13話
102日前
4月15日
母親に言われたから、会いに行くわけじゃない。
三日後、僕の足は自然と僕を必要としてくれる人のもとへ向かっていた。
僕の家庭の事情にまで踏み込んできたことは、まだ胸の奥に引っ掛かっている。簡単に水に流せるほど、僕は寛容じゃない。
だからといって、もう二度と顔を合わせたくないかと聞かれれば、そうでもなかった。
相反する二つの気持ちが胸の中でぶつかり合い、どちらにも決められないまま時間だけが過ぎていく。わざと遠回りをしている自分に気づくと、そんな自分がひどく嫌になった。
そのとき、中学校から特別病院へ向かう途中で、使われなくなった用水路を見つけた。
特別病院の敷地にかつてあった何かへ、水を引くために造られたものなのだろう。けれど、そこに何があったのか、僕の記憶にはもう残っていなかった。
伸び放題の草をかき分けながら用水路を進むと、赤いペンキで塗られた網扉が現れた。どうやら鍵は掛かっていない。
もし、この先が特別病院につながっているなら、佳耶さんに会おう。
そう決めて、さらに奥へ進んだ。
用水路は、本当に特別病院の裏手へと続いていた。正門よりもひと回り小さな門があり、その上には監視カメラが取り付けられている。
カメラの向こうから佳耶さんがこちらを見ていたら、どうしよう。
そんなことを考えながら、僕は格子門に手を掛け、そっと押し開いた。
「なんで来たんだい」
顔を合わせて最初に飛んできたのは、そんな言葉だった。
佳耶さんはオーバーテーブルに肘をつき、窓の外に目を向けたまま、退屈そうにしている。
「人目が気になるから、もう来られないんじゃなかったの」
「抜け道を見つけたんです。使われなくなった用水路を通ると、サナトリウムの裏門の近くに出られて……」
説明しながら、自分でも何をやっているんだろうと思った。
僕が話したいのは、こんなことじゃない。ここまでの道順なんかより、もっと先に伝えるべきことがあるはずなのに。
けれど、佳耶さんの返事もまた、どこかずれていた。
「私だって、その道は知ってるよ。鍵が掛かってたけど」
お互い、こんな事が言いたいわけじゃないだろうに。
「樹、受け取ってよ」
そのとき、不意に佳耶さんが何かを放ってきた。慌てて手を伸ばし、危うく落としかけながらも、どうにか受け止める。
「ちょっと! いきなり投げないでくださいよ」
「樹の親なら、スマホは買い与えてないだろ?」
佳耶さんは、まるで当たり前のことを確認するように言った。
手の中に収まっていたのは、新品のスマートフォンだった。光を受けた背面が、ぼんやりと鈍い光を返している。
「樹、それで連絡してきなよ。あ、ネットにはつながらないからね。私とメッセージのやり取りしかできないようにしてあるから」
「いや、これ……何なんですか」
「初期設定は済ませてあるよ。たぶん、そのまま使えるはず。メッセージってところを開けば、田村佳耶って名前が出てくるから」
佳耶さんは僕を見ないまま、早口で説明した。
「いや、これ何なんですか」
「……この間のこと、悪かったと思ってる」
唐突に、佳耶さんの声が変わった。
「君の家庭のことに、あれこれ口を出しただろ。やっぱり、ちょっと……無遠慮だったと思う」
いつもの調子とは違う。声には緊張が滲み、言葉を選ぶように、話す速度までぎこちなくなっていた。
「ああ言えば、君も話に乗ってくれると思ったんだ。私が君に来てほしいって気持ちは、今も変わらない。でも、君がどう思うかを考えてなかった。……それは、よくなかったと思う」
そこで一度、言葉が途切れた。
「……でもね、私には時間がないんだ。だから、つい焦ってしまって。少し、いや、かなり……」
そこまで話して、佳耶さんはようやく僕の方を向いた。
「……何か言ってよ」
困ったような顔だった。
「君が三日怒っていたのは分かるからさ」
「別に、怒ってたから来なかったわけじゃないんですけど……」
「だったら、そう言ってくれないと分からないだろ。だから、それを伝えるためのスマートフォンだよ。いいかい。次からは、なるべく連絡してほしい」
「……分かりました」
「本当に頼むよ」
こちらを向いた佳耶さんは、子供のように唇を尖らせていた。光の加減なのか、その顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「……僕も、すいません」
その表情を見ていると、不思議と言葉が口をついて出た。
「佳耶さんに、いろいろ考えさせちゃったみたいで」
「……はぁ。年下の男の子に謝らせるなんて、私も大概だね。これで分かっただろ? 私は子供っぽくて、周りに迷惑ばかりかける人間なんだよ。十億円がもらえるって約束がなかったら、エトにだって、とっくに愛想を尽かされてる」
「じゃあ、生きている間は絶対に見限られませんね」
佳耶さんがわざわざ年下だと強調するものだから、つい意地になって言い返してしまった。
言った直後、また余計なことを言ってしまったと思い、恐る恐る佳耶さんの顔をうかがう。
けれど、怒られるどころか、佳耶さんはどこか嬉しそうに僕を見つめていた。
……どういうことなんだろう。
ほんの少しだけ分かった気がしたのに、やっぱり佳耶さんの考えていることは分からない。
僕が困惑しているのを見透かしたように、佳耶さんは机の上に、画期的なコミュニケーションツールを置いた。
次回未定




