1話
109日前
4月8日
最初の間違いは、僕が新田特別病院に隣接する道を通ったことだった。
新田中学校から家に帰る道はいくつかある。
わざわざこの道を選ぶ必要なんてなかった。
それなのに、その日に限って、僕はこの道を選んだ。
僕の暮らす新田町は、周囲を山に囲まれた小さな町だ。
人口は一万人ほど。
都会と比べれば、あまりにもささやかな場所だった。
そんな新田町の中でも、特別病院の近くは、とりわけ人通りが少ない。
みんな、あの道を避けている。
特に、病院に患者がいる時は。
新田特別病院。
そこは、ある病気の患者を受け入れるためだけに建てられた、特殊な療養施設だった。
僕は病院を囲む高い塀の横を歩いていた。
その塀には、何枚ものビラが貼られている。
『鉱化病患者は出ていけ』
『特別病院を今すぐ廃院しろ』
『元の新田町を取り戻せ』
足が止まった。
特別病院ができてから、新田町は少しずつ変わった。
病院を嫌う人間は少なくない。
こうしたビラや誹謗中傷が貼られることも、珍しくなかった。
僕はしばらく、その文字を眺めていた。
そして、小さく息を吐く。
手を伸ばし、一枚のビラを剥がした。
その瞬間だった。
強い風が吹いた。
僕の手からビラが一枚、宙へ舞い上がる。
紙は塀を越え、その向こうへ吸い込まれていった。
そして、それと入れ替わるように何かが塀の向こうから飛んできた。
「マフラー?」
反射的に手を伸ばす。
僕が受け止めたのは、一枚のマフラーだった。
季節は春。
とはいえ、四月上旬はまだ肌寒い日もある。マフラーをしていても、決しておかしくはない。
問題は、その持ち主が塀の向こう側にいることだった。
僕はマフラーを握ったまま、塀を見上げた。
「そこの少年」
涼やかな声がした。
塀の上に、一人の女性が座っていた。
病衣を身につけている。
長い髪が春の風に揺れていた。
彼女は僕の手元を見ると、ふっと笑った。
「ナイスキャッチ。拾ってくれてありがとう」
そう言って、彼女は僕が先ほど受け止めたマフラーを指差した。
「それ、よければ返してくれないかな」
彼女の手には、いつの間にかそのビラが握られていた。
「それと交換しよう」
「ごめんなさい。でも、僕が貼ったわけじゃないんです」
すると彼女は、少しだけ目を丸くした。
「知ってるよ」
その手には黒い手袋が嵌められていた。
きっと病院の敷地内を散歩していたのだろう。
患者にしては、ずいぶん自由な人に見えた。
それに控えめに言って、きれいな人だった。
冬の風に長い髪を揺らしながら、病院の塀の上に座っている。
その姿は、この場所には似つかわしくないほど幻想的だった。
「特別病院の人ですか?」
その場の雰囲気に飲まれて、我ながら間の抜けた質問をしてしまった。
すると彼女は、少し笑った。
「そうだよ」
そして、自分の胸元にそっと手を添えた。
「私は病人なんだ」
いたずらを思いついた子供のような笑顔だった。
整った顔立ちをしているのに、目を細めて笑うその表情は、妙に幼く見えた。
そこで僕は、手に握ったままのマフラーを思い出した。
「あ、そうだ。これ……」
僕は急いでマフラーを持った手を伸ばした。
けれど、彼女は受け取ろうとしない。
困惑する僕をよそに、彼女は楽しそうに笑っている。
「返したいなら、私の病室まで持ってきてよ」
「病室?」
「うん。普通に入れてあげるから」
「僕は、そこに入る資格がないので」
そう答えると、彼女は少しだけ首を傾げた。
そして、また笑う。
「病気は通行証じゃないよ」
その言葉に、僕は黙った。
彼女はまた楽しそうに笑った。
そのとき、ようやく理解した。
目の前にいる女性が、あの奇病の患者なのだと。
そして、新田町で聞いていた噂が本当なら、この人は今、この日本で唯一の鉱化病患者だった。
「病人には見えないですね」
思ったことが、そのまま口から出た。
すると彼女は、少し得意そうな顔をした。
「病人だって、塀くらい登れるよ」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
彼女は笑った。
それから、自分のマフラーを指差した。
「そのマフラーは大切なものなんだ。投げたりなんかしないでほしいな」
そう言うと、不意に彼女の姿が塀の向こうへ消えた。
「それと」
塀の向こうから声だけが聞こえてくる。
「私は田村佳耶!」
少し遠ざかった声が続く。
「遠慮しないで、佳耶って呼んでくれるかな! 受付で私の名前を言えば、たぶん通してもらえるよ!」
僕は慌ててマフラーを持ち上げた。
「マフラー投げますよ! 受け取ってください!」
「いいや」
返ってきた声は、どこか楽しそうだった。
「君は、誰かのものを雑に扱うような人じゃないだろう」
その一言に、僕は言葉を失った。
そして、少し遠くなった声が続く。
「それじゃあ、また後でね!」
佳耶さんの声が、少しずつ遠ざかっていく。
この距離では、マフラーを投げたところで届かないだろう。
本当に投げてやろうかとも思った。
けれど、見るからに上等な生地を使っている。
それに、本人が大切なものだと言っていた。
どうしても地面に落として、土まみれにする気にはなれなかった。
とんでもないことになった。
出会って数分しか経っていない。
それなのに、佳耶さんは僕の性格を見抜いて、どうすれば僕が断れないのかまで理解してしまったらしい。
しかも僕にとって、一番効果的な「貸し」を押しつけていった。
大切なものだと言われたこと。
見るからに高そうなマフラー。
たったそれだけのことで、僕はそれを地面に放り投げることすらできなくなっている。
自分のこういう性格が、少し嫌になった。
僕はしばらく立ち尽くしたあと、マフラーを学校のバッグへしまった。
そして、ふと塀を見る。
そこには、まだ何枚ものビラが残っていた。
僕はビラを全て剥がした。
剥がしたビラをマフラーと同じようにバッグへ入れる。
それから僕は、何事もなかったかのように歩き出した。
次回未定!!
週一投稿できたらいいな、、、、




