20話
75日前
5月12日
いつものように将棋を指していた。
不意に、佳耶さんが声を上げた。
「あー、集中力切れた!」
僕は佳耶さんの相手をするためにここへ来ているのに、何なんだと思った。
「樹、ちょっと散歩に行こうか」
「分かりました」
僕らは受付まで降りて、看護師さんに声をかけた。
「田村さん、外出するなら事前に外出届を出しておかないと……」
佳耶さんは、しまった、という顔をした。どうして今まで気が付かなかったのだろう。しばらく考え込んだあと、彼女は残念そうに言った。
「……樹、戻ろうか」
「んー……分かりました。今回は特別に許可を出します」
その言葉を聞いた瞬間、佳耶さんは振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「あっ、言ったね」
なんて性格の悪い人なんだ。
でも、僕は佳耶さんのそういうずる賢いところが、可愛いと思った。
「田村さん、私服に着替えてきてくださいね。あと、森川くん。何かあったら絶対に連絡してね」
「樹、覗きたくても覗いちゃダメだぞ」
佳耶さんはそんなことを言い残し、ルンルン気分でエレベーターに乗っていった。
「森川くん、田村さんの相手、大変でしょ?」
看護師さんにそう尋ねられ、僕はすぐに答えを出せなかった。
確かに、大変といえば大変だ。でも、佳耶さんと話すのは楽しい。
「別に、大変じゃないですよ」
少しの沈黙が流れた。
看護師さんとは、普段は挨拶を交わす程度だ。特別親しいわけでもない。だからこそ、次に何を話せばいいのか分からなかった。
「森川くん、私はね、田村さんと一緒にいてほしいんだよね」
「……はぁ」
「田村さん、森川くんが来る前は、同じ患者さんとも話そうとしなかったし、私たちとも必要最低限の会話しかしなかったんだよ」
意外だった。
佳耶さんは、てっきり人と話すのが好きな人なのだと思っていた。
そう考えていると、エレベーターの到着を知らせる音が鳴った。
「樹、お待たせ!」
佳耶さんは、すっきりとした白いTシャツの上に、ざっくりとしたウール素材の深緑色のカーディガンを羽織っていた。深い森を思わせるダークグリーンが、白い肌によく映えている。少し色落ちしたジーンズも、彼女の飾らない快活な雰囲気によく似合っていた。
いつもより少し大人びている。それでいて、どこか少女のような無邪気さも残している。
僕は一瞬、言葉を失った。
「どう? 似合う?」
佳耶さんは僕の視線に気が付くと、カーディガンの裾を少し広げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「……はい。似合ってます」
僕が小さく頷くと、佳耶さんは「よし!」と満足そうに声を弾ませ、さっさと出入り口へ歩き出した。
カーディガンの袖は少し無造作にまくられていて、そこから白い手首が覗いている。そこから少し覗く硬質な肌が僕を現実に引き戻した。
「森川くん、よろしくね」
後ろから看護師さんの優しい声が飛んできた。
「はい、行ってきます」
短く答え、僕はローファーの音を響かせながら、前を行く佳耶さんの背中を追いかけた。
一歩外へ出ると、五月の始まりの冷たい空気が頬をかすめた。
「風は冷たいねぇ」
佳耶さんはそう言いながら、深緑色のカーディガンに包まるように、少しだけ身体を縮めた。それでも、久しぶりの外出が嬉しいのか、辺りの街並みを楽しそうに見渡している。
さっき、看護師さんが言っていたことが、頭の奥で何度も繰り返されていた。
『田村さん、森川くんが来る前はね』
僕の隣を歩く佳耶さんは、そんな僕の迷いなど知る由もない。不意に振り返ると、僕の顔を覗き込んできた。
「ねえ、樹。どこ行こっか? 私、新田町について全然知らないからさ」
彼女の瞳が、きらきらと輝いていた。
ずる賢くて、少し強引で、それでもどうしようもなく愛おしい笑顔。
僕はやっぱり、今日もこの人に振り回されるしかないのだろう。
そんな諦めに似た幸福感を覚えながら、僕は佳耶さんの隣を歩き続けた。
次回未定




