと食べなきゃだめだよ」
「いや、今日はあんまりお腹が空いていなくて」
「そう」
それだけ言うと、父は再び調理に取りかかった。
「申し訳ないね。こういう生活をさせて」
父は時折、何かを思い出したかのようにそう呟く。
それでも、働く気にはなれないようだった。
こうして近所の畑を手伝うことはあっても、新しく何かを始めることはできない。
そんな父に、僕は何と声をかければいいのか分からなかった。
だから、いつも「大丈夫」とだけ答えていた。
折れてしまった人間に、どんな言葉をかければいいのだろう。
その時、リビングのテレビから甲高い笑い声が聞こえてきた。
僕たちがこうして会話をしていると、母は無言でテレビの音量を上げる。
それに合わせて、僕たちは会話をやめた。
父が自分のパンを食卓へ運ぶと、居心地の悪い時間が始まった。
無言で立ち尽くしている僕を睨みつけ、母が大きくため息をついた。
「それで、今日はどこに行ってたの?」
父に向けられた質問だった。
父が先ほどと同じ説明をすると、母は小さく舌打ちをした。
「中島のところは、最初に病院に屈した乞食でしょう」
苦々しげに吐き捨てる母の言葉に合わせて、父の背中がもう一回り小さくなったように見えた。
「中島さんのところでお米を貰ってきたから、しばらくはそれで凌げると思う」
父は、できるだけ穏やかな声でそう答えた。
「分からないの? それが汚染されているかもしれないでしょ。あっちからしたら、こっちが敵なんだから」
母はそう言い放った。
それでも、母は中島さんのところから貰った米を食べるのだろう。
僕は心の中でそう思った。
「あのね、違うの。国は大切な事実を隠している」
母の声に熱がこもり始めた。
「あそこに収容されているのはね、人間なんてもんじゃないの。国が保有している生物兵器なのよ。あれを撤去しない限り、新田町はおぞましい実験場にされる」
滅茶苦茶な陰謀論だった。
母がそれを語り始めると、父はそっと視線を外した。
こういう時の父は、自分の殻に閉じこもり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。
その時、僕の頭に浮かんだのは、今日出会ったばかりの佳耶さんだった。
生物兵器にも、病人にも見えない人。
春の風の中、手袋をはめ、マフラーを大切そうに扱っていた彼女の姿が思い浮かんだ。
特別病院の建設が決まった頃、鉱化病は原因不明の感染症だというデマが流れていたらしい。
建設説明会の時点では、病院の建設に反対する人も多かったという。
それでも、新田特別病院の建設は、数年後には消えてしまうかもしれない新田町に訪れた転機だった。
やがて鉱化病が伝染性の病気ではないと知れ渡ると、人々の反対は徐々に収まっていった。
今も反対派として活動しているのは、母を筆頭とする数十人ほどだ。
狭い新田町の中でも、さらに狭いコミュニティー。
母は毎日のように、その数人で集まり、先ほどのような陰謀論を語って聞かせている。
母がこうした活動にのめり込むようになったのは、父が部屋から出てこなくなってからだった。
二つの出来事の間に、どんな関係があるのかは分からない。
けれど、その相関関係が、何だか生々しくて恐ろしかった。
僕がリビングから出ようとすると、背後から母の舌打ちが聞こえた。
僕は何も言わず、二階へ上がった。
部屋に入ると、真っ先にクローゼットの中を確認した。
奥の奥に、マフラーがある。
あれも、これも、全部夢ではなかった。
こんなことになったのも、あの道を通ってしまったからだ。
そもそも、僕が特別病院反対のビラを剥がそうなんて思わなければよかったのだ。
母が新しいビラを作っていたことは知っていた。
古びたプリンターで何度も印刷に失敗しながら、それでも懸命にビラを刷っていたことも。
完成したビラを手に、嬉々として貼りに出かける母の姿が目に浮かぶようだった。
どうせ、誰も見ないビラだ。
それを剥がさなかったところで、特別病院が潰れるわけでもない。
それなのに、間抜けな僕はわざわざ剥がしに行ってしまった。
その先で佳耶さんに出くわすことなど、考えもしないで。
僕はマフラーをしばらく眺めてから、クローゼットの扉を閉めた。
新田特別病院。
僕に資格がないというのは、こういう意味だ。
どう考えても、迷惑な反対派のビラを貼っている女の息子が、堂々と足を踏み入れていい場所ではない。
それでも、編み上げられた『通行証』は、僕の部屋にある。
次回未定




