24話
44日前
6月12日
「右脚を切ることになった」
案の定というか、何というか。翌日の佳耶さんは、開口一番にそう言った。それも、いつもと変わらない何でもない口調だった。
「右脚の指の鉱化が、想像以上に速いんだって。そこから筋肉の鉱化や骨の変質も起こっている。だから、ここを切断すれば進行を食い止められるかもしれないんだ。ある意味、明るいニュースだよ」
そう言って、佳耶さんはからからと笑った。
昨日のことさえなければ、僕はすっかり騙されていただろう。もちろんショックは受けていたはずだけれど、それでも佳耶さんはすべてを受け入れているのだと信じていたに違いない。
何せ佳耶さんは、とても演技が上手い。僕は、そういう類いの嘘を信じたくてたまらないのだ。
「ここだけの話、もし主要な病巣である右脚を切断したら、鉱化そのものが止まるのかもしれないんだ。実際、以前入院していた患者さんの中には、切断治療で半年も鉱化を止められた人がいたらしい。悪いところを切り取れば、病気が治るかもしれないんだよ」
僕は何も言えなかった。
それは確かに、明るいニュースだ。
ただ、その二つの事実を組み合わせた先に導き出される結論に、佳耶さんが気づいていないとは思えなかった。
昨日聞いた、怒りに満ちたやるせない悲鳴が頭をよぎる。
「それは確かに……明るいニュースかもしれないですね。手術をしたら、治るかもしれないんでしょ」
「ああ、そうだよ。車椅子なら樹に押してもらえばいいし、元より失うのも惜しくないような身体だからね。一か八かに賭けたところで、どうなったって私の勝ちだ」
佳耶さんは弱音を吐かない。
僕は、佳耶さんの脚が切断される前に、あの場所を通りかかれたことに感謝してしまった。佳耶さんがあの日、僕に声を掛けてくれたことすら、きっと得難い幸運だったのだろう。
その事実が、かえって僕の気分を落ち込ませた。
佳耶さんから可能性が失われていく。それが恐ろしかった。
「もし私が治ったら、樹の世界を変えてあげられないね」
「……」
「それじゃあ、チェスでもしようか。今日も負けやしないよ」
今日も、いつもどおりの流れだった。
盤が置かれ、駒が並ぶ。
佳耶さんは今日も滞りなく強かった。僕の三手先まで読んで、迷いなく駒を進めてくる。あれだけ取り乱していたというのに、盤面では少しもミスをしない。
「あれ、樹。今日はちょっと強いね」
僕のプロモーションを防ごうとする佳耶さんが、意外そうに言った。
「これだけやってれば、ミスも減りますよ」
「……成長するね。うん、いいよ。それでこそ人間だ」
うまく相槌を打てなかった。
息を吐くたびに、涙腺が緩んでしまいそうだったからだ。
ここで泣いたら、すべてが終わってしまう気がした。目の前の佳耶さんが耐えているのに、僕が泣いてしまっては意味がない。
奥歯が割れそうなほど強く噛みしめていると、いつの間にか僕の駒が、キングを追い詰める位置まで進んでいた。
「お……」
佳耶さんも、僕の進軍に驚いたようだった。今日は、佳耶さんの攻め手に隙があった。彼女が作り上げた駒の流れを縫うように、僕は一歩ずつ駒を進めていた。
「樹、それを……。何、別にチェックをかけたからって勝ちじゃないんだからね。チェックメイトにしないと」
「わ、分かってますけど」
最悪なことに、駒を摘み上げようとした瞬間、指先が滑った。
駒は宙を舞い、床に落ちる。カン、と乾いた音を立てて転がっていった。
その駒を追うように、僕の身体も床に落ちた。
最低の連鎖だった。まったく笑えない。しかも、みぞおちまで強く打ってしまった。
思わず悶絶する僕の前で、佳耶さんがひょいと駒を拾い上げる。
「なーにやってんだか。馬鹿だね」
痛みに耐えながら、何とか座り直す。
「……すいません、佳耶さん」
「何、どうしたの?」
「ちょっと気持ち悪くなってきたので、吐いてきます」
「えっ、ちょっ、盤面覚えときなよ!」
これは別に、佳耶さんの前で泣いてしまいそうになったからではない。みぞおちを強く打ったせいだ。
僕はそのままトイレに駆け込み、吐いた。
涙の代わりに、別のものが出ていったような気がした。
口をゆすいで戻ると、僕の快進撃はすっかり終わっていた。盤面はいつもの負けパターンに入り、結局、今日も僕は負けた。
嘔吐と一緒に、勝利の種まで流れていってしまったみたいだった。
けれど、その代わりに分かったことが一つあった。
「攻められたときはヒヤヒヤしたけどね。どう? まだやる?」
「……やります」
僕は佳耶さんのことを、どうしようもなく好きになってしまっていた。
次回未定




