22話
50日前
6月6日
六月を迎えるにつれて、佳耶さんの体調は少しずつ悪くなっていった。
この季節の日本は雨が多い。佳耶さんは窓を開けられないことを嘆いていた。それでも、僕が顔を出すたびに笑顔を見せてくれる。僕が声を掛けるまでは、しんどそうに肩で息をしていたというのに。
「雨って嫌だよね。こういうとき、癒着部分が痛むんだ」
「癒着部分って何ですか?」
「硬化している部分と、そうじゃない部分の境目。自分の肉が冷たい石にくっついちゃってるみたいで、痛いんだよ。ある程度時間が経てば収まるんだけどね。自分の身体がどんどん変わっていくのを感じるから、どうにも慣れない」
「怖いですか?」
「いいや。だって私は知っているから」
その言葉を聞いた僕は、密かにぞっとすることしかできなかった。
「……なんてね。樹が心配することじゃないよ。大丈夫。薬もちゃんと飲んでるし」
何が大丈夫なのだろう。
こうして話している間にも、佳耶さんの身体は刻一刻と変化を続けている。
「本当ですか? 医学的根拠は?」
「……生意気」
そう言いながら、佳耶さんは僕の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「ちょっと、やめてください」
「樹が心配すべきなのは、未だにボドゲが激弱なところだよ。どうなの? もう八十回以上は対戦してると思うんだけど、未だに惜しいところにも届かないよね」
「百回になるまでには頑張ります」
「伸びしろはありそうなんだけどなー。樹は裏の裏を読もうとして、小難しく考えすぎなんだよ」
「分かってますけど……ちょっと、今撫でた勢いで髪の毛抜けましたよね? それはマジで駄目です」
「お話し中のところ、失礼しまーす」
声のした方を振り向くと、看護師の小鳥遊さんが立っていた。
きっちりとまとめた髪から、一房だけ触角のような前髪が垂れている。
「検査タイムです。今日はあとちょっとなので、頑張っちゃいましょう」
「あ、もうそんな時間か。外が暗いと分かんないよね。それじゃあ樹、今日はここまでで」
「ごめんね、森川くん。佳耶さん、借りちゃうね」
小鳥遊さんは空の車椅子を押しながら、困ったように笑った。
小鳥遊さんは、佳耶さんと最も長い付き合いの看護師だった。僕がここに出入りするようになってからは、僕も何かとお世話になっている。
佳耶さんは小鳥遊さんに気を許しているようだった。小鳥遊さんがやって来ると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。それがいつものことだった。
けれど、今日は違った。
佳耶さんは表情を強張らせ、小鳥遊さんをじっと見つめていた。
「そんなに体調が悪いわけでもないですし、検査室までは歩いて行けますよ」
わざと挑発するような口調だった。
佳耶さんはすっと立ち上がり、そのまま小鳥遊さんの後ろについた。
「それじゃあ、またね、樹」
「あの……」
「うん?」
「頑張ってくださいね。……検査、とか」
もう少し気の利いたことを言いたかったのに、口から出てきたのは何とも微妙な言葉だった。
「大丈夫だよ。どうあれ、私は近づいてる」
「何にですか?」
「正解に」
その意味を尋ねるより先に、佳耶さんは行ってしまった。
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?日前
こうして夜道を歩いていると、僕にとっての正解は何だったのだろう、と思ってしまう。
あのとき、佳耶さんが見ていた正解は、僕が思い描いていたものとは違っていた。あの場で聞いておいてもよかったのかもしれない。
車椅子を押しながら、病室から持ってきた地図を確認する。
新田町のことなら何でも知っていると豪語していた佳耶さんの地図は、意外なほど小さかった。新田町の全景と、山を越えた先のほんの一部。それだけしか載っていない。
こうして見ると、やはり新田町は小さな町だった。そして、その町の中に囲い込まれるように建つ新田特別病院もまた、ひどく小さな場所に思えた。
僕は方角だけを確かめ、あとは道なりに進むことにした。
坂道は、進むにつれて少しずつ険しくなっていく。
さらに厄介なことに、この先には建物を示す印がついていた。
誰かが住んでいる。
僕の車椅子に載っているものに気づく、誰かが。
次回未定




