21話
61日前
5月26日
「第80回新田中学校体育祭を開式いたします」
校長先生のその言葉を合図に、周囲から熱気が湧き上がった。
五月下旬。ただでさえ暑いというのに、体育祭なんて面倒くさい。どうしてこういう日に限って、気温が高くなるのだろう。何かのジンクスでもあるのか。
校長先生や町長、体育委員の話を聞き流しながら、僕は佳耶さんのことを考えていた。
彼女に会いたい。
やがて競技が始まった。
障害物競走では、どうやらうちのクラスが一位を取ったらしい。次は綱引きで、僕も出場した。
結果は負け。
その後も競技は滞りなく進み、とうとう代表リレーの時間になった。
足が速いという理由で、僕は半ば強制的に代表に選ばれていた。
「一番レーン、一組……」
放送の声が、少しずつ遠のいていく。
佳耶さんに会いたい。
僕の前の走者にバトンが渡された。クラスは現在二位。僅差ではあるものの、一位には届いていない。
けれど、正直なところ、勝敗なんてどうでもよかった。
僕はバトンを受け取るため、レーンに入った。
「樹! 頑張れ!」
聞き覚えのある声がした。
「佳耶さん!? なんでここに……」
驚く間もなく、バトンが手渡された。
佳耶さんに、かっこいいところを見せたい。
そう思った瞬間、僕は全力で走り出していた。
何かをするときに別のことを考えていると、全力を出せないと言うけれど。
もしかしたら、違うのかもしれない。
クラスメイトに称賛され、疲れ果てた僕は、佳耶さんの姿を探していた。
「やあ、樹。私に気づかないなんて、愛が足りないね」
声を聞いて、思わず振り向く。
「えっ……あ」
「何だそれ。幽霊でも見たような顔しちゃってさ」
木立の中に、佳耶さんが立っていた。
いつも着ている入院着の代わりに、ラフなシャツと黒いズボンを身につけている。肩に掛けた赤い鞄も、普段の佳耶さんからは想像できないものだった。
「……来ちゃった」
「来ちゃった、じゃないですよ。何してるんですか」
「体育祭に行ってみたくてさ。こっそり抜け出してきたんだ」
「何やってるんですか! 怒られるんじゃないですか?」
「まあね。監視カメラにも映ってるだろうし。でも、体調を理由に怒られたところで、死ぬのは私の方だからなあ」
佳耶さんはへらっと笑い、髪を掻き上げた。
それを見ながら、ここに来る前の佳耶さんは、こんな感じだったのだろうかと思う。こうして立っている姿は、とても病に侵されているようには見えなかった。
とはいえ、佳耶さんは本来、自由に外を出歩いていい人ではない。こうして外に出たせいで、鉱化が一気に進んでしまったりしないだろうか。
そう考えると、どうしても焦りが募った。
「大丈夫だよ。こうして出歩いただけですぐに死ぬってことにはならないから。それとも何? あの特別病院には結界でも張ってあって、そこから一歩でも出たら死ぬって思ってる?」
「そういうわけじゃないですけど、心配する気持ちくらい察してくれませんか」
「地図を見て知ってたけどさ、ここってぐるっと山に囲まれてるんだね。ここに来たときは気づかなかったけど、こんなふうになってたんだ。すごいね」
佳耶さんは僕の言葉を聞き流し、山の上にある学校から町を見下ろした。
「まあ、アクセスはあんまりよくないようだけど」
「佳耶さんも、ここじゃなくて、別の鉱化病専用病院に行った方が便利だったんじゃないですか」
「ここはここでいいものだよ。隔離されてるし、静かだし。ぐるっと山に囲まれた町にある、ぐるっと囲まれた特別病院。その中に囲われているのが、この私ってわけだね」
そう言いながら、佳耶さんは勢いよく両手を広げた。
とても大人には見えない仕草だった。
次の瞬間、バランスを崩した身体が、ふわりと傾く。
言わんこっちゃない。だから気をつけなくちゃいけなかったのに。
「わっ」
「佳耶さん!」
気づけば、僕はごく自然に佳耶さんの手を取っていた。
「あ」と声を上げるより先に、佳耶さんの手が僕の手をしっかりと握り返す。
おかげで、佳耶さんは転ばずに済んだ。
その手は冷たかった。
人間のものとは思えないほど低い体温。触れた指先には、どことなく硬さもあった。
そんな僕を宥めるように、佳耶さんが言った。
「……私ね、病気のせいで体温が本当にすごく低いんだよ。でも、冷えはよくないらしくてさ。だから樹と出会ったときも、マフラーと手袋をしてたんだ」
「冷えがよくないのに、なんで今日は手袋を忘れてきたんですか」
僕は質問を無視して、黙って手を引いた。
こういうとき、うまく返せる言葉を持っていなかったからだ。
きっと今の僕は、ひどい顔をしているだろう。
そう思っていると、佳耶さんがげらげらと笑い出した。それにつられて、ますます顔が熱くなる。
佳耶さんの手は、少しだけ骨ばっていた。
筋線維の硬化について考えを巡らせる。けれど、どれだけ真面目に考えようとしても、佳耶さんの笑い声に思考を邪魔されてしまう。
やがて、佳耶さんはごく自然に僕へ手を伸ばした。
「はい」
「何ですか」
「手だけど。繋がないの?」
「繋ぐ理由とかないですよね」
「繋がない理由もないだろ」
そんなことを言い合っているうちに、佳耶さんは少し強引に僕の手を取った。
手は相変わらず冷たく、硬かった。それでも、僕の手を握る力は確かだった。振りほどくことだってできた。
けれど、次の競技が始まるまでの間、どうするべきか考えているうちに、僕の出番が来てしまった。まったく、笑えない話だ。
どういうわけか、手を繋ぐことだけが、ひどく大切なことのように思えてならなかった。
馬鹿げた話だけれど、今日、佳耶さんが手袋を忘れてきてくれてよかったと、心の底から思った。
佳耶さんの手がこんなにも冷たいことすら、僕は今日初めて知ったのだ。
そんな有様だったから、テーブルゲームでも当然のように負けた。
佳耶さんは僕の弱さを笑い、僕は今日も数手前のミスを探す。勝ち誇る佳耶さんの顔があまりにも幸せそうで、何だかこのまま一生勝てなくてもいいかもしれない、とさえ思った。
そのくらい、今日の出来事は衝撃的だったのだ。
だから、忘れていた。
僕が一生、佳耶さんに負け続けることはできないのだということを。
病は静かに佳耶さんを蝕み、いつかすべてを壊す、その日を待っていたのだということを。
次回未定




