25話
42日前
6月14日
そして、その事実はひどい毒となって、僕を蝕んでいった。
佳耶さんの手術の日まで、僕は生きている心地がしなかった。彼女のことが好きだと自覚してしまったことで、苦しさはなおさら増していた。それでも、佳耶さんにその胸の内を打ち明けるわけにはいかなかった。
そもそも、僕が好きだと言ったら、佳耶さんはどんな反応をするだろう。
もしかすると、相手にすらされないのかもしれない。子供が何を言っているんだと、からかわれるかもしれない。そんなことを言われたら、いよいよ立ち直れなくなってしまう。
佳耶さんは手術を目前にしても落ち着いていた。チェスで僕を負かしては、楽しそうに笑っていた。
あれ以来、僕はチェックをかけることすらままならなかった。無理に駒を進めてプロモーションを狙おうとした瞬間、盤面のあちこちを包囲されている、なんてことも珍しくなかった。これまでの最高成績は、引き分けだった。
お互いの駒が一歩も動けなくなる膠着状態。佳耶さんによれば、こういうことはチェスだけでなく、将棋にもあるらしい。千日手、というそうだ。
「ついにここまで来たとはね」
「こういうのって、よくあるんですか?」
「本当は結構あるよ。今までは君と私の実力差が大きかったから、起こらなかっただけ」
その言葉に、僕は密かに落胆した。けれど、佳耶さんの方は嬉しそうだった。
「生憎、私には千日も残されていないからね。仕切り直そうか」
どこにも進めない盤面は、そのまま僕と佳耶さんの状況を表しているようにも見えた。
膠着状態の千日手。その先に、佳耶さんはいない。
どうしていいか分からなかった僕は、とりあえず話を聞いてくれそうな人に相談することにした。
一階でふらついていた原田先生を捕まえ、近くの部屋に引きずり込む。けれど、僕の話を聞いた原田先生は、ただひたすらに眉をひそめるだけだった。そして、呆れたように言った。
「君な、いきなり浮ついたことを相談しに来るんじゃないよ」
「浮ついたことって何ですか。……僕はその、佳耶さんが僕のことをどう思っているのか、聞きに来ただけです」
「これで『弟みたいなもの』なんて言われたら、また喚くんでしょう」
「喚きはしませんけど……。その、ずっと思ってたんですよ。どうして佳耶さんは、僕に相続させようとしたんでしょうか」
「知るわけないでしょ。こっちだって、田村さんから森川くんについて聞いてることしか知らないんだから」
「原田先生も知らないんですか」
「案外、そこに君がいたからじゃないの」
「……ちょっと傷つくんですけど」
「いいじゃない。君以外は、そこにいなかったんだから」
そう言われると、あの日の巡り合わせに感謝するしかなかった。
他の誰でもよかったのかもしれない。それでも、僕でよかった。あの瞬間の運命に、すべてを懸けてもおかしくないと思えた。
「にしても、ませてんねー。ちょっと予想してたけど、まんまと田村さんに惚れちゃってさ」
「……もう仕方ないじゃないですか」
「お、否定しない」
「否定できたらよかったんですけど」
「よかったんだけどな」
原田先生は、まるで悪天候を嘆くような声でそう言った。
「俺個人の話で言うとね、鉱化病の患者に惚れるのは勧めない」
「……それは、佳耶さんがいずれ死んでしまうからですか?」
「それもある」
だとすれば、それ以外の理由は何だろう。
僕の疑問を察したように、原田先生はゆっくりと口を開いた。
「……あの、原田先生」
「何?」
「鉱化病は価値を食う病だって言った人がいたんです。鉱化病の患者を好きになったら、周りの人間は証明し続けなくちゃいけないんですって。その人を好きだってことを」
「ああ、十億円じゃなくて、その人をってこと?」
「露骨に言いますね」
「でもな、この場合においては、十億円と田村さんは同じものだよ」
原田先生は真面目な顔でそう言った。
「勧めない理由は、それですか?」
「それもある」
今度は、さっきとは違う調子だった。
「なら、証明する方法ってないんでしょうか。……これさえ証明できれば、僕は佳耶さんのことをちゃんと好きでいられますか」
「待った待った。あのねえ、気持ちの証明なんてできるはずないのよ。恋とか愛とか、打算だって目には見えないんだから」
「だって、それならどうしたらいいんですか。そんなの……」
「みんな、そういう不自由な中でやってるの」
分かったような顔で、原田先生はそう言った。
でも、鉱化病に侵されている佳耶さんにとっては、そんな普通は通用しないんじゃないだろうか。
「でもまあ、しんどくても好きなんだから、それこそ仕方ないでしょ。こういうのって、駄目だって言ったって無駄なんだから。潔く田村さんに振られた方が、諦めもつくんでしょうよ」
「やっぱり振られると思いますか?」
「ああ、何か面倒な展開になってきた」
原田先生はひらひらと手を振り、匙を投げた。
帰りなさい、とでも言いたげな先生に向かって、僕は「あとはもう一つ」と切り出した。
何も、こんな恋愛談義のためだけに先生を呼び止めたわけではない。
浅く息を吐いてから、僕は尋ねた。
「佳耶さんの手術について聞いてもいいですか」
原田先生はあからさまに迷いを見せた。それでも、やがて口を開いた。
「田村さんからは、どう聞いてる?」
「硬化が始まった脚を切る、としか聞いてないです」
「まあ、簡単に言えばそうなんだけど」
「脚を切ったら、佳耶さんの病気は治るんですか?」
「それは分からない。分かっているのは、硬化を放置していたら確実に死ぬってことだけだ」
分かっていた話なのに、心の奥が冷えていく感覚がした。
「あの病気には、明確な治療方法がない。もちろん、国から認可された新薬は随時試しているし、田村さんにも協力してもらって、病気そのものの解明を進めている。今回の切除で進行を遅らせて、そのうえで各種治療がうまくいけば、治る可能性だってあるだろう」
「……そうですよね」
「これからの展望についても聞く?」
原田先生がわざわざ尋ねてくれたのは、きっと僕のことを気遣ってくれているからだろう。
それでも、ここまで来て引き返せるはずがなかった。
「はい」
「この硬化のペースだと、田村さんは恐らく一週間も経たないうちに死ぬ」
一瞬だけ息を呑んだ。
それでも、目を逸らさずに原田先生の次の言葉を待った。
「この病気で亡くなるときは、何も全身が硬化して死ぬわけじゃない。どちらかというと、致命的な部位に硬化が起こることが原因だ。血栓みたいなものだね」
そう言いながら、原田先生は近くにあったMRI写真を引き寄せた。それを指差しながら、説明を続ける。
「上半身に硬化が見られたときが一番怖い。といっても、症例自体が少ない病気ではあるんだけどね。首から上……いや、そこに限らず、胸から上に硬化が出るとかなり危険なんだ。硬化が起こって致命的になるのは、主に肺、首、脳、心臓。ここは手術で摘出することもできないし、硬化した時点で手遅れになっていることも多い」
「佳耶さんには、まだその兆候はないんですか?」
「右腕に若干の硬化が見られるけれど、今のところ、彼女にそれらしい兆候はない。でもね、これだっていつ変わるか分からない」
「一週間っていうのは……」
「脚の切断を行う段階だと、上半身にも硬化が起こるのは時間の問題だ。手術が成功しても三か月。そうだな、長くて三か月かね」
原田先生は、少しも言葉を濁すことなく、はっきりとそう告げた。
その態度が、今はかえってありがたかった。
「どうよ。これでもまだ、振られるのが怖い?」
「当たり前じゃないですか」
「だよなぁ。俺もその立場ならそうだわ」
原田先生は、まるで他人事のように笑っていた。
ふと、病室のカレンダーに目を向けた。
そこに記された日付は、狂うことなく先へ進んでいく。
どうやら佳耶さんは、夏の始まりとともに死んでしまうらしかった。
次回未定




