23話
45日前
6月11日
長い梅雨の季節。
僕と佳耶さんにとって決定的な出来事が起こったのは、その頃だった。
すっかり忘れていたけれど、僕らの生活の中心にあるものは、テーブルゲームなんかではなかった。進行性全身鉱物化組織症候群という、致死の病だった。
この頃には、僕らはずいぶん仲良くなっていた。お互いのことも、色々と知るようになっていた。
佳耶さんが未だにキュウリを食べられないこと。どうして歴史に興味を持ったのか。チェッカーの打ち筋や、どんな戦法を好むのか。そんなことまで、今では分かる。
けれど、病はそんな蓄積を少しも考慮してくれない。
どうにか成り立っていた僕らの日常を、たった一手で砂に変えてしまう。
僕はいつものように、新田特別病院へ向かった。
昼前に病院を訪れるのは初めてだった。だから、家からこっそり持ち出したパンを携えていた。
受付で挨拶をしてから、先に佳耶さんへ連絡しておいた方がよかっただろうか、と思った。
『佳耶さん、今日、学校がないみたいなので来ちゃいました』
そんな文面を打ち込んで、やっぱり消した。木立の中で見せた佳耶さんのような可愛げを、僕が真似できるはずもなかった。
佳耶さんの部屋の前に差しかかったところで、メッセージを送らなかった自分に、心の底から感謝した。
断末魔のような悲鳴が、耳に飛び込んできた。
「嫌だ! やだよ! そんなの絶対やだ! 嫌だってば!」
佳耶さんの声だった。
「そんなの嘘だ! だって、検査の結果は、検査の結果は悪くなかったのに!」
普段とはまるで違う叫び声。そのあとに、子供のような「わああーっ」という泣き声が響いた。
僕の知っている佳耶さんと、その爆発したような泣き声が、どうしても結びつかなかった。
火がついたように泣き続ける佳耶さんを、看護師さんたちが宥めている。ばたばたと物音がするあたり、あの細い身体を跳ねさせて、暴れているのかもしれない。
それだけで、僕は平静を失った。
足が震え、息が荒くなる。それでも、佳耶さんに気づかれないように、僕は息を潜めた。
その静寂を破るように、悲痛な声が響いた。
「脚を切るのは嫌だぁ……」
あまりにも単純な悲しみの言葉に、僕は息を呑んだ。
「そんなことしたって意味なんかないくせに! 畜生、切るくらいなら殺せ、さっさと殺せばいいだろ……」
病室には、原田先生がいるらしかった。
このままでは硬化が予想以上の速さで進んでしまうこと。手術をすれば、進行を一時的に食い止められること。
そんな説明が聞こえてくる。
それを廊下から聞いていた僕は、原田先生の言っていることがもっともだと思っていた。
つくづく冷静な頭だった。
佳耶さんが死んでしまうくらいなら、手術を受けた方がいい。そのことは分かっている。
けれど、佳耶さんの怒りや悲しみが、そんな理屈だけで収まるはずもなかった。
「……ああ、そうだ! 私の脚が切られたら、そこだけ変異するんだろ! 切り取られれば、死んだのも同じだ。その数十センチが、この病気の解明の一歩になるんだろうさ! 検体がさっさと欲しいんだろ!」
分かっていた。
佳耶さんの言葉は、本心ではない。原田先生がそんな人ではないことは、佳耶さん自身が誰よりも知っているはずだった。
それでも、今の佳耶さんには、こうして怒りをぶつけることしかできないのだろう。
ずっと手を尽くしてくれている相手に、心ない言葉を投げつけてしまうほど追い詰められている。そのことを、どうにか叫んで伝えようとしているのかもしれなかった。
周りの人は、誰も佳耶さんを責めなかった。
責められるはずがなかった。
誰も言い返さない中、佳耶さんの暴言は次第に小さくなり、弱くなっていった。そしてとうとう、彼女自身の啜り泣きにかき消されていった。
「……いくらになる」
そのときだった。
消え入りそうで、それでもはっきりとした声が聞こえた。
「いくらになる」
もう一度、佳耶さんが尋ねた。
壁一枚を隔てているだけなのに、僕には、涙に濡れた目でこちらを睨みつける佳耶さんの姿が見えるような気がした。
「右脚一本なら、一億以上にはなるだろう」
原田先生の声が答えた。
それを境に、佳耶さんのヒステリックな呻き声は、か細い啜り泣きへと変わった。
安心したのだ。
そう気づいた瞬間、胃液が込み上げた。
佳耶さんの壊れそうな心を、かろうじて支えているもの。それは、自分の身体に疑いようのない価値があるという事実だった。
何かを失うということは、それだけで人の心を容易に蝕む。
『脚を切らなければならない』という、どうしようもない悲劇。その喪失に一億円という価値が結びついているだけで、佳耶さんはほんの少しだけ救われる。
その価値の先に、僕がいるのだと思うと、震えが走った。
僕は足音を立てないように、わざわざスリッパを脱いだ。
誰かが出てきてしまう前に、その場から逃げ出そうと廊下を走る。足がもつれて、派手に転んだ。骨と床がぶつかる容赦のない痛みが、脳まで響いた。
「大丈夫ですか? 江都くん」
見かねた受付の人が、脇の扉から出てきてくれた。
その手を借りながら、僕は必死に訴えた。
「僕が今日ここに来たこと、絶対に言わないでください。お願いします。絶対に、田村さんには言わないでください」
鬼気迫る僕の様子に、受付の人は驚きながらも頷いた。
それを確認するなり、僕は新田特別病院を飛び出した。
聞いてはいけなかった。
知ってはいけなかった。
佳耶さんは、ずっとこんな激情を抱えていたのだ。
それなのに、チェッカー盤を挟んだ向こう側の佳耶さんは、すべての悲劇を置き去りにして笑っている。
そのことを知ってしまった僕が、今までと同じように佳耶さんを見られるはずがなかった。
次回未定




